1998/11/22日本科学哲学会第31回大会(於鹿児島大学)での発表要旨 全文はここ
このような考え方に疑義を提起するのが私の発表の一つの目的である。その疑義は、発話と文脈との関係にかかわる。第一に、一般に、ある発語内行為が成立するための文脈を一定に定める規則は存在するであろうか。宗教的儀礼や法的手続きにおいては、いかなる文脈においていかなる発話が意図された効力をもつのかが、規則によって定められている。これに対して、たとえば一定の発話が約束としての効力をもつための文脈がみたすべき条件を、その発話状況が生ずる以前に、規則によって指定しておくことができるであろうか。第二の疑義は、儀礼や法的手続きにおける発話は、定型に固く従わなければならないのに対して、通常の発語内行為は、複数の手段によって等しく適切になされうるという事実にかかわる。ある文脈を固定したときに、そこで一定の発語内行為が成立するための表現手段の多様性に、限界はあるのだろうか。
私は、発語内行為一般にかんして、発話と文脈の関係を一定に定める規則が存在するとはいえないと考える。だとすれば、発語内行為の成立の基盤は、どこに求められるべきであろう。その回答は、それ自身は規則を前提とせず、規則に書き入れることのできない、人間の根源的な他者志向性に基づく基礎的合意に求められるであろう。この可能性を、デイヴィッド・ヒュームの議論を参照しながら検討してみたい。