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第二章 『文選』編纂の實態

二、六朝の「總集」(詩文集)編纂の實態

六朝時代の士大夫達は、儒教一尊の漢代と大いに異なり、「玄・儒・文・史」にわたる豊かな教養を兼備することを理想と考えていた。しかし、本來根本的に相反する玄(老莊)・儒(孔孟)の思想を兼備することは至難の業であると同時に、相矛盾することでもあった。それ故、結局、彼らの具備し得たものは、いきおい、どうしても抽象的で皮相な知識に終始し、とうてい現實に生起する事案に對處し得るような活きた思想ではなくなっていた。その結果、「玄・儒」への尊崇は次第に減退して行き、それに代わるものとして、自らの規範となり得る人間の多樣な生き方を具體的に提示し得る「文・史」の重要性が漸次増大していったのである。

六朝末には、『梁書』に「夫の二漢の賢を求むるを觀るに、率ね經術を先にす。近世は人を取るに、多く文史に由る」(「江淹・任昉傳論贊」)と指摘されている通り、選擧登官の途においてさへ、「文・史」に由って採用昇進させるといった状態になっていた。

この「文・史」中でも、殊に「文」の地位は、梁陳の史家姚察が「夫れ文學は、蓋し人倫の基づく所か。是を以て君子は衆庶と異る。昔、仲尼の四科を論ずるや、徳行に始まり、文學に終る。斯れ則ち聖人も亦た貴ぶ所なり」(『陳書』巻三十四「文學傳論贊」)と論述している通り、壓倒的に高くなっていた。六朝の士大夫達は「文學」こそ人倫の基本、自らを衆庶と區別する規範であると見なし、具備すべき必須の教養であると確信していた。それ故、詩文を創作し得る能力の獲得は、當然貴族としての生活を維持していく上に於て必要不可缺な要素となっていたのである。

一方、傳統的な貴族間の均衡を圖りつつ、軍事力に據って政權を獲得してきた六朝の歴代朝廷は、社會の安定を圖るべく、必然的にこの貴族間の風潮を受容し、詩文の優劣を以て士大夫を抜擢する傾向を次第に増大させて行った。こうして終には直接祿利の途徑に繋がった「文」への傾倒はますます増強し、士俗を問わず、その子弟達は殆どみな儒學を專修することを放棄し、專ら詩文の創作に腐心するという状態に陷っていた。こうした情況は、隋の李諤の「上書」に次のように明記されている。

魏之三祖、更尚文詞、忽君人之大道、好雕蟲之小藝。下之從上、有同影響、競騁文華、遂成風俗。江左齊梁、其弊彌甚、貴賤賢愚、唯務吟詠。遂復遣理存異、尋虚逐微、競一韻之奇、爭一字之巧。連篇累牘、不出月露之形、積案盈箱、唯是風雲之状。世俗以此相高、朝廷據茲擢士。祿利之路既開、愛尚之情愈篤。於是閭里童昏、貴遊總丱、未窮六甲、先製五言。(『隋書』巻六十六李諤傳)
魏の三祖、更に文詞を尚び、君人の大道を忽にし、雕蟲の小藝を好む。下の上に從ひ、影響を同じくする有り、競ひて文華に騁せ、遂に風俗と成る。江左の齊梁、其の弊彌いよ甚しく、貴賤賢愚、唯だ吟詠に務む。遂に復た理を遺れ異を存し、虚を尋ね微を逐ひ、一韻の奇を競ひて、一字の巧を爭ふ。連篇累牘、月露の形を出でず、積案盈箱、唯だ是れ風雲の状のみ。世俗此を以て相高しとし、朝廷茲に據りて士を擢く。祿利の路既に開き、愛尚の情愈いよ篤し。是に於て閭里の童昏、貴遊の總丱、未だ六甲を窮めずして、先ず五言を製す。

このような極端な詩文への愛尚の時期は、裴子野の「雕蟲論」の記述に據ると、具體的には宋の大明年間(457〜464)以降に始まったという。

爰及江左、稱彼顔謝、箴繍帨、無取廟堂。宋初迄于元嘉、多爲經史。大明之代、實好斯文、高才逸韻、 頗謝前哲、波流相尚、滋有篤焉。自是閭閻年少、貴游總角、罔不擯落六藝、吟詠情性。學者以博依爲急務、謂章句爲專魯。淫文破典、斐爾爲功。(裴子野「雕蟲論」)
爰に江左に及び、彼の顔謝を稱し、帨を箴繍し、廟堂を取る無し。宋初より元嘉に迄るまで、多く經史を爲む。大明の代、實に斯文を好み、高才逸韻、頗る前哲に謝し、波流相尚び、滋いよ篤き有り。是れ自り閭閻の年少、貴游の總角、六藝を擯落し、情性を吟詠せざるなし。學者博依を以て急務と爲し、章句を謂ひて專魯と爲す。淫文破典、斐爾として功と爲る。

この宋の「大明」以降、飛躍的に詩文の愛尚は助長されて行き、「是に於て天下風に向ひ、人自ら藻飾し、雕蟲の藝、時に盛んとなれり。」(「雕蟲論序」)といった状態を呈するようになっていくのである。極端な場合、宋の明帝の如きは、讌集の度毎に各朝臣に命じて詩作の發表を「強請」したため、詩作のできない將官は前もって請託する暇もなく、課限に困しみ、他人の詩を買ってまで詔に應じなければならなかったという。こうした情況は齊・梁朝に至っても一向に衰えを見せず、かえって一層増長していく傾向にあった。

「竟陵王の八友」の一人に數えられる武帝蕭衍は、梁朝を興すと、竟陵王の西邸における詩文仲間であった沈約・范雲・任昉・江淹らをすべて重臣に抜擢し、梁王朝の高官に就けている。また、更には優れた詩文を作った者に對しても、即日抜擢し、高官に就官させる人事を日常茶飯の如くに敢行したという。

○高祖聡明文思、光宅區宇、旁求儒雅、詔採異人、文章之盛、煥乎倶集。毎所御幸、輒命羣臣賦詩、其文善者、賜以金帛、詣闕廷而獻賦頌者、或引見焉。其在位者、則沈約、江淹、任昉並以文采、妙絶當時。(『梁書』 文學傳上)
高祖は、文思に聡明、區宇に光宅して、旁く儒雅を求め、詔して異人を採り、文章の盛、煥乎として倶に集る。毎に御幸する所、輒ち羣臣に命じて詩を賦さしめ、其の文の善き者は、賜ふに金帛を以てし、闕廷に詣りて賦頌を獻ずる者は、或いは引見す。其の位に在る者は則ち沈約・江淹・任昉、並びに文采を以て、當時に妙絶す。

○中大通五年、高祖宴羣臣樂遊苑、別詔翔與王訓爲二十韻詩、限三刻成。翔於坐立奏。高祖異焉、即日轉宣城文學、俄遷爲友。時宣城友、文學、加它王二等。故以翔超爲之。時論美焉。(『梁書』 褚翔傳)
中大通五年、高祖羣臣と樂遊苑に宴し、別に翔と王訓とに詔して二十韻の詩を爲らしめ、三刻を限りて成さしむ。翔坐に於いて立ちどころに奏す。高祖異とし、即日宣城文學に轉じ、俄かに遷りて友と爲す。時に宣城の友、文學は、它王の二等を加ふ。故に翔を以て超ゑて之を爲す。時論美とす。

○高祖雅好辭賦、時獻文於南闕者相望焉。其藻麗可觀或見賞擢。六年峻乃擬揚雄官箴奏之。高祖嘉焉、賜束帛、除員外散騎侍郎、直文徳學士省。(『梁書』 袁峻傳)
高祖雅に辭賦を好み、時に文を南闕に獻ずる者相望む。其の藻麗觀るべきは、或いは賞し擢せらる。六年、 峻乃ち揚雄の官箴に擬して之を奏す。高祖嘉し、束帛を賜ひ、員外散騎侍郎、直文徳學士省に除せらる。

○高祖革命、興嗣奏休平賦、其文甚美、高祖嘉之、拜安成王國侍郎、直華林省。其年、河南獻儛馬、詔興嗣與待詔到沆、張率爲賦。高祖以興嗣爲工、擢員外散騎侍郎、進直文徳、壽光省。(『梁書』 周興嗣傳)
高祖命を革め、興嗣休平の賦わ奏す、其の文甚だ美し、高祖之を嘉みし、安成王の國侍郎、直華林省を拜す。其の年、河南儛馬を獻ず、興嗣と待詔の到沆・張率に詔し、賦を爲らしむ。高祖興嗣を以て工と爲し、員外散騎侍郎に擢き、直文徳、壽光省に進ましむ。

以上の事象からも分るように、梁朝においては、「文學」は直接祿利の途徑に繋がり、昇進の方途と化していたのである。

その結果、祿利を求める人士は、殆んどみな、幼小の頃より詩文の創作に勵み、青年になると、より一層熱中し、自分の作品が他の者に遲れをとってはならじと、ひねもす夜もすがら、詩文の創作に專心没頭するという風潮が生まれていた。この風潮に乘じて、實際に多數の詩文が創作されたが、文學作品というものは、個々の文才の多寡によって左右されるものである故、いくら專念努力したからと言って、そう容易に傑作が創れる譯はなく、大半は平々凡々たる駄作に過ぎなかった。

梁の鍾嶸は、その状態を評して、「今の士俗、斯の風熾んなり。纔(わず)かに能く衣に勝(た)え、甫(はじ)めて小學に就けば、必ず甘心して馳騖す。是に於て庸響雜體、人各の容を爲す。膏腴の子弟をして、文の逮ばざるを恥ぢ、終朝に點綴し、分夜に呻吟せしむるに至る。獨り觀れば謂ひて驚策と爲すも、衆の親れば終に平鈍に淪む。次に輕薄の徒有り、曹・劉を笑ひて古拙と爲し、鮑照を羲皇上の人、謝朓を今古獨歩と謂ふ。而るに鮑照を師としては、終に『日中市朝滿つに及ばず』、謝朓を學びては、『劣(わず)かに黄鳥青枝を度る』を得たり。徒らに自ら高明を棄てて、文流に渉ること無し。」(「詩品序」)と述べている。

また續いて、鍾嶸は詩の優劣を論ずる批評に際しても、各自の好惡に隨った、基準のない批評が横行していることを指摘し、「王公縉紳の士を觀るに、毎に博論の餘に、何ぞ嘗て詩を以て口實と爲さざらん。其の嗜欲に隨ひて、商榷同じからず、淄澠並び泛れ、朱紫相奪ひ、喧議競ひ起こり、準的依る無し。」と慨嘆している。

そしてその後、「近ごろ、彭城の劉士章は、俊賞の士にして、其の淆亂を疾みて、當世の詩品を爲らんと欲し、口陳標榜するも、其の文未だ遂げず。感じて作る。」と『詩品』を著わすに至った動機を述べている。つまり、鍾嶸は、近頃の詩壇は基準となる理論もなく、王公・縉紳の士が各自の嗜好に隨って、詩作の優劣を評價している爲、祿利を求める多くの士俗は、混亂して自らの見識を失くし、各王公の嗜好に迎合した駄作ばかりを作りながら、自分では傑作をものした如く得意になっている情況を憂慮し、何とかこのような現状を是正すべく、評價の基準となる『詩品』を作ったというのである。

『詩品』は沈約の没した天監十二年(513)から鍾嶸の推定没年である天監十七年(518)までの五年間に著わされたものである。それ故、上述の混亂した詩壇の情況は、當然齊末から梁の天監年間にかけての情況であると言えよう。實際、『南齊書』(卷五十二)の「文學傳論」には「今の文章、作者衆しと難も、總じて論を爲せば、略ぼ三體有り」と述べられ、謝靈運派、傅咸派、鮑照派の各特色が詳しく分析、記述されている【注1】。このように、各派の主張・嗜好はかなり相異隔絶していたので、祿利を求める一般の士俗は、自らの依據すベき明確な基準を求めて、絶えず右顧左眄するような混亂した情況に陷っていたと見られる。

こうした情況は、そのまま天監年間以降も繼承され、拙論「簡文帝蕭綱『與湘東王書』考」(『立命館文學』第430〜432號)及び「梁代中期文壇考」(『立命館文學』第437〜438號)に於いて論及したように、伏挺・王籍等の謝靈運派、裴子野・劉之遼等の古體派、沈約・任昉等の永明體派などが各自の主張・嗜好に隨って盛んに詩作し、中大通年間(529〜534)まで中央文壇は確實な評價の基準のないまま、百花繚亂の状態が續いていたのである。

簡文帝蕭綱の「與湘東王書」中の下記のような「京師の文體」批判は、まさしくこの混亂した文壇の情況を述べたものである。

比見京師文體、懦鈍常殊、競學浮疎、爭爲闡緩。玄冬修夜、思所不得、既殊比興、正背風騒。若夫六典三禮、所施則有地、吉凶嘉賓、用之則有所。未聞吟詠情性、反擬内則之篇、操筆寫志、更酒誥之作、遲遲春日、飜學歸藏、湛湛江水、遂同大傳。
比ろ京師の文體を見るに、懦鈍なること常に殊なり、競ひて浮疎を學び、爭ひて闡緩を爲す。玄冬修夜、得ざる所を思ふも、既に比興に殊なり、正に風騒に背く。夫の六典三禮の若きは、施す所則ち地有り、吉凶嘉賓は、之を用ふるに則ち所有り。未だ情性を吟詠するに、反って内則の篇に擬し、筆を操り志を寫すに、更に酒誥の作にし、遲遲たる春日は、飜つて歸藏に學び、湛湛たる江水は、遂に大傳に同じくするを聞かず。

こうした情況にあっては、當然依據すべき基準となる理論や規範となるベき詩文集が待望されるところである。しかし、齊・梁代にはそうした理論や詩文集がまったく缺如し、存在していなかった。それは鍾嶸の『詩品』に次のように記述されていることから見ても、明白である。

陸機文賦、通而無貶。李充翰林、疏而不切。王徴鴻寶、密而無裁。顔延論文、精而難曉。摯虞文志、詳而博贍、頗曰知言。觀斯數家、皆就談文體、不顯優劣。至於謝客集詩、逢詩輒取。張隲文士、逢文即書。諸英志録、並義在文、曾無品第。嶸今所録、止乎五言。雖然、網羅今古、詞文殆集。輕欲辨彰清濁、掎摭利病、凡百二十人。預此宗流者、便稱才子。至斯三品升降、差非定制。方申變裁、請寄知者爾。(「詩品序」)
陸機の文の賦は、通にして貶無し、李充の翰林は、疏にして切ならず。王徴の鴻寶は、密にして裁無く、顔延の論文は、精にして曉り難し。摯虞の文志は、詳にして博贍、頗る知言と曰ふ。斯の數家を觀るに、皆な就いて文體を談じ、優劣を顯はさず。謝客の集詩に至りては、詩に逢へば輒ち取る。張隲の文士は、文に逢へば即ち書す。諸英の志録、並びて義は文に在りて、曾ち品第するに無し。嶸の今録する所は、五言に止まる。然りと雖も、今古を網羅し、詞文殆ど集まる。輕か清濁を辨彰し、利病を掎摭せんと欲し、凡そ百二十人なり。此の宗流に預かる者は、便ち才子と稱す。斯の三品の升降に至りては、差も定制非ず。方に變裁を申ぶるは、知者寄せんことを請ふのみ。

この記述によると、當時の詩文集は、「謝客の集詩に至りては、詩に逢ヘば即ち書す。張隲の文士は、文に逢ヘば即ち書す。諸英の志録、並びに義は文に在って、曾て品第すること無し。」と言う如く、みな、作品の蒐集にこそ本意があり、作品の評價に重點を置くものは存在していなかったのである。

こうした社會的情況下にあって、各王侯集團が鍾嶸の「清濁を辨彰し、利病を掎摭」して詩作の基準を創ろうと試みた『詩品』に効い、「總集」(「詩文集」)を編纂し、規範とすべき作品を示すことは、まさしく時宜に適った事業であり、模範を必要とした多くの士俗の待望するところでもあった。

梁王朝の帝・王及び甲族の有力者は、この期に乘じて自己の聲威を高めるべく、爭って優秀な文人を側近として集め、各自の文學集團を形成し、その中の有力な文人に競って規範となる「總集」(以下、廣義の「詩文集」の意味に用いる)を編纂させることが多かった。

「總集」は元來、『隋書』經籍志に、下記の如く述べられているように、建安以後、夥しく多くなってきた詩文中から優れた詩文を選別・整理し、讀者がその成果を享受し易いように編纂したものである。

總集者、以建安之後、辭賦轉繁、衆家之集、日以滋廣、晉代摯虞、苦覽者之勞倦、於是採擿孔翠、芟剪繁蕪、自詩賦下、各爲條貫、合而編之、謂爲流別。是後文集總鈔、作者繼軌、屬辭之士、以爲覃奥、而取則焉。(『隋書』 經籍志)
總集なる者は、建安の後、辭賦轉た繁く、衆家の集、日々以て滋いよ廣きを以て、晉代の摯虞、覽者の勞倦を苦とし、是に於いて孔翠を採擿し、繁蕪を芟剪し、詩賦自り下、各おの條貫を爲し、合して之を編み、謂ひて流別と爲す。是の後文集總鈔、作者軌を繼ぎ、屬辭の士、以て覃奥と爲して、取りて則とす。

このようにして作られた「總集」が「文・史」偏重の時代において次第に「作詩」・「作文」の參考書として重要な意味を持つようになるにつれ、優れた「總集」を編纂することは、聲望を高めようとする集團にとっては必須の事柄となっていった。それ故、「總集」の編纂は、集團の浮沈に關わる重大な事業となり、單に集團主の個人的文學趣味を満足させるだけの甘いものではなくなっていた。その結果、「總集」の編纂は、出來得る限り側近中の最も有力な文人に委任することが多くなっていたのである。


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