立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料センターが保存している史資料の中から、掌サイズの歴史こぼれ話をご紹介します。

最新の記事

2022.03.24

<学園史資料から>キャンパス風景が描かれた「井堂雅夫氏創作木版画記念絵葉書」

19944月びわこ・くさつキャンパス開設記念として発行された絵葉書をご紹介します。

11種、8枚組2セットが製作されました。

井堂雅夫氏が描かれた創作木版画の清々しい風景をお楽しみください。

※絵葉書をクリックすると別ウィンドウでご覧頂けます。

井堂雅夫絵葉書1

【立命館大学びわこ・くさつキャンパス春景】

りょうぶの道からキャンパスを眺める構図。奥には琵琶湖と比叡山の山並みが描かれている。


井堂雅夫絵葉書2

【立命館大学びわこ・くさつキャンパス正門からウエストウイングを望む】

ウエストウイングは地上7階建ての研究棟。数学物理系・情報系・電気電子系が収容された。


井堂雅夫絵葉書3

【立命館大学びわこ・くさつキャンパス セントラルサーカスからメディアセンターを望む】

セントラルサーカスは噴水を中心にした環状交差点の広場。メディアセンターは理工系の図書館棟。

 

井堂雅夫絵葉書4

【近江富士 OHMIFUJI

三上山は、その姿を近江の何処からでも眺められ近江富士とも呼ばれている。


井堂雅夫絵葉書5

【浮御堂 UKIMIDOH

琵琶湖に面した景勝地で、「近江八景」の一つ「堅田の落雁」で有名。

 

井堂雅夫絵葉書6

【立命館大学京都衣笠キャンパス存心館春景】

衣笠キャンパスの存心館は法学部の基本棟。19944月、政策科学部開設の記念絵葉書でもある。

 

井堂雅夫絵葉書7

【立命館大学京都衣笠キャンパス存心館雪景色】

 

井堂雅夫絵葉書8

【立命館大学京都衣笠キャンパス西園寺記念館】

1988年から2000年まで国際関係学部棟。現在は衣笠セミナーハウス。

 

井堂雅夫絵葉書9

【金閣寺 KINKAKUJI TEMPLE

正しくは鹿苑寺(ろくおんじ)という。金箔張りの舎利殿の金閣と名園で有名。


 井堂雅夫絵葉書10

【等持院 TOHJIIN

足利尊氏が創建したのが始まりで池泉回遊式庭園には茶室もあり静かな名園。

 

井堂雅夫絵葉書11

【龍安寺 RYOANJI TEMPLE

衣笠山の南西に位置し、方丈内の枯れ山水庭園「石庭」が有名。

 

 

セット1 

立命館大学京都衣笠キャンパス存心館春景 存心館雪景色 金閣寺 等持院 石庭

立命館大学びわこ・くさつキャンパス春景 近江富士 浮御堂

 

セット2 

立命館大学京都衣笠キャンパス存心館春景 西園寺記念館(国際関係学部) 金閣寺 等持院 石庭

立命館大学びわこ・くさつキャンパス春景 近江富士 浮御堂

 

井堂雅夫氏の多色摺木版画

井堂氏が木版画の版元として原画を製作し、彫り師、摺り師とのチームワークにより作品が完成する。


詳しくは井堂雅夫氏の公式ホームページをご参照ください。

http://www.gado.jp/


西園寺記念館1F 立命館 史資料センターオフィス前にてガラスケース展示を行っています。

お立ち寄りの際は、どうぞご覧ください。


2022.03.08

<学園史資料から>石原莞爾著『国防論』立命館出版部1941のレプリカ作成

石原莞爾『国防論』1

この漫画は、かわぐちかいじ著『ジパング』に出てくるシーンで、石原莞爾予備役陸軍中将が、立命館大学で「国防論」の講義をする場面です。(注1)

 

石原莞爾は、関東軍参謀として柳条湖事件、満州事変の首謀者でした。東條英機との確執から1938(昭和13)年舞鶴要塞司令官、1939(昭和14)年京都16師団長を経て1941(昭和16)年3月予備役編入(事実上の退役)されます。

その直後、立命館大学は石原を講師として招聘し、「国防学研究所」を設置、カリキュラムに国防学講座を開設して石原の研究・教育の場を提供しています。(注2)

国防学講座の講義は、講義録としてまとめられ、立命館出版部から『国防論』(注3)として発刊しました。

 ところが、石原を予備役に追いやった東條英機は、石原が立命館大学講師になってからも憲兵隊による監視を続け、この『国防論』を危険思想として発禁処分とします。

 この発禁処分を事前に知ることになった立命館出版部では、総長の中川小十郎と相談の上、自主廃棄処分としてしまうのです。初版一万部が、石原の所有した「著者用」の印がある分を除いて市場に出ることなく消えてしまいました。

 

 今回、この1冊を所蔵する「鶴岡市郷土資料館」(石原莞爾資料を保存している)より実物をお借りし、レプリカを作成しています。

石原莞爾『国防論』2

<立命館出版部から発刊された『国防論』左側が実物、右側がレプリカ>

 

 立命館史資料センターでは、かつて存在した立命館出版部の発行誌の収集をしていますが、『国防論』だけは、件の事情から実物がありませんでした。

レプリカは、単なるコピーではなく、古文書や歴史史料などの文化財をコピー技術を使って復元する富士フィルムビジネスイノベーションジャパン株式会社京都支社の協力で行っています。

 レプリカでは、表紙の紙質の再現や経年劣化(破れは再現不要としています)、紙のシミ、裏面へのインクの透けまで再現しており、実物とほぼ同じものに仕上がっています。

 

 学園史資料の収集・保存は、展示などの利活用を想定したものであるため、再現度は非常に重要な要素です。とはいえこれまでの再現技術は、時間もコストも相当にかかる貴重な手法でした。近年発達してきたコピー技術は、時間もコストも低減でき、かつ再現度も実用に耐える仕上がりになってきています。

 立命館 史資料センターでは、こうした現代の汎用技術も使いながら学園史資料の保存につとめています。

 

20223月8日 立命館 史資料センター 奈良英久




(注1)かわぐちかいじ著『ジパング』KCコミック 講談社(株)2022年2月18日許諾済


     描かれているのは、1941(昭和16)年6月頃の公開講座のシーン


     昭和16年の『立命館要覧』には、「512日立命館大学国防学研究所創設並ニ本学国防学講座開講(略68日ヨリ国防学公開講座ヲ本学ニ於テ開講ス」とある。


     なお、公開講座であるから、漫画には学生以外の市民も参加している描写があり、教室の後ろ(左下の一コマ)には民間人に変装した憲兵も描かれている。


 


     当時実際に授業を受けた森尾正氏(1942年法卒 元校友会東京支部長)は、石原の講義を「中国やロシアに出るべきでなく南進論者だった。当時は勇ましいことを言うのが評価されたが、石原は平和・安定を願っていた。戦争ができない時代が来ることを見通していた。」「石原は満州を安定させることを望んでいた。」と受け取っている。石原の人物に関しては「遠慮をする人ではない。思ったことは何でも言う。それが学生に受けた。日本陸軍を批判した。中国や太平洋戦争についてもそうだった。」と評する。(「石原莞爾将軍」に関するインタビュー:2010115日 立命館史資料センター所蔵資料)

 

 

(注2)「国防学研究所」と「国防学講座」

     1941(昭和16)年の大学概要を掲載した『立命館要覧』には、国防学研究所、同講座を新設した理由が明記されている。

     「全国の諸大学に率先して国防論、戦争史、国防経済論の三講座を新設した。(中略)国防学に関する知識を広く一般国民に普及するは、大学の一使命であらねばならぬ。国防が軍人の専任であるというが如き旧時代の観念を清算して、国民が国防に関する正確なる知識を把握することは、刻下の最大急務である」として、石原莞爾を「国防学研究所」長、国防学講座の責任者に迎えた。(『立命館百年史 通史一』p684

 

     また、石原莞爾は、立命館大学理工学部の前身である「日満高等工科学校」設置とも深いかかわりがある。

     1937年、立命館総長中川小十郎は、満州国が技術者養成を目的とする学校の設置を目論んでいる情報を入手する。19384月 京都帝大内に設置されていた「私立電気工学講習所」を継承発展させた「立命館高等工科学校」を開設していた中川は、この機会を活用して理工系のさらなる発展を考える。その際、満州国と繋がりが深い石原莞爾の協力を求めた。1938年当時石原は、舞鶴要塞司令官として事実上の閑職であったが、満州国や関東軍などにはまだまだ信望者が多くおり、威光があった。石原と中川は、理工系学問が今後満州の発展や日本の将来に重要であることで一致したようで、支援を約束される。かくて、満州国からの補助金を得、「立命館日満高等工科学校」が誕生することになる。

この時の縁が、1941(昭和16)年の講師招聘に結びついたのである。

        『立命館百年史 通史一』p687、倉橋勇蔵『酒徒まんだら』私家本2006

 

     

(注3)『国防論』

     石原は、立命館の国防学研究所の所長として、国防論の講義を学内のみならず一般国民への公開講座としても講演している。

     その講義(1941512日から1週間)を講義録としてまとめたものが『国防論』であった。

     しかし、当時少年店員として立命館出版部で働いていた井上重信氏(元法律文化社社長)によれば、憲兵隊による版木の差し押さえの前に印刷を完了して、菰につつんで隠したものの、ついに発行できなかった。自主的に発禁処置をしたのである。この間の中川総長は大変お疲れの様子であったという。

       井上重信「昭和十六年夏の立命館出版部―石原莞爾『国防論』発売禁止事件―」『立命館百年史紀要』第7号1999

     

     『国防論』の「序」には、石原による発刊の経過が記載されている

     「立命館大学中川総長から国防学の講義を要求せられた。学問の素養のない私は残念ながらその力なくこれを辞退せざるを得ない。しかし、永年大学に戦争学講座を設くべしと主張して来た身として中川総長が世に先んじてこれを決行せらるる熱意に感激し、遂に身の程を顧みず三十年の軍隊生活の体験に基き、512日から1週間国防論の講義を試みた。本書は田中直吉教授外立命館大学国防学研究所所員の手により右講義の速記を整理せられたものである(後略)」

2022.03.03

<懐かしの立命館>上賀茂グラウンドと神山学舎

はじめに

 立命館は昭和初期に、山城国一之宮である上賀茂神社の北、現在の京都産業大学のある場所に「大グラウンド」を開設し、戦前戦後を通じて体育施設として学生・生徒が利用しました。また戦時中から戦後にかけて神山学舎という中学・高等学校の校舎を開設しました。

 グラウンドを開設して94年、グラウンド施設を閉鎖して40年、今、上賀茂グラウンドと神山学舎の歴史を振り返ります。

 

1.戦前の上賀茂グラウンド

1)大正末期から昭和初期の立命館

立命館は、大正末期から昭和の初めにかけて、学園の施設整備事業を行いました。この事業は、昭和3年に行われる天皇の即位の儀である御大典記念事業でもありました。

 大正116月に大学令による大学として認可され、専任教員の充実や洋書の専門書を備えるなどの教学の拡充が求められ、また学舎や設備の整備も必要となってきたのです。

 広小路学舎がそれまでの木造の校舎から最初に鉄筋コンクリートの建物ができたのは立命館文庫の書庫・図書館で、養性館と命名されました。大正1512月の竣工でした。

 続いて翌昭和2年、法学部が法経学部に改組され、教室棟である盡心館が竣工しました。

更に昭和3年にも教室棟である存心館が完成し、広小路学舎の整備が実現しました。北大路学舎に移転していた立命館中学は、この年8月、立命館中学校と改称しています。

 しかし、中学・大学とも運動施設は他の私学に比べて極めて不十分なものでした。運動・体育も教育の一環であり、運動場の必要性が高まったのです。

 

2)立命館「大」グラウンド用地の取得

上賀茂Gと神山学舎-10

【写真1 上賀茂グラウンド位置図 『立命館学誌』第118号】


 昭和3年、洛北上賀茂に六千坪余りの候補地が浮上したのです。土地の取得や建設には大きな財政的問題がありましたが、事業費の多くを寄附で調達することとなりました。

 719日には立命館中学の生徒が一人10円の拠出を決議したのを始め、生徒・学生が一丸となり、中川小十郎館長・田島錦治学長(1)を先頭に教職員・校友も寄付活動に取り組みました。寄付額は、昭和3118日には総計で11,62491銭となっています(2)

 夏の暑い日、中学生と大学生の代表が一緒に候補地の見学に行っています。立命館中学校があった室町頭(北大路校舎)から北上し、御土居を左手に賀茂川の堤に出て、御園橋を渡って上賀茂神社の西側の鞍馬街道を上り、本山の国有林の方へ小径が続いている。別荘が一つあり、ため池がある一帯6,199坪が我々の目的地である。植物園のグラウンドより狭くはあるまい、と。途中、上賀茂神社の門前の茶店・二葉餅屋で休憩し、帰りに二葉餅を土産に買っています(3)

 運動場用地は、昭和39月に上賀茂本山の6,019坪を官幣大社賀茂別雷神社(上賀茂神社)から購入、続いて昭和44月に隣接の上賀茂上神原(かみじんばら)374坪、5月には隣接の国有林2,000余坪の貸し付けを受けました。同じく6月に上神原に114坪、昭和59月に58坪を取得しました。更に昭和146月に葵田(あおいでん)町の86坪、同年10月に上神原町の95坪を取得しています(4)

 

3)大運動場の建設

上賀茂Gと神山学舎2

【写真2 大グラウンドの建設】


昭和44月、いよいよ地ならし工事が始まりました。工事は伏見工兵隊の援助があり、418日から準備、23日から作業が開始されました。実に300名の軍隊が教育事業の援助に当たったのです。また上賀茂村の人々の協力もありました。

 24日には立命館禁衛隊の中学生・商業学校生を始め、大学の学生もまた工事に当たりました。今後の工事は全立命館の教職員・学生・生徒の勤労奉仕で進めることになり、512日には立命館中学・商業の生徒がスコップをふるいました。こうして9月下旬に第一期工事が完成の運びに至りました。

 第二期工事は、昭和5820日から始まり9月下旬に完成しました。野球場、蹴球場、陸上競技場の建設を行い、学園のスポーツ精神の涵養をはかり体育の実践活動が始められたのです。

 なお、昭和67月には、立命館の校歌ができました。運動場では以降、校歌も歌われたことでしょう。

 

4)運動会の開催

完成なった大運動場では、大運動会が開催されました。

 昭和41020日 立命館記念大運動会

 昭和51017日 立命館連合大運動会

 昭和6924日  中学・商業秋期大運動会・府下学童陸上競技大会

   高等小学校15校、尋常小学校31校を招待。

   同 1018日  立命館大学運動会

 昭和71017日 立命館大運動会

などです。運動会の開催については、今後、ホームページにて紹介されます。

 

2.神山学舎

 

昭和17年、グラウンドの地には立命館の中学校が開設されました。住所は上賀茂本山でしたが、北に賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神が降臨したと伝わる秀峰神山(こうやま)301mが聳えていました。

 

1)立命館第二中学校

 立命館はそれまで、中学校、商業学校、夜間中学校がありましたが、中等学校への進学希望者が増加し、立命館中学校の志願者も増大したため、昭和16年、第二中学校を設置しました。設立の趣旨は禁衛隊主義による教育を普及するためでした(「立命館第二中学校設立認可申請書」)。当初、北大路を仮校舎として開校しましたが、生徒の増加で狭隘化し、校舎の一部を移築して上賀茂グラウンドに校舎を建て、昭和174月神山学舎が開設しました。市バス御園橋から徒歩25分、京福二軒茶屋駅から20分と、通学には不便な地ではありました。

 第二中学校の神山学舎開校に伴い、立命館中学校は立命館第一中学校となります。また附属学校の拡充をはかり、第三中学校、第四中学校も開設しました。

 昭和184月に第二中学校に赴任した野崎龍吉教諭(のちに立命館高等学校校長)は、次のように語っています。

 「大学のグランドと馬場であったこの8,000坪の地は、翠緑したたる赤松の山を背にして、空気清澄、春から夏にかけては松蝉が鳴きしきり、叢から雉や鶉が飛び立ち、校庭に牝鹿が迷い込むこともある。今から考えると仙境ともいうべき閑静の地であった。……都塵を離れて少年のために健康な勉学の場をという、中川総長の意図にはピッタリの環境であった」(「神山学舎の思い出」(5))

しかし、戦況は年とともに激化し、国をあげての戦時体制が敷かれ、第二中学校もまた戦時教材が使われたり、学徒動員が実施されています。昭和19年、34年生は兵庫県相生市の播磨造船所に動員されました。また、12年生は農家の農作業の手伝いなど勤労奉仕に動員されました。

この時の状況については、史資料センターのホームページ・あの日あの時に「立命館第二中学校の学徒勤労動員(昭和19)」が掲載されています。学徒動員で生徒がいなくなると陸軍病院の病室に充てられました。

 昭和20年度の第1回卒業式は動員先の相生の播磨造船所で行われました。22年度に初めて神山学舎で卒業式が行われましたが、昭和23年度が第二中学校最後の卒業式となりました。

上賀茂Gと神山学舎3

【写真3 立命館第二中学校 昭和17年】

上賀茂Gと神山学舎7


2)神山中学校、神山高等学校

上賀茂Gと神山学舎4

【写真4 立命館神山中学校・立命館神山高等学校校章】


 昭和22年、学制改革により、立命館の新制中学校は立命館中学校、立命館神山中学校が設立されます。翌23年には立命館高等学校、第二中学校を改称した立命館神山高等学校、および立命館夜間高等学校が設立されました。

 神山中学校は、学制改革に基づく京都市の新制中学校の整備のなかで、京都府愛宕(おたぎ)郡鞍馬村、静市野村、岩倉村、八瀬村の4村の男女の中学生を委託生として受け入れ、5月に開校しました。(6)  

 神山高等学校は、翌234月に同じ神山学舎で開校します。

 立命館タイムスは、「環境に恵まれた理想の学園」と立命館神山中学・高等学校を紹介しています。(7)

 昭和23年の神山中学校は3学年で9学級、生徒数470名。神山高等学校は2学年で6学級、325名でした。そのうち高校の女子生徒は92名、教員は中学・高校合わせて校長ほか28名でした。

 昭和24年に愛宕郡が京都市に編入されると、八瀬村からの委託生は修学院中学に移りました。

 その後の生徒数については、立命館神山中学校・高等学校が作成した「生徒出席調」でわかります。昭和254月末現在では、中学校3学年6組で336名、高等学校3学年8組で374名です。昭和264月末現在では、中学校3学年6組で321名、高等学校3学年8組で709名です。

以下の表は、昭和2411月末現在のものと昭和2610月末現在の生徒数です。昭和24年から26年にかけては、大きな異動はありませんでした。

上賀茂Gと神山学舎8

 神山高等学校の第1回卒業式は昭和25(昭和24年度)で卒業生58名でした。

 昭和24年度の神山高等学校卒業生の卒業時の住所は、左京区22名、上京区24名、右京区3名、東山区1名、下京区4名、中京区3名、他1名でした。同年の神山中学校卒業生は、男子75名のうち左京区71名、上京区3名、中京区1名です。女子は41名ですが、すべて左京区でした。

 卒業時の住所は、昭和24年度立命館清和会発行による『卒業生名簿』によりましたが、資料により卒業生数が一致しないことはありますが、当時の学制のもとで、生徒がどこから通学していたかを知ることができます。

 しかし、京都市の学校整備に伴い生徒の委託契約が解除されることになると生徒数も大きく減少することになり、財政的にも困難な状況にあったため、立命館の中等教育全体を改革することとなり、神山中学校・神山高等学校は、昭和273月をもって廃止し、北大路学舎の立命館中学校・立命館高等学校に統合されました。

 閉校時の生徒については、神山中学校319名のうち、委託生308名は京都市へ、区外生11名と委託生のうち希望する生徒は立命館中学校へ、神山高等学校の生徒391名は立命館高等学校に移籍されました。


上賀茂Gと神山学舎9


3)京都市立本山中学校、洛北中学校

 昭和274月、神山学舎は京都市に貸与し京都市立本山中学校となりました。生徒数2877学級で、教員は校長を含めて12名で創立されたのです。これまで委託で受け入れていた左京区の生徒が上京区(現在は北区)の学舎に通学しました。しかし本山という上京区の山の名と地域名をとった学校の名称が左京区の生徒が通うのにふさわしくないということで、同年の1115日に洛北中学校と改称されました。

 洛北中学校の50周年記念誌である『劫初より:洛北中学校写真で綴る五十年史』には、神山学舎で学ぶ生徒たちの様子がうかがえます。

 校舎の老朽化もありましたが、左京区の生徒が学ぶ校舎は左京区にとの要望が強く、関係者は移転して新築の校舎で学ばせたいと京都市教育委員会に陳情し、岩倉に校舎を新築して移転することになりました。移転は昭和32615日のことです。

 当日は、市教委と立命館の理事も招かれ、校舎返還の感謝式が行われました。

 こうして神山学舎は5年余にわたる本山中学校・洛北中学校の学び舎としての使命を閉じます。


3.再び上賀茂グラウンド


1)再び上賀茂グラウンドが登場するのは、昭和348月のことでした。洛北中学校の移転により神山学舎はしばらく利用されない状況が続きました。

 課外活動の練習グラウンドに困窮していた体育会各クラブは、市内各所の外部施設に練習場をもっていたため使用料や交通費などの経済的負担もあいまって、大学に対し上賀茂神山グラウンド(当時は神山グラウンドとも言っています。)の使用を認めるよう検討をせまりました。12月には大学もその必要性を認め、再び大学・高中校共用のグラウンドとして使用することとし、整備に入りました。

 工事は翌35年の5月下旬には一期工事が完了して、6月から、各地で練習していたラグビー部、サッカー部、陸上競技部、ホッケー部、ハンドボール部、アメリカンフットボール部などの練習場として使用することとなりました。

施設面積16,880㎡のグラウンドに350mのトラック、12月には48名収容の合宿所が完成しました。

この年、本学は創立60周年を迎え、記念式典を挙行しています。記念事業で学生歌が募集され、「かがやける明日をのぞみて」が制定されました。

上賀茂Gと神山学舎5

【写真5 上賀茂グラウンド『体育会の歩み』昭和3511月より】


 昭和364月からは、広小路・衣笠・北大路と上賀茂グラウンドを結ぶスクールバスが運行を開始しました。

 秋には更に合宿所が増設されました。

 

2)その後のクラブ活動とグラウンドの閉鎖

昭和426月には弓道部の道場も完成し、また高校・中学のサッカー部、ホッケー部も使用しました。

 しかし、昭和42年には近くの柊野に総合グラウンドを設置し、クラブ活動は順次柊野に移転していきます。

 クラブ活動練習場の移転により、昭和574月、上賀茂グラウンドは隣接地の京都産業大学に売却され、弓道部が特別に9月まで使用して上賀茂グラウンドは引き渡されました。

 売却時の面積は21,065㎡、建物延べ面積676.22㎡でした。

 こうして昭和39月の用地取得から、昭和579月の引き渡しまで、54年にわたり学生・生徒の教育活動の場として使用してきた上賀茂グラウンド、神山学舎の地は幕を閉じました。

上賀茂Gと神山学舎6

【写真6 上賀茂グラウンド位置図、配置図 『学生生活』より】


 上賀茂グラウンド・神山の略史を終えるにあたり、昭和57(1982)年、まさにグラウンドを最後の年に利用していた元弓道部の学生(現在立命館大学職員)に、上賀茂グラウンドを語っていただきます。



 

上賀茂弓道場の思い出

 

 私は中学生のころから日本最古の武道、弓道には関心があり、いつかは習いたいという気持ちがあった。高校(大阪府立春日丘)には残念ながら弓道の部活動がなく、近くの大阪万博弓道場に見学に行って少しだけだが弓道とはどのようなものか確認をしていた記憶がある。

 高校卒業後、1年を経て1982(昭和57)年春に晴れて産業社会学部に入学した。受験前から、立命館大学の弓道部は、戦前立命館大学第二代学監を務められた田島錦治(弓道範士)先生の呼びかけで跡部定次郎法学部教授(弓道範士)を部長として小笠原流で創始し、京都大学や同志社大学、関西学院大学などに次ぐ長い歴史があり(1928(昭和3)年創部、広小路)、一部リーグ4連覇中の関西王者であることを知っていたので、少しだけ後付けの理由にはなるが、強く憧れた体育会弓道部にすぐに入部しようと考えていた。しかし、そんな思いも是非に及ばず、入学式から始まり、オリエンテーション、受講登録、受講、基礎演習クラスでの学習交流や懇親会などを楽しむうち、入部する間もなく4月はあっという間に過ぎ去った記憶がある。ゴールデンウィークを過ぎたある日のこと、同期で経済学部に入学した弓道経験者であった幼馴染み(府立東淀川)と一緒に、当時神山グラウンドにあった弓道場に入部のため見学に行くこととなった。聞くと、衣笠にはなく上賀茂の方にあるという。行き方も詳しくは知らないので、上賀茂神社まで市バスで行き、上賀茂神社の境内を見学しながら、柊野別れ、京都ゴルフ倶楽部のゴルフ場横の歩道をとおり、京都産業大学前に到着、京都産業大学正門横の弓道場へ行くこととなった。弓道場には末川博先生揮毫の弓道部の看板があり、正面玄関から入ると、当時西日本大学一の広さを誇ると言われた我が大学の弓道場の雄姿があった。弓道場はそのほとんどが、弓道を行う(行射する)ために敷き詰められた床板のスペースでしめられており、四面の壁などを除いては、屋根を支える柱などはないのだが、上賀茂道場には等間隔で鉄柱が設置されていた、当時の建築技術にもよるのだがそれほどに広く格式のある弓道場であった。上賀茂道場は、1967(昭和42)年に建設、弓道各流派および各大学の師範や部員、本学からは末川博総長にもご臨席いただいて道場開きがなされたという聞き伝えを記憶しているから、上賀茂道場が建設されて15年後に私が入部することとなった訳である。

 

 さて、(見学即)入部時には、日曜日と月曜日は休みと聞いていたので、さては週休二日か、と安堵していたが、日曜日は試合がなければ休み、ということをまもなく知ることとなる。平日は3時限目が終わるとすぐにバイクにまたがり衣笠を後にする。道場に着いたらすぐに掃除。広いので本当に大変である。午後5時くらいから午後730分までが正規の稽古で、そのあとは午後10時から11時ころまで自主稽古が行われる。正規の稽古が終わったら1回生は的場の横に陣取り翌日以降使用する的貼り作業に専念する。的は直径36センチ(一尺二寸=尺二と普段は言う)くらいあるほぼ真円の木枠でできており、近所の米屋を廻って無償でいただく米袋を一定の大きさに切り、一昼夜水で浸してくしゃくしゃにしたものを延ばしに延ばして木枠に貼り付け、的面を一部のたるみ、しわもなくパンパンに水糊をつかって貼り付けてから、星的という真ん中に黒い円の描かれた的紙を貼る、約15個の的を毎夜毎夜作成するということが稽古後の1回生15人の主な仕事であった。もちろん、的貼り場では、1回生同士がたわいもない会話をして楽しんでおったので、仕事が遅いと時々注意に来られる3回生幹部の鬼の形相での指導のお定まりの時間を除いては、特につらい思い出はなかった。的貼りに使う水は、私の記憶が正しければ、道場横に湧き出していた。豊富に湧き出す水を使って的張りをしていた。湧き水のそばには用水路のようなものがあり、暇を見つけてはその中に生息するザリガニを釣ってもいた。平日は稽古と的貼り(そしてザリガニ釣り)、毎週日曜日に予定されていた試合の準備、などを淡々とこなしていく、そんな日常であった。8月、1回生はほとんど休みといわれていたが、定期的な掃除や的貼りや、8月末の1週間の信州夏合宿などで、思えば盆休み以外は休んでいなかったようである。しかし、8月は開講期の様に定時で拘束されることはほとんどなく、上述のような1回生の役目を果たせばよかったという意味で自由な時間であった。このような夏休み期間中の自由な時間を使って弓道部の同僚と西側にあったホッケー部だったか陸上部だかのグラウンドに入って、キャッチボールやらなんやらの息抜き運動をした覚えがある。

 信州合宿が終わり、9月に入ると、かねてから聞いていた柊野グラウンドに建設された現弓道場に引っ越しする作業が始まった。掃除やら什器、トロフィーや各種資料などの移設は、大学で対応いただいたものも勿論あると思うが、部員がどこからか軽トラックを持ってきて何回かに分けて移動できるものは行って、9月の中旬(秋季リーグ戦開始3週間前位:当時)には現道場に移転が完了した。

 上賀茂弓道場を含め神山グラウンドは京都産業大学に売却されたと聞いた。弓道場は23年はしばらく引き続き京都産業大学の弓道部が使用されていて、その間、急速に競技力を高められていたので、やはり上賀茂弓道場には上賀茂神社のご利益があると話し合っていたものである。今からちょうど40年前、今は荘厳な図書館が建つその地、上賀茂弓道場での最後の年を知る私の、壬戌の年の青い記憶である。

 

K・K(大学事務職員)


 

 (注1) 田島錦治学長:明治33年~昭和2年京都帝国大学教授、初代経済学部長。京都法政学校以来講師を務める。財団法人立命館の監事・学監を務め、昭和2年4月から昭和8年11月まで立命館大学学長。名誉学長であった昭和9年6月逝去。弓道範士で、日本漕艇協会の会長も務めています。そして明治45年、日本が初めてオリンピックに出場したストックホルム大会の開会式に選手団の一員として参加しています。

(注2) 『値段の明治大正昭和風俗史』『続値段の明治大正昭和風俗史』朝日新聞社(昭和56年)では、昭和5年の朝日新聞朝夕刊セットの1か月料金90銭、現在4,400円、東京大学の授業料(年額)が昭和4年に120円、現在535,800円。単純比較はできませんが、4,500倍から5,000倍として、10円は、45,000円から50,000円くらいでしょうか。

(注3) 二葉餅屋は御園橋東詰の上賀茂神社門前にありました。現在は南区の大石橋に移転し「二葉軒」となっています。

 (注4) 取得および面積は「財団法人立命館土地台帳」と「法務局旧土地台帳」によります。

 (注5) 「立命館学園広報」第21号(1972年5月) 野崎龍吉「神山学舎の思い出」

 (注6) 愛宕郡は、昭和24年4月1日に京都市に編入されます。また、神山学舎の所在地は、昭和30年の分区により上京区から北区となります。静市野村は静原・市野・野中の地域です。

 (注7) 「立命館タイムス」昭和23年5月13日

(注8) 『洛北、1982』(1982年)、『劫初より:洛北中学校写真で綴る五十年史』(2002年)

 (注9) 立命館学園新聞 昭和35年1月11日号、同5月10日号

(注10) 『体育会の歩み』(昭和35年)

(注11) 『体育会の歩み』第二集(昭和46年)

 

資料 (1) 立命館学誌117号(昭和3年9月15日)、118号(昭和3年10月15日)、

      121号(昭和4年2月)、124号(昭和4年5月)、125号(昭和4年6月)、

      128号(昭和4年11月)、135号(昭和5年9月)、137号(昭和5年11月)、

      147号(昭和6年11月)、148号(昭和6年12月)、156号(昭和7年11月)

(2)『立命館創立五十年史』昭和28年3月

   (3)『立命館百年史』通史一 1999年3月

   (4)『立命館百年史』通史二 2006年3月

   (5)『立命館百年史』資料編二 2007年7月

   (6)『八十年の歩み 立命館中学校・高等学校』 1985年9月

   (7) 『立命館百年史紀要』第8号(2000年3月) 「戦後初期の立命館中等教育について」

(8) 立命館史資料センターホームページ あの日あの時 西田俊博「立命館第二中

学校の学徒勤労動員(昭和19年)」2021年3月

  (9) 『立命館百年史紀要』第16号(2008年3月) 槙野廣造「二枚の門標」

  

 

2022年3月3日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次