潜園
清代の蔵書家、陸心源(1834~1894)の庭園。陸心源が「潜園老人」と号したことから「潜園」という名前になったそうだ。現在は公園になっており、門には同済大学教授陳従周氏が書いたという「潜園」が見える。
中に入ると太湖石が配置され、落ち着いた感じの庭園となっている。少し進むと陸心源が蔵書を寄付したことを記念する碑がある。他は池を取り囲む道がずっとあり、天気がよければ近所の人の憩いの場になるであろう場所。しかし、戦時中かなり破壊されたらしく、今は昔ほどきれいではないらしい。でもってここも一部が工事中だった。ここ数年改修工事ラッシュなのだろうか。
ところで、公園中にトタンで囲まれた「動物園」と称するコーナーがあり、虎やパンダの写真とともに「全部生きた本物だよ」と看板に書かれていたのだが、どう見ても狭く、大型の動物が中にいるとは思えなかった。「もしかして着ぐるみかも」と皆で推測しあったが、あの中には一体何が入っていたのか、ちょっと興味が引かれるところだった。
その後、入口の説明図に描いてあった「中国湖筆博物館」を探して公園内を歩き回ったのだが、地元の人に訊いたところそれが公園の外にあると判明、広い公園の中を一周してようやく出口を見つけて博物館に入ったのだった。書や筆の造り方など展示してあったのだが、残念ながら訪れたのが日曜日だったため、職人さんがお休みで筆の製作を生で見ることはできなかった。
市内中心部にある周生記饂飩店本店で昼食。創業者の周済相が1940年にはじめ、この土地の名物の一つとなっている(何故か『文物地図集』にも載っていた)。支店も多いらしい。湖州市で見かけるタクシーの広告にはだいたいこの店名がついていた。
店の中はさすがに人でいっぱいだったが、注文したら即出てきて、回転が速そうだった。あっさりしていて日本人の口にも合う。季節柄月餅もやっていて、買ってみたかったが時間の都合などであきらめた。ちょっと残念。
千甓亭(含皕宋楼)
陸心源の庭園。漢・晋の墓磚(墓をつくる時に使う石や煉瓦で、文字や模様が彫刻されている)が千余り有ったのでこの名前をつけたという。清の光緒年間に建設され、蔵書楼である皕宋楼もあったらしい。しかし…公開していないのか、休みなのか、門は閉まっていて中には入れなかった(ネット上の情報によると公開しているようだが…)。残念!しかも説明が書いてある碑の前にでかい車が停まっていて見られず。
外から見る限りではそれほど敷地はそれほど広そうではなかった。2002年に全面的に改修されたとのことだが、中は一体どんな風になっていたのか、気になる…
失意のうちにホテルへ戻ろうとしたところ、道すがら「趙孟頫故居旧址紀念館」を見つけたのでそこへ行くことに。
趙孟頫の故居をもとに再建したものだとのことだったが、建物はすべて新しく、古い部分はほぼ残っていなかった。趙孟頫の作品などが展示されており、池のある庭園がきれいだった。
ところで、この紀念館の展示室が昔の家の造りを模していたのだが、部屋の入り口の敷居が高くなっていて、入ろうとして足をぶつけた…。バリアフリー化が望まれる。
一度ホテルへ戻り、休憩の後近くの観光地へ徒歩で出かける。
鈕氏状元庁
別名理徳堂、清の道光年間に建設された。名前の通り、鈕氏の歴代の科挙に合格した者が試験で使ったもの等を展示してあったという…
しかしここも行ってみたら改修工事中であった。しかも中にも入れなかった。
がっかりした一行は仕方なくその辺をぶらぶらして付近の運河などを見に行くことに…橋を見た後、昔の城の南門があるところを目指して細い道を通っていったりと街を見て、再びホテルに戻ったのであった。
その時川で見つけたのだが、底の方からぶくぶく気泡が上がっている箇所がある(写真下左、矢印で示したところ)。それが線状に続いているので、通りかかった人に尋ねたところ、近所の人が川の一帯を市から借りて魚の養殖をしているので、管で空気を送っているのだという。別の箇所でも網を張って区切っているのが見られた(写真下右)。H先生のお話によると、古くは漢代あたりからこのような川を利用した養殖は行われているそうだ。生活の知恵ってやつだね。ただ、水質は気になるけど…
夕食は前日も行った、ホテルの向かいにある丁蓮芳千張包子店へ。清代から続く老舗だそうだ。こちらも多くの支店があり、上述の周生記と並んでよく広告を見かけた。
千張包子とは肉の餡を薄い豆腐(湯葉ではない)で包んだもので、一般的には粉絲(春雨)と一緒に食べる軽食。今回は千張包子だけを注文した。実は前日の料理の中にも薄い豆腐、千張を昆布のように結んだものが入ったスープがあった。中国の豆腐料理は奥が深いね。
二日続けて訪れたので、お店の人がぼくたちのことを覚えていてくれたよ。
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