立命館あの日あの時

<懐かしの立命館>立命館中学校・商業学校の「御楯の井」― 井戸をめぐる中川小十郎の教育観 ―

  • 2018年10月31日更新
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<被災者を救った井戸水>

 1938(昭和13)年7月31日、四国を襲った強力な豪雨は、松山で死者行方不明者23名の土砂崩れを起こし、翌8月1日は神戸・三宮で川の堤防を決壊させるなどの被害を広げ、1日夜から2日にかけての京都では暴風雨となって更に猛威を振るったのでした。

この豪雨によって、高野川が氾濫し、川底に引かれていた導水管(上水道のための大鉄管)が破壊したため、松ヶ崎浄水場(注1)からの送水が不能となりました。新聞報道によれば、高野川の氾濫による被害者が25万人にも達した原因は、鴨川の改修工事が行われている最中での豪雨だったため、土砂などがそのまま放置されてしまったことからでした(注2)。この時の市内では、他にも白川、天神川、安祥寺川などいくつもの川が決壊していました。導水管の破壊によって、北大路以北一帯の水道が82日夜から全部断水になってしまいました。

83日早朝、中川小十郎校長の判断と倉橋勇蔵主事(注3)の臨機の処置によって、学校の井戸水を付近住民に供給することとして、正門の他に非常門を開放し、給水を開始しました。そして、これを広報するために小使さんとよばれていた職員を学校周辺の住宅へ触れて回らせています(注4)。掲示板には次のように書かれていました。

「浄水道断水のため飲料水に御不自由の方は御遠慮なく本校の井水をお使ひ下さい」

これにより2,000人以上の市民が救われたといいます。

 

【写真1 1938(昭和13)年9月発行の『立命館禁衛隊』第86号の表紙で紹介された正門の様子】

 

写真2 京都日出新聞  1938昭和1386日付

 

<「御楯の井」と立命館>

非常用飲料水となった井戸水は、校内では「御楯の井」と呼ばれていました。

1933(昭和8)年10月に天皇が京都に滞在した時に立命館中学校・商業学校の校地内に掘削されたもので、名の由来は万葉集の防人の歌「今日よりはかへりみなくて大君のしこの御楯と出で立つわれは」(注5)に因んで中川校長が命名したものです。

 

【写真3 『立命館要覧』1934(昭和9)年版に掲載された「御楯の井」】

 

【写真4 万葉集の歌が刻まれた「御楯の井」の碑 立命館 史資料センター】

 

井戸の開削後に京都市の衛生試験所で検査を受けて、飲料水にも適していると証明されていましたが、立命館中学校・商業学校では中川校長の指示によって、1934(昭和9)91日から「(みそぎ)」に使用されていました。その方法からすれば冷水摩擦で、昔からの健康法の一つでした。それを中学校・商業学校では、中川校長が(みそぎ)と呼んで、神官が神に奉仕する前に身を清めるという大切な行事と同じように心を清める修行とし、体も鍛え清める行事として生徒たちに励行させていました。

新入生は、朝7時前から登校し、この禊を行いました。正門を入って左手奥に「御楯の井」があり、禊が行われる校庭の西側は禁衛隊道場の「西の道場」(写真5)と呼ばれ、その禊が終われば、全生徒教職員が御所に向かって遥拝を行うのでした。

 

【写真5 禊を行う生徒たち『立命館禁衛隊』第58号 1935(昭和10)11月】

 

【写真6 運動場の境界に建てられていた禁衛隊道場の碑 立命館 史資料センター】

 

【写真7 禊の後、御所に向かって遥拝

生徒たちの向こうに並ぶのは禊のための個人用バケツ 1934(昭和9)年頃】

 

1938(昭和13)年8月に京都市が暴風雨に見舞われるよりも3ヶ月早くに、立命館中学校・商業学校では、耐火耐震に備えた鉄筋3階建で2,000名を収容する校舎が完成していました。地下道は、将来の戦争に備えて生徒たちや近隣住民が避難できる防空壕にもできるように造られていました。「御楯の井」もこれにあわせて更に掘削を進め、ポンプによる汲み上げと配水管と蛇口などが備えられていました。これによって、生徒たちが神聖な水として禊に使用していた「御楯の井」は、自然災害による緊急事態にあって、人々を救う水として役立つことになったのでした。

同じ年の5月、立命館中学校・商業学校では中川校長の発案で竹製のランドセルを生徒たちに使用させています。これは国策に沿った目的で皮革の節約をするもので、これに続いて6月には登下校での下駄や草履を京都府下で一番に実施しています。中川校長は、戦時だけを意識するのではなく、自然災害による非常事態への準備も強く考えるようになっていました。今回の「御盾の井」の給水は、こうした考えからであったといえます。 

 

【写真8 臨時の給水所の様子『立命館禁衛隊』第86号】

 

結局、断水期間は6昼夜続き、89日の朝、ようやく上水道の給水は復旧しました。
 中川校長は、公共建造物には井戸の設備が必要と説いていたそうで、今回のような断水がそのよい例となったわけで、「立命館中学校・商業学校の非常給水の状況は、鈴木敬一京都府知事を通じて荒木貞夫文部大臣(第一次近衛文麿内閣)へ報告」されたと記されています(注6)。

 

【写真9 「御楯の井」が刻字された碑 立命館 史資料センター】

 

<「御楯の井」の戦後>

この「御楯の井」は、連合国軍総司令部による検閲を恐れた学校関係者によって終戦後に埋め立てられてしまい、その姿を見つけることはできませんでした。その井戸に銃などの武器が投げ込まれて埋められたという話だけが、伝説のように長く語り継がれていました。井戸はなくなりましたが、「御楯の井」の碑は、北大路の校舎の片隅に置かれて生徒たちのベンチとして愛用され、深草キャンパス移転後は、通用門の横で誰にも気づかれない状態で放置されていました。現在は、戦前の貴重な学園史を語る資料として史資料センターに移され、ひっそりと保存されています。

2018年10月31日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博 

 

1 当時の松ヶ崎浄水場の送水は、三宅八幡、深泥ヶ池、上賀茂、鷹ヶ峰、蓮華谷、金閣寺、衣笠、宇多野、鳴滝、北白川、吉田、鹿ヶ谷と広範囲であった。

2 京都日出新聞 1938(昭和13)年86日付

3 1930(昭和5)年4月に立命館中学校教諭。中学校鍛錬部長、立命館第二中学校校長などを経て、理事、専務理事などを務める。

4 大阪朝日新聞 1938(昭和13)年86日付

5 万葉集巻二十・4373 作者は火長今奉部与曾布(いままつりべのよそふ)

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