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3日目

潘公橋

潘公とは潘季馴(1521~1595)で、明代の著名な水利の専門家。彼が出資して建てられたためその名がついた。明の万暦13年(1585)に建設され、清の道光17年(1837)に再建されたもの。再建された時、水量が増えたこともあり、船が通りやすいようにアーチが五つあったのを三つにしたそうだ。
橋欄には再建時寄付をした人の名前と金額が刻んであったよ。風雨にさらされてだいぶ見にくくなってはいたけれどね。
水がよく上がってくるのか、ここ数日雨が続いているせいなのか、橋のたもとの碑の周りにはタニシらしき貝がいっぱいいた。ぼくも(ちょうど重なって見にくいけれど)そこにいたタニシと話しているところ。


飛英塔

内外の塔から成り、内側の石塔(写真左)ははじめ唐代に建設され、南宋紹興年間に再建されたもの。外側の塔(写真下左)は木製で、はじめ北宋に建設、その後何度か修理を経て現在のものは1982~87年に修理されたものだそうだ。他、2003年頃避雷針なども修理されている。
塔の周りは公園になっていて、きれいな蓮の池などがあり、塔の下では小雨の中で近所の人々が謎の武術の練習をしていたよ。















府廟

府の城隍廟。城隍廟とは、昔、街の周りに建設されていた城壁と堀の神を祀るところで、城隍神はいわば街の守護神である。
この府廟ははじめ南宋に建設され、明の洪武2年(1369)に今の場所に移り、清の同治10年(1871)に再建されたそうだ。
で、行ってみたらまさに再建中だった(でも入れた)。日本の宮大工に当るような人たちが中で作業していたよ。



鉄仏寺

創建は唐の開元26年(738)という歴史あるお寺。その後移転・再建などを繰り返したという。現在の建築は民国年間…と『文物地図集』には書いてあるが、どう見てもここ数年で立て替えられたもののようだった。トイレもきれいだった。

ここには名前の通り、鉄で出来た観音がまつってある。ちょうど行った時は地元の人が紙の冥銭を燃やしながらお祈りしていた。
鉄仏以外にも唐代にあった天寧寺の石で出来た経幢の一部が残っていたり、元代に趙孟頫が書いたという「天寧萬壽禅寺」(写真下右)「普覚」の碑(何の説明も無かったが)など、貴重なものがいろいろとある。清代康煕年間に日本から贈られたという銅鐘もあるとのことだったが、開放されていない建物に安置されていて、ガラス窓の隙間から覗きこんでようやく見えたよ。


潜園

清代の蔵書家、陸心源(1834~1894)の庭園。陸心源が「潜園老人」と号したことから「潜園」という名前になったそうだ。現在は公園になっており、門には同済大学教授陳従周氏が書いたという「潜園」が見える。
中に入ると太湖石が配置され、落ち着いた感じの庭園となっている。少し進むと陸心源が蔵書を寄付したことを記念する碑がある。他は池を取り囲む道がずっとあり、天気がよければ近所の人の憩いの場になるであろう場所。しかし、戦時中かなり破壊されたらしく、今は昔ほどきれいではないらしい。でもってここも一部が工事中だった。ここ数年改修工事ラッシュなのだろうか。

ところで、公園中にトタンで囲まれた「動物園」と称するコーナーがあり、虎やパンダの写真とともに「全部生きた本物だよ」と看板に書かれていたのだが、どう見ても狭く、大型の動物が中にいるとは思えなかった。「もしかして着ぐるみかも」と皆で推測しあったが、あの中には一体何が入っていたのか、ちょっと興味が引かれるところだった。

その後、入口の説明図に描いてあった「中国湖筆博物館」を探して公園内を歩き回ったのだが、地元の人に訊いたところそれが公園の外にあると判明、広い公園の中を一周してようやく出口を見つけて博物館に入ったのだった。書や筆の造り方など展示してあったのだが、残念ながら訪れたのが日曜日だったため、職人さんがお休みで筆の製作を生で見ることはできなかった。


市内中心部にある周生記饂飩店本店で昼食。創業者の周済相が1940年にはじめ、この土地の名物の一つとなっている(何故か『文物地図集』にも載っていた)。支店も多いらしい。湖州市で見かけるタクシーの広告にはだいたいこの店名がついていた。
店の中はさすがに人でいっぱいだったが、注文したら即出てきて、回転が速そうだった。あっさりしていて日本人の口にも合う。季節柄月餅もやっていて、買ってみたかったが時間の都合などであきらめた。ちょっと残念。




千甓亭(含皕宋楼)

陸心源の庭園。漢・晋の墓磚(墓をつくる時に使う石や煉瓦で、文字や模様が彫刻されている)が千余り有ったのでこの名前をつけたという。清の光緒年間に建設され、蔵書楼である皕宋楼もあったらしい。しかし…公開していないのか、休みなのか、門は閉まっていて中には入れなかった(ネット上の情報によると公開しているようだが…)。残念!しかも説明が書いてある碑の前にでかい車が停まっていて見られず。
外から見る限りではそれほど敷地はそれほど広そうではなかった。2002年に全面的に改修されたとのことだが、中は一体どんな風になっていたのか、気になる…

失意のうちにホテルへ戻ろうとしたところ、道すがら「趙孟頫故居旧址紀念館」を見つけたのでそこへ行くことに。
趙孟頫の故居をもとに再建したものだとのことだったが、建物はすべて新しく、古い部分はほぼ残っていなかった。趙孟頫の作品などが展示されており、池のある庭園がきれいだった。
ところで、この紀念館の展示室が昔の家の造りを模していたのだが、部屋の入り口の敷居が高くなっていて、入ろうとして足をぶつけた…。バリアフリー化が望まれる。




一度ホテルへ戻り、休憩の後近くの観光地へ徒歩で出かける。

鈕氏状元庁

別名理徳堂、清の道光年間に建設された。名前の通り、鈕氏の歴代の科挙に合格した者が試験で使ったもの等を展示してあったという…
しかしここも行ってみたら改修工事中であった。しかも中にも入れなかった。

がっかりした一行は仕方なくその辺をぶらぶらして付近の運河などを見に行くことに…橋を見た後、昔の城の南門があるところを目指して細い道を通っていったりと街を見て、再びホテルに戻ったのであった。

その時川で見つけたのだが、底の方からぶくぶく気泡が上がっている箇所がある(写真下左、矢印で示したところ)。それが線状に続いているので、通りかかった人に尋ねたところ、近所の人が川の一帯を市から借りて魚の養殖をしているので、管で空気を送っているのだという。別の箇所でも網を張って区切っているのが見られた(写真下右)。H先生のお話によると、古くは漢代あたりからこのような川を利用した養殖は行われているそうだ。生活の知恵ってやつだね。ただ、水質は気になるけど…



夕食は前日も行った、ホテルの向かいにある丁蓮芳千張包子店へ。清代から続く老舗だそうだ。こちらも多くの支店があり、上述の周生記と並んでよく広告を見かけた。
千張包子とは肉の餡を薄い豆腐(湯葉ではない)で包んだもので、一般的には粉絲(春雨)と一緒に食べる軽食。今回は千張包子だけを注文した。実は前日の料理の中にも薄い豆腐、千張を昆布のように結んだものが入ったスープがあった。中国の豆腐料理は奥が深いね。
二日続けて訪れたので、お店の人がぼくたちのことを覚えていてくれたよ。



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