書簡等からの抜粋、編集の責任は、すべて伊勢俊彦にあります。
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「言語・思考・認識的実践>」 / 'Words, Thoughts, and Practices' [1996a]をめぐって
1. 美濃正氏(大阪市立大学) まったく不明な著者の意味論的主張 (1996/09/10)
2. 伊勢俊彦 意味論的主張がないことについて (1996/09/16)
3. 美濃正氏 幻想にすぎない著者の哲学的スタンス (1996/09/23)
4. 伊勢俊彦 真理値について語らない私は、何について語るのか (1996/10/01)
5. 美濃正氏 なお残る疑問 (1996/11/26) New!
美濃正氏(大阪市立大学)
...頂いたご論文「言語・思考・認識的実践」を拝読しましたので、感想を書き送らせていただきます。
まず、拝読した後の全体的印象を遠慮なく言わせていただくと、ご論文の内容には非常に不満を感じました。クリプキ・パズル自体の分析においても、またその「解決」においても。突っ込んだ議論がなく、このパズルのどこが問題で、どうしてそういう「解決」がよい解決であることになるのか、少なくとも私には大きな疑問が残りました。そしてその当然の結果として、固有名ないしは自然種名の指示に関する伊勢さんの理論はどういうものになるのか、まるではっきりしないという印象をもちました(もちろん、たかが論文一本でそのような理論の全体像を示すことは所詮、無理だと言われれば、それはそのとおりでしようが、理論の輪郭あるいは方向性をもっと明確にすることは可能だったはすです)。しかし、文句を連ねるばかりでもしようがないので、もう少し具体的に、どこに不満を感じたかを述ぺさせていただきます。
1. まず、クリプキ・パズルにおける「文(4)(5)を双方とも真とみとめるなら、ピエールはひとつのことがらについて、同時にそうであり、またそうでないとかんがえていることになる。しかし、正気の人間がそのようなかんがえをいだくということがどうしてありえようか。」(p. 25, 強調美濃)と述べられています。しかし。ごく一般的な話として、われわれ人間は所詮、限られた認識能力しかもたないわけですから、たとえ正気であっても、こういうことがありうるのではないでしようか(同様の感想を、以前コロキウムで発表された際にも言わせていただいたと記憶します)。例を変えると、「ジキル博士は善人だ」と信じ。同時に「ハイド氏は善人でない」と信じている人がいるとします。実はジキル博士とハイド氏は同一人物なのだから、このような人は、ある意味では、「ひとつのことがらについて、同時にそうであり、またそうでないとかんがえていることになる」と言えると思われます。この意昧での「ひとつのことがら」は。おそらく伊勢さんの言っておられる「ひとつのことがら」とは意味が異なることでしよう。しかしそれならば、どうしてクリプキ・パズルの((4)と(5)の)ケースに関しては、「ひとつのことがら」という表現をこのジキルとハイドのケースと同じ仕方で解してはならないのか、という点についてもっと突っ込んだ議論が当然、必要なのではないでしようか(「ひとつのことがら」をどちらの意味に理解すべきかは、固有名の意味と指示に関してどういう理論的立場をとるかということに相対的であるようにも思われます)。伊勢論文には、残念ながら、この点についての検討が欠けており、「正気の人間がそのようなかんがえをいだくということがどうしてあリえようか」の一言で問題が片付けられているのは、非常に不満に感じられるのです。
言うまでもないことでしようが、文(4)と(5)とは、決して論理的に相矛盾する文ではありません。そればかりでなく、クリプキは(4)と(5)から、文「Pierre believes that [London is pretty and London is not pretty]」が導き出されると言っているわげでもない(だろう)と思います。つまり、クリプキ・パズルは、車なるパズルであって、決して真正の「背理」(p.35)でも矛盾でもないわけです。こういった事情をも、もう一度考え直していただきたいと思います。
2. 以上のようなクリプキ・パズル自体についての分析不足にたぷん相呼応するのでしようが、伊勢さんによるこのパズルの「解決」が具体的にどのようなものであるのか、私にはまったくはっきりしまぜん。「文(4)(5)を双方とも真とみとめるなら...正気の人間がそのようなかんがえをいだくということが。・・あリえ」ないような考えをピエールに帰することになってしまうと述ぺられていたわけですから、おそらく伊勢さんは(4)を偽として退けられるのだろうとこわれます。しかしそれでは、ピエールが(1)に誠実に同意するということを証拠として、われわれが彼の認知状態(信念)をたとえば英語で言い表そうとするならば(ここでは伊勢さんはおそらく(3)は真と認められるのだろうと前提して話を進めます)、どのように言い表せぱ真なる信念文が得られるのでしようか?固有名、'London'の代わりに、フレーゲが言ったように、ピエールが、'Londres'と結びつけている確定記述(の英語へのしかるぺき翻訳)を用いればよいのでしようか?あるいはエヴァンズの新フレーゲ主義に従って(私はエヴァンズがどんなことを言っているのかよく知りませんが)、さらに別の表現法を用いなければならないのでしようか?こういった点についての伊勢さんの考えがどうなっているのか、論文からはまったく読み取ることができません。大きな不満を感じる第二の点です。
ついでに言わせていただくと、伊勢さんのお立場で、文(5)は真と認めることができるのでしょうか?クリプキ・パズルに対する伊勢さんの「解決」は、「おなじ言語をはなすすべての個人が、その言語にぞくする表現について、同じ意味論的値を共有することを否定することである」(p. 30)というものです。そして、このような「解決」は「認知の次元と意味の次元の連動をみとめる」(ibid.)がゆえに採用されているわけです。しかしそうすると、(5)に現れる'London'の持つ「意味論的値」は、(5)を主張するピエール以外の誰かの認知状態を映すのでしようから、はたしてピエールが(2)に同意したときに'London'が彼に対してもっていた「意味論的値」と等しいと言えるでしょうか?もちろん、(5)も偽だとして退けることは可能です。しかしそうすると、われわれは他人の認知状態について事細かには分からないことがしばしぱ(つね?)であるわけですから、いったいどのような表現法を用いれば他人の認知状態を正しく表現できることになるのか、他人の認知状態の正しい表現が可能なケースがあまりにも狭く限局されてしまうという厄介な帰結が生じるのではないでしようか。このような問題が生じてくると思うのですが、これらの問題にはどういう解決が与えられることになるのか、伊勢論文からは見当がつきませんでした。
3. 以上に述べたことによってすでに、私がどうして最初に、固有名ないし自然種名の意味や指示に関して伊勢さんがどういう理論的立場をとっておられるのかがまったくはっきリしない、という趣旨の文句を言ったのか、そのわけは十分に分かっていただけることだろうと思います。だから、その点についてはこれ以上何も言わないことにして、ご論文の議論構成に関して一つ疑問があるので。最後に付け加えさせていただきます。
私が拝読したかぎりでは、ご論文のp. 30でとにもかくにもクリプキ・パズルに対する一つの「解決」が与えられている、と読めました。それにもかかわらず、pp.34-35に至ると「個人にぞくする内発的論理と、認識・言語活動にたいする社会的な要請のあいだに」「言議の認知的はたらきのレヴェルにおげる「矛盾」」が発生すると言われています。これはどういうことなのでしょうか?なにか一度ちやんと解かれたはずの「矛盾」がまたぞろ形を変えて現れてくるというような話しで、気持ち悪い感じがします。つまり、私には「..内発的論理と、..社会的な要請のあいだに」ある「矛盾」ということによって、伊勢さんが何を言わんとしておられるのかが、よく分からなかったということです。
以上、気がつくままにご論文に対する「不満」を、失礼を顧みず、書き並べさせていただきました。実は、私はもちろん大いに関心はありますが、クリプキ・パズルについてはまだ正面からきちんと考えてみたことはなく、したがってこのパズルの解決がどのようなものであるぺきか、についても定見はありません。言い換えれば。偏見もないわはです。そういう人間から見てもさまざまの疑問が残る論文である、という事実を重視していただきたいと思います(クリプキ・パズルについてきちんと考えたことがないから、論文の主旨が理解できなかったのだろうと思われるかもしれまぜんが、私はそういうことはないと信じます)。自分のことは棚に上げて偉そうなことを言わせてもらうと、特に言語哲学関係の論文では、細かいことまで煮詰めた、突っ込んだ議論を書かないとあまり実り多い結果にはならないのではないでしようか。今後は、そういう実り多い、読みごたえのある論文をどんどん出していかれることを切に祈り上げるばかりです。...
...拙稿に対する丁寧なご指摘ありがとうございます。
美濃さんのご不満はいちいちごもっともなのですが、もう少し別の角度から理解いただきたいと感じる点もございますので、反論というのもおこがましいのですが、ご指摘に答えさせていただきます。私が申し上げたいのは、主として拙稿の全体的な性格や目的についてです。
...
まず、お手紙で1.と番号を付された点についてです。
>1. まず、クリプキ・パズルにおける「文(4)(5)を双方とも真とみとめるな
>ら、ピエールはひとつのことがらについて、同時にそうであり、またそうでな
>いとかんがえていることになる。しかし、正気の人間がそのようなかんがえを
>いだくということがどうしてありえようか。」(p. 25)と述べられています。し
>かし、ごく一般的な話として、われわれ人間は所詮、限られた認識能力しかも
>たないわけですから、たとえ正気であっても、こういうことがありうるのでは
>ないでしようか(同様の感想を、以前コロキウムで発表された際にも言わせて
>いただいたと記憶します)。例を変えると、「ジキル博士は善人だ」と信じ。
>同時に「ハイド氏は善人でない」と信じている人がいるとします。実はジキル
>博士とハイド氏は同一人物なのだから、このような人は、ある意味では、「ひ
>とつのことがらについて、同時にそうであり、またそうでないとかんがえてい
>ることになる」と言えると思われます。この意昧での「ひとつのことがら」
>は、おそらく伊勢さんの言っておられる「ひとつのことがら」とは意味が異な
>ることでしよう。しかしそれならば、どうしてクリプキ・パズルの((4)と(5)
>の)ケースに関しては、「ひとつのことがら」という表現をこのジキルとハイド
>のケースと同じ仕方で解してはならないのか、という点についてもっと突っ込
>んだ議論が当然、必要なのではないでしようか(「ひとつのことがら」をどちら
>の意味に理解すべきかは、固有名の意味と指示に関してどういう理論的立場を
>とるかということに相対的であるようにも思われます)。伊勢論文には、残念な
>がら、この点についての検討が欠けており、「正気の人間がそのようなかんが
>えをいだくということがどうしてあリえようか」の一言で問題が片付けられて
>いるのは、非常に不満に感じられるのです。
> 言うまでもないことでしようが、文(4)と(5)とは、決して論理的に相矛盾す
>る文ではありません。そればかりでなく、クリプキは(4)と(5)から、文
>「Pierre believes that [London is pretty and London is not pretty]」が
>導き出されると言っているわげでもない(だろう)と思います。つまり、クリ
>プキ・パズルは、単なるパズルであって、決して真正の「背理」(p.35)でも矛
>盾でもないわけです。こういった事情をも、もう一度考え直していただきたい
>と思います。
お手紙を読む限りでは、私はクリプキのパズルを真正の背理ないし矛盾ととらえた上で、その解決を試みているのであると、美濃さんは理解されているようです。しかし、私は実際には、クリプキのパズルが導出されるのは、言語表現の「意味論的値」にかんして、多くの場合意識もされずに前提されている考え方によるのであり、それの考え方を退けることによってパズルは解消されると論じたつもりでした。引用されている箇所の表現が、誤解を招くものであったかもしれませんが、一応釈明すれば、「文(4)(5)を双方とも真とみとめるなら、ピエールはひとつのことがらについて、同時にそうであり、またそうでないとかんがえていることになる。しかし、正気の人間がそのようなかんがえをいだくということがどうしてありえようか。」(p. 25)というのは、パズルを紹介する文脈で述べていることにすぎません。これがパズルといわれるのは、(4)と(5)を両方認めると、ピエールの合理性はどうなるの?という問いが、少なくとも見かけ上、成り立つからだというのに、特に問題はないと思いますが、いかがでしょうか。このパズルが、見方によってはなんら難しい問題でないということは、私も論文の中でいちおう述べたつもりです。「信念のパズルがいかにしてしょうずるかにかんしては、ピエールのような人物のおかれた認識的状況を考えれば、明晰に理解でき、そこになんらなぞはない」(p. 31)また、p. 35で「背理」について述べた際も、「認識・言語活動の社会的な側面を、言語共同体、意味論的値などの概念をもちいて固定的に理論化するなら」という条件がついているはずです。
ちなみに、ジキル / ハイドの場合と、London / Londresの場合の違いを、クリプキの考えに則して述べるなら、文(4)(5)でのLondonの2回の現れは、「意味論的値」が同じであり、また、両方とも、de re信念ではなくてde dicto信念の帰属になっているんだよ、どうしよう?ということでしょう。私の論文が問題としたのは、このような形で「意味論的値」を想定する考え方です。de re / de dictoの区別に言及することは、論文の主題との関係では不要と判断しました。
>2. 以上のようなクリプキ・パズル自体についての分析不足にたぷん相呼応する
>のでしようが、伊勢さんによるこのパズルの「解決」が具体的にどのようなも
>のであるのか、私にはまったくはっきりしまぜん。「文(4)(5)を双方とも真と
>みとめるなら...正気の人間がそのようなかんがえをいだくということ
>が。・・あリえ」ないような考えをピエールに帰することになってしまうと述
>ぺられていたわけですから、おそらく伊勢さんは(4)を偽として退けられるのだ
>ろうとこわれます。しかしそれでは、ピエールが(1)に誠実に同意するというこ
>とを証拠として、われわれが彼の認知状態(信念)をたとえば英語で言い表そ
>うとするならば(ここでは伊勢さんはおそらく(3)は真と認められるのだろうと
>前提して話を進めます)、どのように言い表せぱ真なる信念文が得られるので
>しようか?固有名、'London'の代わりに、フレーゲが言ったように、ピエール
>が、'Londres'と結びつけている確定記述(の英語へのしかるぺき翻訳)を用い
>ればよいのでしようか?あるいはエヴァンズの新フレーゲ主義に従って(私は
>エヴァンズがどんなことを言っているのかよく知りませんが)、さらに別の表
>現法を用いなければならないのでしようか?こういった点についての伊勢さん
>の考えがどうなっているのか、論文からはまったく読み取ることができませ
>ん。大きな不満を感じる第二の点です。
> ついでに言わせていただくと、伊勢さんのお立場で、文(5)は真と認めること
>ができるのでしょうか?クリプキ・パズルに対する伊勢さんの「解決」は、
>「おなじ言語をはなすすべての個人が、その言語にぞくする表現について、同
>じ意味論的値を共有することを否定することである」(p. 30)というものです。
>そして、このような「解決」は「認知の次元と意味の次元の連動をみとめる」
>(ibid.)がゆえに採用されているわけです。しかしそうすると、(5)に現れる
>'London'の持つ「意味論的値」は、(5)を主張するピエール以外の誰かの認知状
>態を映すのでしようから、はたしてピエールが(2)に同意したときに'London'が
>彼に対してもっていた「意味論的値」と等しいと言えるでしょうか?もちろ
>ん、(5)も偽だとして退けることは可能です。しかしそうすると、われわれは他
>人の認知状態について事細かには分からないことがしばしぱ(つね?)である
>わけですから、いったいどのような表現法を用いれば他人の認知状態を正しく
>表現できることになるのか、他人の認知状態の正しい表現が可能なケースがあ
>まりにも狭く限局されてしまうという厄介な帰結が生じるのではないでしよう
>か。このような問題が生じてくると思うのですが、これらの問題にはどういう
>解決が与えられることになるのか、伊勢論文からは見当がつきませんでした。
(3)(4)(5)のように、他人の認知状態を表現する文が、真であるか偽であるかという問いについての私の考えは、オースティンが、'France is hexagonal.'という文の真偽の問題について述べたのとおなじです。つまり、大体の場合は真として通用するが、場合によっては具合が悪いということです。こういういいかげんな考え方は、きっと気持ちが悪いでしょうが、この種の問題に明確な回答が存在するべきであるという想定こそ、捨てなければならない、というのが、現時点での私の見解です。
固有名の「意味論的値」について、直接指示説をとるか、記述説をとるかというようなかたちで、「固有名ないしは自然種名の指示に関する理論」を構築し、それにもとづいて、クリプキのパズルに正しい解答を与えるというようなことを、もし、期待されているのだとしたら、私はそのようなことをするはまったくない、と言うしかありません。
なお、エヴァンズの議論に言及した意図は、パトナムの「言語的分業」に相当する現象に対する、直接指示説にコミットしないひとつの見方としてであり、固有名の指示にかんして「新フレーゲ派」の立場をとるということではありません。
>3. 以上に述べたことによってすでに、私がどうして最初に、固有名ないし自然
>種名の意味や指示に関して伊勢さんがどういう理論的立場をとっておられるの
>かがまったくはっきリしない、という趣旨の文句を言ったのか、そのわけは十
>分に分かっていただけることだろうと思います。だから、その点についてはこ
>れ以上何も言わないことにして、ご論文の議論構成に関して一つ疑問があるの
>で。最後に付け加えさせていただきます。私が拝読したかぎりでは、ご論文の
>p. 30でとにもかくにもクリプキ・パズルに対する一つの「解決」が与えられて
>いる、と読めました。それにもかかわらず、pp.34-35に至ると「個人にぞくす
>る内発的論理と、認識・言語活動にたいする社会的な要請のあいだに」「言語
>の認知的はたらきのレヴェルにおける「矛盾」」が発生すると言われていま
>す。これはどういうことなのでしょうか?なにか一度ちやんと解かれたはずの
>「矛盾」がまたぞろ形を変えて現れてくるというような話しで、気持ち悪い感
>じがします。つまり、私には「..内発的論理と、..社会的な要請のあいだ
>に」ある「矛盾」ということによって、伊勢さんが何を言わんとしておられる
>のかが、よく分からなかったということです。
美濃さんの1.2.に対するコメントで、私が「固有名ないし自然種名の意味や指示に関してどういう理論的立場をとっているの」かがまったくはっきリしない」という疑問に対する私の姿勢は分かっていただけると思います。美濃さんは、そういう「姿勢」ではなく正面からの「回答」をあくまで要求されるのかもしれませんが、その要求にはお応えできません。
最後に、私のいう「矛盾」について、少し説明させていただきます。クリプキ・パズルに対して私が一応の解決を与えているといえるかどうかは、「解決」の意味によるでしょうが、少なくとも、ピエールの合理性には、なんら問題が生じないということを示そうとしたという意味では、私も、パズルの「解決」を試みたといえるでしょう。そんなことは最初から分かり切っている、といえばそれまでですが。
ピエールの合理性に問題がないなら、いったいどこに「矛盾」があるのか。ピエールが、自分に対して信念帰属を行うとすれば、「London≠Londres」がその前提となるのに対し、一般に、仏英両語を話す話者に対して信念帰属を行う場合には、「London = Londres」が前提となる点が、広い意味で「矛盾」といえるでしょう。「一般に」とか「広い意味で」とかいうのはどういうことか。「一般に」というのは、そのときどきの社会の状況に依存してとしかいいようがない。こういうかたちで、一般的に前提されることを、私は、「社会的要請」というふうにいっているわけです。ピエール自身の認知状態には矛盾がなくても、ピエールに信念帰属を行う連中のとっている前提によって、どこかに矛盾があるという見かけが生ずる。このことが私がpp.34-35でいっている「矛盾」の一例と理解してください。で、連中のとっている前提は、単に誤りであるから直せばすむというものではない。これは、そのときどきの社会の中に一応の理由があってとられているわけだから、この種の「矛盾」は、必ず、繰り返し生ずるわけです。
「社会的」云々については、にわかに納得されることはないと思いますが、別のところに書いたもの(抜き刷りがない代わりに、雑誌そのものを何冊かもらったので、一冊同封します。)をご覧いただけば、どういう脈絡で、「社会的なもの」にかんする私の考えがでてきているか、多少はお分かりいただけると思います。なにかのついでの折にご笑覧ください。
>私はもちろん大いに関心はありますが、クリプキ・パズルについてはまだ正面
>からきちんと考えてみたことはなく、したがってこのパズルの解決がどのよう
>なものであるぺきか、についても定見はありません。言い換えれば。偏見もな
>いわはです。そういう人間から見てもさまざまの疑問が残る論文である、とい
>う事実を重視していただきたいと思います(クリプキ・パズルについてきちん
>と考えたことがないから、論文の主旨が理解できなかったのだろうと思われる
>かもしれまぜんが、私はそういうことはないと信じます)。自分のことは棚に
>上げて偉そうなことを言わせてもらうと、特に言語哲学関係の論文では、細か
>いことまで煮詰めた、突っ込んだ議論を書かないとあまり実り多い結果にはな
>らないのではないでしようか。今後は、そういう実り多い、読みごたえのある
>論文をどんどん出していかれることを切に祈り上げるばかりです。
美濃さんには、クリプキのパズルに対する「偏見」はないかもしれませんが、哲学の問題の立て方や議論の出し方がどうあるべきかについて、ある意味で正統派の立場に強くコミットされていると感じます。私は、いわゆる言語哲学について、そういう正統派のコミットメントをもったことは、実は一度もありません。(こういう言い方が気に障ったらごめんなさい。)
「言語哲学関係の論文では、細かいことまで煮詰めた、突っ込んだ議論を書かないとあまり実り多い結果にはならない」というのは、まったくその通りです。今回の論文にしても、実際にはいろいろなことを考えた上で、こういう形になったのですが、土台になっている考察がよく見えない結果になっているとしたら、それは私の不徳のいたすところです。...
...私の表現の仕方にもまずい点があったせいでしょうが、まだ若干の誤解が残っているようですので、もう一度コメントを書き送らせていただきます。
1. 私のコメントをもう少しよく読んでもらえれば理解していただけたばすだと思うのですが、私は決して、伊勢さんが「クリプキのパズルを真正の背理ないし矛盾ととらえた上で、その解決を試みている」が、そのようなとらえ方ば間違いだと言って批判しているわけではありません。むしろその逆であって、伊勢論文の文(4)と(5)を見てもすぐ分かるとおり、クリプキ・パズルに論理的な「背理ないし矛盾」が含まれていないことは明白である、だからこそクリプキ・パズルの、一体、どこが、なぜ、パズリングなのかという点について、その解決の前段階としてもっと詳しく詮じる(それは結局、このパズルが一つのパズルとして成立するための前提を分析するという作業になると思いますが)必要があっただろう、ということを指摘したかったのです。たとえば、今画のお手紙で言及されているように、文(4)(5)をいわゆるde reに読めば、双方が真であるとしても特にパズリングな点はないわけです。したがって、これらの文をde dictoに読むということがパズルの前提の一つであること、そして問題となっているPierreのケースにおいてこれらの文をこのような仕方で読むべきどういう理由があるのかということ(これらの事柄についてクリプキ自身が何か言っていたかもしれませんが、私は忘れました)、こういったことについて論文の中で触れておかないことにば、クリプキ・パズルの適切な取り扱いはできないのではないか、と私には思われます。要するに、クリプキ・パズルでも他のパズルでも同じことてしょうが、パズルを「解決」しようとするなら、パズルを成立させている(あるいはパズルのみかけを生じさせている)前堤を暴き、それらの前提のうちのどれかが問題のある前提であることを示す、という作業が必要になるのでばないでしょうか。伊勢散文では、この必要な作業が十分に明確な仕方で行われているとば思えない、ということが私の不満点の一つだったということです。
2. 「(3)(4)(5)のように、他人の認知状態を表現する文が、真であるか偽であるかという問い」に対する、それらは「大体の場合は真として通用するが、場合によっては具合が悪い」という解答は、十分に可能な、しかもある意昧でば「明確な路答」あるいは「唯一の正しい解答」でさえありうる解答だと思います。私が問題にしているのはそういう一般的な話ではなく、クリプキ・パズルの中に現れる(4)そのもの、あるいば(5)そのものは真なのか、偽なのか、という特定の場合の話です。パズルが成立するための前提云々という先程の話は別として、ともかく(4)と(5)の双方がともに真であるのはどこかパズリングであることを、伊勢さんがそうなさったように、認めるなら、パズルを「解決」するためにはそれらの文のうちその少なくとも一つはこの特定の場合には偽であることを示す必要があるのではないでしょうか?では、偽であるのは私が推測したように(4)なのでしょうか、それとも(5)なのでしょうか、あるいは両方なのでしょうか?そして、それ(ら)が偽とみなされる理由は何なのでしようか?こういった点についての論述が伊勢論文にはまったく含まれておらす、ただ次のように書かれてあるだけです。
>認知の次元と意味の次元の速動をみとめるなら、信念のパズルにたいする解答
>は、容易にえられる。その解答とは、つまり、おなじ言語を話すすべての個人
>が、その言語に属する表現について、おなじ意味論的値を共有することを否定す
>ることである(伊勢論文p. 30. 強調原文)。
しかし、この「パズルにたいする解答」と言われているものが具体的にどんな解答であるのか、先程述べたような色々の疑問に対する説明が伊勢論文には(あるいは今回のお手紙にも)見当たらないので、私にはよく分からないわけです。
そこで私としては推測を逞しくして、上の引用文に述べられている主張などに基づきながら次のような筋書を勝手に描いてみるほかはなかったわけです(前回のコメントでは、この点に関して少し考えが飛躍し、必ずしも適切でないことも書いてしまったことは認めます)。すなわち、他の場合はいざ知らす、クリプキ・パズルのような場合においては(4)を主張するならば、それは偽になると伊勢さんは考えているのであろう。そして、その理由は、(4)のthat‐clause中の諾表現はそれらがPierreに対してもっているような「意味論的値」をもつものと理解しなければならないが、そのように理解するならば(4)はPierreの認知状態(信念)を正しく記述していることにはならないから、というものであろう。
以上のような推測が当たっているとすれば、伊勢論文は、「信念文の解釈に際しては、そのthat‐clause中の諾表現は、つねにではなくとも少なくともある一定の場合には、それらの表現が信念の被帰属者に対してもつところの意味論的値をもつものと解釈しなければならない」というような意味論的規則を採用していることになるでしょう。そしてこれは、「固有名ないし自然種名[それのみならず言語表現一般]の意味と指示に関する」何らかの「理論的立場」に伊勢論文がコミットしていることの、一つの証左になると私には思われます。他方、上の推測が当たっていないとすれば、上の筋書と同じではないが似かよった筋書による説明が行われ、したがって上のものと似かよった何らかの意珠論的規則が採用されることになるか、さもなければどのような筋書もないと言われるかの何れかでありましょう。第一の場合には、やはり伊勢論文が「固有名ないし自然種名の意味と指示に関する」何らかの「理論的立場」にコミットしていることが証拠立てられることになるてしょう。他方、第二の場合には、伊勢論文が一体どのようにしてクリプキ・パズルを「解決」しうることになるのか、少なくとも私には理解不能になります。
このようなわけで、伊勢論文が「固有名ないし自然種名[にかぎらす表現一般]の意味と指示に関する」何らかの「理論的立場」に立っていることは疑いの余地がなかろうと私には思われます。そもそも上の伊勢論文p. 30からの引用文においてなされている主張自体が、あまりにも一般的ではあるが、しかし非常に強い意味論的主張であると思われます。前回のコメントでは所によって「固有名ないし自然種名の指示に関する理論」という言い方を用いたので確かにミスリーディングだったとは思いますが、しかし決して直接指示説か記述説か、というような狭くるしい二者択一を前提した上で、そのどちらをとるのかというような仕方で伊勢さんに対して「理論的立場」を明らかにせよと迫ったりはしていなかったはずです。もはや明らかである(ことを望みますが)ように、私が言いたかったのは、こういう狭い二者択一を越えたもっと広い意味で、伊勢論文は言語表現の意味に関する何らかの「理論的立場」にコミットしているはすだ(そうでなければクリプ・キパズルの「解決」が一体どのようにしてできるであろうか)、ところがそれにもかかわらず、自分の「理論的立場」がどのようなものであるかを何ら具体的に明らかにしようともしていないし、なぜこの「立場」をとるべきであるのかについての議論も欠落している、という文句であったわけてす。この点に関して私の感想は今も基本的には変わりませんし、今同のお手紙に書かれている、私が指摘したような問題点に対して「正面から回答」することはできない、あるいは、する気がない、というような言い方は、強く言わせてもらえば、自己欺瞞的な言辞としか思えません。ともかく、以上述ぺてきた2.のポイントが、私が伊勢論文を評価できない最大の理由です。
3. 伊勢論文のpp. 34−35において述べられている「矛盾」に関して、それは、たとえばPierreの場合、彼自身による信念帰属においては「London(の意味論的値)≠Londres(の意味論的値)」が前提となるのに対し、「一般に」仏英両語を話す話者に対して帰属を行う場合には「London(..)= Londres(..)」が前提となる、ということだという趣旨の説明が今回のお手紙にてなされていますが、まだ納得しかねる点があります。というのは、伊勢論文では、上に引用したp. 30の文およびその前後の部分における考察によって、この「一般に」採用されている前提は少なくともクリプキ・パズルのような岳合においては採用できない誤った前提なのだ、ということが主張されているのではないのでしょうか。そうだとすれば、少なくとも意味論的次元においてはこういう「矛盾」は生じない、ことが伊勢論文によって示されたはずなのであって、それにもかかわらずクリプキ・パズルの「解決」後も、「この種の「矛盾」は、必ず、繰り返して生ずるわけです」(お手紙のp. 4)などと言われることには、不整合をごじざるをえないわけてす。
4. お手紙の最後に、私(美濃)には、「哲学の問題の立て方や議論の出し方がどうあるべきかについて、ある意味で正統派の立場に強くコミット」していると感じられる点があると述ぺられています。これは大きな誤解だと思います。私は、かくかくの問題のみが哲学の正当的問題であり、それに関する哲学者の議論はかくかくの仕方で行われるべきだ、などということは、少なくともかなり以前から考えたことはありません。むしろ反対に、基本的にはどんな問題でも哲学の問題でありうるし、また、それに対する答え方、議論の仕方もある意味で白由放任だと思っています。ただし、次のような但し書きは必要だろうとは思いますが。すなわち、どんな問題でも哲学的問圧でありうるとしても、そのなかにはやはり重要な問題とそうでない問題との区別があり、この区別に関して、今日のいわゆる哲学の訓練をまともに受けた人々の間にはおおまかな意見の一致があるであろうこと。次に、どんな問題であれ哲学者としてその問題に取り組む以上は、問題をできるかぎり明確に立て、できるかぎり明確な回答(そのなかには先程も言ったように、逆説的に聞こえるかもしれませんが「明確な解答は不可能」という解答もある意味で含まれうると思います。とにかく回答の幅は非常に広い幅が許されるということです)を与えるように努めるぺきであること。したがってまた、哲学者が取り組んでいる問題に対して出す解答に含まれるであろう議論には当然よしあしがあり、この点についての評価に関してもまともな「哲学者」の間ではおおむね一致が見られるであろうこと。以上のような留保はつけたいと思いますが、さほど問題のある留保条件とは思われません。
というわけで、お手紙の最後にあるような哲学の「正統派のコミットメント」をしているものとしての私の姿は、幻にすぎないと思います,しかし、これは私に関する誤解であるぱかりでなく、このようなコミットメントを「もったことは、実は一度もありません」と言われる伊勢さんご自身についての不幸な自己誤認でもあるのではないかとおそれます。なぜなら、おそらく言われるところの「正統派のコミットメント」などというもの自体が、一つの幻にすぎないと考えられるからです。
ともかく今回のご論文に関しては、残念ながら取り組もうとした問題白体がまず十分に明碓化されておらず、また問題に対する解答においても、先程言った広い幅をを認めてもなお、明確な解答が与えられていないと思われる、という理由で私は文句をつけさせていただいた次第であり、それ以外のケチをつけたつもりはありません。もちろん私のほうが間違っているかも知れませんから、反論はご自由に願います。...
...美濃さんの率直なご批判のおかげで、私の乱雑な頭も多少整理できそうな感じがしてまいりました。
まだまだ、十分明確でない点もあるかと思いますが、現時点での私の考えを以下で少し述べさせていただきます。
1. まず、クリプキのバズルをパズルたらしめている理由、ないし背景についてです。クリプキ自身は、(4)(5)をde dictoで読み、両方を真とすれば、ピエールが論理的に矛盾した信念を持つことになると考えていると思います。それは、(4)(5)の場合と、
Pierre believes that London is pretty. / Pierre does not believe that London is pretty.
が両方とも真になる場合を対比して、前者はピエールにとっての矛盾であり、後者はわれわれにとっての矛盾であると言っていることに示されています。
de dictoの読みをとる理由としてあげられているのは、文'p'に同意する人には、belief that pを帰してよい、という「引用外し原理」による信念帰属では、de dictoの読みが自然であるという事と、信念帰属文の翻訳がde dicto性を保存するという想定であるということになろうかと思います。パズルの解決を求めてこれらの想定の妥当性を吟味にかけるのも、一つの方法でしょう。しかし、そのような議論にどれほど実りがあるか、私には疑問でした。そこで、美濃さんからご指摘いただいたような、おおざっぱなパズルの提示の仕方になってしまったわけです。
現在は、私の議論のためにはむしろ、パズルの次のような性格に言及すべきであったと考えています。
クリプキの「引用外し原理」と「翻訳原理」をおおむね妥当であると認めることにします。このとき、(1)(3)(4)を、(2)(5)と切り離して考えます。すると、(4)は、おおむね妥当な信念帰属として受け入れ可能といえます。逆に、(2)(5)を、(1)(3)(4)と切り離して考えると、(5)は受け入れ可能と考えられます。しかし、(4)(5)を一緒にして考えると、それを、一人の人物の信念記述として、そのまま受け入れることは、すくなくとも、やや不自然に感じられます。
文の真理値や論理的な帰結関係にこだわって考えると、これは、(1)(3)のみをメンバーとする文集合からは(4)が帰結するが、(1)(2)(3)(5)をメンバーとする集合からは、(4)が帰結しないという、非単調推論かなにかの問題になってしまいそうです。
しかし、私の立場から見れば、これは、クリプキのバズルが、文の真理値の問題としてよりも、信念帰属文の発話という行為の成功条件の問題としてとらえた方がよいとする根拠となります。私の論文の欠陥の一つは、このことについて、はっきりした自覚がなく、明確に述べることができなかったことにあると思われます。このことは、次の2.とも関連します。
>2. 「(3)(4)(5)のように、他人の認知状態を表現する文が、真であるか
>偽であるかという問い」に対する、それらは「大体の場合は真として通用する
>が、場合によっては具合が悪い」という解答は、十分に可能な、しかもある意
>昧でば「明確な路答」あるいは「唯一の正しい解答」でさえありうる解答だと
>思います。私が問題にしているのはそういう一般的な話ではなく、クリプキ・
>パズルの中に現れる(4)そのもの、あるいば(5)そのものは真なのか、偽な
>のか、という特定の場合の話です。パズルが成立するための前提云々という先
>程の話は別として、ともかく(4)と(5)の双方がともに真であるのはどこか
>パズリングであることを、伊勢さんがそうなさったように、認めるなら、パズ
>ルを「解決」するためにはそれらの文のうちその少なくとも一つはこの特定の
>場合には偽であることを示す必要があるのではないでしょうか?
私は必ずしもそうではないと考えます。"France is hexagonal."が、それが発話されるような自然な状況を考えれば、おおむね真として通用するが、たとえばフランスの地理に関する専門的な議論の文脈で発話されると想定すれば、一種のたわごとにすぎないのは、この文の真理値が変わるからではないでしょう。それと同様、(4)が、(1)(3)との関係だけを考えるときには、それを発話することによって真なる信念帰属を問題なく行えると思われるのに、(2)(5)をも考慮に入れて考えると、なにか不自然なものになるというのも、文の真理値が変化するからであると考える必要はないのではないでしょうか。
私が、
>>認知の次元と意味の次元の速動をみとめるなら、信念のパズルにたいする解答
>>は、容易にえられる。その解答とは、つまり、同じ言語を話すすべての個人
>>が、その言語に属する表現について、同じ意味論的値を共有することを否定す
>>ることである(伊勢論文p. 30.)。
というのは、一定の言語表現の発話によって理解される内容は、聞き手の認知状態を含む発話の状況に依存するがゆえに、文(4)(5)の発話が、どう理解され、その結果、真として受け入れられるかどうかもまた、聞き手の認知状態に依存するという、私にしてみれば当たり前の事柄にすぎません。文(4)(5)の発話は、ピエールのおかれた状況に関する情報や、信念帰属文のde re読みに思い至るほどのソフィスティケーションを欠いた聞き手(ピエール自身を含めて)にとっては、少なくとも額面通りには受け入れなれないものと考えられるでしょう。しかし、このことは、文(4)(5)のそれぞれが、他の状況で、真として受け入れ可能な信念帰属に用いられ得ることと、まったく矛盾しないのです。クリプキ・パズルに対する私の「解答」が不明確なものであったとすれば、その原因は、私が、文(4)(5)の真理値とか、London / Londres の意味論的値とかいうものを、発話の状況から独立した何かとしては、もはや問題にしていないのだということが、はっきり書かれていなかったことにあると思われます。
このことが明らかになるとすれば、
>今回のお手紙に書かれている、私が指摘したような問題点に対して「正面から
>回答」することはできない、あるいは、する気がない、というような言い方
>は、強く言わせてもらえば、自己欺瞞的な言辞としか思えません。
というのは誤解であることも、理解されるであろうと望みます。実際、私は文の真理値とか、表現の意味論的値なるものについて、仮に語ることができたとしても、大したことを意義ある仕方で語ることはできないと考えているわけですから。
>3. 伊勢論文のpp. 34−35において述べられている「矛盾」に関して、それ
>は、たとえばPierreの場合、彼自身による信念帰属においては「London(の意
>味論的値)≠Londres(の意味論的値)」が前提となるのに対し、「一般に」仏
>英両語を話す話者に対して帰属を行う場合には「London(..)= Londres
>(..)」が前提となる、ということだという趣旨の説明が今回のお手紙にて
>なされていますが、まだ納得しかねる点があります。というのは、伊勢論文で
>は、上に引用したp. 30の文およびその前後の部分における考察によって、この
>「一般に」採用されている前提は少なくともクリプキ・パズルのような岳合に
>おいては採用できない誤った前提なのだ、ということが主張されているのでは
>ないのでしょうか。そうだとすれば、少なくとも意味論的次元においてはこう
>いう「矛盾」は生じない、ことが伊勢論文によって示されたはずなのであっ
>て、それにもかかわらずクリプキ・パズルの「解決」後も、「この種の「矛
>盾」は、必ず、繰り返して生ずるわけです」(お手紙のp. 4)などと言われる
>ことには、不整合を感じざるをえないわけてす。
私のクリプキ・パズルに対する「解決」が「意味論的次元」のものでは必ずしもないことは、上に述べたことから理解されると望みます。私は、文(4)(5)に適切な真理値を付与することによってパズルを解決しようとしているのではないのですから。私は、むしろ、パズルの発生がアノマリーではなく、言語活動のさまざまな局面で生ずる、ある意味で正常な現象の一つであるとすることで、パズルを理解しようと試みているのです。第三者の観点から見れば、文(4)の発話がピエールへの信念帰属として受け入れ可能なのに、ピエール自身は、文(4)を真と認めることができないという状況に類似した、認知状態の差によって言語行為の成否が左右される状況は、繰り返し生ずるでしょう。それらの言語行為の失敗は、単なる失敗にとどまるのではなく、話し手と聞き手の認知状態の変化を促すでしょう。このような変化が、言語表現の流通過程で生ずることは、言語-認識的実践の共同体のはたらきの一部と見ることができます。パトナムが指摘した、「言語的分業」を、エヴァンズの議論を援用して、生産と消費の過程とすることは、このような事情を理解する助けとなると私は考えたわけです。1975年のパトナムと違って、またおそらくエヴァンズとも違って、私は「意味論」をやっていないのであることを、私はもっとはっきりと自覚し、主張すべきだったのに、していないということが、美濃さんに不満を抱かせた一つの原因であったと思われます。
>4. お手紙の最後に、私(美濃)には、「哲学の問題の立て方や議論の出し方
>がどうあるべきかについて、ある意味で正統派の立場に強くコミット」してい
>ると感じられる点があると述ぺられています。これは大きな誤解だと思いま
>す。
これは確かに誤解であったと認めます。ですが、美濃さんが、徹頭徹尾「文の真理値」とか「表現の意味論的値」の次元での問題解決を要求されたことは、上に述べた、私自身あまり自覚していなかった立場から見れば、保守的に感じられたのは事実です。一方で、美濃さんがご不満を明確に述べられたことで、私は、私が自分の立場をどう言い表すべきであったのか、多少は悟ることができたように思います。ありがとうございました。
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...お疲れ様でした。前回(10/1付けの)お手紙を頂いて以来、ずいぶん間があいてしまったのですが、簡単に最後のコメント(にするつもりです)をさせて頂きます。
10/1付けのお手紙(以下「手紙」と略記)の終わりのほうに、私が「徹頭徹尾「文の真理値」とか「表現の意味論的値」の次元での間題解決を要求」したということが書いてあります。それはそのとおりであったのですが、それには理由がありました。従来は、通常、そのような次元での問題解決が求められてきたという理由のほかに、伊勢論文白体がその種の問題解決を求めているように私には読めたからてす(勿論、私の誤読かも知れません。以下の質問1.を参照)。したがって私は(もはや言わすもがなのことかも知れませんが)、クリプキ・パズルの解決はいわゆる「意味論的」次元において行われなければならないというような要求に固執する気は毛頭ありません。逆に、それ以外の次元においてこそパズルの適正な解決がある(伊勢さんのお考えでは、おそらく、この解決は「信念帰属文の発話という行為の成功条件」(手紙p. 2)という夕一ムによってなされるべきなのだろうと推測しますが)という可能性を認める十分な用意があります。ただ何度も述べてきたように、伊勢論文では、この「別次元」でのクリプキ・パズルの解決がどのような解決であるのか、明確に示されてはいないという印象は、残念ながら私には避け難いものです。てすから私がこの手紙で言いたいことは、結局、できるだけ近い将来に、クリプキ・パズルのこの「別次元」での解決を(私のように鈍い人間にもよく分かるように)明確に示すような論文を伊勢さんに是非、著して頂きたいということに尽きます。それについては、しかし、現時点においても、いくつか伺いたい事柄があります(これは主として10/1付けのお手紙の内容に関わる質問ということになります)。それらを以下に書き連ねさせて頂きます。
1.まず、少し揚げ足とりになるかも知れませんが、次のような疑問があります。伊勢さんのお考えは、「...私は「意味論」をやっていないのであることを、私はもっとはっきりと自覚し、主張すべきだったのに...」(手紙p. 4)と述べられているように、一方ては、少なくともクリプキ・パズルの解決に関しては、これを従来の「意味論」とははっきり別のレベルで考えなければならない、というものと理解されます(このような理解にしたがって、私は上のコメントをしたわけてす)。しかし他方では、「...私が、文(4)(5)の真理値とか、London/Londresの意味論的値とかいうものを、発話の状況から独立した何かとしては、もはや問題にしていない」(手紙p. 3)とも述べられています(また伊勢論文ても「同じ言語を話すすべての俄人が、その言語に属する表現について、同じ意味論的伍を共有することを否定する」(p.30)と述べられていました)。ここから推すると、伊勢さんのお考えは、「表現の「意味論的値」というものはあり、それはクリプキ・パズルの解決にも関係するのだけれども、ただそれは従来考えられてきたよりも、もっと多くの発話状況的変数に依存する、より複雑な関数の値なのだ」というものだと理解できるようにも思われます。二つの可能な理解のうち、どちらが伊勢さんの本弩のお考えに一致するものなのでしようか?また、もし後者の理解をとるべきなのだとすれば、結局、伊勢さんは依然、一種の「意味論」をやり、クリプキ・パズルの一種の「意味論的解決」をはかっておられるということにならないのでしようか?
2. 次にこれまた楊げ足とりだと吉われるかも知れませんが、お手紙には次のような一節があります。「文(4)(5)の発話は、ピエールのおかれた状況に関する情報や、信念緑屈文のde re読みに思い至るほどのソフィスティケーションを欠いた聞き手(ピ工一ル白身を含めて)にとっては、少なくとも額面通りには受け入れられないものと考えられるでしょう」(手紙p. 2)しかし、クリプキ・パズルのパズルたる所以は、まさに、ピエールのおかれた状況に関する情報や、ある程度の吉語哲学的ソプィスティケーションを備えているわれわれにとってこそ、文(4)(5)の発話が(少なくとも両方ともには)真として受け入れ難い一一クリプキの前提(「引用外し原理」、「翻訳原理」、およびそれらの帰拮とされるde dicto読み)を認める以上は両方とも受け入れ可能のはずであるにもかかわらず、事実は受け入れ難い(de re読みは、仮定によりできませんから)、という点にあるのではないでしようか?
3. 最後に余計なおせっかいになるのでしょうが、クリプキ・パズルのあるべき「伊勢式解決」に関する質問てす。この解決が「信念帰属文の発話という行為の成功条件」という夕一ムでffわれるものと前提すると、それはより具体的にどういう形の解決になるのでしょうか?私にはやはり、文(4)または(5)の発話のいずれか(あるいは両方)が信念帰属に失敗したものとして退けられることになるのだろうと推測されます。しかし、どちらの文の発話が、どういう人にとって、どういう理由で、受け入れられないものとされることになるのてしようか? 以上、老婆心から余計な質問までくっつけてしまいましたが、要は、伊勢さんが頻の中に抱いておられる、従来の「意味論」とは「別次元」でのクリプキ・パズルの解決案を、より詳しくより明確な仕方で書き示して頂きたいということに尽きます(ついでに急いで付け加えると、従来の「意味論」レベルの思考では、どうしてクリプキ・パズルの十分な解決がなしえないのか、という点についても、もっと突っ込んで論じて頂ければ、と思います)。それはまた、大げさに言えば、新しい「意味論」ではなくとも、一つの新しい言語哲学の理論の端緒にもなりうるものであろうと期待しています。
この手紙に対するご返答の必要はありません。将来のご論文に些かでも役立てば、それだけで十分に存じます。
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