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蘆北先生遺事

白川 静 

 

IV

 

沖縄に敵機が来襲し、ようやく敗色を深めてきた十九年の秋十月、中川総長が急逝された。七十七歳であった。私は舞鶴にあって訃報を聞いた。総長は剛毅な方で、明治の人に特有の一種の抵抗精神というべきものがあったように思う。私が専門部の夜間に入学した年、昭和八年のいわゆる京大事件のとき、連袂辞職した十七名の教授陣をそのまま招聘したことは、当時人の耳目を驚かすに十分であった。その佐々木惣一先生の率いる一団の中に、若き日の末川氏の姿もあった。文部省が甚だしく当惑したというような記事を、読んだ記憶がある。

しかしそのことよりも、軍部の専制がすでに完全に体制化されている開戦の年の六月、統帥部を批判して解任された京都師団長の石原莞爾将軍を迎えて、学内に国防学研究所を設立し、その活動の場所を提供したことは、まことに驚くべき勇断であったように思う。石原将軍は、軍部の意図する戦略については時期尚早論で、東亜のために兵を動かすには、今後五十年の経営を以て当るべしとする論者であった。時勢に明るい中川総長は、このたびの戦争について、ひそかに危惧の念をもたれていたのではないかと思う。食当りによる、急性心臓発作であった。

総長先生は、好んで寒山詩を書かれ、またその中でも

一為書剣客  三遇聖明君
東守文不賞  西征武不勲
学文兼学武  学武兼学文
今日既老矣  余生不足云
という詩を好まれた。北は樺太に守たり、南は台湾銀行に総裁であった先生の経歴にも、この詩は重なりあうところがあって、そこに感慨を寄せられたのであろう。中川先生は文事にも長じておられ、その文章は、先生が壮年のとき起居をともにし、その没後の経紀にも当られた愚庵和尚のことを追想された二篇の文章によっても、知ることができる。先生が筆を揮って寒山詩を記された大花瓶が、いまも学宝として残されている。

書もまた、一種雅健の趣のあるもので、私は中学就任のとき、自署して下さった『美妙選集』の二巨冊を、今も大切に架蔵している。先生は私に、同じ寮生であった夏目金之助のことや、美妙斎の名で知られている言文一致運動の最初の提唱者が、実は自分であることなどを、愉快そうに話されたりした。

先生は容易に人に許さぬところのある人であった。また寛容な人で、便々として来たる者をも退けずに親愛されたが、容易に屈しない人をむしろ敬重されるというところがあった。それで重要な文章を書かれるときには、その素稿を橋本先生に送られて、意見を求められたようである。先生を一字の師として、敬重されていたようであった。

中川先生の急逝によって学内に動揺が起ったが、石原広一郎氏が総長事務取扱として一時を収拾し、そのまま敗戦を迎えた。石原氏は南方の経営に当った石原産業の総帥で、その戦争責任を免れがたいであろうし、大学の存置そのものも、従来の指導精神の上から困難となるかも知れないという事情があって、後事を末川博氏に託したいとする石原氏の希望が承認され、末川氏のもとに学制の改革を進めるという方針が決定された。

多端な戦後処理のなかで、いろいろの問題があったが、敗北者として最も卑屈な日本人的心性をさらけ出したものは、いわゆる教職員適格審査であった。この審査は、第三者機関によるものでなく、それぞれの学内で構成される、いわば仲間裁判である。大学存続のために、適当数の不適格追放者を出すことが、免責の条件であるかのように取沙汰されて、魔女狩りのように同僚を売り渡すような裏切り行為が強行された。それは公職追放、軍事裁判と並行する形で全国的に進められ、多くの恥ずべき偽瞞が行なわれた。戦後のことが、各般にわたって見直されているなかで、その審査記録が公表され、その適否が改めて検討されるべきではないかと、私は考えている。時効にしてすませてよいという問題ではない。日本人の恥部ともいうべき、その精神構造に関する、重要な歴史的課題であるように思う。

本学では、五名の不適格者が発表された。そして文学部からは、小泉苳三先生が大学教授としての教学的活動のゆえにではなく、その短歌作品が戦争に協力する罪を負うべきものとして、不適格とされた。その判定書には先生の歌集『山西前線』の最終歌である

東亜の民族ここに戦ヘり再びかかるいくさなからしめ
の一首に対して、「所謂支那事変は、東亜に再び戦なからしむる聖戦であるとの意味をもつ」として不適格の判定を加えているが、この一首が、この戦争を不幸な事実として、くりかえされてはならぬとする意であることは、普通の鑑賞能力をもつ人には自明のことであろう。その歌集にはなお
つはものが生命散らせる土山に季来て草の蕾ふふめり
砲隊鏡に映る秦嶺山脈は突兀として寂しきに似つ
などがあり、戦争という行為の寂寥を歌うて、その慟哭を聞くような作品である。

小泉先生は、故総長の負託にこたえて文学科を廃絶の危機から守り、文学部の創設にも献身的な努力をされたのみならず、その尨大な明治大正短歌資料「白楊荘文庫」二千数百種、数千冊に及ぶ図書を、本学図書館に寄託されていた。当時唯一の組織的な蒐集として、学界の至宝とされていたものである。また戦後直ちに、学園の民主化にも努力され、信望の厚い人であった。

私は、このように歪められた解釈による原判定は容認すべきでないと考えて、再審を要求することを先生に求め、自ら再審請求書を書き、吉沢義則・斎藤茂吉・川田順・窪田空穂・新村出諸先生の意見書を添附し、上告した。当時の中央教職員審査委員長は牧野英一博士で、この著名な刑法学者は、また歌人としても知られた人である。私が面接を求めて書類を提出すると、判定書の文に目を通されて、「あなたの学校に、歌のわかる人が少いようですね」といわれた、私は本当に恥ずかしかった。問題は、ただ歌の解釈能力にとどまることではないからである。

再審の結果は好首尾であったと聞いている。しかし非常抗告という方法がとられて、最終的には不適格となり、先生は学園を去られた。再審が通った人は少なかったということで、それだけでもせめてもの救いのように思われた。あとは何れにせよ政治的なことであろうし、ともかく記録が開放されれば、すべて明らかになることである。

先生は国語関係の出版社白楊社を作られ、先生の門下生とともに私もその企画編集に参加し、成績は順調であった。私は漢文入門などを作り、国語の検定書は資金的にも容易でないので、漢文の教科書を作ることにした。橋本先生が編著者となり、私たちがその準備を担当し、『新修高等漢文』三巻が検定、発行された。

数年の後追放は解除され、先生は他の大学で教室をもたれたが、再び白楊荘文庫の前に立たれることなくして、三十一年の秋深むころ死去された。

曽記東山第一楼  酒杯傾尽品詩遒
稜稜風骨今何処  灑涙遺篇在案頭
これはそのとき橋本先生より贈られた挽詩である。

 

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