第一章 『文選』全體像の概觀 |
四、收録作品の分野別統計による分析
賦 詩 騒 七 散文 合計 周 秦 4篇 2,784字
7% 4%1篇 1首
43字 0.2%7篇16首 6,340字
94%- 3篇 1,445字
2% 1%10,612字 前 漢 8篇 10,144字
14% 14%7篇 32首
2,598字 7%1篇 1首 195字
6%1篇 8首
2,337字 33%25篇 22,340字
15% 18%37,614字 後 漢 15篇 23,678字
27% 32%15篇 28首
2,862字 6%- - 23篇 14,599字
14% 12%41,139字 建安以前 13篇 22,711字
23% 31%1篇 4首
348字 0.9%- - 13篇 6,529字
8% 5%29,588字 建安以後 2篇 967字
4% 1%14篇 24首
2,514字 5%- - 10篇 8,070字
6% 6%11,551字 三 國 3篇 4,822字
5% 7%25篇 57首
5,960字 13%- 1篇 8首
2,139字 33%25篇 16,140字
15% 13%29,051字 晉 代 19篇 27,454字
34% 38%73篇 142首
16,923字 32%- 1篇 8首
2,434字 33%32篇 26,785字
20% 22%73,596字 西 晉 16篇 23,666字
29% 33%61篇 124首
13,329字 28%- 1篇 8首
2,434字 33%25篇 19,261字
15% 15%58,690字 東 晉 3篇 3,788字
5% 5%12篇 18首
3,594字 4%- - 7篇 7,524字
4% 6%14,906字 宋 5篇 2,892字
9% 4%81篇 105首
2,647字 24%- - 18篇 7,899字
11% 6%22,438字 齊梁代 2篇1,132字
4% 2%48篇 77首
6,850字 17%- - 36篇 35,621字
22% 29%43,603字 齊 - 23篇 23首
2,060字 9%- - 7篇 13,689字
4% 11%15,749字 梁 2篇 1,132字
4% 2%25篇 54首
4,790字 12%- - 29篇 21,932字
18% 18%27,854字 全 体 56篇 72,906字 250篇 442首 8篇17首 6,565字 3篇 6,910字 162篇
124,829字
この表を一見して分かるように、「騒」の採録の仕方は例外的で、他の分野と全く異なり、前漢の小品「招隱士」が一篇選録されているものの、殆どすべてが周代の屈原とその弟子宋玉の作品であるといっても過言ではなく、後漢以後の作品は全く採録されていない。これは『文選』の撰者が「騒」という文體は屈原・宋玉の時代に全盛期を迎え、以後、前漢には變質衰退し、やがて消滅してしまったという認識を持って選録した結果であると思われる。この「騒」は、いずれ王逸『楚辭章句』から採録されたものであろうから、その收録傾向を繼承して上記のように屈原・宋玉が中心となったのであろう。
しかし、「九歌」十一篇中の六篇、「九章」九篇中の一篇を採録するのみで、他の篇を不採用にしたり、多數存在する漢代の「騒」の中で、ことさら百九十五字の小品にすぎない「招隠士」を漢代の代表的「騒」として採録したりしている點などに『文選』撰者の特異さが窺われる。今は概觀による分析を行っている途次なので、この點についての檢討は控えるが、「微觀的」手法で詳細な究明を行う際には是非檢討すべき課題である。
さて「賦」の文體においても『文選』の撰者は全文體総合の傾向と同樣、西晉を重視し、最も多い16篇の賦を採録している。しかし、それ以後は全文體総合の傾向と相異し、東晉3篇、宋代5篇、齊代0篇、梁代2篇のように、極端に減少している。これに對して漢代の賦は前漢8篇・後漢15篇というように多數採録されおり、「詩」・「文」の分野の傾向と大きく相異した現象が現れている。その結果、全文體総合の採録傾向とは逆に漢・魏の採録作品の合計(30篇)が晉代以降の合計(26篇)を上囘るという現象をもたらしている。これは言うまでもなく『文選』の撰者が「漢賦」に對して非常に高い評價を下していたことを示す軌跡である。
「漢賦」に對する評價が後世、漸次決定的に高くなっていくにしたがって、どうしても『文選』が多數の「漢賦」を採録している傾向のみに注目し、その印象が擴大強化されがちになっている。しかし、上述の通り、「漢賦」の採録數よりもなお一層多くの「晉賦」が採録されている事實も見逃してはならない。これは『文選』の撰者が漢代の賦を重視する一方で、晉代の賦をより高く評價していたことを示す軌跡であると見られる。ただ、全體の傾向と異なり、宋代以降の採録がわずか7篇、13%と極端に減少しているところを見ると、『文選』の撰者は、「賦」という文體は「漢賦」と「晉賦」の二大盛期の後、次第に變質衰退し、ついに規範とすべき作品がなくなって來ていると認識していたように見える。また、「賦」の盛期が漢と晉との二期に別れてあるのは、賦が「邑居を述べ、田獵を戒め」(「文選序」)た長篇の賦から、「一事を紀し、一物を詠じ」(同前)た短編の賦へ變質して行ったことに原因があると推量される。
次に「詩」の分野について見ると、その採録篇數は周秦1篇、前漢7篇、後漢15篇、三國25篇、西晉61篇、東晉12篇、宋81篇、齊梁48篇となっている。
この採録の軌跡から見ると、『文選』の撰者は宋代の「詩」を最も高く評價し、次いで西晉、齊梁の「詩」を評價して採録していることが分かる。
齊梁の作品は撰者と殆ど同時代の詩文であるから、一般に遠い過去の作品に比し客觀的な評價が難しく、對立する派閥の作品に對してはどうしても嚴しくなる上、生存者の詩文は採録しないという暗黙の與件も加わり、本來採録範圍が相當限定されている。そのような窮屈な限定的條件下での48篇という採録數は、相對的にはほぼ西晉の61篇に匹敵すると言っても過言ではなかろう。それ故、大局的に見るならば、「詩」の採録數は相對的に時代が下るにつれて増加していっていると認めてもよかろう。つまり、『文選』の撰者は、「詩」という文體は時代とともに變質發展してきているとの認識を持って選録していると見られる。これは、まさしく齊梁代の沈約が著し、『文選』に採録されている「宋書謝靈運傳論」の文學觀に合致したものである。
次いで「文」の分野の採録數を擧げると、周秦3篇、前漢25篇、後漢23篇、三國25篇、西晉25篇、東晉7篇、宋18篇、齊梁36篇という結果になっている。
「漢文」が合計48篇も採録されていることから見て、『文選』の撰者が漢代の「文」を重視していたことは言うまでもないが、各々二百年間も續いた前漢の25篇及び後漢の23篇と比較して、梁の29篇の採録はとりわけ撰者と同時代のわずか26年間という限定された期間の採録だけに、相對的には突出して大量と判定できよう。こうした選録傾向から見る限り、「文」の分野においても『文選』の撰者は多くの文體が完備した齊梁こそ最も重視すべきとの觀點を持って選録に當たったものと思われる。
以上文體別の採録數に據って檢討してきたが、『文選』は、文體そのものが變質して消滅してしまった「騒」を除いて、基本的には漢魏の詩文より晉以後の詩文の方を重視し、より多くの作品を選録して編纂されていると判定できよう。これは、『文選』の撰者がその序文に「夫の椎車は大輅の始め爲るも、大輅寧ぞ椎車の質有らんや。増冰は積水の成す所爲るも、積水に増冰の凛さ微きが若きは、何ぞや。蓋し其の事を踵ぎて華を増し、其の本を變じて厲を加ふればなり。物既に之有り、文も亦宜しく然るべし。時に隨ひて變改す」(「文選序」)と論述している通り、あらゆる「物」がそうであると同樣、詩文も時代とともに「質」から「華」へ變容發展し、多樣化してきたという觀點を以て『文選』を編纂した結果であると言えよう。
近代においては、唐宋の「古文復古」以來、「文」は漢文が是とされ、六朝以降の四六駢儷文は虚飾に満ちた文であると評價されてきている。このような觀點から言うと、『文選』の詩文は晉以後の採録が壓倒的に多數を占めるという統計が出ているのであるから、その外郭においては一般的に從來の研究者の言うように「文質彬彬たる古典的詞華集」と判定することは困難であろう。しかし、嚴密に言えば「文質彬彬」の内實は時代によってかなりの懸隔があるので、この「文質彬彬」たる性質を有した詞華集という結論はあくまで明確な概念規定の後に判斷すべきであろう。
いずれにせよ、できるだけ先入觀を排して、あくまで數量的な分析に據って、『文選』の全體像を大まかに描いてみると、『文選』は晉代以降の「華」「厲」を加味した「翰藻」(美飾)ある詩文を中心に選録された詞華集であるという輪郭が浮かび上がってくる。
しかし、ただ『文選』の輪郭を描くにしても、單に時代別の採録情況を統括的に分析するのみでは、各作家の持つ傾向性まで考察することは困難であるから、より密度の高い鮮明な『文選』全體像を描くためには更に各作家別の具體的採録情況を分析考察しておくことが是非必要であろう。