ヒュームってだあれ?という方のために


 まずは、右の肖像画を見られたい。かなりの巨顔および巨躯の持ち主ではあるが、ハイドンに扮した琴の若ではない。

 これこそ、18世紀スコットランドの生んだ傑出した哲学者・歴史家であり、多くの人から、英国で古今最大の哲学者と目される、デイヴィッド・ヒューム(David Hume)その人である。

 ヒュームは、1711年、ユリウス暦の4月26日に、スコットランドのエディンバラで生まれた。(ユリウス暦は、古代ローマ以来行われていた古い太陽暦。)この日は、現行の暦では5月7日にあたる。したがって、「ヒューム生誕記念日」を国民の祝日とすれば、ゴールデンウィークはさらに大型化するであろう。国会で活躍する選良諸氏は、その可能性をよろしく検討されたい。

 ヒュームは、エディンバラのカレッジで学び、しばらく試行錯誤した(法律家になるための勉強を途中で断念、哲学的思索に耽ってノイローゼとなり、その後健康を回復して職業に就くが、数カ月で退職etc.人ごととは思えない人も多いはず。)後、哲学的著述を思い立ち、フランスの田舎で勉強と著作に専念する。この成果が、彼の哲学的主著『人間本性論』(1739-40)である。

 『人間本性論』は、ヒュームの期待に相違して悪評を買うが、後に出版した『道徳政治論集』(1741-2)をはじめとする著作によって、ヒュームの筆名は次第に高まる。しかし、大学教授としての職を得る運動は、2度にわたって失敗。中年以後は、ロンドンを中心に活動。著作のかたわら、将軍や大使の補佐役として、政治と外交にも活躍。フランスのイデオローグたちとも親しく交わる。ジャン-ジャック・ルソー(左)には、英国へ亡命するに際して便宜を図るが、恩を仇で返され、ほとほと手を焼く

 この間の主な著作に、『人間知性の探究』(1748)、『道徳原理の探究』(1751)、『政治論集』(1752)、『英国史』(1754-62)、『宗教の自然史』(1757)。

 1769年、エディンバラに帰り、隠居。

 1776年、前年からの病気(腸ガンと推測される)が亢進。死を覚悟し、自らの一生を振り返る『わが生涯』を執筆。8月25日死去。

 死後出版された著作に、『わが生涯』(1777)、『自然宗教についての対話』(1779)。

 ヒュームの『英国史』や政治経済に関する評論が生前から高い評価を受けたのに対し、ヒュームの哲学は、同時代の哲学者からは、知識と道徳の基礎を破壊する懐疑論と見なされ、攻撃を受けた。これに対し、ヒュームを懐疑論者と見なしながらも、ヒュームの議論の意義を認め、評価したのがカント(右)である。カントは、『プロレゴメナ』の序説で、「ヒュームの警告が、まさしく、はじめて私の独断的まどろみを破り、私の探究にまったく別の方向を与えたものであった」と述べている。カントがヒュームの議論に接したのは、1770年代の前半と推定されるが、エディンバラに隠居していたヒュームが、ケーニヒスベルクにいたカントの眠りを覚まさせたというのであるから、ヒュームは、よほどの大声であったに違いない。

 現在では、ヒュームは、人間の心の働きの広範な部分を、広い意味での感受性の働きとしてとらえようとする自然主義者として評価されている。

 wwwでのヒュームに関する情報源としては、 Hume Society Home PageおよびHume Archivesがある。個人が作っているヒュームに関するホームページとしては、D. Tycerium Lightner 氏(Ohio State University)のDavid Hume Homepageがある。ヒュームの著作、主な参考文献のリストの他、ヒュームに関するリンク集、メーリングリストに関する情報が掲載されている。(いずれも英語でゴメン。)

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