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第二章 『文選』編纂の實態

一、從來の『文選』編纂實態の究明情況

『梁書』・『南史』の昭明太子傳及び『隋書』經籍志四の記載に據ると、『文選』三十巻の撰者は、梁の昭明太子蕭統(501〜531)であると明記されている。

◎所著文集二十巻。又撰古今典誥文言、爲正序十巻。五言詩之善者、爲文章英華(『南史』無「文章」之二字)十巻。文選三十巻。(『梁書』巻八昭明太子傳・『南史』巻五十三梁武帝諸子傳 昭明太子)
著はす所の文集、二十巻。又、古今の典誥文言を撰し、正序十巻を爲る。五言詩の善き者
(を撰して)、文章英華(『南史』には「文章」の二字無し)二十巻を爲る。文選三十巻。

◎文選三十巻 梁昭明太子撰(『隋書』巻三十五 經籍志四・集部・總集)

その後の各正史の藝文志・經籍志においても、巻數こそ異なることがあるものの、撰者に關してはみな同樣の記載があり、いずれにしても「昭明太子撰」であることには間違いはない。

しかし、これら正史中に見られる「撰」という概念は、必ずしもいつも實際の編纂擔當者を意味しているわけではない。例えば、『梁書』・『南史』の高祖武帝紀及び『隋書』經籍志に「梁武帝撰」と明記してある「通史」は、『梁書』・『南史』の呉均傳に據ると實際には呉均が本紀等を著述編纂したと明記されている。武帝は具々體的には『通史』編纂の詔敕を出し、完成後に序文を書いたに過ぎない。

一般に正史の記載に皇帝・太子・王侯の「撰」とある場合には、往々にして個人的な「撰」とは意味が異なり、實質的な編纂事業の中核となって常時參畫することはむしろ少なく、單に所謂名譽総裁的な存在に過ぎない場合の方が多い。

『文選』編纂の實情も、『梁書』・『南史』等の記事及び『文鏡秘府論』等の記載を分析檢討してみると、あるいはこれに類する可能性がかなり強い。

近年、日中の殆どの學者も基本的にはこの點は認め、漸く昭明太子一人が中核となって編纂したのではないというのが共通した見方になってきている。

例えば、曹道衡・沈玉成氏などは「有關《文選》編纂中幾個問題的擬測」(『昭明文選研究論文集』吉林文史出版社所收1988年)において、「帝王署名の編著書は、多く場合、門下の手に出るのが通例であり、『文選』もその例外ではない。」(「帝王署名編撰的書,多出門下之手,這已經是一種通例。《文選》當也不例外。」)と明記されている。

就中、林田愼之助氏などは明確に「『文選』の編者は昭明太子となっているが、その文學集團の領袖的存在であった劉孝綽が事實上の編纂指導をはたしたであろうとみなされている。」(『中國中世文學評論史』第四節「『文選』と『玉臺新詠』編纂の文學思想418頁)と述べておられる。

それにもかかわらず、實際に『文選』の作品選録規準等を究明する段になると、何故かこの視點がすっかり忘却され、依然として『文選』編纂實態の具體的究明がなおざりにされてしまう傾向にある。

例えば上記の曹道衡・沈玉成氏などは、折角具體的に劉孝綽の果たした實際的編纂の役割を詳細に究明されながら、何ら具體的根據を提示されることもなく、いきなり、「種々の現象より見て、『文選』は蕭統の文學觀に基づいて、彼の實際的『主持』の下に編纂が進められたものである。」(「《文選》是按照蕭統的文学觀,并他的実際主持下進行的」)と述べられ、依然として傳統的觀點に固執し續けておられる。また、現在の中國における『文選』研究の大家である屈守元先生も自著『文選擬響』(巴蜀書社1993年)中において「劉孝綽の『文選』編纂工作における地位は眞に大變重要である。」(「劉孝綽在文選編纂工作上的地位,眞重要了!」)と認めながら、一方ではやはり「『文選』の主編權を蕭統の手から奪い取り、劉孝綽に與えるのは、完全に間違いである。」(「把《文選》的主編權從蕭統手上奪取給劉孝綽,那就完全錯了!」)と斷定的に記述されている。

我が國においても、中國古典文學研究の權威として今なお後學者に影響の強い鈴木虎雄博士は、『支那詩論史』に於いて、「其の文として之を採るの標準は『文と質とを兼ね、風教を害せざるもの』たるに在り。是、之を彼(昭明太子を指す―筆者註―)の持論に於て見るべきのみならず、『文選』を取て之を讀むときは用意の此に存するを知るに足る」(第四章齊梁時代(二)、文學に對する取捨の標準の説79頁)と説明され、『文選』がまったく昭明太子の「持論」(文學觀)で編纂されているが如くに論述されている。

また、『文選』研究史上多大の貢獻を成し遂げてきた廣島大學グループの小尾郊一博士も「獨創的で修飾された文すべてが、文選に採用されているかといえば、そうではない。彼(昭明太子を指す―筆者註―)の純文學と然らざるものの規準は明瞭に示しつつも、實際の文章選擇に當っては、自ら別の尺度があった。それは内容と表現とが調和のとれた文章こそすぐれた文學と考えることである。いわゆる『文質彬々たる』文章であり、これは周知のごとく、『答湘東王求文集及詩苑英華書』に見えることば」であると斷られた後、「これから考えると、彼は技巧を凝らした過度の美文をきらっていたことが分り、またある程度の道徳的内容を含んでいたものを認めていたことになる。文選編纂に當ってこの尺度がまた大いにあてはめられていたこと、文選の作品を見ると十分理解できる。」(「昭明太子の文學論―文選序を中心として―」廣島大學文學部紀要二十七號)と結論され、『文選』はあたかも昭明太子の「尺度」(文學觀)によって編纂されているかの如くに説かれている。

これら代表的な『文選』研究家の見解に見られる通り、從來の日中の論著は殆どみな遺憾ながら「正史」の「文選三十巻梁昭明太子撰」という記述の内實に何ら具體的な檢證を加えることもなく、『文選』編纂の中核的人物の究明を等閑に付したまま、舊態依然として『隋書』經籍志等の「昭明太子撰」に全面的に依據しつつ、安易に昭明太子が『文選』の實際の中核的編纂者であると即斷した上で、『文選』諸問題の研究を進め、終には「文選序」中に見えない昭明太子の文學觀を援用して、『文選』は昭明太子の「文質彬々」たる文學觀に據って編纂された古典主義的傾向の詞華集であると結論づけている。

また、鈴木博士は「『文選』を取て之を讀むときは用意の此に存するを知るに足る」と述べられ、小尾博士も「文選の作品を見ると十分理解できる」と記しておられるけれども、上記の結論はみな實際には決して『文選』收録の作品を精讀した上で、これらを一々丁寧に分析檢討して得られたものではない。すべて現存する昭明太子の詩文を分析歸納して得られた「彼の持論」・「尺度」(太子の文學觀)に據って導き出されたものばかりである。

實際に少しでも『文選』收録作品の内容を一つ一つ分析檢討さえしていれば、すぐに例えば「神女賦」・「登徒子好色賦」・「宋書謝靈運傳論」等、明白に「『文質彬々たる』文章」を是とする「彼の持論」・「尺度」と齟齬矛盾する作品が相當數選録されていることに氣づくはずである。

ところが、『隋書』經籍志等の「正史」が記載する「昭明太子撰」という表記を文字通り「太子の實質的編纂」と見る傳統的觀點に固執するあまり、從來の研究者はみな、敢えて兩者を照合し、檢證してみる必要性など全く認めず、殆ど齟齬矛盾の存在にすら氣づくことなく、上述の結論を一樣に固持繼承してきたのである。これが取りも直さず詞華集としての『文選』の實像研究を停滯させてきた根本要因であると見られる。 そこで、以下當時の社會的背景を稍しく丁寧に分析檢討することを通して、梁代の「詩文集」編纂の實態を明らかにした後、具體的に實質的な撰者問題等の檢討を中心にして『文選』編纂の實態を究明して行くことにしたい。


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