はじめに
戦前の立命館には、中学校や商業学校、工業学校などの附属校があった時代があります。
本稿では、戦争を背景に生まれた「立命館第二中学校」を取りあげ、戦争の悪化とともに「学徒勤労動員」にかり出された生徒たちの姿を追います。
それは当時の全国の中学校が経験した典型でもありました。
1.立命館第二中学校の設立
立命館第二中学校(以下、第二中学校)は昭和16(1941)年4月に設立されました。校地の元は学園の大運動場で、場所は天皇即位の御大典記念事業の一つとして、昭和3(1928)年に上賀茂神社から払い下げをうけ(注1)、生徒たちの建設作業に加え、伏見の工兵隊の援助も受けて約1年の突貫工事で完成させたというものでした【地図】。
【地図】立命館大運動場敷地図 「立命館学誌第118号」(1928年10月発行)
地図中の左にある本山と接した網掛け部分が大運動場で、地図の中央には立命館中学校が示されている。
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学校設立の理由は、立命館の禁衛隊主義による教育に共鳴する父母が増加してきたことで、入学志願者が数倍にも達し、その三分の一をも収容できなくなってきたため、将来の更なる増加に対応し、禁衛隊主義による教育を更に普及徹底するために学校を増設したいというものでした(注2)。
2.設立後の第二中学校
当初は1年生150名3学級で開設し、北大路の木造2階建校舎を移築する予定でしたが、4月開校に間に合わなかったため、移築工事竣工までの間、北大路室町の立命館中学校(注3)を間借りするかたちでスタートしました。校舎【写真1】及び付属設備が翌昭和17(1942)年3月に完成し、2年生以上への編入も含めて、5学級(各学年1学級)増員が認可されています。第二中学校の生徒数は順調に増加し、昭和16年(178名)、17年(410名)、18年(633名)、19年(838名)、20年(850名)となっています。
【写真1】第二中学校校舎(広小路から北大路へと移築されていた学園最古の建築物)
「鞍馬街道をはさんで一面の麦畠と菜の花、その左手赤土の崖下に煉瓦を積んだだけの門柱(中略)教員室は教員の机が10脚あまりで、窓口に事務職員の机が一つあった。叢から雉や鶉が飛び立ち、校庭には牝鹿が迷い込むこともあった。校庭には、春は土筆、秋には初茸が頭をもたげ、井戸水を汲み上げる風車がゆるゆると回っていた。(中略)交通は誠に不便で、市バス御園橋から25分、京福二軒茶屋駅から20分を歩かねばならなかった。」(注4)【写真2】。
【写真2】第二中学校全景(戦後)
3.付属校の勤労奉仕
戦局の推移にともない、中学校・商業学校ではすでに昭和16(1941)年6月から11月までの間、増産勤労奉仕として、地元の上賀茂や柊野・衣笠や深草への麦刈・稲刈や草刈の手伝いだけでなく、貴船山林の伐木整理【写真3】や等持院の竹藪開墾、巨椋池干拓作業などにも従事し、淀競馬場や祝園の火薬廠、陸軍枚方工廠へも特技作業奉仕に向かっていたのでした。食べ盛りの男子生徒たちには「農家への手伝いで、おやつに出される握り飯やふかし芋が、生徒たちにとってこのうえもなく貴重なものとなっていました」(野崎既述)。
昭和18(1943)年には第二中学校の農場が設けられていました(注5)。
【写真3】昭和16年当時の伐木整理作業
4.昭和19年の立命館第二中学校
昭和17(1942)年に全国の中学校は5年制から一年短縮の4年制にすると決定されました。その後、戦局が厳しくなってきた昭和19(1944)年2月、政府は「決戦非常措置要綱」を閣議決定し、中学校以上の学徒に対して一年間を通しての通年動員を実施することにしました。3月に文部省はこの閣議決定に基づき「学徒動員実施要項ニ依ル学校別学徒動員基準」を決定したことで学校別に動員方針、出勤先が定められ、これによって中学校の高学年より順次、工場など事業場に動員措置がとられることになりました。このようななかで第二中学校は昭和19年4月に4年生までの全学年が揃いました。
昭和19年4月の「督学報告」には「立命館第二中学校 看護婦一人モ勤務シ居ラズ」とあり、同年6月には「時局ノ影響ニ依リ看護婦ノ雇入レ困難ナル為ニ(中略)折角完備セル医務局ノ利用甚ダ不充分ナルコトハ遺憾ナリ。出来得ル限リ早急ニ看護婦ノ充実ヲ計ルヲ要スト認ム」と、看護婦の確保が困難であったことが報告されています。豊かな自然環境に囲まれていた第二中学校にも戦争の影響は確実に迫っていました。
5.立命館第二中学校の学徒勤労動員
昭和19年7月、全国の中学生に学徒勤労動員が発令され、立命館の付属校も各校学年毎に勤務先が分担されました。第二中学校の3・4年生たちは、京都の中学校としては初めて、福知山中学校、大谷中学校の生徒と共に「一機一艦をより多く早く戦場へ送ってくれ」のスローガンで勉学を捨て、お国のためにと多数の市民の激励を受けて京都駅を出発し、親元を遠く離れた兵庫県相生の播磨造船所に入りました(注6)。当時の模様は京都新聞でも写真入りで大きく報道され【写真4、5】、生徒たちは「当時の我々は時の流れのままに、その時は感動の出陣であった」のでした(注7)。
【写真4】京都駅前に整列する第二中学校の生徒たち(先頭は禁衛隊旗と平安神宮からの神旗を持つ)
1)学徒の勤務要綱
史資料センターに保存されている「勤労動員学徒監督者必携」には以下のような事項が指示されていました (一部抜粋要約)。
勤務時間;休憩及ビ教科教練各一時間ヲ含メテ十時間以内。
残業;残業ヲ課スル時モ十二時間ヲ超エザルコト。
教科教練;一週最低六時間ノ授業ヲ行フ。教科ハ理数科ニツイテノミ行フ。宿泊ノトキハ工場内ニテ行フヲ原則トス。
給与;食糧被服等ノ給与或ハ貸与ニ就イテハ、一般従業員ト同等ノ取扱ヲナスコト。
報償;一人当リ月額50円トス。残業一時間ニ月額ノ二百分ノ一。
授業料その他の学費;月々受取ル学徒ノ報償金中ヨリ収納ス。
報償金残額;学徒一人月二十五円宛ヲ学徒ノ保証人ニ交付ス。
寄宿舎費;寄宿舎ニ宿泊スル者ノ舎費又ハ食費ハ学徒保証人ニ交付スベキ報償金ヨリ控除スルコト。
これらは「京都府学徒動員要綱」を基に決定されたものでしたが、学業を一年間にわたって中断されたにも拘らず、生徒たちへの授業料や学費が天引きされていたのでした。
2)3・4年生は播磨地獄
第二中学校の動員生徒(3年生138名、4年生140名、計278名)の勤務内容や寮生活は壮絶なるものでした。彼らは、卒業後何十年たっても、その生活を思い出して「播磨地獄」と語っています。(注8)【写真6】
生徒たちは集団生活をするため「興亜寮」という名の木造二階建寮で、一室平均5名定員の43室に分宿しました。相生川の河口付近の埋め立て地に建てられていたため、満潮時には海水がすぐ近くまで押し寄せるという環境に加えて、生徒たちは工場や部屋に発生するノミやシラミに毎日苦しめられていました。
起床午前6時、食事午前7時、勤務時間は午前7時半から午後5時までという毎日で、製缶(船のボイラーづくり)の鋳造工場で大きなクレーンを操作したり、煮えたぎる溶鉄をるつぼから鋳型に流し込む仕事内容でした。溶解炉のクレーンが空中転覆し、数名が大やけどを負うような事故が起っていました。「15、16歳の少年がそのような仕事を強いられ、それをやりとげたということは、今から思うと大変なことであった」と野崎教諭は述懐しています。
衛生設備も悪く、「給食は丼鉢に軽く一杯のみ、ナンバ(トウモロコシの別名)入りの黄色い御飯と一汁一菜のワンパターンときている。常にひもじい思いをしていたその年の夏、赤痢が発生し、学徒二名(同期生一名)が死亡し、他にも肺結核、胃腸病、脚気等々病人続出で、自宅療養者もでたという状況でした。」(注9)
卒業までの間には、少年兵として陸軍や海軍に志願していった生徒も数多くいましたが、第二中学校の第1回卒業生がこの年の4年生たちでした。彼らの卒業式は寮内の大食堂で、同造船所に動員されていた福知山中学校、大谷中学校らとの合同約300名で実施されました。当然、京都からの保護者の参列はありませんでしたが、最も物資、食糧が不足した時期に赤飯と小鯛の塩焼きが生徒一人一人に添えられたのがせめてものお祝いでした(注10)。
【写真6】播磨地獄を共に過ごした昭和21年卒業の生徒たち
「一番強烈なのは、今でも時々夢に見る学徒動員による播磨造船での苦しい一年間でした。当時、播磨地獄と酷評されていましたが、今思えばB29の本土侵入の通路となりながら爆撃の被害を受けずにすんだことは、名古屋や舞鶴で多数の犠牲者を出した他校の人たちに比べれば幸運でした。また、相生湾での休み毎の掌大の鰈釣りは唯一の楽しい思い出でした」(注11)。
3)残された1・2年生たちと校舎
京都に残った生徒たちのうち2年生は、その間を大丸地下の三菱重工で働いていました。デパ地下と親しまれている現在の大丸百貨店食料品売り場は、当時生徒たちが昼夜兼行で旋盤と取り組んでいた場所でした。
「1年生は主に農繁期に戦時召集で男手のない農家へ農作業の手伝いに駆り出されましたが、食糧難の当時、昼食に白米を腹一杯に食べられたのと、帰りにサツマイモやジャガイモを土産に貰ったのが嬉しかったことや、堀川通の家屋を、被爆による火災の類焼を防ぐために拡幅する目的で撤去する作業に動員され、取り壊す家屋の支柱や床柱に綱引き用のロープをくくりつけ、クラス全員で引っ張って倒壊させ、その倒壊した材木から各自がバールで釘を抜き取り、武器製造の材料(鉄)とするために集めていました。」(注12)。
生徒数の少なくなった上賀茂の校舎の一部は、敗戦後に生徒たちが学校に戻ってくるまでの間、陸軍病院髙野分院に溢れた傷病兵の病室に充てられていました。
それでも自然豊かな母校へと戻った生徒たちは、新しい社会と学校再建に向かって歩みだしたのでした。
当時を思い出して、卒業生は次のようにも語っています。
「昭和17年入学の同窓会である柊野会は播磨を抜きにしては存在せず。と云えるが、それは感受性の強い青少年期を1年数カ月間、共に必死の想いで過ごしたからであろう。苦しい日々の連続ではあったが、それだけにまた忘れられない強烈な青春の一頁を我々は持ち得たのだともいえる。」(注13)
2021年3月30日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
注1;昭和3(1928)年9月30日 上賀茂神社より大学運動場用地6,199坪買収
昭和4(1929)年4月18日 上賀茂神社より上神原町の土地347坪買収
同年5月3日 上賀茂運動場接続国有林10ヵ年無償貸付を認可
注2; 設立理由「近年国体明徴ノ声盛ンニ起ルヤ我禁衛隊ノ教育実践ハ皇国教育ノ指標トシテ一世ノ認識ヲ得ルニ至レリ(中略)立命館ノ禁衛隊主義ニヨル教育ニ共鳴シテ其ノ子弟ヲ立命館中学校ニ委託セント欲スル父兄ハ逐年増加ノ傾向ヲ示シ本年ノ入学志願者数ノ如キハ収容定員ノ数倍ニ達シ其三分ノ一ヲモ収容シ得ザル実情ニアリ(中略)此際立命館第二中学校ヲ新設シ以テ将来益々増加ノ傾向ニアル立命館中学校入学志願者ヲ出来得ル限リ収容シ禁衛隊主義ニヨル教育ヲ普及徹底セシメント欲スル次第ナリ。」 (立命館第二中学校設立認可申請書)
注3; 第二中学校の新設によって、それまでの立命館中学校は改称されて立命館第一中学校となり(昭和17年3月)、続いて商業学校昼間部が廃止されて立命館第三中学校を、立命館夜間中学校が廃止されて立命館第四中学校を設立(昭和18年)することになった。
注4; 野崎龍吉 立命館学園広報通巻第21号「神山学舎の思い出」(昭和47年5月発行) 担当教科は美術。第二中学校赴任、その後の昭和19年7月に召集。終戦後に第二中学校へ復帰。神山中学校、立命館中学校・高等学校と移動。昭和46年から三年間を中学校・高等学校の校長を務めた。
注5; 昭和18(1943)年7月25日 第二中学校の農場として市原小字横山の山林賃借契約を結ぶ。
注6; 後の石川島播磨重工業で、現在の社名は株式会社IHI。
注7;「柊野会同窓会と思い出の動員先訪問」清和会報第6号(1985年6月発行)
注8; 注7に同じ
注9;「胸いっぱいの思い出」(第二中学校昭和21年卒)清和会報第11号(1991年6月発行)
注10; 宮原弘「私の戦時の語りぐさ」『立命館百年史紀要別冊』2 (1996年3月発行)
注11;「中学生時代の思い出」(第二中学校昭和20年卒)清和会報第15号(1995年6月発行)
注12;「昭和19年入学生同窓会の近況」(第二中学校昭和24年卒)清和会報第16号(1996年6月発行)
注13; 注9に同じ