STORY #2

文化の伝播と変容
仏教美術のダイナミズムを追跡する

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  • 仏教美術
  • アジア

西林 孝浩

文学部 准教授

千余年の時を超え、
壁画の謎を解く。

インドを起点として、東南アジアや中央アジア、中国、さらに朝鮮半島、日本へと伝播した仏教美術。
地域的・時代的に拡大してゆく仏教は、様々な人々の文化や価値観と融合し、変容を遂げていった。そうした文化の伝播と変容の足跡を、造形作品から辿っていくところに、仏教美術史の面白さがある。

西林孝浩は、中国の唐代7~8世紀の仏教美術に、そうした伝播の足跡を発見している。「唐の都であった長安(現在の西安)や洛陽近郊の龍門石窟の造像作例の中に、玄奘がインドから持ち帰った仏像を手本としたものが含まれている可能性については、従来から研究者によって議論されていました。私は、長安の影響を強く受けていた7~8世紀の敦煌莫高窟壁画の中にも、同様に玄奘がインドから持ち帰った仏像に由来するものが含まれるのではないかと考えたのです」

中国の史書に、西域との境界に位置すると記され、シルクロードの要衝として、古くから栄えた敦煌には、仏教石窟として著名な莫高窟がある。比較的早期にあたる5~6世紀頃の莫高窟壁画には、インド・中央アジア的な造形要素も見いだされるが、唐による西域への進出時期であった7世紀後半~8世紀前半の莫高窟壁画は、都、長安からの中国美術の影響を、リアルタイムで受けていたとされる。

西林は、7~8世紀の莫高窟壁画の中に、右肩を露出させた偏袒右肩という衣の着付け方で、法を説く手のポーズである転法輪印を示して坐す姿の仏像が、一定数出現し、それらが細部造形に至るまで共通することから、何らかの手本の存在を想定した。更にその手本の元となったのは、7世紀に玄奘三蔵が、インドから持ち帰った仏像であったと考えたのだ。玄奘が持ち帰った仏像のリストが、彼の旅行記である『大唐西域記』に記載されており、その中に、釈迦が悟った内容を初めて語った鹿野苑(サールナート)での場面を表した仏像の模刻品がある。玄奘が持ち帰った仏像は現存しないが、その姿を、インドの5~10世紀の仏像作例(図❶、図❷)から復元してみると、先述の莫高窟壁画の中で共通する仏像の姿に合致すると、西林は言う。

❶アジャンター石窟第4窟 仏坐像 5世紀

ナーランダー遺跡出土 仏坐像

❷ナーランダー遺跡出土 仏坐像 9〜10世紀

地図上の朱線は、玄奘『大唐西域記』の記述をもとに、その行程を示したもの。破線部分は、玄奘自身が実際に通過したか否か研究者によって意見が分かれている。

手本に基づいた仏像は、ただ単体で描かれるだけではありません。経典に書かれているエピソードや、極楽浄土の様子を、パノラミックに描いた大画面変相図が、7~8世紀に発展します。ちょうどこの時期、中国では、山水の変と呼ばれる、山水画の変革時期を迎えていました。中国で山水画と言えば、水墨画を思い浮かべる方が多いと思いますが、水墨画発展の前段階にあたる7~8世紀は、色彩豊かに描かれる青緑山水が主流です。複雑な景観描写を可能としたそれら山水画と融合しつつ、大画面変相図(図❸)も発展します。その中心に、玄奘が持ち帰ったインド仏像に由来する姿が組み込まれるわけです。そのような大画面変相図を通して、中国仏教徒のインドからの辺土(遠く離れた)意識を少しでも解消する、或いはインド仏教からの継承性を積極的に主張する意図があったと考えています」

最近の約20年間は、莫高窟壁画の調査と分析が進み、資料や先行研究も、目覚ましい進展を見せる。そうした先行研究に目を通すうち、西林は、それまで釈迦の生涯を描いたものだと考えられていた莫高窟の第217窟壁画の1つの主題に疑問を持つ。「現地調査の結果を持ち帰り、経典の主題ごとに変相図を分類した資料とつぶさに突き合せたところ、この絵が、金剛経変という『金剛般若経』の一場面を表した変相図のパターンとピタリと合致していることに気づいたのです」
さらに経典をひも解くと、釈迦が、街で乞食という修行を行い、祗園精舎に戻り、足を清めた後に説法を始めるという場面を見つける。第217窟の変相図(図❹)が、まさにこの場面を描写したことが裏付けられ、しかも金剛経変のうち、現存最古の作例であることが判明したのだ。
経典や歴史書、変相図、仏像などを手がかりに、1000年以上前の造形が、一体何を表現しているのかを突き止める。まるでミステリの謎解きのような興奮が、仏教美術研究にはある。

敦煌莫高窟第217窟南壁

❸敦煌莫高窟第217窟南壁 仏頂尊勝陀羅尼経変 8世紀初

敦煌莫高窟第217窟西龕天井

❹敦煌莫高窟第217窟西龕天井 金剛経変 8世紀初
*図❸、図❹ともに玄奘が持ち帰ったインド仏像に由来する姿が、画面中央に描かれている

敦煌莫高窟の外観/塑像や壁画が数多く残る南区の石窟は、合計492窟ある。石窟の開鑿は4世紀と伝えられ、5〜14世紀にかけて、活発な造営が行われた。楼閣建築風の外観をもつのは、7世紀末に造営された第96窟で、内部に大仏を安置する(建築は後代の修復)。このやや南側(向かって左)の位置に、第217窟(図❸❹)がある。

2016年3月1日更新