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旅行記

 ちびてこちゃん

今年度も恒例の旅行が夏休みに開催されました。今回は諸事情で教員だけの少人数の旅となりましたが、前々回前回に続き今回もぼくがレポートします。

 


1日目

関西国際空港から杭州蕭山空港へ。台風の影響が予想されたけど、行きは何とか大雨には遇わずに関空まで行けたよ。それにしても最近は規制緩和と円高の影響で中国人観光客が増加、飛行機の中もほとんどが中国人だった。出発時刻の二時間前にチェックインしたらすでにほぼ満席で、非常口近くの席になった。ちなみにぼくは神だから飛行機に乗らなくても行けるけど、窓から雲の上を飛んでいるのを見るのも悪くない。

杭州に到着してから今回ご一緒する中国人のG先生と合流、今回も余さんが運転する専用車で湖州南潯区へ。二時間ほどでホテルに到着。高速道路を通ると早いね。

南潯区のホテルは敷地が広く、中国旅行では初めて地下に駐車場のあるタイプだった。門から建物までは庭園の中の道を通るのだけれど、当日いろいろなパーティー(誰かの誕生日会やら化粧品販促会やら)が開催されていて、その道には参加者とおぼしき人々が停めた車がずらっと並んでいたよ。こういう少人数のときはだいたい歩いて付近の店に夕食を食べに行くのだけれど(でないと余さんがお酒を飲めないから)、この日は車で市街まで繰り出して食事をした。
写真はゆでた川エビ(テナガエビ?)。黒酢をつけて食べるようだったけど、そのままでも美味しかった(ようだ。ぼくは食べてないけどね)。


2日目

あいにくの雨天。まずは湖州市に隣接する江蘇省震澤鎮に向かう。この辺りは古い街並みを保存した風景区になっていて、今回は行かなかったけれど太湖農家菜文化展覧館・江蘇省農機具博物館などもあるよ。他にもいろいろ見るところがあって、一日過ごそうと思えば過ごせそう。

慈雲寺塔

慈雲寺は宋の咸淳年間に建てられた寺。塔はもともと三国赤烏年間に建てられたといわれ、伝説によれば北宋が滅びた後、徽宗の娘慈雲公主が震澤に逃げて来て、父親のことを思い、壊れかけた塔の上に再建したものだという。現存する塔は明の万暦5年(1577)に建てられたものだそうだ。
写真は川の対岸から見た塔。行った時は、川をせき止めて川底をさらっていたので(清掃?)川の水があまり無くて、情緒が半減だった。滅多に見られない風景だから考え方によってはラッキーかも。。水がある時には塔が川面に映って、夜はライトアップもされて趣のある風景らしい。

この後で橋を渡って中からも見たよ。奥に大きな墳墓のようなものが見えたので、「誰の墓だ」と近寄っていったらゴミ処理施設だった。紛らわしい。

その後古い家屋が並ぶ道(写真右)を通って師倹堂へ。


師倹堂

徐一族の旧邸宅で、清の同治3(1864)年に建てられたもの。運河に面しており、典型的な水郷の大邸宅だそうだ。

この地域は湿気が多く、また河が氾濫することもあったのだろう、二階に寝室がある構造になっていた。
窓や門などに細かい装飾がほどこされているのだが、文化大革命の時に毀されそうになったのか、一部削り取られている。

写真右下は階段を上がって二階の窓から中庭を見下ろしたところ。この時は雨が結構たくさん降っていたので屋根から水がしたたり落ちていた。
一階は中庭で分断されていたが、二階はぐるっとつながっている。中庭は雨の時はやや不便な感じがするけれど、明るいし風通しが良さそう。

また邸宅の向かい側、通りを挟んで河に面した船着き場もあり、船着き場・街道・店舗・邸宅・庭園などが一体となっている。

ちなみに行った時には入場料30元のところ20元にまけてくれた。何故だかはよくわからない。天気が悪いせいか、6人いたので団体割引なのか…あるいは運河の水が抜かれていて船に乗れなかったせいかも。
入口でおじさんがチケットを切ってくれたけど、しばらくしたら追いかけてきて「あんたはチケット買ってないだろう」とか言われた。「さっきの団体だ」と言ったら思い出したように去って行った。物忘れ激しいな。


昼食後、湖州市へ戻って南潯古鎮地区へ。このあたりも観光地化されており、出入口が曖昧だったが一日チケット(一人100元と結構高い)で付近の古跡をいろいろ回れるようになっている。ぼくたちは時間の都合で全部は回れなかったけれど。

百間楼

明代に建てられた運河沿いの民家群。現在も住居もしくは店として使用されている。言い伝えでは、明代、礼部尚書の董份の孫が南潯の白華楼主である茅坤の孫娘と結婚し、さて家に迎えようとした時に茅家から董家の家が狭いと文句を言われた。茅家から孫娘に100人の使用人を付き添わせるといわれた董家では、すぐに100間の楼房を建設し、このような建物群が出来たという。また、茅家から嫁入り道具の大きな箪笥を入れたいと言われた董家では、天井が高く間口の広い家にしたとのことである。本当かどうかはわからないが、当時の名族の豪勢さを示す逸話である。


     

嘉業堂蔵書楼

清代の劉承幹(1881-1963)が建てた蔵書楼。祖父劉鏞は絹の事業で財を成し、南潯の「四象」の一人と言われた大富豪。嘉業堂は劉承幹が清の宣統帝溥儀より〝欽若嘉業〟の扁額を賜り、それによって名付けたという。1924年に落成。全盛期には古籍18万冊があったという。多くは戦後個人のコレクターや浙江大学・復旦大学などに買われていったが、現在も多くの蔵書が残され、貴重な木版も三万枚余残されている。宋元刻版が有名で、特に宋版の『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』(写真下左)は貴重。蔵書だけでなく、ここで彫られ出版された「嘉業堂叢書」「求恕斎叢書」などがある。

中庭に面した鉄の柵が一階は「嘉業」(写真下右)、二階は希古楼で「希古」(同じく皇帝から賜った「抗心希古」扁額にもとづく)となっていたり、一階の窓枠も「嘉業堂蔵書楼」となっていておしゃれだ。

今回はY先生のつてで上海復旦大学の先生より嘉業堂の方に連絡を取っていただいたので、特別に内部まで入れていただくことができた。
奥では木版の墨を落としてきれいにする職人さんが作業をしていたり、刷り・裁断の部屋などがあり興味深かったよ。木版は重ねて置いておくと歪むとのことで、立てて保管してある。朱色の墨で刷った版なども保管してあった。

     

小蓮荘

劉承幹の祖父、劉鏞(1820~1899)が造らせた庭園。元代の著名な書画家、趙孟頫(このあたりの出身)の蓮花荘を慕ってこの名をつけたという。1885年に着工し、孫の劉承幹の時代、1924年に完成したというから、劉鏞は残念ながら完成を見ずして亡くなっている。

何故か入口付近に泊めてあった船の上に鵜が数羽待機していた。庭園の周りには川が流れていたり、池がたくさんあって趣深い庭園だったよ。


嘉業堂・小蓮荘などの周りには伝統的な菓子を売るお店があったり、遊覧船があったりして賑やかだった。夏休みだからか、嘉業堂にもガイドに引き連れられた団体何組かとすれ違い、「こういうところにも子供連れが来るのか…」と思っていたら、伝統文化を学ぶ場として推奨されているようだった。小蓮荘ではカップルを何組か見かけたよ。

     

張石銘旧宅

これも嘉業堂・小蓮荘の近くにある。南潯の大富豪「四象」の一人、張頌賢の孫、張石銘が建てた邸宅。ガラス窓の装飾など、随所に西洋の技術を取り入れている。中には西洋風の建物もあり、今は展示場として使われているけれどダンスホールもあった。中には張一族の変遷や、一族の者がコレクションしていた(?)世界の貨幣、レコードなどいろいろなものが展示してあり、観光客でごったがえしていたこともあって何がなんやらという感じだった…。
余談だけど、すれ違ったどこかの団体のガイドさんが背中に「百間楼」云々と書かれたTシャツを着ていて、どこで売っているのか気になった。

    

この後、本日宿泊する湖州市呉興区のホテルへ移動。このホテルはウェルカムフルーツが置いてあった(翌日も別の果物が置いてあった)。観葉植物なども飾られていていい感じ。



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