立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2025.12.09

<お知らせ>『シンポジウム「強い国にならなくてもいい、尊敬される国日本になるべき‐西園寺公望がみた未来‐』の動画を公開しました。

 『シンポジウム「強い国にならなくてもいい、尊敬される国日本になるべき‐西園寺公望がみた未来‐』を公開しました。

 こちらは、2025年8月31日に実施したシンポジウムの編集映像です。磯田道史氏(国際日本文化研究センター教授)、藪中三十二氏(学校法人立命館理事・元外務事務次官)、西園寺裕夫氏(公益財団法人五井平和財団理事長)をお迎えして、西園寺公望の事歴を「政治」「外交」「教育」の視点から語っていただきました。
政治・外交・教育という多角的な視点から、西園寺公望が目指した"日本の未来像"について語り合う、非常に密度の濃い内容です。
 約80分の動画です。是非ご覧ください。


周年記念誌シンポジウム2

2025.11.11

<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅲ) 広報誌「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から


 立命館禁衛隊は立命館学園の学生生徒を対象として結成されたものですが、広報誌「立命館禁衛隊」は立命館中学校・商業学校の生徒と保護者、そして京都府の各小学校へ配布され、立命館の生徒たちの姿を広く伝え、生徒募集を拡大する目的ももっていました。

(1)第20号表紙写真 1931(昭和6)年9月発行
禁衛隊表紙Ⅲ1
 【写真1】
 1930(昭和5)年10月17日、 京都府下の全中等学校(37校)が参加する陸上競技大会が京都の植物園運動場で開催されました。各校の応援団がスタンドいっぱいに陣取り、野球と同様に熱く燃え上がった応援を行っていました。立命館が最も会場に近い学校(北大路室町にあり徒歩で約15分。現在は立命館小学校)であったこともあって、中川小十郎校長の指示で3年生以下の全生徒が応援に向かうという熱の入れようでした(4、5年生は同日に上賀茂の立命館グラウンドで開催の立命館学園の総合運動会へ参加・応援)。当時の大会は記録よりも入賞順位の得点を総合で競う対校形式で、立命館中学校の選手は200m1位、5000m3位、走り幅跳び2位などに入賞して総合12位となっています。
 この前年の大会では立命館の高木正平選手が中長距離全種目出場して、1500mで優勝するなど活躍していました(高木は後に立命館大学が関西学生駅伝で初優勝した時のエースで主将)【写真2】。
 陸上部は、当時の立命館中学校で学校を代表するような運動部でした。写真【写真1】の上段が中学校で、ユニフォームの校名はやはり野球と同じく(前回のⅡで紹介)左下がりの漢字表記でした。 

禁衛隊表紙Ⅲ2
【写真2】1930(昭和5)年2月の陸上部中学5年生送別記念写真
中列右から3人目が高木正平選手

(2)第21号 1931(昭和6)年10月発行
   「=酷暑四十日=弓道部夏稽古」
禁衛隊表紙Ⅲ
【写真3】
 この第21号では、紙面全体(30ページ)の3分の1を弓道部と立命館中学校・商業学校主催の秋期大運動会関係の記事で占めていました。
 6月21日には立命館大学弓道場において立大、三高、桃山中学、立命館中学、立命館商業の5校が参加して「北垣教士祝賀 連合競射大会」が開催され、1等までを立命館中学が、次いで五位までを立命館商業の生徒が独占しています。教員3名も特別出場していて、塩崎達人校長が八位に名を連ねています。野球部の指導も含めスポーツマン校長の存在は注目されます。
 次いで記事は、夏休みを皆勤で練習に励んだ商業3年生の古家嘉一の記事が、「弓道練習日記」と題して3ページに亘って掲載されています。実力をつけてきた立命館の弓道部の模範生徒として、その熱心な活動記録が紹介されています。 

 この他の記事としては、「府下学童陸上競技大会」は9月24日に上賀茂の立命館学園運動場に高等小学校15校、尋常小学校31校(すべてが京都市内の小学校)が参加して競い、優勝校には優勝旗が授与され、参加者全員へ記念メダルが贈られました。
 次いで9月27日からは同じく上賀茂の運動場で「府下学童野球大会」が高等小学校7校、尋常小学校13校の参加で戦われ、高等小学校決勝戦では九條、尋常小学校では郁文がそれぞれ優勝しています。
 
 この当時は、立命館中学校・商業学校では文武両道を掲げて励んでいたのでした。

(3)第22号 1931(昭和6)年11月発行
  「光栄のわが隊旗」
禁衛隊表紙Ⅲ4
【写真4】
 1928(昭和3)年11月10日、京都御所に於いて天皇即位の大礼が挙行されるにあたり、立命館学園の学生生徒が禁衛隊を組織し、御所の警護を行いました。これに対して天皇から賜金をいただくことになり、立命館では禁衛隊旗2旗を製作し、翌1929年11月10日の禁衛隊記念日に「天賜 立命館禁衛隊」の文字が記された隊旗が、禁衛隊の精神として大学と中学・商業学校へ授与されました。隊旗は、校内校外において扱われる要領が決められており、樹立格納する際には送迎式が行われていました。立命館の象徴として敬意を表わされていました。

4)第23号 1931(昭和6)年12月発行
 「立命館禁衛隊愛国総行進 十一月十九日」
 上段は「建禮門前に於ける敬禮」
 下段は「烏丸通にて」

禁衛隊表紙Ⅲ5
【写真5】
 11月10日の禁衛隊記念日を皮切りに、立命館禁衛隊の行事が続きました。
 10日は午前8時半に広小路の大学中庭に大学生中学生商業学校生全員が集合して記念式典が挙行されました。禁衛隊の中学喇叭隊による君が代吹奏の後、田島学長式辞、中川総長訓話と続き、陸軍少将の記念講演が行われ、昼食には生徒学生全員で記念の雑炊を食べた後、大学を出発し、全隊員による行進で梨木神社前を南下、丸太町通り堺町御門から御苑に入り、建禮門に至っています。
 19日は写真下段のように立命館全学生生徒が隊列を組んで、大学を出発し、烏丸通、四条通、河原町通、大学へと大行進を実施しています。
 21日には、商業学校生徒全員による大阪行軍が行われました。伏見中書島を午前5時50分に出発し、大阪城を目指しました。途中で歩けなくなった10名が電車で移動しただけで、ほぼ全員が完歩。天守閣を参観した後、京阪電車の臨時貸切車両で天満橋から京都三条まで乗車。午後5時30分に到着した後、全員で万歳三唱して解散しています。

2025年11月11日 立命館 史資料センター調査研究員 西田 俊博

2025.11.04

<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅱ) 広報誌「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から


(1)第13号表紙写真 1930(昭和5)年12月発行
 「丹波山国村花脊村方面への二泊旅行を無事終へ帰校したる際の記念写真」

禁衛隊表紙1
【写真1】
  
 11月3日の明治節の日、立命館中学校禁衛隊軍部隊は校門前に整列した12台のトラックに分乗し、隊旗を先頭に山国村へ向かいました。引率は隊長の塩崎校長以下教員11名。生徒は軍楽隊42名、5年生106名、4年生122名。学校から周山まではトラックによる輸送演習(全軍のトラック輸送は全国学校教練実施上初めて)。高雄から杉坂を経て笠峠、栗尾峠の険しい難所を越え周山小学校までトラックの荷台に揺られて約3時間。昼食休憩後は、山国鳥居村付近において対抗発火演習を行い、その後山国隊招魂社参拝し、生徒たちは山国村民家に分宿、職員全員は草木左内氏宅(創立者中川小十郎の妻好栄の実家)に舎営しています。
 二日目は禁衛隊行進で常照皇寺、山国陵を参拝。黒田村から大布施を経て花脊スキー場のある別所まで行軍。その夜はスキー場の旅館で宿泊しました。
 三日目は途中で戦闘訓練などを行った後、最後の険難花脊峠を越えて鞍馬到着が午後1時半、遅れ過ぎたため鞍馬から二軒茶屋までは電車移動。二軒茶屋付近では学校から到着の留守隊との抗戦演習を行い、午後4時に帰校。最終日の行軍で疲れ果てた後に校庭で整列して記念撮影【写真1】となっています。
 
(2)第14号表紙写真【写真2】 1931(昭和6)年1月発行
   「臥薪嘗胆の生徒隊野球部」
  第15号表紙写真【写真3】 1931(昭和6)年2月発行
   「臥薪嘗胆の生徒隊野球部」
 
禁衛隊表紙2
【写真2】

禁衛隊表紙3
【写真3】

 1929(昭和4)年2月、兼任で中学校校長を務めていた中川小十郎が退任し、それまで中学校教頭を務めていた塩崎達人(注1)が校長に就任しました。母校出身で運動好きの熱血校長の塩崎(【写真2】と【写真3】の中央に写る人物)は、自らもユニフォーム姿で部員たちにノック練習もしていたほどで、当時の様子を次のように語っています(注2)。
「運動競技に於いては精神的訓練が最初であって同時に最後のものである。去る七月下旬京津野球大会に参加し球場に於ての一挙一動が立命館式で中学チームの本領を発揮し加ふるに技量も斯界の識者に一大ショックを与えたのであった。(中略)
 服装に就いて
 野球衣(帽子を含む)は学校制服と同一に取扱ふ。野球衣は質素なる無地白色のものたるべし。胸章は以前はローマ字綴りでリツメイとやっていた。その後のここ数ケ年は帽章をそのまま胸章に使用してきたが、今回愈々立命館の三字を用いることにした。この胸章のために国粋チームの名を頂戴し、或は反動?猟奇?などの批評を得たわけだがわれわれの心持はそんなものではない。(以下略)」 

 この時の立命館中学校の選手の様子は、当時の新聞でも次のように紹介していました
「出場三十四チームの中、異彩を放ってゐるのが立命館チーム。ユニホームは漢字で右書き斜めに立命館と印し、挨拶は必ず軍隊式の挙手の敬礼、中澤委員長の訓示に対し挙手の答禮をなし満場拍手して厳粛さに賛辞を呈す。」(注3)

(3)第18号表紙写真【写真4】 1931(昭和6)年5月発行
   「新興に燃える商業学校野球部の意気」
禁衛隊表紙4
【写真4】

 立命館商業学校は1929(昭和4)年に設立されましたが、2年後には前述の立命館中学校と同じユニフォームで野球部が創部されています。前列中央には塩崎校長が写っています。
  
 ところが、この4年後、1933(昭和8)年8月に再び中学校・商業学校の両校長を兼任することとなった中川小十郎は、野球や庭球、陸上などのスポーツを学校として禁止することにしたのでした。その理由を次のように語っています。
「立命館は天下の立命館である。区々たる京都一地方を目標としているのではない。從って市内各学校の連合競技会だの対抗仕合などに依て勝つたの負けたのと騒ぎ立てる様な根性ではだめだ。諸君の本校に学ぶ目的は、天皇陛下の為、国家の為、人の為めに大いに仕事の出来る人間となる事である。」(注4)
 こうして立命館中学校・商業学校の野球部は姿を消すこととなりました。

(4)第19号表紙写真【写真5】 1931(昭和6)年5月発行
   「優勝―立命館中学校―京都中等学校弓道連盟戦」
禁衛隊表紙5
【写真5】

 立命館中学校・商業学校には、既に1930(昭和5)年に弓道射場が開設されて(注5)対外試合にも出場していましたが、なかなかよい結果を残すことができずにいました。それが1931(昭和6)5月、立命館大学弓道場で開催された第2回京都中等学校弓道連盟競射大会で見事に優勝を果たすことができました。その後も弓道部は華やかな戦績を収めていくこととなりました。
2025年11月4日 立命館 史資料センター調査研究員 西田 俊博 
                    
注1:清和中学校(明治44年卒)から京都帝国大学へ進学。卒業後に立命館中学校の教員となる。
注2:「立命館禁衛隊」第10号(1930年9月発行)に「野球部を語る」
注3:大阪朝日新聞(1930年7月25日)
注4:「立命館禁衛隊」第56号(1935年9月発行)中川校長の訓示

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