目次
はじめに
1. 短期大学の設置
2. 短期大学の学科・課程
3. 短期大学の教育体制
4. 短期大学の入学試験(1951年度)
5. 在学生と卒業生
6. 短期大学の学費
7. 短期大学(部)の廃止
【写真 広小路学舎―1951・1952年頃―】
はじめに
立命館大学は、1948(昭和23)年4月、学校教育法による新制大学となった。新制となった学部は法学部、経済学部、文学部の3学部で、理工学部は翌49年に発足した。
一方で、大学令による旧制大学の学生も引き続き在学し、また専門学校令による立命館専門学校も存続、旧制大学と専門学校の学生募集停止は1949(昭和24)年度で、専門学校の廃止は1953年3月であった。
戦後、学制改革が実施され、新旧の制度の学生が同時に学ぶなか、立命館は1950(昭和25)年4月、短期大学を設置した。立命館創立50周年の年であった。大学名称については後述するが、その短期大学は2年後には学生の募集停止をし、1954(昭和29)年3月に最後の卒業生を出し、廃止された。
本稿は戦後の短期間ではあったが、立命館に設置された短期大学(短期大学部)について紹介する。
1.短期大学の設置
(1)戦後学制改革と短期大学の設置
文部省は戦後、様々な教育改革を実施し、1947年に教育基本法、学校教育法が制定された。この教育制度改革により、1948年から4年制の新制大学が発足し(国立大学は1949年)、1950年から短期大学が発足することとなった。
短期大学の設置については、旧制専門学校から新制大学への移行が困難な学校があったことや、専門職業教育、女子教育などを進める高等教育機関が必要とされたことがある。
新制大学が「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」(学校教育法)としたのに対し、短期大学は、「高等学校の教育の上に二年または三年の実際的な専門職業に重きを置く大学教育を施し、よき社会人を育成することを目的とする」(短期大学設置基準)とされた。
設置初年度の1950年4月には、186校(公立21校、私立165校)の申請に対し、149校(公立17校、私立132校)が認可され発足した。国立短期大学については翌1951年からの発足となった。
(2)立命館短期大学(立命館大学短期大学部)の申請と設置
① 名称について
はじめに名称について述べる。理事会は「立命館短期大学」の設置を申請した。ところが、認可された名称は「立命館大学短期大学部」で、認可受領証を提出する際に訂正を願い出たが認められなかった。学内では立命館短期大学としたが、1951年4月9日の大学協議会で「立命館大学短期大学部」と認可された名称に「変更」することを決定している。
② 短期大学の申請と設置目的
財団法人立命館は、1949年9月17日の理事会及び9月24日の評議員会で短期大学の設置申請を決議し、10月15日に設置申請した。
申請書は、1.立命館短期大学設置要項 2.学則
3.校地(図面添付) 4.校舎等建物(図面添付)
5.図書標本機械器具等施設 6.学科又は専攻部門別学科目
7.履修方法 8.学科又は専攻部門別学生収容定員
9.教員組織 10.設置者に関する調
11.資産 12.維持経営の方法
13.現在設置している学校の現況 14.将来の計画
15.併設の場合の調
で構成されている。
設置要項は、立命館短期大学の目的及び使命を
「本大学は高等学校の教育の基礎の上に法政学、商学、文学、及び工学に関する二
年の実際的な専門職業教育に重きを置く大学教育を施し、優秀な社会人を育成するこ
とを目的とする。
本大学は一般教養との密接な関連において、前項の各部門の職業に必須な専門教育
を授ける完成教育機関たると同時に、大学教育の普及と成人教育の充実を計ることを
もって使命とする」
としている。
【短期大学設置認可申請書(控)】
2.短期大学の学科・課程
以下、申請書から短期大学の概要を示す。
③ 設置学科と学生定員
履修等については別項で述べるが、この申請に対し、1950年3月14日、以下の通り認可された。
大学の名称は、 立命館大学短期大学部
学科は、 法政科 第二部
商科 第二部
文科 第二部
工科 第一部・第二部
となり、短期大学専用の校舎・図書館を建設することや、教員組織の増設充実することなど7点と夜間学科設置にあたり3点の条件が付され報告が求められた。
文部省管理局管理課発行『短期大学一覧』(昭和25年5月1日現在)では、
名称は、立命館大学短期大学部
学科及び定員は、 法政科 第二部 50
商科 第二部 50
文科 第二部 国語専攻 30
〃 〃 英語専攻 30
工科 第一部 応用化学専攻 40
〃 〃 電気工学専攻 40
〃 〃 機械工学専攻 40
工科 第二部 応用化学専攻 35
〃 〃 電気工学専攻 35
〃 〃 機械工学専攻 35
〃 〃 土木工学専攻 35 (計420)
と、法政学科・商学科の第一部(昼間部)が認可されなかったとともに、学科名称も法政科・商科・文科・工科として認可された。
なお、短大の名称については、同年に開設された同志社大学短期大学部、明治大学短期大学部、法政大学短期大学部などから、総合大学については「○○大学短期大学部」としたものと思われる。また短期大学には学部はない。
④ 短期大学の校地・校舎
申請書では、位置(設置場所)を広小路学舎、等持院学舎、北大路学舎として申請した。
具体的には広小路の盡心館の3階・4階、北大路学舎の東校舎及び北校舎の3階の一部、等持院学舎(理工学舎)の一部を申請している(黄色で囲まれている建物部分)。
これに対し、1951年度の「入学案内」は、法政科・商科の所在地を「広小路通寺町東入」、文科の所在地を「河原町通広小路南入」、工科の所在地を「等持院北町」としており、法政科・商科は法学部・経済学部と校舎を併用、文科は河原町通の文学部校舎を併用、工科は等持院学舎で理工学部と併用したものと思われる。
【校舎配置図(広小路)―申請書添付図面―】
⑤ 短期大学での履修について
1951年3月9日評議員会・理事会承認の同年4月1日施行の同学則により、短期大学における履修について見てみよう(開設時の学則では若干開講科目が少ない)。
修業年限は2年、4学期制で、前期は4月1日から10月15日まで、後期は10月16日から3月31日まで。学期ごとに15週の授業が行われる。
開設科目は学科により異なるが、一般教養科目(人文関係・社会科学関係・自然科学関係)、専門科目、教職課程、体育の各系列があるのは同じである。
卒業に必要な単位数は科によって系列の単位数が少し異なるが、いずれの科も合計64単位以上が卒業の要件であった。
また教育職員の資格を得ようとする者は、教職部門の教科に関する専門科目、教職に関する専門科目を含め、法政科・商科・工科では合計70単位以上、文科では72単位以上を修得する必要があった。
免許状取得資格は、法政科で中学二級社会・高校仮免社会、商科で中学二級社会・職業・高校仮免社会・商業。文科国語で中学二級及び高校仮免国語、文科英語で中学二級及び高校仮免英語、工科は応用化学で中学二級職業・高校仮免工業、電気・機械・土木が中学二級数学・職業、高校仮免数学・工業であった。
3.短期大学の教育体制
学長は、立命館大学学長末川博が兼務した。4科全体の教授会が設置され、学部長には理工学部教授の羽村二喜男が就任した。各科には主任が置かれた。
1950年6月1日付で法政科主任に浅井清信教授、商科主任に高橋良三教授、文科主任に後藤丹治教授が就任した。翌年4月からは法政科主任に三島泰治教授、商科主任には引き続き高橋良三教授、文科主任には三田村泰助・教授、後期から国分敬治教授、工科主任には西村浩教授が就任した。
また各科に大学学部と兼務であったが、補導主事も置かれた。
専任教員が置かれたほか、大学の教員と兼務する兼任教員も置かれた。申請書では学長のほか、専任教員86名、兼任教員72名となっている。
4.短期大学の入学試験(1951年度)
1951年度の「入学案内」によると、短期大学の入学試験は3月11日に実施し、試験科目は大学学部と同じであった。
「国語・社会」は国語・一般社会・日本史・世界史・人文地理・商業経済の6科目から1科目を選択、「数学・理科」は一般数学・解析Ⅰ・幾何・物理・化学・生物・地学の7科目から1科目選択、外国語は英語であった。
学科試験のほか、進学適性検査および身体検査があった。
合格発表は3月19日に行われ、入学式を4月16日(月)、翌17日から授業が開始となった。
5.在学生と卒業生
まず、学生数と卒業生数を下表に示す。
(1)在学生数
≪1950(昭和25)年度≫
≪1951(昭和26)年度≫
≪1952(昭和27)年度≫
≪1953(昭和28)年度≫
『立命館百年史 資料編二』による。1953年度の科区分は不明。
初年度は420名の認可定員に対し、在学生数は179名。定員を上回ったのは商科のみで、他科はいずれも定員を下回り、全体では定員の42.6%の在学生数となっている。
2年目は、2年生がやや減少したが、1年生は全体で311名と、前年度より増加している。
3年目は募集停止となり、在学生が2年生のみとなった。前年の311名が252名となり、学年進行とともに減少している。
1953年度は73名が残っているが、1部は工科で、他科は学科区分不明のため学科の内訳はわからない。
(2)卒業生数
『立命館百年史 資料編二』による。科区分不明。
昭和45年『校友名簿』による。科名は資料のママとした。
昭和27年度(昭和28年3月)の卒業式は、3月21日に、新築されたばかりの研心館大
講堂(4階)で、立命館大学、専門学校とともに挙行された。
短期大学部の卒業生数は上記の通りとなっているが、後述の理事会報告とは相違がある。
さて、短期大学部の卒業生のその後の進路はどのようなものであっただろうか。
ここでは、1963(昭和38)年および1970(昭和45)年の『校友名簿』により概観する。
1951年度・1952年度の卒業生のうち、おおよそ1/3から4割ほどの卒業生が立命館大学の二部または一部に進学している。そのまま卒業し就職した者、大学編入後学部を卒業し就職した者で就職先が判明しているなかでは、京都府庁・京都市役所・同区役所・農林省・各地税務署・郵便局などの公務員、また高等学校・中学校・小学校の教員が比較的多く見受けられ、更に銀行・製造業など民間企業への就職も相当数見受けられる。
【短期大学卒業証書(見本)】
6.短期大学の学費
1951年度の「入学案内」によると、短期大学(部)の学費は大学学部と同額で、以下の通りとなっている。
戦後経済のすさまじいインフレーションにより、立命館の学費も甚大な影響を受けた。『立命館85年史略年表』および『立命館百年史 通史二』によると、1945度から1952年度の大学文系学部の学費のうち授業料の推移は次の通りであった。
1945年度 200円
1946年度4月 500円
同 10月 750円
1947年度4月 1,200円
同 7月 2,000円
1948年度4月 3,600円
同 10月 6,000円
1949年度 1部9,500円、2部9,200円
『略年表』・『百年史』とも1950年度・1951年度の記載が無いが、
1952年度は 1部15,000円、2部14,500円
となっている。
短大は大学学部と同額となっており、上記の大学の授業料の推移からは、
1950年度の短期大学の授業料は、1951年度と同額の 1部9,500円、2部9,200円 であったと思われる。
ちなみに、戦前戦後の基準卸売物価指数は、昭和9~11年を1とした場合、
昭和20年3.503、21年16.27、22年48.15、23年127.9、24年208.8、25年246.8、
26年342.5、27年349.2 であった(東洋経済新報社『昭和国政総覧(下)』昭和55年。
学費額が年毎、また半期毎に高騰したのは、戦後の社会経済状況の反映であった。
7.短期大学(部)の廃止
立命館短期大学部は、申請時には将来的に文学科に1部を設置し更に社会学専攻を、工学科に金属工学・物理技術の2専攻を設置し更に1部土木工学専攻を追加設置することとしていた。
しかし2年間の設置のなかで定員数を確保できず、所期の目的を達成することが困難となっていた。
1951年度当初は次年度も学生募集することとしていた。5月の大学協議会において全科とも募集し、入学試験科目は科により一部選択科目を少なくするなど変更している。ところが9月には入学試験実施日を決めるも募集部科を変更(縮小)することにした。そして12月には「種々の点」から全科に亘って募集を中止することを決定した。募集停止に伴い1952年2月には、在学生の取り扱いについて立命館大学学部への転籍等の措置を決めた。
最終的には1954年2月4日の短期大学打合会及び6日の大学協議会で残った学生の追試験や大学への編入学措置が決定した。
同年4月9日、理事会は「当初の予想に反し志願者の数も少く発展性の見込みがないので」同年3月31日をもって短期大学を廃止することを決定した。
このときの理事会報告では、卒業生は昭和26年度に134名、27年度に167名、28年度に18名、累計319名であった(前掲の表とは異なる)。
廃止は上記理事会の前日の日付で申請し、その認可は1954年12月22日であった。
2019年8月7日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次