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第一章  『文選』全體像の概觀

五、全文體作品の作家別統計による分析
D.文の分野による分析

  (1)任彦昇 17篇9,889字
  (2)陸士衡 8篇10,131字
  (3)班孟堅 7篇3,683字
  (4)陳思王 6篇5,910字
  (5)潘安仁 5篇3,656字
  (6)顔延年 5篇2,769字
  (7)范蔚宗 5篇2,723字
  (8)沈休文 4篇4,162字
  (9)陳孔璋 4篇4,098字
  (10)司馬長卿 4篇2,843字

元來、後に「漢文」と尊稱されるように、漢代の文章は「古文復古」以來、長期間散文の主流となることが多かった關係上、近代以降は「漢文」こそが正統な模範文と評價され、四六駢儷文は相對的に低く評價されがちであった。そうした情況を反映して、近代の研究者は『文選』に司馬長卿の文が4篇2,843字、班孟堅の文が7篇3,683字、陳孔璋の文が4篇4,098字も採録されているのを見ると、往々にしてそれのみに氣を取られ、つい『文選』は「漢文」を中核に選録されているように錯覺してしまう傾向にあった。

しかし、虚心に統計してみると、梁の任彦昇の採録數が17篇9,889字と抜群に多く、同じ梁の沈休文の4篇4,162字を加えるまでもなく、上記三名の「漢文」の合計採録篇數を上囘っている結果が出ている。この點からも十分に察しがつくように、實際は晉以後の四六句を基調とした駢儷文風の散文の方が「漢文」よりはるかに多數採録されているのである。梁代の任彦昇・沈休文、宋の顔延年の文は言うに及ばず、上位十名中の東晉の范蔚宗、西晉の陸士衡・潘安仁の文も外面的に見ると四六句の對句を基調とした殆ど駢儷文風の散文である。こうした採録數の統計から分析する限り、『文選』の「文」の分野では、規範となる文の源流として「漢文」を採録した基礎の上に、そこから變質發展して來た種々の文體の、豊かな文飾性を持つ當世流行の文を中核として多數選録して編纂されているという輪郭が現れてくる。

以上、主として統計的な方法によって『文選』の大體の輪郭を大雑把に分析檢討してきた。この『文選』の概觀を統計によって分析檢討する方法は一見單純に過ぎるように見えるせいか、從來全く採用されることはなかった。しかし、從來の研究が『文選』は昭明太子の「文質彬彬」たる文學觀を規準に選録されているはずであるという先入觀や『文選』の收録作品はすべて模範的な詩文であるとする固定觀念に影響されて、ややもすると全體の輪郭を見誤ることが多かった情況を考慮すると、種々の先入觀や固定觀念に左右されることなく、客觀的に事象を計測できる特點を有するこの單純な統計こそ、かえって大雑把な選録の軌跡をより正確に描き、詞華集の輪郭をより鮮明に追究し得る最も有効な方法であると見られよう。


上述の『文選』に採録された450餘篇の作品は、實際に創作する際の規範として用いるのに便利なように、具體的には次の37種の文體に區別して編集されている。これは、恐らく晉の摯虞の「文章流別」の分類に實用文を加えたりして、一部手直ししたものと思われる。

賦 詩 騒 七 詔 册 令 教 策文 表 上書 啓 彈事 牋 奏記 書 檄
對問 設論 辭 序 頌 贊 符命 史論 史述贊 論 連珠 箴 銘 誄 哀
碑文 墓誌 行状 弔文 祭文
  

さらに「賦」・「詩」は、文選序に「凡そ文を次づる體は、各彙を以て聚む。詩賦の體は既に一にあらず、又類を以て分かつ。類もて分かつの中は各時代を以て相次づ」と述べてある通り、「類」(内容)別に區分し、さらに時代順に並べて編集してあるという。實際、現存の『文選』を見てみると、次のように分けて收録されている。

〔賦〕 京都 郊祀 耕籍 畋猟 紀行 遊覧 宮殿 江海 物色 鳥獸 志
哀傷 論文 音樂 情
〔詩〕 補亡 述徳 勸勵 獻詩 公讌 祖餞 詠史 百一 遊仙 招隠
反招隠 遊覽 詠懷 哀傷 贈答 行旅 軍戎 郊廟 樂府 挽歌 
雜歌 雜詩 雜擬

この「部立」も所收の詩文を規範として實際に創作するに際して、當該の詩を檢索し易いように上記の如く分類してあるようである。ただし、序文に「賦」・「詩」においては上述の如く、收録作品を時代順に配列した(「相次」)したと述べているが、現存の『文選』においては、例えば巻二十「公讌」では曹植の詩が王粲・劉*驕E應璩詩の前に排列されているのに對して、巻二十一「詠史」では王粲の詩が曹植詩の前に配置され、巻二十九「雜詩」類では王粲・劉*驍フ詩が曹丕・曹植詩の前に排列されており、必ずしも時代順の排列にはなっていない。このような排列の不統一はどのような原因によってもたらされたのであろうか。各巻の選録担當者が各自の方針によって排列し、統一的編纂をするものがいなかったのか。あるいはまた抄寫や版本の流傳中の混亂によってそうなったのか。この一見些事に見える問題は、なお殆ど本格的に究明が試みられたこともなかったが、實際には『文選』編纂の具體的状況を究明する手掛かりとなる可能性を持った重大な要素を有している。

なお、この『文選』は梁代に編纂された當初は三十巻本であった。しかし、その後、李善や五臣によって注釋が施され、唐朝以後はすべて六十巻本となり、原初の三十巻本は亡佚してしまった。代表的な尤袤本を始め、現存する各種の版本は、李善注本であれ、五臣注本であれすべて六十巻本として傳わっている。

統計的方法に據り『文選』の概觀を分析して得られた『文選』の外郭は、基本的な點において從來の結論と相當の差異がある。そこで、次にいずれが『文選』の實像に近いのかを檢證するために「微觀的」手法で更に『文選』の細部を分析檢討して行く必要があろう。 從來の結論は、あくまで昭明太子を『文選』の中核的撰者と見なした上で、彼の文學觀を規準に『文選』の内容を分析檢討して得られたものである。それ故、その當否を檢證するためには、まずその結論を導き出す基礎となっている撰者問題を中心に、具體的な『文選』編纂實態を詳細に考察しておかねばなるまい。


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