はじめに
1905(明治38)年9月、学園初の付属校として「清和普通学校」(立命館中学校・高等学校の前身)が誕生し、1906(明治39)年4月には清和中学校と変更しました。
1906年11月14日には、廃止となった吉田中学校から200名以上もの生徒が編入学しています。全員が吉田中学校からの編入者であった5年生は、中退者2名をだして翌1907(明治40)年3月31日に付属校第1回卒業生となりました。この吉田中学校から清和中学校編入学までの経過は、史資料センターホームページで<懐かしの立命館>立命館中学校秘話~吉田中学校の顛末記~」に紹介しています。
こうした経緯のある付属校の制服を追ってみました。
1.明治後期の旧制中学校制服
明治時代の旧制中学校で袴姿に制帽姿が見られるのは、旧制高等学校の真似をしていたからのようです(末川博立命館名誉総長の旧制中学校時代の写真からもうかがえます)。この頃は、着物よりも洋服がまだ高価であったため、制服よりも先に制帽を定めていたからと考えられます。そのため、生徒は袴姿に下駄ばきで学生帽という服装が一般にも多く見られていました。
【写真1】 後列中央が山口県岩国中学校時代の末川博 (明治40年)
2.清和中学校第1回卒業生の服装
付属校の制服として残る最も古い写真は、1907(明治40)年3月卒業の清和中学校第1回卒業生集合写真です。清和中学校開設1年目(清和普通学校設立から2年目)での卒業生は制服制帽姿です。吉田中学校はずさんな学校経営によって廃止を命じられましたが、京都府へ提出していた学則には以下のような制服規定が残されています(注1)。
一 帽 色濃紺(菱形)
一 洋服背広ツメ襟、色濃紺地質無地羅紗、無地メルトン若クハ無地へル夏服ハ霜降小倉地トス
但シ、第二年級以下ハ和服(筒袖袴)ヲ着スルコトヲ得
又第三年級以上ト雖モ新入ノ当時十四日間ハ和服(筒袖袴)ヲ着スルヲ得
一 外套 色濃紺地質無地羅紗無地メルトン若クハ無地ヘル
一 靴 色黒半靴(底ノゴム或ハ麻裏ノモノハ用ユルヲ得ズ)
病気ソノ他故アリテ所定ノ着装ヲナスコト能ハザルトキ予メ願ハ出デテ許可ヲ受クベシ、降雨雪ノ時ハ上草履(麻裏或ハ竹ノ皮ニ限ル)ヲ用ユルヲ得
吉田中学校では制服制帽を制定しながらも、経済的負担を軽減するための配慮から2年生以下には年間を通して、また編入学後の生徒には2週間以内で和服通学を認めていました。
これに対して、誕生して間もない清和中学校では、編入学後4か月で卒業を迎えようとする5年生にどのような制服制帽を指導したのでしょうか。
【写真2】 清和中学校第1回卒業生写真
そこで、【写真2】での制服と吉田中学校の規定とを比較すると、まず制帽が菱形ではありません。菱形というのは、当時の大学生たちが被っていた角帽のことで、写真のような形ではありません。被り方にもよりますが、帽子の形も少し異なっているようにも見えます。最後列左端の生徒は着帽していません。
次に、制服の襟は基本形の詰襟です。詰襟制服国内第1号は学習院が採用(1879年)し、その後に全国的に広がり、吉田中学校では清和中学校よりも一足早く1903(明治36)年に制服を採用しています。また、写真では前釦の間隔に差が見られます。五つと七つの違いもあります。最前列右端の生徒は明確に七つ釦です。吉田中学校には釦数が指定されていません。
最前列右端の生徒とその後ろに立つ生徒の足元には白いゲートルが巻かれています。日本でのゲートルは、日露戦争以降に主には陸軍の歩兵の間に広がりましたが、吉田中学校の規定にはないゲートルを、清和中学校では創立当初から義務づけていたのではないかと思われます。
3.付属校の制服規定
付属校として残る最古の服装規定は、清和中学校時代の1907(明治40)年から1909(明治42)にかけて京都府へ提出された「私立清和中学校学則」に記された制服規定です(注2)。内容はかなり吉田中学校と似ています。(筆者注:異なる箇所は次の下線部分です。)
服装
第十三條 本校制定ノ服装ハ左ノ如シ
服
上衣 長ヂャケット形 真鍮製一行 釦五個ヲ附ス
冬ハ紺 夏ハ霜降 地質小倉
外套 黒又ハ紺 地質羅紗 真鍮製釦附
洋袴留帯 革製ノモノ
帽 黒羅紗 海軍形 制定ノ徽章ヲ附ス
ゲートル 陸軍形 地質麻
靴 黒革短靴 陸軍形
第十五條 課業時間外ト雖モ制服制帽若クハ制帽袴ヲ着用セスシテ校内ニ入ルベカラズ
第十六條 校外ニアリテハ制服ヲ着セザルモ制帽ハ必ズ着用スベシ
第十七條 新ニ入学セルモノハ入学後一ヶ月以内ニ制定ノ服装ヲ調フベシ
制服の上衣をヂャケットと表記し、外套(コート)と共に真鍮製5個の釦を定めています。1907(明治40)年に体操の授業担当として陸軍の軍曹と特務曹長であった二人が教員になっていることから、ゲートルと靴に合わせて軍隊を色濃く出してきたのではないかと考えられます。帽子が海軍形であるのは、旧制高等学校も含めて全国的に広がっていた影響なのかもしれません。ゲートルが清和中学校時代から義務づけられていたのならば、付属校設立時から何らかの意図があり、時勢を先取りしていく創立者中川小十郎の影響力も大きかったことが十分に考えられます。
ここで注目したいのは、帽子に徽章を付けるとしていることです。立命館以前の清和のものがあったということになりますが、現在のところ見つかっていません。
この「清和中学校生徒心得」は校則と共に1913(大正2)年にも京都府へ提出されています。ここでは、1909(明治42)年までのものから次の2点だけが変更されています。
上衣 短ヂャケット形
新たに入学セルモノハ入学後二週間以内ニ制定ノ服装ヲ調フベシ
上衣に「短」と表記されていますが、それまでの上衣丈を短いものに変更しています。これは、清和中学校としては最後の卒業となる1913(大正2)年3月の卒業集合写真【写真3】でよくわかります。丈が腰骨より上で切れていて、ベルトもしっかりと写っています。その他にもそれらしき服装が見られます。
【写真3】1913(大正2)年 清和中学校第7回卒業生「清和第3号」より
右端前列の生徒の上着
この1913(大正2)年の12月2日には、文部大臣より財団法人立命館設立が許可されて、校名は私立立命館中学に改称されます。それと同時に制帽徽章が改定されています【写真4】(注3)。入学者の制服準備期間が短くなっているのは、生地が高価なものでなくなり購入しやすくなったことと、学校としての結束力を高めるために制服の統一を急いだのではないかと考えられます。
【写真4】
学校名称改まり大学中学に立命館を冠することになりたれば大学生並に中学生徒制帽前章を左に示したる通りに改め、之を真鍮製にし大学生は角帽中学生は独逸形帽の中央に附し、一見本学々生若くは生徒たることを瞭然たらしむる事にしたり。(注3)。
これを読む限りでは、校名を改称しても先ず制帽徽章だけを改定し、学生生徒に徹底しようとしています。小西重直学監が中心となって立命館中学の学校改革が大きく進められるなか、制服はほぼ定着しているので、制帽によって対外的にも立命館中学の生徒であることを示す象徴的な機能を果たすものとして利用されたようです。
同年にはまた、創立者中川小十郎は中学校の課程を卒業する在学四年以上の生徒で、品行方正、学業優秀の者に対して特別褒賞を贈与すると決めています。1914(大正3)年3月の第8回卒業生(立命館中学としては初)から実施され、生徒たちの正装記念写真が撮られました。この特別褒賞4年間の生徒写真は1917(大正6)年に発表された「立命館中学の過去現在及将来」に掲載され【写真5】、同時に「私立立命館中学生徒心得」の中に服装規定が詳細に記載されて、学校のイメージを広報していきました。
【写真5】 「立命館中学の過去現在将来」に紹介された正装の優秀生徒たち
4.規定にない夏服に見られる立命館中学
制服規定の夏服には霜降とだけしか書かれていませんでした。生地が白っぽい制服になりますが、その数年後に撮影された【写真6】と【写真7】には規定にない珍しい夏服が写っています。
【写真6】 1919(大正8)年の野球部の奈良遠征時
着物に袴でカンカン帽を被る生徒
【写真7】 1922(大正11)年の野球部全国大会出場の服装
中央に座って写る生徒だけが規定の夏服
夏服の規定がありながらも着物に袴、それにカンカン帽や制帽という服装が見られるのは、大正期の立命館中学には厳しい制服規定だけで拘束するのではなく、大正デモクラシーの影響も受けて、まだおおらかな教育がなされていたのだろうと想像されます。
2020年10月6日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
注1;「吉田中学校学則」京都府公文書
注2;「私立清和中学校生徒心得」第二章 服装 京都府公文書
注3;「立命館学報 第1号」 P34 1913 (大正3)年2月発行
注4;「立命館中学の過去現在及将来」 P66 1917(大正7)年3月発行