立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料センターが保存している史資料の中から、掌サイズの歴史こぼれ話をご紹介します。

最新の記事

2021.09.14

<懐かしの立命館>『受験旬報』(のちの蛍雪時代)に掲載された「立命館日満高等工科学校」

はじめに

戦前、『受験旬報』という受験雑誌が発行されていました。昭和7(1932)年から歐文社が発行、主に旧制高校や旧制専門学校、大学予科への受験生に向けて旬刊(月3回)で発行していました。歐文社は昭和17(1942)年に旺文社と改称されますが、『受験旬報』もその前年に『蛍雪時代』と改題され、大学受験のための月刊誌となります。

本稿は、『受験旬報』の昭和15(1940)年3月下旬号に掲載された「立命館日満高等工科学校」の受験案内を紹介します。

なお、掲載された受験案内を□内に引用(要約)し、若干の解説を付します。もとの受験案内には旧字体が使用されていますが、一部を新字体にしました。

 

立命館日満高工を語る  日満高工 採鉱科生

 

 受験旬報9


 採鉱科生というのは、立命館日満高等工科学校に設置された採鉱冶金学科の生徒です。

 立命館日満高等工科学校は、昭和13(1938)年4月に開設した立命館高等工科学校を翌14年に改組して開設されました。この採鉱科生は立命館日満高等工科学校の第1期生となります。

 戦前日本は中国大陸に進出していました。昭和6(1931)年には満州事変を起こし、翌年3月に満洲国を建国しています。昭和12(1937)年には盧溝橋事件に端を発し支那事変を起こしています。

こうした時代の状況下、満洲国では工業技術者の養成・確保が急務であり、日本国内また満洲国に技術者養成の学校が数多く設置され、このような中で立命館日満高等工科学校も設置されました。

 

沿 革

 受験旬報10


 西園寺公望と中川小十郎の出会いは、そもそも戊辰戦争の際に中川小十郎の実父・養父・叔父などが西園寺の旗下に参じたことがきっかけです。中川小十郎は、のちに帝国大学卒業後文部省に入省し、翌年(明治27年)に西園寺公望が文部大臣になります。西園寺文相は京都帝国大学の設立を図り、中川小十郎は明治30(1897)年設立とともに京都帝国大学書記官(初代事務局長)となります。

 そもそも立命館学園は、明治2(1869)年に西園寺公望が創設した私塾立命館に由来します。現在の立命館の前身は中川小十郎が明治33(1900)年に創立した京都法政学校ですが、学校はその後京都法政専門学校、京都法政大学と改組し、中川小十郎は西園寺公望から立命館の名を継承することの許諾を明治38(1905)年に受け、大正2(1913)年に立命館大学・立命館中学に改称します。創立者中川小十郎は館長のち総長として立命館の経営にあたり、大学・中学(旧制)を時代の状況に応じて改革してきました。

昭和10年代、満洲国における産業技術者の養成が高まる中、立命館は昭和12(1937)年夏から秋にかけて満洲国における産業開発のための人材養成機関を設置しようと関係者と協議を始め、昭和13(1938)年に立命館高等工科学校を設置します。

そして同年、さらに満洲国政府、陸軍関係者、満洲国協和会などと協議を重ね、満洲国から技術者養成の委託を受けることになりました。これが、昭和14(1939)年に改組された立命館日満高等工科学校です。中川総長の、時代に応える技術者養成を学園の一つの柱に据えた政策であったと言えます。

満洲国政府からの補助金は、昭和14年3月16日付の陸軍省軍務局長の名で通知がされています。日満高等工科学校が認可をされるのは同年の3月30日ですが、「立命館日満高等工科学校に対する満州国政府補助金に関する件」となっています。

一、設立設備に対する補助(二ヵ年継続)

  昭和十四年度 三〇万円

  昭和十五年度 二〇万円

    計    五〇万円

二、委託生徒に対する給費  一人当 月額 三〇円

三、学校に対し支給すべき委託費(五カ年限)  一人当 月額 二〇円

註、右二、及三を併せ本年度支給額は七万五千円とす

 

教育方針

 受験旬報11


 立命館高等工科学校は、京都帝国大学工学部内にあった私立電気工学講習所を継承して設置されました。学科は昼間部に電気科・応用化学科・機械科・建築科・土木科の5科、夜間部に電気科・機械科が設置されました。修業年限は3年でした。高等工科学校の設置は満洲国における鉱工業の発展に寄与する人材養成機関として設置されたものでした。

 一方満洲国政府により技術者養成機関として更に高等な教育機関が求められていました。立命館高等工科学校は翌年改組して、機械工学科・自動車工学科・航空発動機科・電気工学科・応用化学科・採鉱冶金学科・建設工学科の7学科を開設し、立命館日満高等工科学校となります。機械工学科・電気工学科は2部も開設されます。

 修業年限は学則上は3年でしたが、時局の要請で特例として2年に短縮しました。暑中休暇の廃止や特別時間割の編成により、3か年の授業を2年間に圧縮して実施したのです。

 立命館高等工科学校、立命館日満高等工科学校は旧制中学のある北大路校舎で開設されましたが、中学校・商業学校との併設で狭隘だったため、等持院(衣笠)の地に移転することになりました。立命館日満高等工科学校が北大路校舎から等持院の地に移転・開設したのは、昭和14(1939)年11月です。

 校地については順次拡張し、昭和16(1941)年8月には敷地約13,022坪、校舎建物延べ3,267坪となりました。

 教授の体制については、もともと中川小十郎総長が京都帝国大学書記官(初代事務局長)の際に、木下広次初代総長との間で立命館の講師には京都帝国大学の教授・助教授を充てるとしたこと、また立命館高等工科学校が京都帝国大学工学部内の私立電気工学講習所を継承したため、引き続き工学部の教授・助教授等が講師を務めることになりました。

 職員は校長・本野亨(京都帝国大学)、顧問に隈部一雄(東京帝国大学)など19名(講師を兼務した者を含む)、教授・助教授・講師など49名でした。

 生徒は満洲国の委託生徒と普通生徒があり、委託生徒は満洲に就職することが義務づけられ、学費は満洲国政府の補助金により免除されています。

 

入学試験

 受験旬報12


 入学試験の募集人員は上記の通りでしたが、各学科の志望者・合格者は以下の通りです。

  機械工学科   委託生志望131、合格者25、普通生志望60、合格者25

  自動車工学科  委託生志望90、合格者25、普通生志望14、合格者25

  航空発動機科  委託生志望145、合格者25、普通生志望22、合格者25

  電気工学科   委託生志望71、合格者25、普通生志望31、合格者25

  応用化学科   委託生志望23、合格者10、普通生志望41、合格者40

  採鉱冶金学科  委託生志望46、合格者15、普通生志望28、合格者33

  建設工学科     ―      ―   普通生志望28、合格者35

   入学志望者 730 うち委託生志望者506、普通生志望者224

   試験合格者 333 うち委託生125、普通生208

   (注:学科内の志望者と合格者数に逆の差異があるのは学科間の調整があったため)

   なお、従来在学の生徒(高等工科学校在学生)で日満高等工科学校の1年に普通生徒

として入学した者が151名おりました。

 入学試験場は本校(京都)のほか、秋田の日満技術工業養成所、東京の満洲国留日学生会館、高松の県立図書館、松江の島根県立工業学校、福岡の福岡県立工業学校、全国6か所でした。

受験地別の志願者数は、京都458名、秋田12名、東京132名、高松24名、松江10名、福岡94名 計730名で、うち委託生希望が506名、普通生希望が224名でした。

入学試験は昭和14年4月6日・7日に実施されていますが、物理の一部と国語の試験問題をあげておきます。

「物理」(1)次の語を説明せよ。

     (イ)露点      (ロ)屈折率     (ハ)音の唸り

     (ニ)比重及密度   (ホ)電気の導体及不導体

「国語」(作文課題) 勤労

 

満洲国委託生徒

 受験旬報13


 委託生125名の出身地(原籍)は、41都道府県と朝鮮・台湾に及びました。最多の京都府でも11名で、全国各地から入学してきました。

 委託生は、「満州国政府委託生徒学費特別規定」と「満州国委託生徒学費貸与規定」により学校生活を送ります。

委託生の学費は学費特別規定により免除されていましたが、学費貸与規定では、品行方正、学術優等なる者は、教科書・製図並実習用具・制服代などが貸与されました。

寄宿舎については、等持院校地に建設を計画しましたが間に合わず、当分の間、出町(河原町今出川上ル)の立命館の寄宿舎と等持院の庫裏などを借りて寄宿舎としました。

京都市内居住者で自宅通学を許可された15名を除き、110名の委託生が寄宿舎で生活し通学しました。等持院寄宿舎には機械工学科20名、電気工学科22名の計42名の生徒が、出町の立命館寄宿舎には航空発動機科20名、自動車工学科23名、応用化学科10名、採鉱冶金学科15名の計68名でしたが、応用化学科は寄宿舎増築の間、隣接の民家を借入れました。

寄宿舎の日課については『立命館日満高等工科学校報告(第一回)』と少し異なるところもあります。同報告では次のようになっています。

  寄宿舎の日課

         平日            休日

   起床  午前6時           午前6時

   点呼    6時5分            6時5分

   禊     6時10分           6時10分

   朝食    6時30分            6時30分

   登校    7時10分(宿舎出発)  大掃除 7時10分

   帰舎  午後4時30分(学校出発)  昼食  正午

   夕食    5時30分           5時30分

   点呼    7時              7時

   消灯    9時30分           9時30分

    登校・帰舎は指揮者の引率によります。

    休日は午前中全員等持院に集合し修養講話を聴聞、或いは京都市並びに近郊の

御陵並びに神社参拝をし、精神訓育に資します。

 学校では以下の状況が伝えられています。

 委託生徒の昭和14年5月の出席状況が報告されています。学科により95.2%から100%と高い出席率となっています。前月に比しやや低下しているとのことですが、一時的な疾病者の増加によるものとしています。また5月には委託生徒3名が中途退学していますが、それぞれ補充しています。

 また5月16日・19日に教授会が開かれ、夏季の特別行事が決定しています。

 

 ⑴ 715日までの普通授業に続き、717日より819日まで特別時間割による普通授業を行う。

 ⑵ 717日より722日、731日より83日、83日・4日と特別講義を行う。

 ⑶ 7月31日より8月5日まで採鉱冶金学科は大阪精錬所並びに別子銅山を見学。

 ⑷ 昨年度入学し特別規定により本年度再び1学年に編入した生徒は、7月24日より8月19日まで3週間、校外学習をする。内地、満鮮支方面の工場鉱山等にて。

 ⑸ 幕営訓練。8月21日より8月31日まで全員舞鶴海岸にて幕営訓練を実施する。

 

 

結び

 受験旬報14


 立命館日満高等工科学校の第1回卒業生の卒業生数および就職状況は以下の通りです。

 学科は、第3年度(昭和16年度)の改組によって自動車工学科と航空発動機科が機械工学科に合併となっています。このためか『報告(第三回)』では、自動車工学科と航空発動機科の卒業生は機械工学科にまとめています。また委託生は定員遵守のため学科内・学科間調整のほか、建設工学科にも配置されたため入学時には委託生はありませんでしたが、卒業時には委託生として卒業した生徒がいます。

 <卒業生数>

  機械工学科  委託生 68名  普通生 69名  計 137名

  電気工学科  委託生 25名  普通生 38名  計 63名

  応用化学科  委託生 15名  普通生 47名  計 62名

  採鉱冶金学科 委託生 16名  普通生 14名  計 30名

  建設工学科  委託生 12名  普通生 32名  計 44名

    計    委託生 136名  普通生 200名  計 336名

<就職先所在地>

 就職先所在地は、便宜上満洲、満洲以外の中国・朝鮮・台湾・樺太、内地に分けると

  機械工学科  委託生 満洲66、  ―     内地2  

普通生 満洲24、中国朝鮮等18、内地27

  電気工学科  委託生 満洲25   ―     ―

         普通生 満洲5、 中国朝鮮等11、内地22

  応用化学科  委託生 満洲13、中国朝鮮等2

         普通生 満洲10、中国朝鮮等10、内地27 

  採鉱冶金学科 委託生 満洲15、  ―     内地1

         普通生 満洲1、 中国朝鮮等1、  内地12

  建設工学科  委託生 満洲12   ―     ―

         普通生 満洲13、中国朝鮮等3、 内地16

    計    委託生 満洲131、中国朝鮮等2、内地3

         普通生 満洲53、中国朝鮮等42、内地105

となります。委託生136名のうち131名が満洲に就職しました(5名は病気などで内地にとどまっています)。普通生も200名のうち53名が満洲に就職しています。満洲以外の中国朝鮮等を含めると95名となり半数近くが国外に就職しています。

立命館日満高等工科学校に入学し、卒業した多くの生徒が大陸に渡り、工業界の担い手となったことがうかがえます。就職先については会社の名称等も記録されていますが、ここでは割愛します。

 

立命館日満高等工科学校は、このように満洲また大陸で工業技術者として活躍する生徒を求め、またそうした時代に志をもつ多くの生徒が集い学んだのです。

『受験旬報』の「立命館日満高工を語る」は、立命館日満高等工科学校の生徒自身が、受験生に向けて立命館日満高等工科学校の紹介をし、そして満洲や大陸の工業技術者となるためのその志を訴えた記事と言えるでしょう。

 

資料 (1) 歐文社『受験旬報』昭和15年3月下旬号

   (2) 『立命館日満高等工科学校報告』(第一回) 昭和14年5月現在

   (3) 『立命館日満高等工科学校報告』昭和14年5月/康徳6年5月現在(同年7

月発行) 「立命館日満高等工科学校業務執行状況報告」および「満州国委託

生徒就学状況報告」を収載、(2)とは別冊

   (4) 『立命館日満高等工科学校報告』(第三回) 昭和16年8月現在(同年9月発

行)

 本稿の解説部分は、上記(2)(3)(4)の資料によった。

 

【写真・地図】

 

 ① 仮校舎(北大路) 昭和14年 『立命館日満高等工科学校報告』(第一回)より

 ② 仮校舎(北大路) 昭和14年      同上

 ③ 仮校舎教室(北大路) 昭和14年    同上

 ④ 仮校舎実験室(北大路) 昭和14年   同上

 ⑤ 校舎建築中(等持院) 昭和14年    同上

 ⑥ 校舎位置図(等持院) 昭和16年 『立命館日満高等工科学校入学案内』より

 ⑦ 教室・実験室・実習室(等持院) 昭和16年    同上

 ⑧ 校舎配置図(等持院) 昭和16年 『立命館日満高等工科学校報告』(第三回)より


2021年9月14日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次


受験旬報1

① 立命館日満高等工科学校假校舎全景(京都市室町頭)


受験旬報2

② 立命館日満高等工科学校假校舎全景(京都市室町頭)


受験旬報3


受験旬報4


受験旬報5


受験旬報6

⑥ 学校付近地図


受験旬報7


受験旬報8


2021.09.07

立命館のモニュメントを巡る(第3回)佐々木惣一書「平和塔」

佐々木惣一書「平和塔」

モニュメント第3回-1

 

法学博士佐々木惣一書石碑「平和塔」

所在地: 大阪府三島郡島本町桜井3丁目 島本町ふれあいセンター

建 立: 昭和28324

揮 毫: 昭和281

モニュメント第3回-2

【佐々木惣一先生】

 

 法学博士佐々木惣一は、1934(昭和9)3月から1936(昭和11)3月まで立命館大学学長を務めました。

 今回の「モニュメントを巡る」は、佐々木惣一先生が揮毫した「平和塔」を訪ねます。

 この碑はもと、島本町広瀬の水無瀬神宮前にありましたが、2014年頃現在地に移設した

ものです。

 『島本町史』(1975)によれば、戦争による遺家族の生活と権利を守り、戦没者の慰霊のため1951(昭和26)年に遺族会が結成され、1953(昭和28)年に遺族会の協力を得て、町の事業として、水無瀬神宮前に建立したものです。島本では、水無瀬神宮の森や国鉄山崎駅から500名近くが兵士として出征し、118名が故郷に帰ることができませんでした。

 「平和塔」は、戦没者の慰霊と平和の永続を祈願して建てられました。碑銘の揮毫は法学博士佐々木惣一、建立者の名が裏面に島本町櫻井西村政五郎とあります。建立者の平和に対する思いが伝えられ、今も関係者による慰霊が行われます。

 なお、『島本町史』には平和塔碑の前に立つ佐々木惣一博士の写真が掲載されています。

 

 佐々木惣一博士は大正から昭和にかけて憲法学者として大きな業績を残した著名な方でした。戦後の憲法改正の際には、近衛文麿が草案を依頼し、進歩的な憲法改正草案を出しています。

 その佐々木惣一は京都帝国大学で憲法を井上密に、行政法を織田萬に学び、1903(明治36)7月法科大学第1期の卒業生となりました。卒業後すぐに講師となり更に助教授、1913(大正2)年には教授となっています。学者として大変な業績を残し、2度法学部長に就き、また2度総長選にも出ています。

 その間教育・研究のみならず、1913(大正2)から1914(大正3)年の澤柳事件(1)1920(大正9)年の森戸事件(2)1933(昭和8)年の京大事件(瀧川事件)で学問の自由・大学の自治のため先頭になって闘ったことが特筆されます。

 京大事件では、京大法学部の佐々木惣一・宮本英雄・瀧川幸辰・末川博・恒藤恭など7教授、更に5助教授、2講師、4助手、2副手が辞職しました。そして18名の教授・助教授等が立命館大学に迎えられたのです(後に6名が京都帝大に復帰、1名が病死します)

 佐々木惣一先生と立命館の関係は、そもそも1907(明治40)年から講師に就任していることに遡りますが、京大事件を機に1933(昭和8)9月に専任教授として立命館大学に迎えられ、翌年3月から1936(昭和11)3月まで立命館大学学長・法学部教授を務め、大学としての立命館を有数の大学につくりあげています。

 職制の改正により初めて3年任期の学長となりました。この時期立命館大学学位規程が制定され学位授与の権限が確立されたこと、学制改正により特に法律学科の改革が図られ、また昼間部の授業が充実し、『立命館学誌』や『法と経済』などでの研究活動も活発になりました。これら立命館の画期的な発展は、佐々木惣一教授・学長をはじめとした京都帝国大学免官・辞職により迎えられた多彩な教授・助教授陣によるものと言えるでしょう。

 学長の任期はあと1年残していましたが、1936(昭和11)3月、学長の職を辞し立命館を退職します。美濃部達吉の天皇機関説に端を発して広がった国体明徴運動(3)によるのでは、と言われます。

しかし、佐々木惣一は以降も名誉学長また立命館顧問となり、1965(昭和40)8月に87年の生涯を終えています。

 

 本稿は「立命館のモニュメントを巡る」の一稿として、佐々木惣一先生揮毫の「平和塔」を取り上げましたが、最後に現在は不明のモニュメント、佐々木先生の胸像について紹介しておきます。

 『立命館学誌』第193号には、「名誉学長佐々木博士の胸像贈呈式」の記事があります。

 1936(昭和11)102日、佐々木惣一博士の胸像贈呈式が本学で行われています。この胸像は学生の拠金によって製作され、佐々木先生に贈呈されました。胸像の題字は天龍寺管長関精拙師となっています。学生の代表が佐々木学長・名誉学長の功績と立命館の発展への寄与に謝恩の辞を贈っています。

 

 資料:『島本町史』本文編 1975(昭和50)

 『立命館学誌』第193号 1936(昭和11)1015

 『立命館百年史』通史一 1999年 

    『立命館大学法学部創立100周年記念誌』所収 市川正人教授「佐々木惣一」

20009

    田畑忍編『佐々木憲法学の研究』所収 磯崎辰五郎「佐々木惣一先生の人と学問」

      197512月 法律文化社

 

2021年9月7日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次







(1) 「澤柳事件」


     1913(大正2)5月、東北帝国大学総長の澤柳政太郎が文部省から京都帝国大学


総長に任命された。澤柳は教学の「刷新」を図ろうとし、谷本富文科大学教授ら7


教授に辞表を提出させ、8月に免官を発令した。


これに対し仁保亀松法科大学長、佐々木惣一など法科大学教授は教授の人事権


は教授会にあるとして抗議し辞職した。これを受けて奥田文部大臣は法科大学側


の主張を認め、澤柳総長は1914(大正3)4月に依願免官した。教官の人事権は教


授会にあるという教授会自治・大学の自治を文部省が認めた事件。


 この時辞表を出して抗議活動をした法科大学教授は、織田萬・千賀鶴太郎・田島


錦治・仁保亀松・岡村司・佐々木惣一などで京都法政大学・立命館大学でも講師を


務めていた。佐々木惣一は教授になったばかりであったが、中心になって抗議活動


をした。


 


(2) 「森戸事件」


     1920(大正9)年、東京帝国大学助教授・森戸辰男は、経済学部機関誌に「クロポ


トキンの社会思想」を発表した。この時興国同志会から無政府主義の宣伝だとして


攻撃され、東大総長山川健次郎は森戸を休職処分にし、編集担当の大内兵衛も起訴


され、有罪となった。


 これに対し、言論の自由・学問の自由を否定するものだとして、吉野作造や東大


の学生は反対運動を起こし、京都帝国大学法科大学教授の佐々木惣一は森戸の特


別弁護人を務め、法廷に立って学問の自由・研究の自由を論じた。また文化団体の


講演会で、森戸事件に関し学問の独立・思想の独立について講演した。


 


(3) 「国体明徴運動」


     美濃部達吉の天皇機関説は、大正期から受け入れられていた憲法学説であった


が、軍部が台頭してくると天皇機関説は国体に反する学説として攻撃されるよう


になった。


1935(昭和10)2月、貴族院議員菊池武夫が本会議において美濃部達吉の天皇


機関説を攻撃した。これを機に軍部や右翼団体は全国的に排撃運動を展開し、岡田


啓介内閣は政府声明を出し天皇機関説を国体の本義に反するとした。美濃部は9


に貴族院議員を辞職するが、不敬罪で告発され、著書も発禁処分となった。更に排


斥運動は広がった。この運動は当時の国体を巡る政治運動で、学問の自由を奪うも


のであった。排斥運動は佐々木惣一にも及び、神戸商科大学における佐々木の憲法


講座は休講にされた。


佐々木の弟子で立命館大学教授であった磯崎辰五郎は、国体明徴問題に関して


佐々木学長と中川総長との意見が合わず、対立を避けるため佐々木が学長を辞任


したとし、また同志社大学の田畑忍も天皇機関説問題をきっかけに中川小十郎総


長と意見を異にしたため学外に去ったとしている。






2021.07.27

<学園史資料から>80年代えとせとら

 立命館 史資料センターの展示をご紹介します。

80年代えとせとら-1

 ファッションや音楽でここ数年リバイバルが続いている80年代。今回は「80年代えとせとら」と題して保存資料から80年代を振り返ってみました。

 校友にとっては懐かしい80年代の様子も、若者にはどこか新鮮で魅力的なものに見えているのかもしれません。

80年代えとせとら2

「1986年 ボクシング部ペナント W-R」と、「消費税反対を訴えるビニールバッジ」

80年代えとせとら3

 80年代に発刊された立命館生活協同組合組合員によるコミュニケーション情報誌「RUC」

 立命館キャンパスを歩く学生が表紙を飾り、裏にはレジャー情報や編集者による手書きのイラスト等が掲載されている。

80年代えとせとら8

80年代えとせとら9


 史資料センターに保存されている80年代の立命館学生群像写真から、当時のキャンパスの様子がうかがえるものを数点ご紹介。

80年代えとせとら4

80年代えとせとら5

80年代えとせとら6

80年代えとせとら7