2019年9月、京都府立京都学・歴彩館において、「戦後京都を設計した男 建築家・富家宏泰生誕100年記念回顧展」が開催されました。
富家氏は京都の様々な建築の設計を手がけましたが、立命館においても1955年から1988年の間、64棟に及ぶほとんどの校舎・施設の設計を行っています。
回顧展では、立命館に関わるいくつかの建物(校舎)の写真が展示されるとともに、学思寮を開設したあと末川博総長が「學思」の扁額を富家氏に贈ったことも紹介されました。
小稿では、「學思」の扁額と、学思寮について紹介します。
≪扁額「學思」≫
「学思」という言葉は、『論語』の「為政第二」に由来します。
「子曰、学而不思則罔。思而不学則殆。」[子曰く、学びて思はざれば則ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば則ち殆(あやう)し。]
教育の場である大学にふさわしい言葉ですが、本学の総長であった末川博先生が揮毫した「學思」の扁額が残されています。
【「學思」】
この扁額は、1964(昭和39)年に本学の学生寮である「学思寮」が開設されたことを機に、末川先生から、寮を設計した富家建築事務所の富家宏泰氏に贈られたものです。現在、ご子息の富家大器氏が所蔵しておられます。
「學思」と「学思寮」に対する末川総長と富家宏泰氏の思いを垣間見たいと思います。
≪学思寮の開設≫
1964年3月、千本北大路を上がった鷹峯の地に学思寮が開設されました。
「学思」の名は末川総長が命名しました。
学思寮はこれまでの寮(旧寮)と異なり、集団の中において人間形成を行う教学施設として開設されました。従ってその形態もこれまでの6畳2名1室から、1室約18坪(約59.4㎡)で寝室・学習室・談話室の3つの機能をもち、各回生2名計8名で構成するという小集団ブロック制をとり、創造的な学生集団を形成していく目的をもった施設でした。
場所は京都市北区鷹峯南鷹峯町に、地上4階建て、延床面積3,504.26㎡、定員200名の学生寮が完成しました。屋上からは京の街を一望できたといいます。
当時鷹峯は御土居と山林、畑と谷という地から、住宅が次々と出来てベッドタウンへと変貌していく時期であったようです。そのなかにひときわ立派な4階建ての学思寮がそそり立った(『京都新聞』昭和39年8月19日)といいます。
富家宏泰氏は設計にあたって、住宅金融公庫の融資を受けることとなったため種々の規制を受け、学生寮のあり方の研究から始まり、計画にあたってこれまでの建築規制がいかにこの新しい学生寮のありように不合理であったか、と述べています。その点で今度の平面計画は従来の不合理を取り除いた実験であったと語っています。この規制は平面計画のみならず寮規則にも反映されることになったのです。
当時、立命館大学の寮は男子寮として吉田寮・百万辺寮・春菜寮・衣笠寮・出町南寮・出町北寮、女子寮として下鴨寮がありました。
1963年度の学生寮の定員は男子寮6寮で240名、女子寮24名でしたが、翌1964年度は学思寮の開設により吉田寮は廃止、春菜寮を下鴨寮とともに女子寮とし、男子寮5寮で373名、女子寮2寮で52名となりました。
それでも1964年度の『学生生活』の寮の紹介によると、10名の入寮希望者に対し1名くらいの割合でしか入寮できない、とされています。
ちなみに、1964年度の寮生活の経費は、舎費(寮費)が学思寮で1,500円、旧寮で260円、そのほか食費(寮では食事がありました)、光熱水費、自治費がかかりました。
【学思寮新築竣工記念パンフレット】
【学思寮建物の概要】
※図面をクリックすると別ウインドウが開き、大きな画面で見て頂けます。
≪寮生活≫
寮は寮生による自治寮でした。
寮委員会のもとに文化部・書記局・食堂部・管理厚生部・互助会があり、またAからEまでの5ブロックに分かれそれぞれの委員会がありました。
こうした組織のもとで、寮生は様々な企画をし、寮生活を謳歌しました。全学的な行事である体育祭や学園祭への参加のみならず、寮独自の講演会や駅伝マラソン大会、寮祭などにも取り組んでいます。「納涼祭」や「立鷹祭」などが開催されました。
ある年のスポーツ大会では、バレー、卓球、すもうなどが行われ、文化祭典では恋ピューター、エレファントカップル4vs4、合唱、フィーリングカップル5vs5、クイズ100人に聞きました、などの企画があり、さらにブロック対抗歌合戦(課題曲 お嫁サンバ)、ボディビル大会、女装大会などと、盛りだくさんの企画が開かれました。
学思寮で発行した『軌跡』創刊号(1966年)には、鷹峯・新大宮・紫竹付近の新聞販売所・薬局・クリーニング店・酒屋・喫茶店などの広告が掲載されています。
クリーニング店は学思寮指定であり寮への出張日がありましたし、酒屋は「学思寮の酒屋〇〇商店」とさしづめ御用達、喫茶店はモーニングサービス100円でした。
こうした広告からも学思寮寮生の生活の一端が窺われます。
広小路学舎や衣笠学舎への通学には、市バスの釈迦谷口から北1系統、1系統、6系統などがあり、バイクや自転車通学もあったと思われます。
【学思寮付近の地図―学思寮『納涼祭』1981年より】
≪寮の変遷と閉寮≫
1964年に開設した学思寮も他の寮とともに、1969年12月から1970年9月まで、学園紛争中の「寮問題」により一時閉鎖を余儀なくされました。
そして再開されましたが、下宿が減りアパートやマンションが増加するに伴い相部屋の学生寮が時代にそぐわなくなり、入寮希望者も減少していきます。
こうした状況を受けて、大学は総合的で体系的な厚生援助の整備充実をはかっていくこととし、学思寮は1988年3月20日に閉寮式典を実施、3月末をもって閉鎖に至りました。
残る寮生は双ヶ岡寮へ移りましたが、1991年3月末をもって立命館大学は全寮を廃止しました。
学思寮の跡地は住宅地に変貌し、今や寮を知ることのできるものはありませんが、衣笠キャンパスでは学思寮から移植した以学館前の八重桜が、今でも春の訪れとともに花を咲かせます。新しい学生を迎えるように。
【以学館前の桜】
≪寮歌≫
前口上 大路下鴨集い歩きし雅人(みやびと)の春菜摘みつ
美しき賀茂の流れに育てはぐくみし出町・南北寮
学びて思わざれば則ち暗く 思いて学ばざれば則ち危し
衣笠・吉田の山なみも露に濡れて花と咲く
立命館大学 寮歌
寮 歌 夕月淡く梨花白く 春宵花の香をこめて
都塵治まる一時や 眉若き子ら相集い
希望の光を一にして 厚き四年を契りたり
厚き四年を契りたり
『1984年 学思寮新歓ぱんふれっと』より(原文のまま)
2020年4月1日 立命館 史資料センター 久保田謙次