立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料センターが保存している史資料の中から、掌サイズの歴史こぼれ話をご紹介します。

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2019.08.27

<懐かしの立命館>戦時下、専門学部工学科N君の学生生活 前編

目次

  はじめに

  1.専門学部工学科応用化学科入学

   (1)入学試験

   (2)第1学年

      2.N君の学生生活-寄贈資料から

   (1)昭和18年の『日記』(11日~12月末)

   (2)定期試験

   (3)残された学修の証明書

   (4)その他の寄贈資料から

   (5)卒業アルバムから

はじめに

 このほど、昭和17(1942)4月に立命館大学専門学部工学科に入学し、昭和19(1944)9月に卒業したN君のご親族から学生時代の資料をご寄贈いただいた。

 日本はN君入学の前年12月、太平洋戦争に突入し、卒業する年の7月から10月にかけて日本軍は南方戦線において次々と敗北を重ねる戦況下にあった。

このような戦時下にあってN君はどのような学生生活を送ったのであろうか。当時の教育はどのようなものであったのだろうか。

 寄贈資料および立命館所蔵資料等をもとに戦時中のN君の学生生活を紹介する。

 N君の学生生活1

【写真1 飲食店で歓談する学生たち】 

1.専門学部工学科応用化学科入学

 (1) 入学試験

 昭和174月、これまでの立命館日満高等工科学校が立命館大学専門学部工学科に昇格、N君はその1期生となった。

 入学試験は東京・福岡の地方試験会場を含め3ヵ所であったが、京都出身のN君は工学科のある等持院学舎で受験している。試験は321()に数学、国史、物理の3科目、翌22()に人物考査と身体検査があった。

 数学は2時間、国史は1時間、物理は2時間の試験時間であった。入学試験問題の一部を紹介する。

 「数学」は5問が出題され、そのうちの1問は、

   「半径αナル円ニ内切シ且ツ互イニ外切スル三ツノ等シキ円ノ半径ヲ求メヨ。」

 「国史」は3問が出題され、

   一、皇大神宮の由来につきて謹記せよ。

   二、吉野朝廷時代の忠臣の事蹟と祭祀せる神社名を記せ。

   三、左につきて記せ。

      (1) 道臣命  (2) 萬葉集  (3) 天龍寺船  (4) 松下村塾

 「物理」4問のうち4問目が、

   「次の言葉の物理的意義を問ふ。

    1メートル  1ダイン  1カロリー  1オーム  1ジュール 」

 というものであった。 

 募集は工学科(機械工学科・電気工学科・応用化学科・採鉱冶金学科・建設工学科)全体で350名、うち応用化学科が50名であった。日満高等工科学校に引き続き、約半数を満洲国委託生として募集しているが、N君は普通生で受験している

 (2) 1学年

<入学式と第1学年前期の学年暦>

 入学式は45日、北大路の立命館中学講堂にて大学・大学予科・専門学部各学科とともに挙行、工学科は翌6日より等持院学舎で授業を開始した。713日から830日までは夏季特別期間で、第1学年は特別授業、野外教練等を実施。81日までは特別授業で、3日より9日間滋賀県饗庭野陸軍演習場にて合宿野外教練を実施する予定となっていた。

 饗庭野での演習の様子については、N君から東京の友人に手紙を送っており、その友人から饗庭野陸軍廠舎内立命館高工応用化学科N君宛ての86日付けの返信が残っている

<工学科・応用化学科の生徒数(昭和17615日現在)

 工学科全体の生徒数は、第1学年合計376(委託生166、普通生210)、うち応用化学科は委託生20、普通生30の計50名であった。

 第2学年に日満高等工科学校から編入した生徒等が219名おり、生徒総数595(委託生314名、普通生281)の工学科であった。

<教職員>
 教職員は中川小十郎総長、松井元興学長兼専門学部長、本野亨工学科長で、応用化学科教授に室伏健佶、松本俊一、工学科の物理学・力学に安達嘉一、数学に曽我部忠四郎、独逸語に永安登一、満洲語に高島隆太郎・さい賀吉太郎※さい賀の「さい」は木へんにつくりが崔(さい)に之(しんにょう)、修身に武用種吉、教練に川崎司朗(陸軍中将)などがいた。6月からは体錬科助教として林義男が就いた。講師(非常勤)の多くは京都帝国大学の教授・助教授等が来た。 

<応用化学科の授業>

 学則に設置された科目として、

臣道実践(毎年)、教練(毎年)、武道(毎年)、外国語(毎年)、数学・物理学・図学・物理化学・分析化学・無機化学・有機化学(1)、無機工業薬品及肥料(2)、有機工業薬品及染料・応用電気化学(3)、燃料工業化学・粘土工業化学(2)、油脂工業化学・繊維工業化学・化学機械学(3)、機械工学・電気工学(2)、工場建築法・工業経済学(3)、設計製図(12)、実習及実験(毎年)

   があり、各学年半期39時間、計234時間であった。

 学則上は修業年限3ヵ年であったが、戦時下の法令にもとづき、但書きがあり「法令ノ範囲内ニ於イテ之ヲ短縮スルコトヲ得」からこの年度の入学生は6ヵ月の短縮となった。

 この措置は、1941(昭和16)10月に勅令「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」が公布され、昭和16年度に卒業すべき者については3ヵ月短縮、以降省令で、昭和17年度・昭和18年度・昭和19年度と毎年6ヵ月短縮する省令が公布されたことによる。 

<学費>

 入学考査料10円、入学金10円、授業料年額144円、校費年額10円、根本基金積立・謝恩基金各年額10円、実験実習費年額60円、であった。

 昭和17年の物価は、小学校教員初任給5060円、新聞購読料月額120銭、映画80銭、中央公論90銭、手紙5銭、はがき2銭などであったという。 

 N君の学生生活2

【専門学部工学科平面図(等持院学舎)

2N君の学生生活―寄贈資料から 

 (1) 昭和18年の『日記』(11日~12月末)

 N君は、博文館発行の昭和18年『當用日記』にその学生生活を綴っている。第1学年の1月から第2学年の12月までの1年間の日記である。以下、原文のまま何日か抜粋する(ただし原文は縦書き。友人等の人名はイニシャルとした)。 

11()】 晴、寒

 皇紀二千六百三年の新春を迎ふ 東より出づる太陽は赫々として我国の国運の隆盛をしめすが如くなり 又皇軍の戦果をしめすが如くである 今年こそ一生懸命に勉学し学生の本分をつくすべきだ 此れこそ我々の職域奉公だ O君T君三人で八坂神社へ参拝戦勝祈願す 後一日中河原町京極・四条通を散歩して夕方家で一家族打そろってスキヤキをして楽しき正月を迎ふ

16()】 晴、寒

 朝会終了後平野神社へ全校生徒参拝し戦勝祈願の式を挙行す 九時より授業始まる 昨夏の時と違って皆割合多く出席してゐた 数学の時間東尾先生が私に問題を解答せよと命ぜられたが本を調べてゐないので出る事が出来なかった 昼から実験が無い様になったのでO君T君と三人で映画鑑賞に行く 余り良くなかったが蒙古の地形を知る事が出来た 帰って夕食後寒の入りだので善哉を二杯食べた

 (注:欄外に京宝で「成吉思汗」鑑賞とある。この月、5日・10日・24日・30日と映画鑑賞をしている。)

1月9日()】 曇後晴、小寒

 朝起きると一面の銀世界だ 今年初めての大雪だ 僕は急いで学校に行く 歴史に名高い衣笠山の雪景色は今日初めての見参である 実に美麗と云うべきか壮大と云うべきかだ

 武用先生はこの景色にホレこんでしまったらしい 製図が終るとぬかるみの中を急いで家に帰る 直ぐにスキーの用意して出発 比叡に向ふ 行くにしたがって同行の人が増えて来る 頂上へ来ると一面の雪だ 蛇が池に着くと先づワックスをぬって辷べる用意するが余り辷りすぎて困る S君が余り上手いので少し嫌になってしまふ …… 然し皆愉快に辷べる事が出来て何よりであった

 (注:欄外にS君O君T君4人で比叡山にスキー行とある。この月、3・4日安曇、17日朽木、31日花背にスキーに行っている。2月にもスキーに行っている。) 

28()】 晴

 大詔奉戴日 大急ぎで学校へ行く 大詔奉戴の式に遅幕ながら参列する 有機の時間は別段変った事なし 支那語の時間は嫌な時間の一つである 物理は今度の試験の山を云はれたので試験勉強の計画も幾分軽くなった 教練は射撃予行演習で一時間にて終了す 帰りにはT君O君と若狭屋へ御菓子を食べに行く

 (注:大詔奉戴日:1941128日の太平洋戦争開戦による「宣戦の詔勅」公布にちなみ、194218日より毎月8日を大詔奉戴日とした。)

211()】 晴

 O君がさそいに来てくれたので一緒に行く 九時より立命館大学国清殿にて紀元節の式が挙行される 我等一同感慨無量なり 終了後T君と喫茶店で少し腹を拵らへて学校へ行く それから応用化学の始会式があり室伏先生を初めとして色々の方より祝辞があり十四時頃帰散となり家に帰る 

316()】 晴

 起きてから一通り調らべるが構造式の出そうなのを書いておいたがさて試験問題を見ると反応式ばかりだったのでがっかりしてしまった 試験も終了したので重荷をおろした様である 結果が如何であろうとも終った時の気分は学生ならでは味はへぬ気持ちであろう

325()】 晴

 今日は及落の発表である 一商時代から如何時も心配しどうしだったのでなれてしまったが然し今度は自信あるので大丈夫だ 十時前学校へ行くとS君が来てゐた 発表は昼迄しそうにないので松尾先生の処へ聞きに行くと独乙語が悪るかったので認定となった T君はフリーパスだ 今度はT君に負けたらしい 二年になれば平均七十五点以上取るかくごである 昼から帷子ノ辻へT君と庭球をやりに行く事になりO君の家へボールをかりに行く 今日は風が強いので弱った 若狭屋へ行って帰宅 T君I君と東洋亭へ行って送別会をひらく 京宝で姿三四郎を見冨士へ行って帰って見て別れる

41()】 晴

 二三日降り続いた雨雲も何処かへ吹飛んでしまって心がすむ迄清き美しい青空が空一面に広がってゐる 愈々学年始めだ 今年こそは勉学に運動に最大の努力を致して自個の能力を発揮すべきだ 正に撃ちてし止まむの精神を以って大奮闘致そう 勉学は先づ七十五点以上取る事である 今日は家にて一日中大掃除である 掃除する事は日本人の特長たる清潔の心をやしなふ事であり終局は清き明き浄き誠の心の所有者となるであろう

46()】 晴後曇

 九時過学校へ行くと一同校庭に集合してゐた 皆を行軍班、勤労奉仕班に別ける 私は行軍だ 軍靴高らかに校門をくぐって出発 御室へ出る それより広沢池畔の景色美しき中を過ぎて花の嵐山へ到着 先づ昼食致してから桂近く迄行軍してから休憩後帰途は駈足にて太秦花園を通って隊伍整ぜんとして元気溌剌として無事終了す

 (注:欄外に松尾桂方面 二〇粁行軍とある)

424()】 晴

 靖国神社臨時大祭 朝食後梨木神社前に集合す 九時五十分立命館大学国清殿前広場に集合 宮城遥拝し靖国神社の英霊に奉り黙祷致す 帰宅後T君が来たので京宝へ家を鑑賞しに行く 帰卓球す 

512()】 曇

 燃料化学は理論計算が多いのでむつかしくて困る 午後の機械工学は何時も時間が長いせいか嫌になって困る 然し先生の講義の身振が面白いので皆笑ってゐた 帰宅途中沢井研究室に行って夏期の実習の事に付て中川さんと相談した結果由良講師の処へ実習に行く事に決定致し候 夜廿時頃突然警戒警報発令さる 私は部屋を掃除して大急で学校へ登校す

522()】 晴

 嵐電北野駅に七時五十分頃着くが電車故障の為に皆続々として歩いてゐる 八時十分頃学校に入る 電気工学は教科書が来たので一生懸命になって聞いてゐるが余り良い講義ではなかった 物理化学は休講だので遊べると思って喜んでゐると室伏先生が実験に取られたので不平満々であった 然し実習の事で話してゐる間に時間が過ぎてしまった 十一時五十分より青少年学徒に給りたる勅語奉読式が挙行せられる 教練終了後四人で丸善へ行って本を買ふ

 (注:寄贈された資料のなかに「青少年学徒ニ下シ賜ハリタル勅語」および「勅語(昭和14年5月22日)」

          がある。学生生徒に配布したものであろう。)

527()】 曇時々雨

 海軍記念日 於平野神社戦勝祈願

 食事中に何時の間にか七時丗分になってゐたので急いで家を出る 北野から大急ぎで駈足だ 八時に五分前だのでベストを尽して走った甲斐有って間に合ふ 独乙語が休講だったので常連の遅刻者は前へ出されて説教さるが自分は今朝遅れなかったので助かった 然し此れから遅刻せん事だ 十一時丗分校庭集合 海軍記念日に付き理学部長より訓示があり後戦勝祈願の為平野神社に参拝す 帰宅後小川先生の処へ習字の稽古に行く 三時間余り坐り通しだから並大抵でない 然し此れも修養の一つである 夜は丸太町通へ本を探しに行く 然して大収穫を上げて帰る 終報告書製作にかゝる

531()】 晴

 体操朝食後朝刊を見るとアリューシャン、アッツ島に於て二万の敵軍を向ふに廻して奮戦中の皇軍部隊が大和民族の真面目を発揮して玉砕した 今こそ一億火の玉となり米英撃滅に邁進すべきである 昼の時間に北野武徳会へ剣道の申込をなし会費を払って来る

61()】 晴

 今日から市電代金が値上りとなる 一日廿銭は少しこたへる 女学生の服装も変った為か何んだか暑つくなった様である 昼の休み時間は剣道を見てゐる 十三時から運搬技能検査があり今年はあかんと思ってゐると五周まはる事が出来たので優秀であった 帰りに河原町映画劇場へ行く 月瀬へ行って帰る

 (注:この日、市電の運賃が10銭に改定された。欄外に「偽はれる唇」鑑賞。)

622()】 晴

 今朝目醒めたのが遅かったので遅刻す 三年生が深草練兵場へ野外教練に行ってゐるので宍戸先生の講義無く武道となるが立命館中学へ銃・帯剣を取りに行く 背嚢五つに帯剣二つ銃一つなのでえらかったが学校へ帰ると十一時半だったので磯松先生の講義を中止してもらった 帰りに卓球二時間程やり夜一時間半程やったので疲れた 夜は独乙語を少しやる 

717()】 晴

 今年の祇園祭りは鉾もでないので繁やかではないが時局柄結構な事である 今日は早く帰ろうと思ってゐたが実験が仲々ひま取って研究室を出たのは十八時であった 帰ると家はやはり祭気分が充満してゐて親類の人が沢山来てゐた 僕は純米で腹を一杯ふくらしてから三条の叔母さんやSちゃんと一緒に御旅へ参った

830()】 晴

 於銀座松竹映画劇場「結婚命令」鑑賞 宮城参拝 靖国神社明治神宮参拝 海軍館入場

 今朝は渋谷でW君とわかれて一人りで道路を歩るき明治神宮に向ふ 重い足を引づりやうやく神宮に参拝をすまし東郷神社参拝 海軍館に着く 東京で僕が一番見たかったのはこれである ゆっくり見学してゐると一日やそこらで終りそうにもないのである いそいで廻る 地下で昼食後神田で降り本屋のありそうな処へ出たが何処に有るかわからないのである 然しようやく見つけて歩るいたが余り沢山本屋が有るので眼が疲れて痛くなって来だした 夜は映画を見て下宿へ帰ってからは今夜で最後なので夜のふけるのもわすれて語りつくして寝る

 (注:N君は827日に東京在住の友人W君に会いに行き、831日に京都に帰っている。)

923()】 晴

 決戦国政へ大改革断行

 化学機械は出来ないのを覚悟してゐたが案條何も出来なかった 昨夜東條首相が放送せられた国内態勢強化方策は僕等学生にも重要影響が有った 法文科系統の学校は停止せられる事となり愈々学生が立上る時が来たのだ 吾々学生は今こそ第一線に立って聖戦の目的達成に実力をだすのだ 我々日本の学生は決して米英の学生に負けないぞ 我々は今迄修得した化学でも米英の学生に負けないぞ 我々は日本に生をうけし喜びを今つくづくと考じる 今の間に勉強するのだ 軍は吾々の技術をまってゐるのだ 今日はだめだったが次の物化・電工は頑張るぞ

101()】 晴

 今日からは愈々後期である 前期の玉砕の仇をかならず取る決心である 又学生も兵隊となり愈々軍隊から学校へ派遣されてゐるのだ 我々は一生懸命勉強するかたはら立派な体の持主でなければならないのである 剣道も習らいに行くべきだ 又日本人として或る趣味がなくてはならぬ 自分はうたいをやる積りだ 習ふと声も大きくなり教練の時等は好都合である 今日は酸アルカリの時間試験の発表す 化学機械の試験は延期してもらふ

111()】 晴

 愈々十一月に入る 今日は沢山の人が入営す 軍需省農工省運輸通信省が出来て一億総決戦体制の内閣が出来上り吾々も愈々決戦生活に入るべきだ 弘道館入会

 (注:行政運営の決戦化を目指す機構改革が行われ、軍需省・農商省・運輸通信省が新設された。)

1120()】 晴

 立命館大学出陣 学徒壮行大会 於植物園運動場 第四十三部隊乗馬演習

 O君がさそいに来るが先に行ってもらってから行く 今出川橋西南河原で集合 高工部隊は下賀茂神社に参拝 出陣学徒の武運長久を祈願し植物園の壮行会会場に行く 先づ松井学長の閲兵分列式があって後一中商業の海軍体操が有り京都の航空班の室よりの参加があり吾々の心を躍らした 吾々高工馬術班は先に別れて第四十三部隊に行く事になり正午集合す それより馬十二頭借りて二十人余が馬場にて演習するが今日のはどうしてか皆馬がいきってゐて半分程人が落馬する 自分もその一人である 然しやる程恐いのがなくなって乗るのが愉快になるだろう 然ししりが痛いのには困ったものだ

 (注:昭和18625日、「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、1012日には「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定された。理工系学生を除き文科系の学生は徴兵猶予が停止され、学徒出陣へと狩り出された。)

1224()】 曇

 臣道実践於幼学綱要を学ぶ 化機休講に付松尾先生より訓話 吾々は決戦下の学徒らしく然も工科の学徒らしく行動をすべきだ 吾々は過去の時代の悪癖が取れないのだ アルバムや煙草の事を云われたが吾々アルバムに関係してゐるものは耳が痛い思ひがした 吾々は此の日満高工を日本一の模範校たらしむるためには吾々の一挙手一投足が世間の模範となるべく真に戦時下の学徒の姿を見せて国民をリードしなければならない 吾々の使命は重い …… 徴兵の適齢が一年繰上げらる 国家は吾々を要求してゐる 吾々の心体が国家の運命を支配するのだ 入隊の時迄に学問と体力を修錬し崇高なる精神にて人生終るべし

 (注:この日、徴兵適齢が1年引き下げられた。)

1225()

 久し振りに熟睡す 母と不二家へ行列して朝食を食べに行く 昼から適齢徴集届を区役所へ請求しに行くが休み帰りに丸物にて戦技スキー及び航空展覧会を見る Iさんの宅にて剣道具代支払ふ Kちゃんとケーキ食って帰るとO君が来てゐたのでカツレツを食いに行く 冬期休暇となったが夏期休暇の後から今迄どれ程の事をしたかが疑問である 毎日愈々の仕事をする予定が一つも実行されてゐない 又体重も増加せず視力も悪化の一途である 徴兵検査も早くなるかもしれない 我々は検査迄にはよき体になり立派に予備学生にパスせねばならない この休暇に何か有意義の事をすべきだ 先づ買った書籍を読破しなければならぬ それからノート整理リポートの作成だ

『化学について』レオナルドダウィンチ 『大義』杉本五郎 『五輪之書』宮本武蔵 


<懐かしの立命館>戦時下、専門学部工学科N君の学生生活 後編へ

2019.08.27

<懐かしの立命館>戦時下、専門学部工学科N君の学生生活 後編


2N君の学生生活―寄贈資料から

  (2) 定期試験

   寄贈資料に在学中の定期試験の問題が残されている。一部試験問題も紹介する。

  ① 第1学年9月の試験(昭和17)

   1) 「物理学」          平松講師    17921日施行

   2) 「数学」           東尾講師    17923日施行

   3) 「分析化学」       松本教授    17925日施行

     3問のうちの1問は、「普通陽イオンの系統的分析に於けるイオンの分属及び各

沈澱剤を述べよ。」

   4) 「修身」           武用教授    17926日施行

     一、職域奉公につきて記せ。

     二、左につきて記せ。

        1.齋庭の福穂  2.饒速日尊  3.布都御魂

        (注:齋庭の福穂:日本書紀の天孫降臨の段で天照大神が下した三大神勅の一つ。斎庭の稲穂。)

   5) 「有機化学」        室伏教授    17926日施行 

N君の学生生活3

【写真2 有機化学試験問題】  

② 第1学年3月の試験(昭和18)

   1) 「数学」                     1838日施行

   2) 「修身」            武用教授     1839日施行

     3問のうちの三は、左につきて記せ。

      ()祈年祭 ()新嘗祭 ()氷川神社 ()山陵志

   3) 「無機化学」       松本教授    1839日施行

   4) 「物理学」        岩月講師    18312日施行

   5) 「満洲国語」                 18312日施行

      満語日訳が5問、日語満訳が4問である。

   6) 「分析化学」        松本教授    18313日施行

   その他「数学」と思われる断片

 N君の学生生活4

【写真3 満洲国語試験問題】 

  ③ 第2学年9月の試験(昭和18)

   1) 「油脂工業化学」        宍戸講師     1897日施行

    3問のうちの1問は、「油脂の採取法三つを挙げよ。」

   2) 「応用電気化学」        上井講師   18921日施行

   3) 「有機合成工業化学」    小田講師   18922日施行

    3問のうち1問は、「混融トハ如何ナル事ナリヤ。」

   4) 「化学機械学第二部」                 18923日施行

   5) 「物理化学」              堀尾講師     18925日施行

   6) 「電気工学」            竹屋講師   18925日施行

   7) 「燃料工業化学」        児玉講師   18927日施行

   8) 「無機工業薬品及肥料」 岡田講師   18927日施行

   9) 「機械工学」           今納教授    18928日施行

  10) 「臣道実践」               武用教授    18928日施行

      一、徳川義公の尊皇精神につき記せ。

      二、本居宣長先生の思想につき記せ。

      三、敢闘の精神につき記せ。

   11) 「独逸語」            永安教授      実施日不明  

④ 第2学年3月の試験(昭和19)

   1) 「化学機械学第一部」             19310日施行

   2) 「有機合成化学」       小田講師      19311日施行

   3) 「物理化学」             堀尾講師    19311日施行

   4) 「化学機械学第二部」   上山講師    19313日施行

   5) 「修身」                       19314日施行

      () 左につきて記せ。

       ()樹徳深厚 ()智能啓発 (三)恭倹持己 ()斯ノ道

      () 禅的修養につきて記せ。

   6) 「燃料工業化学」       児玉講師    19315日施行

      4問のうち1問は、「航空燃料製造法に就いて記せ。」

   7) 「機械工学」            今納教授     19315日施行

   8) 「応用電気化学」        上井講師     19316日施行

   9) 「珪酸塩工業」         磯松講師     19316日施行

 N君の学生生活5

【写真4 臣道実践・修身試験問題】

(3) 残された学修の証明書

 N君の入学は昭和1745日であった。寄贈資料には学校が発行した学修に関する以下の証明書・証書・通知が残されている。

 昭和19413日付けで「卒業見込証明書」が発行されている。それによると、昭和19930日第3学年卒業見込、となっている。入学は「化学工業科」としている。

 昭和19919日発行の「成績証明書」は、第1学年で14科目、第2学年で19科目を修得している。

 第1学年  修身、数学、独乙語、満洲語、図学、物理学、分析化学、無機化学、有機化学、

        実験第一部、実験第二部、教練、武道、製図

 第2学年  修身、独乙語、満洲語、物理化学、化学機械第一部、有機合成工業化学、

                   珪酸塩工業化学、機械工学、燃料工業化学、電気化学、無機工業薬品及肥料、

                   電気工学、化学機械第二部、油脂工業化学、実験第三部、実験第四部、製図、

                   教練、体練

  第3学年は科目の履修は記されていない。卒業直前の証明書であるから、3年次は科目の履修がなかったのであろう。昭和19817日付けの専門学校工学科部長本野亨名で第3学年の学生宛の通知「卒業式は910日と内定。卒業判定参考資料として出勤先の報告書、従事する仕事の概要報告を至急発送するように」と、室伏先生からN君宛てに届いている。

 授業に代えて勤労動員が卒業の要件となっていたのである。

 また卒業に関わりもう一通の通知が保証人宛に届いた。昭和199月付けで、「本年9月に臨時短縮で卒業繰上げとなる第3学年の授業料は12月分まで追徴するので920日までに納付すること」

 専門学校第3学年は36(大学部は39)。卒業は6ヵ月短縮となるが、授業料は卒業後も3ヵ月分支払わなくてはならなかった。

「卒業証書」は昭和19920日、立命館専門学校工学科ニ於テ化学工業科ニ属スル科目ヲ修メ正ニ其ノ業ヲ卒ヘタリ と立命館専門学校長松井元興が授与している。

 なお、卒業後の12月、立命館専門学校工学科より保証人宛に「勤労報国隊報奨金送金ノ件」の通知が届き、報奨金60円のうち報国隊費6円を差し引き54円を送金するとされた。

 工学科は昭和174月に日満高等工科学校から立命館大学専門学部に昇格したが、昭和194月に立命館専門学校に転換(改組)された。このためN君は入学時は専門学部工学科応用化学科であったが、転換に伴い専門学校工学科化学工業科卒業となった。

 この転換は、昭和181012日の閣議決定「教育ニ関スル戦時非常措置方策」などにより文部省が教育の決戦即応措置を次々と実施したことによる。

 昭和19年の工学科卒業者数は283名、うち化学工業科は39名であった(『立命館百年史』資料編一)

 (4) その他の寄贈資料から

  ① 「青少年学徒ニ下シ賜ハリタル勅語」および「勅語(昭和14522)

  昭和14522日の「勅語」および「青少年学徒ニ下シ賜ハリタル勅語」を

配布したもの。文部省は勅語を配布し、戦時青少年の精神涵養を図った。

  ② 立命館日満高等工科学校「学校教練の目的および訓練要綱」

    立命館日満高等工科学校が発行、学校教練の目的は「学徒に軍事的基礎訓練を施

し至誠尽忠の精神培養を根本として心身一体の実践鍛錬を行い以て其の資質を向上

し国防能力の増進に資する」ものとして訓練要綱を定め、昇格後の専門学部におい

ても生徒に配布し教練を実施した。

訓練要綱は、()、国体の本義に透徹し 国民皆兵の真義に則り左の徳性を陶冶

すべし

 1.礼儀を重んじ長上に服従するの習性

2.気節、廉恥の精神、質実剛健の気風

3.規律節制、責任観念、堅忍持久、闊達敢為、協同団結の諸徳

         ()、旺盛なる気力、鞏固なる意志、靭強なる身体を鍛錬すべし

         ()、皇国民として分に応じ必要なる軍事の基礎的能力を体得すべし

   というものであった(原文は旧字、漢字カタカナ混り文)。  

  ③ 「戦時学徒体育訓練実施要綱」

   昭和18年度の学徒体育訓練は本要綱により実施することが定められている。

   基本方針の第一には、戦力増強。聖戦目的完遂を目標とし、強靭なる体力と不撓の

精神力との育成に力むること。第二は、特に男子学徒に在りては卒業後其の総てが直

ちに将兵として戦場に赴くべきを想い、之に必要なる資質の練磨育成に力むること。

基本方針はなお3点続くが、続けて訓練種目が詳細に定められ、また大会・試合等の

行事について文部省の承認が必要であり承認したものに限り参加することが認められ

た。附録として訓練実施上の注意が18項目について記され、行軍・戦場運動・銃剣

道剣道及柔道・射撃・体操・陸上運動・相撲・水泳・雪滑などについて定められてい

た。

  ④ 新聞「立命館」昭和17629日発行

   N君が入学した6月、学園が発行した新聞である。

   一面は、「戦時下躍進!!立命館の全貌」「中川総長先生の喜寿を祝ふ」などの記事

であるが、新聞から、N君の入学した工学科関係の記事の概要を紹介する。

 「高工新卒生大陸へ―第二陣進発」 317日に日満高工の第二回卒業式が挙行され、203名の卒業生中142名の委託生と多くの普通生が大陸開発の闘士として進出した。満洲国、内地朝鮮其の他の就職先が掲載されている。

 「日満高工昇格理工科新設」 日満高工を立命館大学専門学部の一科とし、夜間の理学

科も新設した。日満高工の生徒は工学科の二学年に進級、新入生は志願者千百余名、定

員三倍強の競争に勝利を得た、としている。

(5) 卒業アルバムから

 最後に『立大工学科 応用化学科 2604』のアルバムがある。2604は皇紀で、西暦1944年、昭和19年である。

 アルバムは、教職員、校舎、授業・実験風景、校外での学生生活など55点ほどの写真が貼られている。そのうちの数点を紹介する。

 N君の学生生活6

 【写真5 専門学部工学科校舎】

 N君の学生生活7

 【写真6 専門学部工学科正門(通称赤門)

 N君の学生生活8

 【写真7 授業風景】

 N君の学生生活9

 【写真8 実験室にて】

 N君の学生生活10

 【写真9 校内競技大会】

 N君の学生生活11

 【写真10 懇親会】 

付記:

 1.本稿で使用した寄贈資料

   (1) 『日記』昭和18

   (2) 定期試験問題 昭和179月、昭和183月、同9月、昭和193

   (3) 証明書 「卒業見込証明書」「成績証明書」「卒業証書」

   (4) 「青少年学徒ニ下シ賜ハリタル勅語」「勅語(昭和14522)

   (5) 立命館日満高等工科学校「学校教練の目的および訓練要綱」

   (6) 「戦時学徒体育訓練実施要綱」

   (7) 新聞「立命館」昭和17629日発行

   (8) アルバム『立大工学科 応用化学科 2604

 2.寄贈いただいたそのほかの資料で特に学生生活に関わるもの(一部、順不同)

   (9) 講義ノート  8

   (10) 『速成満洲語自習書』

   (11) 書簡(学生生活に関するもの)

   (12) 昭和171226日工学科より1231日の「大祓式登校通知」

   (13) バッジ「立命」

   (14) 写真(授業風景、懇親会など)

   (15) 製図抜冊

   (16) 日本標準規格冊子(製図用)

   (17) 授業用資料(図面等)

 3.本文1の「専門学部工学科応用化学科入学」については、『立命館大学専門学部工学

科報告(第四回)(昭和178月発行)による。

   また、専門学部及び専門学校を知る資料として、

 『理工学部六十五年小史』立命館大学理工学部発行(1980)所収の

  林義男「戦時中の専門学部工学科」

      竹上信次「戦時下に学ぶ―専門学校時代の思い出」

   がある。


 以上

2019年8月27日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2019.08.07

<懐かしの立命館>立命館大学短期大学部(立命館短期大学)

目次

  はじめに

1. 短期大学の設置

2. 短期大学の学科・課程

3. 短期大学の教育体制

4. 短期大学の入学試験(1951年度)

5. 在学生と卒業生

6. 短期大学の学費

7. 短期大学()の廃止

短大1

 【写真 広小路学舎―19511952年頃―】

 

はじめに

 立命館大学は、1948(昭和23)4月、学校教育法による新制大学となった。新制となった学部は法学部、経済学部、文学部の3学部で、理工学部は翌49年に発足した。

 一方で、大学令による旧制大学の学生も引き続き在学し、また専門学校令による立命館専門学校も存続、旧制大学と専門学校の学生募集停止は1949(昭和24)年度で、専門学校の廃止は19533月であった。

 戦後、学制改革が実施され、新旧の制度の学生が同時に学ぶなか、立命館は1950(昭和25)4月、短期大学を設置した。立命館創立50周年の年であった。大学名称については後述するが、その短期大学は2年後には学生の募集停止をし、1954(昭和29)3月に最後の卒業生を出し、廃止された。

 本稿は戦後の短期間ではあったが、立命館に設置された短期大学(短期大学部)について紹介する。

 

1.短期大学の設置

(1)戦後学制改革と短期大学の設置

 文部省は戦後、様々な教育改革を実施し、1947年に教育基本法、学校教育法が制定された。この教育制度改革により、1948年から4年制の新制大学が発足し(国立大学は1949)1950年から短期大学が発足することとなった。

 短期大学の設置については、旧制専門学校から新制大学への移行が困難な学校があったことや、専門職業教育、女子教育などを進める高等教育機関が必要とされたことがある。

 新制大学が「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」(学校教育法)としたのに対し、短期大学は、「高等学校の教育の上に二年または三年の実際的な専門職業に重きを置く大学教育を施し、よき社会人を育成することを目的とする」(短期大学設置基準)とされた。

 設置初年度の19504月には、186(公立21校、私立165)の申請に対し、149(公立17校、私立132)が認可され発足した。国立短期大学については翌1951年からの発足となった。

(2)立命館短期大学(立命館大学短期大学部)の申請と設置

 名称について

 はじめに名称について述べる。理事会は「立命館短期大学」の設置を申請した。ところが、認可された名称は「立命館大学短期大学部」で、認可受領証を提出する際に訂正を願い出たが認められなかった。学内では立命館短期大学としたが、195149日の大学協議会で「立命館大学短期大学部」と認可された名称に「変更」することを決定している。

 短期大学の申請と設置目的

財団法人立命館は、1949917日の理事会及び924日の評議員会で短期大学の設置申請を決議し、1015日に設置申請した。

 

 申請書は、1.立命館短期大学設置要項     2.学則

      3.校地(図面添付)         4.校舎等建物(図面添付)

      5.図書標本機械器具等施設     6.学科又は専攻部門別学科目

      7.履修方法            8.学科又は専攻部門別学生収容定員

      9.教員組織           10.設置者に関する調

      11.資産             12.維持経営の方法

      13.現在設置している学校の現況  14.将来の計画

      15.併設の場合の調

 で構成されている。

  設置要項は、立命館短期大学の目的及び使命を

   「本大学は高等学校の教育の基礎の上に法政学、商学、文学、及び工学に関する二

年の実際的な専門職業教育に重きを置く大学教育を施し、優秀な社会人を育成するこ

とを目的とする。

本大学は一般教養との密接な関連において、前項の各部門の職業に必須な専門教育

を授ける完成教育機関たると同時に、大学教育の普及と成人教育の充実を計ることを

もって使命とする」

    としている。

短大2

 

【短期大学設置認可申請書()

 

2短期大学の学科・課程

以下、申請書から短期大学の概要を示す。

 

③ 設置学科と学生定員

  短大13      

 履修等については別項で述べるが、この申請に対し、1950314日、以下の通り認可された。

 大学の名称は、 立命館大学短期大学部

    学科は、 法政科 第二部

         商科  第二部

         文科  第二部

         工科  第一部・第二部

となり、短期大学専用の校舎・図書館を建設することや、教員組織の増設充実することなど7点と夜間学科設置にあたり3点の条件が付され報告が求められた。

 文部省管理局管理課発行『短期大学一覧』(昭和2551日現在)では、

名称は、立命館大学短期大学部

学科及び定員は、 法政科 第二部 50

         商科  第二部 50

         文科  第二部 国語専攻 30

          〃   〃  英語専攻 30

         工科  第一部 応用化学専攻 40

          〃   〃  電気工学専攻 40

          〃   〃  機械工学専攻 40

         工科  第二部 応用化学専攻 35

          〃   〃  電気工学専攻 35

          〃   〃  機械工学専攻 35

          〃   〃  土木工学専攻 35  (420)

と、法政学科・商学科の第一部(昼間部)が認可されなかったとともに、学科名称も法政科・商科・文科・工科として認可された。

なお、短大の名称については、同年に開設された同志社大学短期大学部、明治大学短期大学部、法政大学短期大学部などから、総合大学については「○○大学短期大学部」としたものと思われる。また短期大学には学部はない。

④ 短期大学の校地・校舎

申請書では、位置(設置場所)を広小路学舎、等持院学舎、北大路学舎として申請した。

具体的には広小路の盡心館の3階・4階、北大路学舎の東校舎及び北校舎の3階の一部、等持院学舎(理工学舎)の一部を申請している(黄色で囲まれている建物部分)。

 これに対し、1951年度の「入学案内」は、法政科・商科の所在地を「広小路通寺町東入」、文科の所在地を「河原町通広小路南入」、工科の所在地を「等持院北町」としており、法政科・商科は法学部・経済学部と校舎を併用、文科は河原町通の文学部校舎を併用、工科は等持院学舎で理工学部と併用したものと思われる。

 短大3

【校舎配置図(広小路)―申請書添付図面―】

 

⑤ 短期大学での履修について

 195139日評議員会・理事会承認の同年41日施行の同学則により、短期大学における履修について見てみよう(開設時の学則では若干開講科目が少ない)

修業年限は2年、4学期制で、前期は41日から1015日まで、後期は1016日から331日まで。学期ごとに15週の授業が行われる。

 開設科目は学科により異なるが、一般教養科目(人文関係・社会科学関係・自然科学関係)、専門科目、教職課程、体育の各系列があるのは同じである。

 卒業に必要な単位数は科によって系列の単位数が少し異なるが、いずれの科も合計64単位以上が卒業の要件であった。

 また教育職員の資格を得ようとする者は、教職部門の教科に関する専門科目、教職に関する専門科目を含め、法政科・商科・工科では合計70単位以上、文科では72単位以上を修得する必要があった。

 免許状取得資格は、法政科で中学二級社会・高校仮免社会、商科で中学二級社会・職業・高校仮免社会・商業。文科国語で中学二級及び高校仮免国語、文科英語で中学二級及び高校仮免英語、工科は応用化学で中学二級職業・高校仮免工業、電気・機械・土木が中学二級数学・職業、高校仮免数学・工業であった。

 

3.短期大学の教育体制

 学長は、立命館大学学長末川博が兼務した。4科全体の教授会が設置され、学部長には理工学部教授の羽村二喜男が就任した。各科には主任が置かれた。

 195061日付で法政科主任に浅井清信教授、商科主任に高橋良三教授、文科主任に後藤丹治教授が就任した。翌年4月からは法政科主任に三島泰治教授、商科主任には引き続き高橋良三教授、文科主任には三田村泰助・教授、後期から国分敬治教授、工科主任には西村浩教授が就任した。

 また各科に大学学部と兼務であったが、補導主事も置かれた。

 専任教員が置かれたほか、大学の教員と兼務する兼任教員も置かれた。申請書では学長のほか、専任教員86名、兼任教員72名となっている。

 

4.短期大学の入学試験(1951年度)

 1951年度の「入学案内」によると、短期大学の入学試験は311日に実施し、試験科目は大学学部と同じであった。

 「国語・社会」は国語・一般社会・日本史・世界史・人文地理・商業経済の6科目から1科目を選択、「数学・理科」は一般数学・解析Ⅰ・幾何・物理・化学・生物・地学の7科目から1科目選択、外国語は英語であった。

 学科試験のほか、進学適性検査および身体検査があった。

 合格発表は319日に行われ、入学式を416()、翌17日から授業が開始となった。

 

5.在学生と卒業生

まず、学生数と卒業生数を下表に示す。

(1)在学生数

1950(昭和25)年度≫

短大6 

  ≪1951(昭和26)年度≫ 

  短大7

  ≪1952(昭和27)年度≫  

  短大8

  ≪1953(昭和28)年度≫  

    短大9  

 『立命館百年史 資料編二』による。1953年度の科区分は不明。

 

 初年度は420名の認可定員に対し、在学生数は179名。定員を上回ったのは商科のみで、他科はいずれも定員を下回り、全体では定員の42.6%の在学生数となっている。

 2年目は、2年生がやや減少したが、1年生は全体で311名と、前年度より増加している。

 3年目は募集停止となり、在学生が2年生のみとなった。前年の311名が252名となり、学年進行とともに減少している。

 1953年度は73名が残っているが、1部は工科で、他科は学科区分不明のため学科の内訳はわからない。

 

(2)卒業生数

     短大10

『立命館百年史 資料編二』による。科区分不明。

短大11 

 昭和45年『校友名簿』による。科名は資料のママとした。               

 

昭和27年度(昭和283)の卒業式は、321日に、新築されたばかりの研心館大

講堂(4)で、立命館大学、専門学校とともに挙行された。

短期大学部の卒業生数は上記の通りとなっているが、後述の理事会報告とは相違がある。

 さて、短期大学部の卒業生のその後の進路はどのようなものであっただろうか。

 ここでは、1963(昭和38)年および1970(昭和45)年の『校友名簿』により概観する。

 1951年度・1952年度の卒業生のうち、おおよそ1/3から4割ほどの卒業生が立命館大学の二部または一部に進学している。そのまま卒業し就職した者、大学編入後学部を卒業し就職した者で就職先が判明しているなかでは、京都府庁・京都市役所・同区役所・農林省・各地税務署・郵便局などの公務員、また高等学校・中学校・小学校の教員が比較的多く見受けられ、更に銀行・製造業など民間企業への就職も相当数見受けられる。

 短大4

【短期大学卒業証書(見本)

 

6.短期大学の学費

 1951年度の「入学案内」によると、短期大学()の学費は大学学部と同額で、以下の通りとなっている。

     短大12    

  戦後経済のすさまじいインフレーションにより、立命館の学費も甚大な影響を受けた。『立命館85年史略年表』および『立命館百年史 通史二』によると、1945度から1952年度の大学文系学部の学費のうち授業料の推移は次の通りであった。

    1945年度         200

    1946年度4月    500

      同 10月     750

    1947年度4月     1,200

      同  7月   2,000

    1948年度4月     3,600

      同   10月    6,000

    1949年度    19,500円、29,200

 『略年表』・『百年史』とも1950年度・1951年度の記載が無いが、

    1952年度は   115,000円、214,500

となっている。

 短大は大学学部と同額となっており、上記の大学の授業料の推移からは、

1950年度の短期大学の授業料は、1951年度と同額の 19,500円、29,200円 であったと思われる。

 ちなみに、戦前戦後の基準卸売物価指数は、昭和911年を1とした場合、

 昭和203.5032116.272248.1523127.924208.825246.8

 26342.527349.2 であった(東洋経済新報社『昭和国政総覧()』昭和55年。

学費額が年毎、また半期毎に高騰したのは、戦後の社会経済状況の反映であった。

 

7.短期大学()の廃止

 立命館短期大学部は、申請時には将来的に文学科に1部を設置し更に社会学専攻を、工学科に金属工学・物理技術の2専攻を設置し更に1部土木工学専攻を追加設置することとしていた。

 しかし2年間の設置のなかで定員数を確保できず、所期の目的を達成することが困難となっていた。

 1951年度当初は次年度も学生募集することとしていた。5月の大学協議会において全科とも募集し、入学試験科目は科により一部選択科目を少なくするなど変更している。ところが9月には入学試験実施日を決めるも募集部科を変更(縮小)することにした。そして12月には「種々の点」から全科に亘って募集を中止することを決定した。募集停止に伴い19522月には、在学生の取り扱いについて立命館大学学部への転籍等の措置を決めた。

最終的には195424日の短期大学打合会及び6日の大学協議会で残った学生の追試験や大学への編入学措置が決定した。

 同年49日、理事会は「当初の予想に反し志願者の数も少く発展性の見込みがないので」同年331日をもって短期大学を廃止することを決定した。

 このときの理事会報告では、卒業生は昭和26年度に134名、27年度に167名、28年度に18名、累計319名であった(前掲の表とは異なる)

 廃止は上記理事会の前日の日付で申請し、その認可は19541222日であった。

  

       2019年8月7日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次