戦前、立命館中学校・商業学校には日時計を兼ねた宮城方位標というものがありました。現在の皇居である宮城(注1)を正しい方角で遥拝(注2)することを目的として制作されたものでした。今はその姿を残しているだけですが【写真1】、立命館にとっては“歴史の語り部”である宮城方位標をご紹介します。
1)宮城方位標建立の経過
1933(昭和8)年10月中旬、立命館中学校の坂井徳蔵教諭(注3)が、中川小十郎校長(注4)の意向を伝えに京都帝国大学の上田穣教授(注5)の研究室を訪ねました。用件は、「立命館では毎朝、皇居の方に向かって遥拝【写真2、3】をしているが(注6)、その方位が正確ではない。これを天文学的に決定してもらえないか」というものでした。上田教授は即座に賛同され、研究室に居合わせた理学士で助手の森川光郎に手伝うことを指示されました。
方位を確定するためには、天体観測によって正確な子午線を求めねばならなかったので、その方法として、子午儀と呼ぶ器械で夜間の星を観測し、そこから計算して求めることに決まりました。そして、求められた宮城方位は、頑丈な花崗岩の標柱を建て、その上に刻み付けることになり、それらのすべてが上田教授に任されたのでした。
上田教授は、観測土台に用いたものを後に標石に用いることを考え、その土台となる花崗岩の大きさを60cm正方で高さ1mと決めました。この土台となる石を東西南北正確に置くため、11月22日と25日の二度にわたって経緯儀観測が行われ、標石は12月初めに設けられました。
12月7日、標石上に観測器械を据付け、校長室に無線電信受信機を組み立て、その夜からようやく観測を開始しました。晴天の日でなければ観測できなかったため、日数は予定の2倍近くかかり、経度と緯度の観測が終了したのは12月27日でした。この間、学校側で中心的に世話をしたのは幹事(現在の事務長にあたる)の竹岡彦市(注7)でした。
測定を終了後、中川校長から標高も求めることが追加されました。この測定を実施したのが12月31日で、アネロイド・バロメーター(注8)を用いて付近の水準点との比較測量を行えば容易なはずが、この水準点を確認するのが当時では困難だったようでした。ようやくのことで見つけだし、この点と学校の標石の間を往復して測定を行ったのでした。
その後、上田教授たちには他での重要な調査研究があったため、データ整理と計算にも時間をとられ、完了したのは3月20日過ぎでした。
2)日時計併設の経過
ここで、上田教授からは、「花崗岩の標石に矢を1本刻むだけでは惜しいので、これと兼ねて日時計を置いてはどうか」との提案がなされ、中川校長も賛成されました。その後、製作所と打ち合わせにも2ヶ月近い時間を費やすこととなり、製作所が作業に取り掛かったのは7月にはいってからでした。
一方、経度緯度などの数値を記すために、別に金の文字板を貼り付けることが決まり、文案を上田教授が作成し、新任の吉田芳男教諭(注9)が揮毫を担当しました。
日時計は、説明文字板は8月23日に完成して取り付けられました。共に、材質は砲金(注10)と呼ばれる硬い合金で作られていました。
こうして宮城方位標を依頼されてから約10ヶ月の月日を要して、日時計と共に完成したのでした【写真4、5、6、7】。
3)日時計の利用方法
日時計は文字通り、太陽によって知ることのできる簡易時計です。ここで紹介している日時計は、写真のように花崗岩の上に設置された丸い盤で、これが時計の文字盤に相当します【写真8】。数字が時刻を表し、その数字の間を12に区分してあります。その区分線で5分まで読み取れるようになっていますが、これが等間隔でないのは、影の動く速さが時間によって異なるからとされています。この円形平面盤の上に三角柱の金属が立っていて、日があたると三角柱の影が文字盤の上に落ちて時刻を見定めました。線と線の間に影が落ちた時は、大体の目分量で何分かを想像することになっていました【写真9】。
文字盤の上には日晷時刻修正表とよばれるものが表示されていました。日晷とは太陽の陰という意で、昔は日時計のことをこのように呼んでいました。日時計の指す時刻は、毎日少しずつ違ってくるので、その違いだけを補正しなければならず、そのために修正表というものが必要となったのでした。横の行が左から右へ1月2月・・・12月。縦の行は上から下へ1日2日・・・31日まで数えられるようになっています。日時計は、この修正表の数値で補正すれば、一年中の時刻を知ることができたのでした【写真10】。
こうして完成し設置された宮城方位標・日時計でしたが、日時計は天候に左右されるもので、また、授業の始業・終業合図は職員が鐘をついて知らせていたので、日常の学校生活においては、それほどの役割はなかったはずです。立命館中学校・商業学校では、1938(昭和13)年に校舎をすべて鉄筋3階建てに改築しています。この時、北校舎(商業学校)の最上部に時計が設置されていたので、日時計の役目はすでに終わっていたことになります【写真11】。
4)すべての役目を終えて
こうして、日時計までを兼ね備えて正確に製作された宮城方位標は、終戦によってその役目はすべて終わりました。戦後は、社会の復興と生徒たちの成長を見守るだけになりました【写真12】。1964(昭和39)年には、北大路通に面する校地南側に4階建の校舎が建築されることになり、一旦移動させられた宮城方位標は、日時計として北大路学舎正門を入った右側に移設されました。存在を示すことができたのは、中学校理科の授業で時折、日時計の教材として利用されたくらいでした。
1988(昭和63)年7月には深草キャンパスが完成し、立命館の“歴史の語り部”としての役目がくるだろうと宮城方位標・日時計もそのまま新天地へと移設されました。戦前には、生徒・教職員の先頭にあって存在感を誇示していましたが、日時計としての役目も終え、グラウンドの階段横で、ツツジに囲まれながら、生徒たちの元気な姿を見守り続けてくれていました【写真13、14】。
2014(平成26)年、立命館中学校・高等学校キャンパスは更なる展開のために長岡京へと移転することになりました。すべての役目を果たし終えた宮城方位標・日時計は、線路と隣り合わせのキャンパスの片隅で、歴史の語り部として、西園寺公の石灯篭と共にひっそりと余生を送っています【写真15、16】。
2019年1月16日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
注1;江戸城内の天皇の居所を皇居と称していたが、1888年旧西の丸に宮城を新築されてからは、宮城と呼ばれていた。
注2;宮城遥拝は、天皇への尊崇の念を高め、日本国民の団結力を強める意味をもって、宮城に向かって最敬礼する行為で、戦前には国内外で盛んに行われた。
注3;和歌山県出身で数学担当。和歌山県、新潟県、奈良県、滋賀県や陸軍幼年学校の教員を経て、1933(昭和8)年に47歳で立命館商業学校に就職した。立命館では生徒監などを勤め、10年後に退職。
注4;中川小十郎は、館長となった1928(昭和3)年4月から1929(昭和4)年2月までに中学校校長、1933(昭和8)年8月から1941(昭和16)年3月までは総長との兼任で中学校・商業学校校長。
注5;上田 穣(1892~1976)日本の代表的天文学者。東京帝国大学理科大学卒業後にアメリカ留学。帰国後の昭和6年に京都帝国大学教授となる。その翌年に中川小十郎から方位標を依頼されている。その後、花山(かさん)天文台長や生駒山太陽観測所長を務めていて、1953(昭和28)年に発見された小惑星には「1619Ueta」という命名されている。
注6;立命館中学校・商業学校では、1932(昭和7)年9月15日から、毎日始業前、禁衛隊記念として、既に実施していた合同体操に先立ち、職員一同が校庭に集合して、東方向に向かって朝拝という行事を行っていた。
注7;京都府出身。師範学校卒業後に京都府下の小学校で訓導を務め、その後、4校での小学校校長を歴任して退職。1933(昭和8)年に48歳で立命館中学校・商業学校幹事で就職。戦後は大学の事務職員となって退職。
注8;水銀を用いず、小型軽量の構造で取り扱いが簡単なため、温度計と一体化したものや、気圧と高度の対応ができる登山用高度計として使用されている。
注9;三重県出身。書道担当。小学校や高等女学校の教員を経て、1933(昭和8)年12月に中学校・商業学校教員に40歳で就職。その直後に方位標の揮毫にあたっている。5年後に退職。
注10;銅と錫の合金で、靱性に富むため大砲の砲身の材料などに使用された。