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2019年度本専攻卒業生・専修修了生への祝辞

 2020年3月、現代東アジア言語・文化専攻から60名が卒業、同専修から1名が修了します。
 今年は、とても残念なことに、卒業式・卒業授与式が中止になってしまいましたので、本専攻・専修担当の先生から記念写真と祝辞をいただきました。
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<庵逧先生から(左)/上野先生・三須先生から(右)>
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<宇野木先生・廣澤先生から(左)/小西先生から(右)>
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<佐々先生から(左)/宮内先生から(右)>
現代東アジア言語・文化専攻・専修の先生方からの祝辞です。


「庵逧ゼミ5期生の皆さんへ」
 ご卒業おめでとうございます。
 この言葉を、直接皆さんにお伝えできないのが、とても残念です。
 卒業までの4年間、悲喜交々色々なことがあったと思います。
 大学生活は、皆さんにとって一種の「ユートピア」です。
 何の打算もなく、対等な学生どうしとして話せる友人がいること。
 その経験が皆さんのこれからの人生で、どれだけ大切な宝物になることでしょう。
 どうぞ、今の気持ちを忘れずに、新しい道をしっかりと歩んでいってください。
 皆さんの笑顔を思い浮かべながら、改めて新しい門出をお祝いします。
庵逧 由香 



 ご卒業おめでとうございます。
 新型コロナウイルス感染の脅威の中、卒業式が中止になったことについては、心から残念に思っています。その決定までには厳しい議論を重ねた上、皆さんやそのご家族の皆さんの安全を考え、断腸の思いで決断したところですので、その点はご理解いただきたいと思います。今秋、今年の卒業生が集まることのできる場を設定させて頂きたいと考えています。
 これから皆さんは社会に飛び立つわけですが、文学部の学びは実学ではないから社会で通用しないとか、不安に思っていませんか?皆さんが文学部で培った文章を作る力、卒論を仕上げる中で培われた考える力、それらは社会で絶対に必要なものです。その点には是非自身を持って頂きたいと思います。
 さて、この4年間(あるいはもう少し)を振り返ってみて、皆さんの学部生時代はどうだったと感じますか?専門の学びや研究、語学、課外活動などなど、なんでもいいので、「これに打ち込んだ」とか「やりきった」とか感じておられれば、我々教員もうれしい限りです。「こういうことを学べばよかった」という後悔のある方もおられるかもしれないですし、社会人になってからそのような後悔をする方もおられると思います。しかし、社会人になってからも学ぶ方法はあります。また、社会人になってからの方がより具体的に学ぶ必要が生じることもあります。大学は社会人の方にも様々な学びの場を提供していますので、そうした時には是非立命館に帰ってきてください。東京キャンパスや大阪梅田キャンパスでの講座もありますし、大学院で学ぶことももちろんできます。是非今後とも立命館を宜しくお願いいたします。来年3月には啓明館の改修が終わり、現ア共研も新しくなりますので、また遊びに来てください。
 最後に、改めまして、ご卒業おめでとうございます。是非またお会いしましょう。
上野 隆三 



 卒業おめでとう!――この言葉を、面と向かってではなく文章でしか伝えられないことを、本当に寂しく思っています。
 「冠状病毒〔コロナウイルス〕」の影響で卒業式が中止にならざるを得なかったこと、やむを得ないこととはいえ、残念でなりません。特に、僕の場合、この3月で立命館大学を定年退職することもあって(4月以降も特任教授として授業を担当し、孔子学院学院長といった仕事も続けはしますが)、皆さんが「最後の学生」だったからこそ、「君たちと一緒に卒業だ!ともに新たな路を歩み始めよう!」と大声で呼び掛けようと思っていたのですが、それも叶わなくなってしまいました。
 今、つい「新たな路」と言ってしまいましたが、4年前、僕が皆さんと初めて顔を合わせた時、つまり学域の新入生歓迎の場で自己紹介兼挨拶をした際に、僕は、中国現代文学の父と呼ばれる魯迅の小説「故郷」の一節を紹介した記憶があります。中国語で発音したので、覚えてくれている方もいるかもしれません。
 「地上本没有路,走的人多了,也便成了路。〔Dìshang běn méiyǒu lù,zǒuderén duōle,yě biàn chéngle lù.〕」訳すと、「地上にはもともと路はない、歩く人が多くなると路になるのだ」となります。皆さんの入学にあたって、僕は、「今、君たちは立命館大学という新たな「地上」の前に立っている、この「地上」を、多くの友達や仲間とともに歩くことを通じて、自分なりの「路」を創り上げてほしい」といったことを述べました。今、是非、後を振り返ってみて下さい。きっと「路」ができているに違いありません。人によって「路」の広さや曲がり方などは異なるだろうけれど、立命館大学に、一筋の「路」が築かれているのは確かです。どんな「路」なのか、誰とともに歩いた「路」なのか、是非、しっかりと確認してほしい、自信にしてほしいと心より願っています。
 同時に卒業にあたっては、今度は、これから歩み出す社会という新たな「地上」に、ともに歩く人を増やしていく中で、つまり友人や同僚、恋人そして配偶者や子供たちとともに歩むことを通じて、「新たな路」、自分の人生という「路」を、是非とも築き上げていってほしいと、改めて強く願っています。ただ、一言だけ、入学時とは異なるニュアンスを付け加えておきたいと考えます。
 魯迅は、「走的人多了,也便成了路」と、「也」という言葉を入れ込んでいる点に注意を払って下さい。「也」は中国語を習った学生は、皆知っているはずの「~もまた/~ということも」という意味の副詞です。ということは、「歩く人が多くなると〔必ず〕路になるのだ」ではなく、「歩く人が多くなると路に〔も〕なるのだ」という意味なのかもしれないのです。魯迅という人間は、楽観主義者とは全く呼べない人間ですので、大勢の人々と一緒に歩いても「路」にならないこともあるかもしれないと考えて、「也」を入れ込んだのかもしれないと、実は僕は考えています。人生とは、そんなに甘くないのかもしれません。
 でも、考えてもみて下さい。「路」にならないかもしれないとしたら、歩くのを止めていいのでしょうか。「路」にならないかもしれないけれど、歩き続けていくのが人生ではないでしょうか。――逆説的な言い方になりますが、皆で歩き続けなければ、決して「路」にはならないのだと、僕は考えています。
 僕も、皆さんと一緒に歩き続けながら、「路」を創り上げるつもりです。立命館大学に創った「路」を、自分の「確信」にしながら……。
 卒業、本当におめでとう。再見!(原義は「また会おう!」です。)
宇野木 洋 



 「小西ゼミの皆さんへ」
 ご卒業おめでとうございます。
 私は普段は別の大学(大阪大学)におり、皆さんとは週に1回、そして2年間という短い間のお付き合いでした。皆さんに対して充分に指導ができていたかどうか、反省する点もあります。それでも最後に「ゼミ論集」を作成することができてよかったと思います。それだけに、卒業する皆さんの晴れ姿を見ることができないことを、とても残念に思います。
 さて、私は1974年に大阪外国語大学外国語学部朝鮮語学科に入学して、朝鮮・韓国についての勉強を始めました。1年生19人のうち、女子学生は1人だけでした。当時、韓国に関しては、金大中氏拉致事件、文世光事件(朴正熙大統領夫人射殺事件)などの暗いニュースが多く、女性に敬遠されていたのかもしれません。その後、ソウルオリンピック開催、冬ソナ、K-POPなどを通して、韓国に関心を持つ女性もずいぶん増え、私の本務校である大阪大学外国語学部外国語学科朝鮮語専攻でも、今や学生の7~8割が女子学生となっています。立命館の小西ゼミの皆さんも全員女性でしたね。ところが、数年前から日韓関係はぎくしゃくしだし、今年は新型コロナウイルスの流行もあって、日本と韓国の間の交流はずいぶん低調になっています。日本と朝鮮・韓国の関係は、これからどうなっていくのか予測は難しいですが、皆さんは、学生時代に持っていた韓国・朝鮮に関する関心を持ち続け、どうすれば日本列島と朝鮮半島に住む人々が仲良く平和に暮らせるのか、ということを考えていってほしいと思います。
 今回は皆さんにお会いすることはかないませんが、何かありましたらいつでもご連絡をください。どうぞお元気で。
小西 敏夫 



 「卒業生の皆さんへ」
 卒業おめでとうございます。今年は新型コロナウィルス感染拡大のために卒業式が中止となってしまい、皆さんの晴れやかな姿をこの目で見ながら、新たな門出を一緒に祝うことができないのをとても残念に思います。入学してから今まで様々なことを学び体験したと思いますが、それらを糧にこれから社会人として大いに活躍していってください。またいつかどこかで皆さんの「成長した姿」を見るのを楽しみにしています。
佐々 充昭 



 ご卒業おめでとうございます。
 これから社会に出ようというみなさんに対して、ひとこと…、
 人生のうちの8割から9割は、人からやらされる仕事やしなければならないことで占められているんじゃないとか私は考えています。自分がやりたいと思ってできることは1割2割あるかどうかだ、と。苦痛だったり、面倒くさいことがほとんどだと思います。でも、そうしたやらされ、やらなければならないからやる仕事の中で、自分を磨き、何かを得てゆく、そうしたたくましさが重要だと思います。そして、できることなら、そこで得た経験やスキルを、自分がやりたいと思っていることに活かすことができるように。さらに、自分がやりたいことは勇気を持って素直に実行するのがよいと思います。かりに、いますぐはできなくても、いつか必ず絶対に圧倒的にやる、という心構えで。
 人生には、前歯がなくなったり、5年に一度くらい足にギブスを付けることになったり、胃腸炎で救急車で運ばれたり、失敗作と思える論文を書いてしまうことがありますが、自分が本当に充実していると思える期間、人生がおもろいと感じる瞬間ができるだけ多い人生にしていってほしいと思います。
 みなさんの幸運を祈ります。
 元気で、おもろい人生を歩んでいってください。

廣澤 裕介 



 「あいだを生きよう」
 卒業おめでとうございます。
 新型肺炎感染拡大防止のため、卒業式のない卒業を迎えることになったみなさんには、ただ申し訳なく、わたしじしんも非常に残念に思っています。
 でも、人生には思い通りにならないことはたくさんあります。二十年ちょっと生きてきただけのみなさんも、そんなふうに感じたことがあるかもしれません。これからの人生にだって、「思い通りにならないこと」はきっとたくさんあるでしょう。思い通りにならないことで世の中は、人生は、満ちています。たとえるなら、紙やすりにつねに触れているようなもので、だからこそ、痛みや苦しみ、怒りを感じることもあるでしょう。でも逆に、ささやかな幸せを見つけたときの喜びも大きい。それに、思い通りになる可能性があるからこそ、思い通りにならない悔しさを感じることもあるわけです。それが「自由」というものです。
 みなさんとは主に中国語の授業で多くの時間を過ごせたと思います。外国語を学ぶことによって、その国や地域の社会や文化、歴史により近づき、親しむことができます。その言語で書かれた小説や詩を読み、そこで生きる人々の心情、まなざしを感じることができます。たとえ流暢に話すことはままならなくても、中国語の学びを通じて、みなさんの世界は確実に広がったのではないでしょうか。そんなふうに、国境だけでなく、思い込みや偏見、そして心の壁も乗り越えるレッスンを、意識的に、あるいは無意識に、みなさんはこの4年間でしてきたと思います。
世界が内向きになりつつある、あるいはもう既になっているこの時代を生きていくために、そのレッスンはきっと効果を発揮するでしょう。そして壁と壁の「あいだ」を生きていってください。壁から投げ出された人々に手をさしのべ、壁の内側から出られない人々の手を繋いでいく。そんなやさしい気持ちを忘れずにいてください。
 あいだを生きよう。そして、卒業おめでとう。
三須 祐介 



 ご卒業おめでとうございます。
 これからの東アジアに生きる私たちはどうあるべきなのか、みなさんと4年間考えてきました。
 中国や韓国、台湾や香港の歴史や文化・社会について学び、そして、そこに暮らす人々との交流を通じて、その共生の可能性を十分に感じ取った方もいらっしゃるかと思います。
 その一方で、近年の東アジアはボーダレスとは相反する動きが見られることも事実です。東アジアの共生は本当に可能なのだろうかと不安になるニュースも少なくありません。
 弱者を傷つけたり、他者を区別・排除したりする不寛容は無くならず、グローバリゼーションの名のもとに、市場原理主義の野放しな侵食が、ギスギスした利己的な社会を生み出しています。それは日本・東アジア・世界に共通する問題として、私はある種の危機感を感じています。
 さりながら、ひとりでは生きていけないのが人間で、この世であることは真理だと思います。一体性を見出すことが難しいなかで、自身の居場所をさがしつつ、他者に働きかけて、ともに幸せに生きていくには、それにふさわしい場所を見つけなければならないし、さもなければ、新たに創りだすしかないと思います。
 東アジアに生きる人々は何を考え、求め、そして、どのように生きてきたのかについて、東アジアをつぶさに見つめ、学び、体感してきたみなさんには、これからの魅力的な東アジア、そして世界を創造していく「知」があると信じています。だれもが共生できる社会を探し続けてほしいと思います。
 最後にもう一度、卒業おめでとう。
宮内 肇