立命館は、今年創立115年を迎え来年度には創立者中川小十郎生誕150年周年を迎えようとしています。この4月には大阪いばらきキャンパス(OIC)も完成し大阪にも縁ができました。しかし立命館草創期に創立者中川小十郎が大阪を基盤に活躍していたことはあまり知られていません。またこの時期に京都法政学校を創立したことを深く考えてみたことはありませんでした。そこで中川小十郎の大阪時代を考えてみました。
大阪時代に創立したことは偶然の仕合せだ
中川小十郎(65歳)が実子に宛て一通の手紙を送っています。その手紙からはわれわれが写真や胸像から受ける厳格なイメージとは違う、父親としてのやさしさが感じられる書簡です。その中に中川小十郎が「立命館が自分の人格を代表するもの」であり、「大阪にいた間に立命館を創立したことが偶然の仕合せだった」と書いたものがあります。その書簡を読んだときに、なぜ中川小十郎にとって、立命館誕生にとって、大阪時代が「偶然の幸せ」だったのでしょうか。また、その「仕合せだった大阪時代」とはどのような時代だったのでしょうか。
「大阪にいた間に立命館を創立したことはこれは偶然の仕合せだ。尤(モットモ)も今日猶(ナオ)大成したとは云えないがこれで二三年盡力(ジンリョク)すれば基礎はできるだろう。自分の人格を代表するものはこの立命館であろう」(「暖流―先考中川小十郎書簡より」1931<昭和5>年5月4日)
(写真:現在の淀屋橋界隈)
中川小十郎 東京を離れる
1897(明治30)年7月10日(土)午後5時から東京神田一ツ橋の帝国教育会講堂において、岡倉覚三(岡倉天心)や嘉納治五郎等の呼びかけた中川小十郎「送別会」が約200名の参加者によって盛大に催されています(読売新聞1897年7月9日朝刊、朝日新聞 同年7月11日朝刊)
中川小十郎が1879(明治12)年9月に叔父の中川謙二郎(東京女子高等師範学校校長、第1高等学校校長等を歴任)を頼って、14歳で上京してから18年になっていました。
多感な青春期を過ごした成立學舎(せいりつがくしゃ)の友人、夏目漱石や太田達人、佐藤友熊等とも別れ、1897(明治30)年6月に創立された京都帝国大学の書記官として赴任するためでありました。翌日、中川小十郎は東京を離れ上洛します。
(写真:中川小十郎、夏目漱石等との写真)
夏目漱石と我輩(中川小十郎)との関係は、「東京府立第一中学校での同窓生であった彼は、必ずしも非凡な人物になるものとは見へなかった、我輩は寧(むし)ろ変な奴だくらいに 思ってゐながらも、互いに気が合ったので親しく交際していた。大方彼もまた我輩をみて田舎丸出しの変な奴ぐらいに思つてゐたであったろう。(略)神田の裏神保町に末広と云う下宿屋があって、そこに漱石や中村是公(注:後の満鉄総裁)などが下宿してゐたので、我輩等は学校の帰りにそこへ立ち寄って漫談をやり漫食をやるのが例であった。」(「我輩の中学時代」中川家史資料)
京都帝国大学書記官時代
上洛した中川小十郎は京都帝国大学書記官として創立事業が一段落すると秘書官を辞して大阪実業界に身を転じました。
(写真 任京都帝国大学書記官)
大阪時代、廣岡浅子との出会い
中川小十郎の大阪時代は、廣岡家(屋号は加島屋、以下廣岡家は加島屋と同一)が経営する加島銀行、廣岡鉱業部理事に就任した1898(明治31)年7月から大同生命保険会社を退社する1903(明治36)年3月まで、年齢で言えば32歳~37歳を大阪時代ということができるではないでしょうか。中川小十郎はこの大阪時代に京都法政学校(立命館大学の前身、以下京都法政学校という)の設立を準備し、創設するのです。
そもそも大阪時代の始まりは成瀬仁蔵(日本女子大学創立者)との出会いから始まります。
1897(明治30)年頃、廣岡家の廣岡浅子(発起人)は成瀬仁蔵の日本女子大学設立を支援していました。一方、中川小十郎も上京してきた成瀬仁蔵と麻生正蔵(二代目日本女子大学学長)を自宅(東京)に寄寓させたり、創立委員会(委員長大隈重信)事務幹事長(1898年5月就任)として大学設立に協力します。同じ頃廣岡浅子は廣岡家の再興にも奔走しており(「大同生命100年の挑戦と創造」大同生命保険株式会社発行)、その再興の適任者の人選を成瀬仁蔵に依頼します。成瀬仁蔵はその適任者として中川小十郎を推挙します。その経過について中川小十郎は次のように語っています。
成瀬仁蔵君は、大阪の広岡浅子といふ方と女子大學<日本女子大學>につき種々相談したり打合わせをしたりするので、自然その方(広岡浅子)と往来していた。(略)広岡浅子は少し家産が傾きかけているのでその再興をはかりたいのだが誰か適任者を推挙してほしいと成瀬仁蔵に申し出た。(中川家史資料)
中川小十郎は、その意を汲んで官を辞して廣岡家の役員となります。
廣岡家に入った中川小十郎は廣岡家や廣岡浅子のことを次のように見ています。
廣岡家(加島屋)は大阪では由緒深い家柄で10人両替商の一つに入る。鴻池家や住友家(泉屋)と同じほどである。その由緒ある家が傾きかけているのだから再興といってもなかなか簡単にはゆかない。また、廣岡浅子については九州の炭田買取りのため単身ピストルを身につけて野山に野宿し、ついに買占めに成功した程の壮健な方であった。
それほどの人物が自分如き者を見込んで、財産全部をまかせて再興をはかりたいと自分を信じてくれることに義を感じ承諾した。(「総長講話ニ昭和不明年9月22日」中川家史資料)
しかし一方で親近者の書簡に「二晩程寝もやらずに種々考慮をめぐらした」と書き送るなど、中川小十郎にとっても文部省の地位を捨てることは一大決心であったようです。
(写真:廣岡家写真)
官を辞した中川小十郎は1898(明治31)年7月に廣岡家経営の加島銀行理事、廣岡家鉱業部理事に就任します。翌年1899(明治32)年2月には、廣岡家商業部理事、堂島米穀取引所監査役となり、4月には真宗生命保険筆頭取締役、6月には朝日生命保険取締役副社長(5月真宗生命保険㈱を社名変更し朝日生命保険㈱、現在の朝日生命とは別会社)(注:以下、㈱は省略し会社という)と矢継ぎ早に就任し再興に奔走します。
(写真:廣岡家(加島屋)社員集合写真、2列目左から4人目、中川小十郎、中川小十郎の右隣(2列目5人目)は廣岡家当主廣岡久衛門)
この大変な時期に、当時京都にあった朝日生命保険会社本社(京都市六角麩屋町西入大黒町22番戸)の一室に京都法政学校創立事務所を設置(1899年10月)します。ここで8ヶ月間、京都法政学校設立の準備にはいります。この設立事務所となった当時の朝日生命保険本社写真は発見されていませんが、場所は久保田謙次氏の調査によってはじめて特定されました。
創立事務所の所在地は、明治32年4月24日から明治36年10月13日まで加島銀行(加嶋銀行とも称す)が所有し、朝日生命保険本社として使用、そのなかに京都法政学校創立事務所をおいたと考えられる。その面積は169.06坪(約557.90㎡)程度であったであろうと考えられる。現在の京都市生祥児童公園の一角(西側)であった。
(写真:2015年現在の設立事務所の場所)
しかし残念ながら学園にとって重要な設立準備に関する文書資料等は発見されていません。
並行して中川小十郎の廣岡家(加島屋)再興は続きますが、京都法政学校設立2年後の1902年(明治35)年には、朝日生命、護国生命、北海生命三生命保険会社の合併を成し遂げます。その社名も「小異を捨てて大同につく」との志から大同生命保険会社と社名を決めて、今日の大同生命保険株式会社に至っています。
中川小十郎は1898(明治31)年から1903(明治36)年の5年間は廣岡家再興に尽力しますが、そんな中川小十郎を当時の社員がどの様にみていたのか1通の書簡が発見されました。その書簡とは、当時中川小十郎の下で働いていた星野行則(注1)が中川小十郎死後「中川小十郎サンノ思い出」として、1945(昭和20)年5月18日、松本仁に送ったものです。書簡の中で星野行則は中川小十郎について次のように書き送っています。
中川小十郎は官界より廣岡家に入り廣岡家本来の事業の他に大同生命保会社の創設を建策し同社の基礎を固めるなど、実業人として成功しているのに、わずか数年(1898<明治31>年~1903<明治36>年)で廣岡家を辞して教育事業(京都法政学校創立のこと)を起こした。
当時は官吏より大阪の実業人となった人は多く、それらの人は処遇を得て安定して生涯を送ったのに何故に変化の多き生涯を選んだのか。それは中川小十郎という人は青年を相手に自由奔放に理想を説いて、幾多の人材を育成することが自らを満足させる最善のことであり、教育が自分にとって最善の事業であると考えて京都法政学校を創立したのだと思う。その人柄は業績の実績をおごらず、執着せず、何事も手早く片付け、性格はゆったりしており、その温顔、慈愛、朗々とした声など思い出せる。
中川小十郎にとっては実業界の「打算」「輸贏」(ゆえい=勝と負け)に終始する雰囲気が重苦しく感じて物換(ママ)の希望は一切なかったろうと思われる。されば規矩準縄(きくじゅんじょう=標準、法則)に拘束される官も位階勲章等に恬淡(てんたん=あっさりして名誉・利益に執着しないさま)な小十郎には物足りぬように思えたのであろう。
この書簡からは中川小十郎が、廣岡家再興に奔走し、日本女子大設立に協力している同時期に、自らを満足させる最善の事業として学校設立を考えていたと考えられます。
大阪時代に立命館を創立したことは偶然の仕合せだ
中川小十郎が大阪時代に、立命館を創立したことは偶然の仕合せだと述べた背景には次のようなことがあったのではないかと考えられます。
そもそも中川小十郎は当時の高等教育をどのように見ていたか、文書が中川家史資料に残されていました。それは文部省時代に書いた「芳川(顕正)文部大臣ノトキ内閣ニ提出セシ意見原稿―高等教育ニ関スル意見」(注:芳川顕正は明治27年8月~10月文部大臣、司法大臣を兼務する)です。ほぼ同様の内容文書が残されています。(「国立国会図書館憲政資料室芳川顕正関係文書」)
その文書には特別認可学校(注2)が東京にのみ集中しており、地方の学徒は東京までいかなければ官吏の道は閉ざされている。また欧州諸国の例を示し、私立は民間に委せ、東京集中ではなく「数個若シクハ一個ノ大學ヲ地方ニ興ス(シ)」て全国の向学心に燃える学徒に応えるべきであると論じています。この論が若き日の中川小十郎の高等教育論(感)ではないかと考えられます。この考えをいつ頃からもっていたのはまだ検証されていませんが、京都帝国大学秘書官時代には心中にもっていたと考えられます。その後廣岡家に行ってからもこの持論は持ち続けていたのではないでしょうか。この時の持論がほぼ「京都法政学校設立趣意書」に生かされています。
(写真:芳川顕正宛書簡)
また、中川小十郎は、成瀬仁蔵を介して廣岡浅子出会い民間企業に身を投じますが、星野行則が述べるように実業界の雰囲気を重苦しく感じ、「規矩準縄(きくじゅんじょう)」に拘束される官にも物足らぬように思えたのではないでしょうか。星野行則が述べるように、やはり中川小十郎は青年を相手に自由奔放に理想を説いて幾多の人材を育成することが自分を満足させる最善であり「教育を最善の事業」と考え、京都法政学校創設を決意したのではないでしょうか。
さらに、中川小十郎のよき理解者であった木下廣次京都帝国大学総長、日本女子大創立を支援していた廣岡浅子の理解と支援、そして廣岡家社員の西田由(朝日生命保険会社専務取締役)、橋本篤(朝日生命保険会社営業部長)など有能な人材とその環境が恵まれており、中川小十郎の決意を促進したのではないでしょうか。
中川小十郎が京都法政学校を設立しようと計画した際のおもな資金は、廣岡家朝日生命保険会社からの5,000円(現在約2,000万円相当)の無担保融資、住友吉左衛門1,500円寄付、原亮一朗(東京金港堂主)100円、草木邦彦(中川小十郎夫人の弟)100円によってまかなわれていました。また当時京都にあった廣岡家朝日生命保険会社本社の一角に設立事務所を貸与し、廣岡家社員の西田由(廣岡家会社役員)(注3)、橋本篤(後に廣岡家会社役員)(注4)などを派遣するなど人材、資金、施設に支援します。
こうしためぐり合わせと中川小十郎の意志が京都法政学校設立を決断させたのではないでしょうか。そういった意味で、
大阪にいた間に立命館を創立したことは、これは偶然の仕合せだ、
自分の人格を代表するものはこの立命館であろう、
と言わしめた大阪時代は中川小十郎と立命館学園にとって重要な時期ではなかったのかと考えます。
京都法政学校設立準備から設立へ
前述したように1899(明治32)年10月朝日生命保険会社(現在の朝日生命とは別)本社の一室に京都法政学校設立準備事務所を定め、1900(明治33)年1月に京都法政学校設立趣意書を発表、そして1900(明治33)年5月19日京都法政学校が認可されます。この日を立命館学園は創立日と定めました。
(了)
注釈
注1 星野行則 明治3年8月生まれ、廣岡浅子の知遇を得て廣岡商店に入り後に合資会社加島銀行専務理事に就任する。またF・W・テーラー(1856-1915)の科学的管理法理論に傾倒し、加島銀行や大同生命の事務体系、管理組織の改革をすすめ近代化をはかった。
注2 特別認可学校とは『特別認可学校規則』(明治21年文部省令第3号)に定められた「文部大臣の認可を経たる学則に依り法律学政治学または理財学を学びを教授する私 立学校」をさし、この卒業生に限って文官試験の受験資格が認められていた。この認可は文部省がおこない、「特別認可学校」と称していた。
注3、注4の人物については、「立命館百年史紀要第20号 久保田謙次論文が詳しい。
参考文献
「立命館百年史通史1」
「立命館百年史資料編1」
「立命館百年史紀要第20号―京都法政学校設立事務所―その場所とひとをめぐって」 久保田謙次 百年史編纂委員会
「旧制専門学校論」天野郁夫著 玉川大学出版部
「暖流―先考中川小十郎書簡より」勝田節子 自費出版
「土佐堀川」 古川智映子著 潮出版社
「大同生命 100年の挑戦と創造」 大同生命保険株式会社
「大同生命70年史」 大同生命保険株式会社
「値段の風俗史」 朝日文庫 週刊朝日編
「夏目漱石」新潮日本文学アルバム
(史資料センター準備室 齋藤 重)