講演中の末川博立命館名誉総長(1975年)
2017年2月16日は、名誉総長末川博が亡くなって40年目の命日になります。
末川先生には多くの著書があり寄稿もされていて、これを読む機会はいくらでもありますが、夫人について述べられたことがありません。そこで、ご夫婦の姿をご紹介して末川先生を偲ぶことにします。
1962(昭和37)年12月15日、立命館では学園を挙げて、総長の古稀(70歳)祝賀会を開きました。この時、夫人も列席されていて、その場で末川総長ははじめて大勢の前で夫人について次のように語られたのでした。
「実は、これまで家内のことを他人に話したことはないのだが、今日だけは、大きな声で家内について一言することを許していただきたい。(中略)書斎や研究室や教室などで自分が好きなようにわがまま勝手な生活をして今日を迎えることができたのは、四十年余りの長いあいだ、家内がよく家のなかをみてくれたおかげである。私は、この美しい京都で私の道を思う通りに歩んでくることができたのをいつも感謝していると同時に、それは、家内が私のやることを理解して家庭のことなどで私を煩わさぬように心がけてきてくれたおかげだと私は感謝している。」
古稀祝賀会でのご夫婦
八重夫人は、61歳の誕生日をまじかに控えた1964(昭和39)年2月5日に亡くなりました。悲しみも癒えないそのわずか1ヵ月後、夫人を癌で亡くされた思いを地元の新聞に随感として二度に亘って寄稿されています。そして、夫人が逝って半年後には、「時と人を追うて」という著書を近しい方々だけに贈られましたが、その最後は「亡き家内のことども」という夫人へ捧げられた次のような一文でまとめられていました。
16歳で同じ山口県出身の末川博という男性と結婚して44年。ひかえ目で、ただ家庭のことや子どもたちのことを中心にして過ごしてきて、夫の自分がまったくわがまま勝手に振る舞って、好きなことをして生活してこられたのは、すべて家内のおかげでした。そして最後は「病魔の苦しみによく耐えて、泣きごと一ついわずにしんぼう強くたたかった姿を追想しますと、まったく断腸の思いを禁じえません」と結ばれていました。
1949(昭和24)年、教職員・学生生徒(高校生も3人)を選挙人として参加した全国初の総長公選制で、末川先生が選出されてから5期20年。戦後の学園改革に力を注ぎ、学園の教学理念である「平和と民主主義」を築き上げてきた末川総長は、退任で名誉総長の称号をうけられたのでした。
夫人が亡くなって13年後の同じ2月。16日に末川博立命館名誉総長は84歳で永眠されました。祝賀会で「土地にほれて仕事にほれて、そのうえに女房にほれる者は仕合せ」と語っておられたとおり、今はご夫婦仲良く墓地に静かに眠っておられます。
ご夫婦の墓石(大谷本廟)