第11回 2008年12月13日 
私と音楽〜映画・テレビドラマの音楽について〜」


講師:渡辺 俊幸(わたなべ・としゆき)先生

作曲家。195523日名古屋生まれ。
青山学院大学入学と同時にフォークグループ「赤い鳥」のドラマーとしてプロ活動に入る。
「グレープ」のサポートミュージシャンを経て、さだまさし氏の音楽プロデューサーおよびアレンジャーとして活躍。
79年渡米後、バークリー音楽院にてクラシックおよびジャズのコンテンポラリーな作編曲技法を、ボストンコンサーバトリーにて指揮法を学ぶ。また、L.Aにてアルバート・ハリス氏に師事し、ハリウッドスタイルのオーケストレーションと映画のための作曲技法を学ぶ。
帰国後、作曲家として数々の映画、テレビドラマ、アニメーションなどの音楽を担当。
近年の代表作としては、NHK大河ドラマ「利家とまつ」「毛利元就」、NHKドラマ「大地の子」「どんど晴れ」、フジテレビ系ドラマ「優しい時間」、映画「モスラ」「サトラレ」「解夏」「UDON」「天国はまだ遠く」などがある。
「リング〜最終章〜」で第20回ザ・テレビジョン・ドラマアカデミー賞、劇中音楽賞を受賞。2005年「愛・地球博」開会式の音楽監督を担当。
また指揮者としてポップスオーケストラのコンサート活動にもライフワークとして取り組んでいる。
今年は音楽家生活35周年を迎え、CD「渡辺俊幸ベスト〜メロディーズ〜」をリリースし、サントリーホール大ホールで日本フィルハーモニー交響楽団と記念コンサートを行った。
洗足学園音楽大学 音楽・音響デザイン学科 客員教授。

私と音楽 ―映画・テレビドラマの音楽について―




はじめに

 

 反畑先生からご紹介にあずかった通り、私は現在どちらかというとオーケストラを駆使した映画音楽を作曲しています。今年で音楽家生活35周年を迎えましたが、35年前に「赤い鳥」に入ったときはドラムをやっていて、その当時は今のような作曲家になるとは全く想像していませんでした。このようにドラマーから始めて、オーケストラを駆使する作曲家になるというのは、客観的に見てなかなかユニークだと思うのです。そこで、どのようにして今の自分になったのかということを今日はお話しして、「そういう人生もあるのか」「人生はどういうことで変わっていくのか」など、皆さんのヒントになることがあればと思います。そしてその後、私が今仕事の中心に置いている映画やテレビドラマの映像音楽のつくり方や現場の様子についてお話ししたいと思います。
 私が音楽に興味を持ったのは、小学校の1年生くらいでしょうか。その前からピアノを習ったりしていましたが、ピアノの練習にはあまり興味が持てず、幼稚園の2年間ほどでピアノをやめてしまいました。実は私の父は作曲家でして、皆さんはご存じないかもしれませんが、『マジンガーZ』『人造人間キカイダー』『ゴレンジャー』といった、いわゆる子ども向けのアニメや実写のSFっぽいドラマで活躍した音楽家です。
 渡辺宙明といいますが、私を音楽家にしたいというタイプの父親だったので、無理やり音楽教育をさせられました。ピアノは抵抗してやめましたが、とにかく音感教育というものをやらされるのです。これは、ピアノでいくつかの音を同時に鳴らして聞き取るという訓練ですが、それを幼稚園か小学校1年生くらいから6年生まで、6年間強制的にやらされました。今になると父の判断は正しかったと感謝していますが、とにかく子どものときはそれがとても苦痛でした。ですから当時は音楽の勉強が本当に嫌いで、父には「絶対に音楽家にはならないから、やめさせてくれ」というようなことを言っていました。
 そういう子どもでしたが、小学校4年生のときの1964年にビートルズの『ビートルズがやって来るヤァ! ヤァ! ヤァ!』という映画が公開されて、テレビのコマーシャルではないかと思うのですが、映像とともにビートルズの音楽が耳に飛び込んできました。それで、「うゎ、かっこいい」と思い、映像も含めてビートルズの姿、音楽全てに魅了されたのです。それから、なぜかギターや歌ではなくドラムにとても惹かれて、ドラムをやりたいと父に話しました。そうすると、たまたま家にドラムの練習台みたいなものがあり、板にゴムを張り付けたような幼稚なものですが、それをカタカタカタカタ叩き出しました。
 ビートルズのレコードをかけながら鍋のフタみたいなものをシンバル代わりに叩き、太鼓のまねごとをするというのが日課になりました。小学校5年、6年と過ごしていくうちに、次は足も使って本格的にドラムを叩きたいと思い父にねだるのですが、父は相変わらず私を作曲家にしたいという願望が強かったらしくて、エレキギターならいいがドラムはダメだと言うのです。ドラムにはメロディもハーモニーもないので、作曲に結びつきにくい楽器だからです。そんなことを父に言われて、また抵抗して、お年玉などで貯めたお金で自分で安いドラムを買い、ドラムを買った楽器店に勝手にドラムを習いに行き始めました。
 このようにドラムが好きだったことと、自分で言うのもなんですが、そういう才能があったのでしょう、ドラムが急速にうまくなりました。それで父も私が中学2年生になったとき、「こいつは作曲家ではなく、ドラマーになるのだな」と諦めたらしくて、それからは非常に協力的になってくれました。それからギターを弾く友人を探して、中学でバンドをつくりました。そんなときも父はアンプを買ってくれるなどしたので、非常に恵まれた中学生のバンドになったわけです。私の生まれは名古屋で、名古屋で生活していましたが、夏休みはアルバイトでプールサイドで演奏するくらいのレベルに達しており、中学生としてはまあまあの腕前になっていました。
 皆さんは森本レオさんという方をご存じでしょうか。今は俳優やナレーションでご活躍されていますが、当時は名古屋の東海ラジオで番組を持ち、深夜放送のパーソナリティをされていました。その森本レオさんの番組で作曲の公募があり、1位になると録音してもらえるということを聞いた私は、それはすごいなと思って生まれて初めて作曲をしたのです。そしてそれが運よく受かり、バンドごと東海ラジオに行ったのですが、本当にかわいい中学生がゾロゾロと行ったので、森本レオさんが「えっ、君たちなの?」という感じで驚かれました。そして録音してもらって、「プロの現場で録音すると、こんなにきれいな音になるんだな」などとすごく感動し、ますますドラマーとして本格的にやっていきたいという気持ちが高まりました。
 それで父に相談したところ、父は東京で仕事をしていたので、「それじゃ東京に出て来い」という話になり、バンドのメンバーにも「皆で東京に行って一旗上げよう」と言ったのですが、誰も手を挙げない。結局自分だけなのだと思って、一人で東京に出て行き青山学院高等部に入りました。この高校には軽音楽部があったので、高校生でも軽音楽の活動を認める割りと柔らかい学校なのだなという思いで受験し、軽音楽部を目指して入学したのです。
 しかし軽音楽部は正直言ってレベルが低く、とてもがっかりしたのですが、渋谷にヤマハがあったので、そこでドラムを習い始めることにしました。そこではいきなり最上級のほとんどプロに近い人たちと同じ教室に入ったのですが、こんなに若いのにドラムがうまいということで、ヤマハの店長がものすごく私を可愛がってくれ、半分プロのような大学生のバンドを紹介してくれたのです。高校時代の私は、レッド・ツェッペリやグランド・ファンク・レイルロードなどを演奏するロックバンドと、マイルス・デイビスのコピーをしているジャズバンドとを掛け持ちして、当時のライブ喫茶の昼の部に出させてもらうというような活動をしていました。
 そして高校を卒業し、そのまま青山学院大学に進学した4月、ヤマハの店長から「赤い鳥にドラマーの欠員ができたので、オーディションを受けてみないか」と声が掛かりました。赤い鳥は静かな曲を演奏するグループですから、自分のイメージではドラムが活躍するグループではないと思いましたが、とにかくプロになりたいという一心がありました。それに、その後ニューミュージックというジャンルで呼ばれるようになる、例えば松任谷由実さんなどの新しい音楽の流れが生まれ出す時代で、その先駆者である赤い鳥の音楽自体には興味を持っていました。だから赤い鳥に入れるならばぜひということでオーディションを受けて合格。大学に入った4月にはプロとして仕事を始め、毎月 20本ほどのコンサートやラジオをこなすという、ものすごく忙しいスケジュールの中で過ごしていくことになりました。
 ひたすらプロになりたいと思っていた私がプロになれて、毎日楽しくて過ごしていましたが、赤い鳥は1年半後に解散するということが決まっていました。そのことは秘密でしたが、それを知っている私は解散のことを考えてしまい、1年半経ったときにどうしたらいいのかということも考え出しました。当時は赤い鳥のような音楽、海外で言えばカーペンターズやバート・バカラックといった音楽が流行している時代でしたが、私はそういう音楽に作曲や編曲の面で興味を持ち出していました。ですから赤い鳥でドラムを叩く一方、子どものころ父から音感教育を厳しく受けたお陰ということもありますが、それらの曲をコピーしてどのような構造になっているのかを理屈抜きで研究する独学が始まりました。
 また私は、赤い鳥の新しい曲を誰かがつくれば、「ここのハーモニーを書いておいて」と言われてコンサートの合間にコーラスのパートを書くなど、作曲家、編曲家にシフトしていくのに恵まれた環境にありました。それと同時に、今後編曲家・作曲家でやっていくためにドラムはふさわしいのだろうかということも考え出し、やはりキーボードをやらなければいけないのではないかと思ったのです。
 高校生くらいから軽くコードを弾く程度にはピアノを触っていましたが、プロで通用するようなレベルでは全くなかったので、とにかく解散までの1年半の間に自分が編曲したものは自分で弾けるようになろうと考えました。そのレベルに何とか自分を持っていかないとその先がない、という焦りと危機感のようなものを感じながら、赤い鳥がコンサートで回っているときでも、リハーサルから本番までの空き時間を利用してホールのピアノで一生懸命練習しました。当時私のことを皆は「ナベ」と呼んでいましたが、「鬼のナベ」と言われるほど、音楽の虫のようにひたすら練習する毎日でした。そして1年半が経ち、自分で編曲したものを人前でバッキングできるレベルに何とかなりました。
 そして赤い鳥は解散になるのですが、赤い鳥のメンバーは私以外に5人いて、結果的にはハイ・ファイ・セットという 3人組のグループと紙風船というグループにわかれます。私はこのハイ・ファイ・セットになった方のグループととても親しくしていて、ハイ・ファイ・セットになる前には4人で何かしようという話がありました。そうしたら、赤い鳥のプロデューサーであり、『翼をください』の作曲者でもある村井邦彦さんに呼ばれて、「今後君たちはどのような音楽活動をしていくのか」と聞かれたのです。それで、「こういうことをやっていきたいのだ」と話したら、村井さんが「いやそんなのじゃダメだ、日本のマンハッタン・トランスファーにならないか」と言われたのです。マンハッタン・トランスファーというのはアメリカの男性2人女性2人の4人組グループで、ジャズの複雑なハーモニーをコーラスでハモってショーアップした華やかなグループだったのですが、踊って歌ってそういうグループを目指さないかと言われたのです。私はその「踊って」と聞いた瞬間にできないと思い、結局そこから離れることになりました。

 そのとき、それまでの私の音楽に対する取り組みや独学でやっていた編曲などについて聞いた村井さんが、「渡辺君はもしかしたら作曲家でやっていけるんじゃないか」と言ってくださったのです。そのことが自分にとってとても励みになり、村井さんがそう言ってくださるなら可能性があるかもしれないと思って、さらに私は作曲家・編曲家になる決意を固め、結果的には自分でバンドをつくります。赤い鳥の流れがありましたから、まだ人気があるということで、1枚のアルバムをコロンビアから出すチャンスに恵まれました。日本のカーペンターズを目指した音楽を書いたのですが、残念ながら全く売れませんでした。当時はまだオフコースも赤い鳥の前座でしたから、洗練された音楽をやろうとしてもまだまだ日本では受け入れられないという状況で、自分がやりたい音楽は日本では難しいのだなと思いました。
 ではどうしようか。「それじゃ、つくったグループでバックバンドになろう」と私は方向転換しました。赤い鳥が所属していた事務所には、いろんなアーティストが何人もいますから、その人たちのバックバンドをするという契約を会社として、それぞれのアーティストの楽曲を編曲しながら、自分でキーボードも弾くという仕事をしていったわけです。その中にさだまさしさんの前身であるグレープも所属していました。グレープは私が赤い鳥に入るより少し遅れて事務所に入ってきたので、さださんも音楽活動35周年で私と同じキャリアです。今考えると運命的かなと思いますが、私の音楽家人生において、さださんとは最初から一緒に過ごしているということになります。
 そしてグレープも解散することになり、私たちのバンドは解散前の全国コンサートに全て付き合いました。さだまさしさんはとてもしゃべりが上手で明るい感じの人ですが、当時は今よりもう少し文学青年という感じで、少しとっつきにくい雰囲気がありました。音楽に関しては彼の相棒であった吉田正美さんが編曲などを担当していて、どちらかというとバンドのメンバーは吉田正美さんと話していました。それでコンサートが終わると、さださんは事務所の社長と出掛け、吉田正美さんとバンドは一緒に食事に行くといった感じで、なかなかさださんと私が深く話す機会はなかったのです。
 それが、ある地方公演をしているとき、さださんが唐突に「今日、時間取れないかな」と私に話し掛けてきたのでびっくりしましたが、初めて彼と2人で食事をしながらいろんな話をしたのです。
 先ほどお話ししたように、私はユーミンのような洗練された音楽の方向に行きたいと思っていました。ところが赤い鳥は、『翼をください』や『竹田の子守唄』などいろんな歌がありましたが、特に『竹田の子守唄』というのは、社会的問題を抱えた人にメッセージを持っている歌でした。コンサートの後いろんな人たちが赤い鳥のリーダーと話し込んでいる様子を目にして、音楽というのは言葉の力、つまり作詞の力によってものすごく人に大きな影響を与える可能性を持っているのだということにも気づかされました。
 でも私には作詞の能力はないので、この分野はどうしたらいいのかと考えながら過ごしていたとき、グレープの作品を客観的に見てみたら、詩にものすごい力があると思いました。さだまさしという人はこんなに若いのに、なぜある程度年を経た人でないとわからないような詩的世界を表現できるのだろうかと思い、彼が自分には全くない感性を持っているところに秘かに興味を持っていました。ある地方都市で、そのさださんと向き合って話をしたわけです。
 彼はそのとき、「グレープを解散してしばらくは音楽活動を休止するが、半年くらいしたら音楽活動を始めたい」と言いました。そして、それにあたっては一緒にグループを組んでくれないかと言うのです。自分が非常に興味を持っていた相手だけに、ぜひやりたいという気持ちがその瞬間膨れ上がりましたが、それと同時に私のプロデューサー的な感性が、「この人は間違いなく一人で成功する」と感じていたのです。こういう人はグループを作っても、またいつか解散することになると感じたため、「あなたは絶対一人で成功するからソロアーティストとしてやった方がいい」と即座に言いました。そして、プロデューサーという形であればいくらでも協力したい、ぜひ一緒にやりたいと彼に告げました。
 すると当時の彼は「本当に大丈夫かな」と自信なげに言うので、「いや絶対に大丈夫」と励ましました。その結果、彼はソロアーティストとしてデビューする決意を固め、私はプロデューサーとして彼と四六時中一緒にいることになりました。彼の家に寝泊まりし、「これからどんな音楽をやっていこうか」と、いろんなレコードを聴きながら音楽談議もして、「アルバムの1曲目はこういう内容にしよう」といった話を進めていきました。
 作曲をしたい、編曲をしたいという思いはまだ強くありましたが、その当時は「さだまさしを日本一にする」ことが一番の課題でしたから、自分で全曲を編曲しようという気持ちは全くありませんでした。それで彼の曲の編曲をする人は日本で最高の編曲をしている人から探そうと思い、いわゆるニューミュージック系と言われるところに属するアーティストで成功している人のレコードをたくさん買い、いろんな曲を聴いて編曲家の良し悪しを吟味していきました。そして、この曲はこの編曲家に頼もう、こちらの曲はこの編曲家に頼もうということを事前にリストアップしてさださんに見せたのです。
 すると彼はちょっと考えて、「これでは独自の世界がなくなってしまう。誰々と同じサウンドになってしまうから面白くないんじゃないか」と言うのです。「それよりもナベが編曲してくれたほうがよほど面白いものになると思うよ」とも言ってくれて、非常にうれしく励みになりました。しかし冷静に考えてみると、人の5倍頑張れば最高峰のレベルに達し、あるいはそれを超えるユニークなものが生まれるかもしれないが、自分の実力はまだ弦のライティングやストリングスに未熟なところがある。だから例えば大御所の服部克久先生や、当時の最高峰のアレンジャーに弦だけお願いするという形でユニークなものがつくれないかと方向転換し、自分でできる範囲の編曲をして、できないところは人にお願いするという形で1枚目のアルバムをつくりました。
 『帰去来』というアルバムでしたが、これが思うように成功して、最初は3、40万枚売れました。当時としては大ヒットになったので、「これから自分たちのいろんな夢も叶うね」というようなことを2人で話し、2枚目のアルバムはアメリカにレコーディングに行ってグラミー賞アレンジャーに編曲を頼むことにしました。サイモンとガーファンクルのレコードを聴きながら、「このストリングス・ライティングは日本にない音だよね」と話し、そのアレンジャーに編曲を頼んでみようということになったのです。
 当時はワーナー・パイオニアというレコード会社にいましたが、そこはアメリカのワーナー・ブラザーズとつながっていたので、すぐにOKだと返事がきました。アメリカにレコーディングに行って、私がリズムトラックを書き、ジミー・ハスキルさんというグラミー賞アレンジャーに弦の編曲だけ頼むことが実現したのですが、このジミーさんのレコーディングに立ち会って大きな衝撃を受けました。
 例えば、向こうでリズムトラックを録ったときにフォークギターが出てくるのですが、そのフォークギターの演奏家がなんとトラックで来たのです。つまりものすごい数のギターがトラックに積んである。その日はフォークギターとガットギターを必要とする曲だったので、アコースティックギターをいくつも持ってきて我々の前で弾くのです。「このギターがいいか、このギターがいいか」と。彼はギターの音色を聴かせて、私たちが「これがいいね」と言うと、そのギターで録音を始めます。これほどギターの音色の微妙な違いにこだわってやっているスタジオミュージシャンは、当時の日本にはいなかったのでびっくりしました。スケールが違うな、さすがアメリカだなと思いました。
 あるいは非常に専門的な話ですけれども、日本では今でもストリングスの録音をするとき、コンサートマスターともう1人が前に座って、第1バイオリンはその後ろに縦に座ります。そして一番前にマイクをドンと置いて全体を拾う形でレコーディングをしていきます。ところがアメリカのレコーディングは1プルトごと、つまり2人に1本ずつマイクがありました。それもかなり近い位置にあるので、これだと一番後ろの奏者も相当きちんと弾かないといけない。日本の場合は後ろの方になると、あまり実力のない人でも何とかやっていけるという甘い面もありましたが、いろんな意味でアメリカのレコーディングに刺激を受けたわけです。
 また、編曲のスコアも実際に目にすることができるので、コピーではわからないことがいろいろわかり、自分の実力も高まっていきました。3枚目のアルバムでは、半分は自分で弦の編曲をしたのですが、残り半分はジミーさんにお願いすることにしました。アメリカにも行きたいし、ジミーさんの新しい音も聴きたい。また私にとっても勉強になるということで、3枚目のアルバムもアメリカにレコーディングに行きました。
 3枚目のレコーディングが終了したとき、さださんと映画でも観ようかということになって向こうのコーディネーターに尋ねたら、「『未知との遭遇』を最近観たがとてもよかった、お薦めですよ」とのこと。当時チャイニーズシアターでは『スター・ウォーズ』を、向かい側のコロンビア直営館では『未知との遭遇』を上映していたので、どちらも魅力的でしたが、『未知との遭遇』を観ることにしました。この映画は、宇宙人と地球人が音楽を通じて交信しあいコミュニケーションをとるというドラマです。ですから音楽がとても重要で、それでいてドラマチックなシーンやサスペンスのシーンもたくさんあるので、音楽的に言うと、現代音楽的作曲技法など複雑な作曲技法が含まれ、かつ管弦楽のものすごい幅の広い音楽的世界が描かれていたのです。
 私はずっと独学で音楽に向き合ってきましたが、ストリングスのライティングを何とか書けるような段階に達していて、映画音楽もいろいろ聴いていました。例えば『未知との遭遇』というのはジョン・ウィリアムズという人の作品ですが、その人の作品はそれまでに『JAWS』というのがあって、それも非常に印象的な音楽でしたからすごい音楽だとは思っていました。当時の自分はただただ「すごい音楽を書く人がいるな」と思っただけでしたが、『未知との遭遇』を観たときは、すごいなと思いながらも「こういう音楽を書けるようになれたらいいな」と思ったのです。ただ作曲技法も含めて、管弦楽の世界はどうやって独学したらいいのか見当がつきませんでした。
 さださんとは仕事がうまくいっている。アルバムが何十万枚と売れてどんどん成功する中で、仕事をしながらどのように勉強したらいいかと考えました。私は赤い鳥で1年半ドラマーをして、その後バックバンドをやり、さださんと組み始めたときは21歳でした。それから3年くらい経った24歳直前にアメリカでそういう体験をしたのです。一体どうしたらいいかと考えた結果、自分が目指す音楽家になるためには音楽大学に入らないと無理だと思ったのです。そして、日本の音楽大学を受験して仕事を続けながら勉強するか、あるいはアメリカで勉強するかのどちらかだろうなと思うようになりました。
 それに、私は当時の日本の映画音楽にあまり興味が持てなくて、自分がいいなと思うもののほとんどがアメリカの映画音楽でした。これはもしかしたらアメリカの音楽教育の中にハーモニーの体系とか、すばらしい音楽的な授業体系があるのではないかと勝手に思って、アメリカに行きたいと思ったのです。そしてさだまさしさんに自分の思いを明かしました。彼とは友情で深く結ばれていて、仕事の面では私が女房役でしたので、とても話しづらいことでしたが、彼は「わかった。それじゃ自分の分まで勉強してきてくれ」というようなことを言ってくれました。それで私は、できるだけ短い期間でとにかく勉強して日本に戻ってくる、という決意を固めてアメリカに行きました。
 とは言え24歳の私の考えは、英語の勉強を18歳からほとんどやってなくて英会話も全くできないのに、アメリカに行けば何とかなるだろうという非常に甘いものでした。アメリカの大学に入るためにはTOEFLなどの資格が必要なのですが、それはとても無理だと思ったので、ボストンのバークリー音楽大学に入学した経験のある日本人にいろんなことを尋ねました。すると、バークリー音楽大学の近くに外国人向けの英語学校があり、そこに半年間通って資格を取るとバークリー音楽大学に入れてもらえるとのことで、それだったら可能性があるなと思ってアメリカに行き、その英語学校に入ったのです。
 ところが、半年間英語学校に通っても英会話は全く上達しません。日本人は文法の成績はとてもいいのですが話せない。例えば南米のスパニッシュ系の言葉をしゃべる人たちというのは、母国語に英単語のもととなる似たような言葉が含まれているせいか、とにかくしゃべるのです。しかし、何を言っているかわからない英語なのでさっぱりわからない。そういう中で非常に辛い半年間を過ごしましたが、資格だけは取れたので、とにかくバークリーに入ってみようと思って入りました。
 ところが、バークリーの授業でも英語がほとんどわからないのです。これは困ったということで教授の許可を得て、カセットテープレコーダーを持ち込んで全ての授業を録音しました。そして家に帰って、それを何回も聞いて単語を書き出し、辞書で調べて解読していくということをやったのです。音楽の授業ですから使われる言葉は限られています。そのようにして 3カ月ほど経つと授業に何とかついていけるようになり、夏休みを取らずに授業をこなしたので、自分のやりたいことが2年半で習得できました。
 皆さんはハービー・ハンコックというジャズのピアニストをご存じでしょうか。世界的レベルで活躍しているジャズピアニストですが、バークリーで2年半くらい経ったときに、ハービー・ハンコックが映画音楽をやるという情報を得たのです。その記事には、自分はジャズピアニストなのでオーケストラを駆使したことがあまりないから、オーケストレーションを勉強しているとありました。ハービー・ハンコックほどの人が今になって勉強するなんて偉いものだと思い、どういう先生についているのか興味が沸きました。するとロサンゼルスのアルバート・ハリスという人についているということが書かれており、「ハービー・ハンコックがつく先生なのだから相当な人に違いない」と思ったのです。そして私は、ハリウッドで活躍しているオーケストレーターであるアルバート・ハリスさんを訪ねて行き、個人教授ですがレッスンをしてもらいました。
 この方はとてもすばらしかったです。博士課程まで出ているような学者肌の音楽家でありながら、昔は映画の、当時はテレビドラマのオーケストレーターでした。すでに60歳を過ぎている方でしたが現役で活躍しており、「自分は今ハリウッドで一番のオーケストレーターだから1ページいくら取っている」などと言うプライドの高い方でした。もちろん能力もとても高く、私が先生のお宅をノックすると誰も出て来られない。でもピアノの音が聴こえてくるので、ピアノを弾いていらっしゃるのだと思って入っていくと、クラシックの作曲家・ラベルのピアノ曲を弾いていたりするのです。
 私の受けた授業は、例えば先生が昔書いた映画音楽のコンデンススコアを見せてもらってハーモニーについて勉強したり、それをそっくり真似て映画音楽を書いてくるというような授業で、全くラベルとは関係ないのですが、先生は好きでそういう曲を弾いているわけです。そして私が入っていくと、「俊幸、このラベルのハーモニーはすばらしいだろう」と言います。「今日も発見があった」とか、「ラベルを研究しなければダメだ」とか、そういうことを目をキラキラ輝かせながら60歳を過ぎた方がおっしゃるのです。やっぱり、アメリカで活躍している音楽家というのはこういう人たちなんだと深く感じました。
 バークリー音楽大学の授業内容はとても合理的で、ハーモニーの体系もとても良くできていました。アメリカ人というのはなかなか優秀で、理論化することに長けている頭のいい人たちがいるんだなということを、いろんな理論を学ぶにつれ思いましたが、それと同時にアルバート・ハリスさんのような人に出会うと、アメリカには想像もつかないエネルギーの塊のような人たちがいるんだと思いました。このように自分が好きなことはとことん好きで、永遠に追求し続けている人たちが頂点にいるので、その領域に行くために若手は相当努力しないと入り込めないのです。アメリカの映画音楽のレベルが総じて高いというのは、そういう伝統があるからだと思いました。
 『風と共に去りぬ』という映画がありますが、あれは1930年代の作品でしょうか、とても古い映画です。その前はどうだったかというと、トーキーと言われる音楽も何も付いていない映画の時代がありました。白黒から総天然色の映画に変わるときに、一体どういう音楽を付けていこうかと製作者は考えたと思うのです。アメリカの場合はプロデューサーの意識レベルや文化度が高く、ヨーロッパからクラシックの音楽家を呼んでくることを考えました。当時活躍していたヨーロッパの純粋音楽を書いているクラシックの作曲家を呼び、ワーグナーのような曲を書かせて映画音楽をつくっていったのです。これには莫大なお金が掛かり、またそういう作曲家を呼ぶことも大変だったと思うのですが、自分の作品を高いレベルの音楽で輝かせたいという思いがあったのだと思います。
 そういう流れが最初にあったために、その後のウォルト・ディズニーにしても音楽にものすごくこだわっており、彼の1940年代、50年代の作品は今に至るまで通用するものです。また彼の映像へのこだわりで言うと、それまでのアニメーションのコマ数よりずっと多い数でつくったり、動きをスムーズにするためにダンスシーンなどは実写で撮った映像をそっくりアニメーションに置き換えるといった独自の考えを実践しました。そういうことをするためには莫大なお金がかかりますが、彼は絶対ヒットするという自信を持ってプロデューサーを説得したのです。
 スピルバーグもそうだと思います。『ジュラシックパーク』制作のとき、それまでは模型を動かしてつくるという手法だったのですが、コンピュータグラフィックスという新しい技術が生まれました。しかし、これを取り入れるためにはものすごくお金がかかります。果たしてそんなことをやって大丈夫だろうかという中でスピルバーグは実践し、ジュラシックパークは大成功を収めたのです。とにかくアメリカの人たちというのは、「自分ができる限りの最高のものを実現したい」という思いが常にあって、エネルギッシュなのです。
 またウォルト・ディズニーには、人々の心に深く残る最高の音楽をつくらせたいという思いがあったのでしょう。彼のどの作品にもすばらしい主題歌となる曲があり、ピノキオの『星に願いを』など名曲と呼ばれる曲が生まれています。そしてどの曲を聴いても、ウォルト・ディズニーの印鑑が押してあるかのような共通の雰囲気を感じるのですが、それぞれ作曲家は違うのです。これはウォルト・ディズニーが作曲家それぞれに対して、こういうイメージだということを相当伝えた成果ではないかと思います。また作曲家もそのエネルギーを受けて感化され、普段以上の力を発揮したのではないでしょうか。
 話は少し前後しますが、私がボストンで勉強しているときに小澤征爾さんと出会いました。直接会ったのではなく、コンサートを通してこちらが勝手に出会ったのですが。私はそれまでずっとロック少年で、ドラムという楽器に惹かれて子ども時代を過ごしていますから、クラシックという音楽には少なからず抵抗感を持っていました。どういう抵抗感かと言うと、中学のときビートルズに憧れて髪の毛を長くしたかったが、私の学校はちょっとでも髪の毛を長くすると頭を叩かれるくらい厳しいところで、ビートルズなんか聴くヤツは不良だと言われました。だからそういう環境にものすごく反抗心を持っていて、それだったら学校教育の延長にあるクラッシックなんか聴くもんかと思ったのです。そのため、レコードでドビュッシーを聴いたり、『N響アワー』を見たりはしていましたが、クラシックコンサートに足を運ぶということはあり得ませんでした。
 ボストンに着いた翌日、デパートに買い物に行きました。そして売り場を歩いていたら、売り場の人がいきなり「昨日のイブニングシンフォニーを見たか」と問い掛けてきたのです。このイブニングシンフォニーというのは、日本で言えば『N響アワー』で、ボストンシンフォニー交響楽団をライブ中継している番組です。そしてこれも、たまたまなのですが、前日ホテルに着いてテレビをつけたらそれが放映されていて、「ここに小澤さんはいたのか」とそのとき気付くくらい私はクラッシックに関して無知でした。「見ました」と私が答えると、その売り場の人は「昨日のSeiji Ozawaはすばらしかったね」と言ったのです。
 このようにボストンでは、街の普通の人たちがシンフォニー交響楽団について語ります。しかも小澤征爾という日本人の指揮者が、こんなにも親しみを込めて語られている。たぶん私の顔が日本人系だったから、小澤さんと同じ国の人に違いないということで彼女は話し掛けたのでしょう。当時日本人はエコノミックアニマルなどと言われており、アメリカ人からあまり好感を持たれていないのではという思いで私はアメリカに行ったのですが、小澤さんのお陰で親しみを込めて話し掛けられたので、小澤さんはなんてすばらしいんだろうと思いました。
 それで小澤さんの指揮を見てみたいと思い、ボストンシンフォニーホールに行きました。これも偶然ですが、ボストンシンフォニーホールは世界でも何番目かに入るくらいのいいホールで音響がすばらしい。そこで私は生まれて初めてオーケストラが奏でる音楽を耳にしたのですが、これが良かった。2階席で聴いていたのですが、それぞれの奏者からフワーッと直接音が舞い上がってくるように感じたのです。それはそれまでに経験したことのない美しい音響の世界で、天井に音たちが舞い上がってくるようなものすごい衝撃を受けたのでした。
 私はそれまでポピュラーの世界で、弦などもこれまでお話ししたように独学で勉強し、録音にも立ち会ってきました。ところが日本でも海外でもそうですが、録音の現場というのは音が響かない空間を使ってやっているのです。例えばドラムなどの音が響く楽器は響き過ぎて、いい音が録れないということで、どちらかというと響かない空間で録音するというのが主流になっています。そういう環境でストリングスも録音しなければいけなくて、そこに弦の奏者がいて私が指揮をしていても、ヘッドホンを外すと本当につまらない音なのです。でも、それが当たり前だと思ってヘッドホンをし、擬似的にリバーブという音響をつける。擬似的なリバーブをつけることによって、クラシックホールで聴いているような音になるわけです。
 これはすごく不自然な行為なのですが、それが当たり前だと思って24歳まで過ごしてきた私は、ボストンシンフォニーを聴いたときに「これが本当の姿だ」と気付きました。そして生の音が、どれだけリバーブを付けようが何をしようが、再現できないくらい美しいものだと知ったのです。
 それと同時に、ホールは楽器の一部なのだということにも気付きました。もしこのホールが体育館だったら、どれだけ演奏がすばらしくてもずいぶん違ったものになる可能性があるのです。
 そういったことを深く感じたので、日本人の多くがオーケストラを生で、それもいいホールで聴くチャンスに恵まれずに過ごしていることはもったいないと思いました。特に現代はiPodなどが中心になり、ヘッドホンで音楽を聴いています。私たちが耳にする音楽のほとんどがスピーカーから流れてくるわけです。テレビで聞こうが、映画で観ようが、あるいは銀行でも何か音楽が流れていますが、全部スピーカーから流れています。ライブに行っても音を増幅させるPAという装置を通して聴いていますから、決して生の音とは言えません。そういう環境にあるということを意識すると、なおさらオーケストラで、いいホールで音を聴く機会をぜひ持ってほしいと思うのです。
 それから、私がボストン時代に体験した中に「ボストンポップス」というのがあります。これは、ボストンシンフォニーの楽団員たちがミュージカルや映画音楽といった柔らかい音楽を、すごくゴージャスな編曲で演奏するものです。夏になると、シンフォニーホールでボストンポップスの公演が1、2カ月行われます。そのときは1階の席を全部取り払ってテーブル席にし、ワインなどを飲みながら贅沢に音楽を聞くことができます。そしてグレン・ミラーのような曲が特集で組まれるとダンスも踊れます。
 こういう活動をしているから、ボストンシンフォニーは市民から愛されるのです。それからボストンシンフォニーへの寄附を呼び掛けるため、ボストンミュージカルマラソンというものもあります。ボストンマラソンに掛けてボストンミュージックマラソンなのですが、一日中寄付を呼び掛け、ラジオでどこの誰々さんがいくら寄附しましたとアナウンスしながらクラシックを流すのです。それを聴いていると本当にたくさんの方が寄附しているのですが、その背景にはやはりボストンポップスがあるのではないかと感じました。
 それで私は、日本でも親しみを持ってシンフォニーを聴いてもらう機会をつくるために、将来ポップスオーケストラというものをやりたいと思ったわけです。また指揮者の小澤征爾さんにものすごく興味を持ったので、どんな人か知るために小澤さんの本を取り寄せました。その中に武満徹さんと対談する本がいくつかありました。武満さんはすでに亡くなられましたが、日本が世界に誇る天才的な作曲家です。その方が小澤さんに対して、「あなたが勉強家だということは耳にしていたが、あなたの家で過ごしてみて、こんなにも勉強家だとは思わなかった」と言うわけです。具体的に言うと、武満さんの曲が初演された晩、小澤さんと「今日はいい演奏会だったね」とワインを飲みながら楽しく語り合った。そして夜中の12時くらいに床に就き、武満さんがたまたま朝の4時に目を覚ましたら、小澤さんがスコアに向かって勉強していたというエピソードが書いてありました。小澤さんが早朝スコアに向かって勉強するのは、毎日欠かさないことだそうです。
 また小澤さんは、どんな音楽を指揮するときでも暗譜で振っています。ものすごく長大で複雑なマーラーの8番という曲までも暗譜です。私はそういったエピソードをいくつも読んで刺激にしました。
 私は一度、演奏後の楽屋で小澤さんに挨拶をしたことがあります。小澤さんは憔悴しきった感じで浴衣か何かを着てスポーツドリンクを飲んでいたのですが、私が「はじめまして」と挨拶をすると、小澤さんがふっと眼を開けられた。その眼は獲物を狙うピューマのように眼光が鋭く、武士の達人のような迫力を感じました。「やはりすごい人だな、このエネルギーが彼を勉強に向かわせているのだな」と思い、彼の思いの強さを深く感じました。
 このように、世界で活躍する人はこういう人たちなのだなと感じた私は、それを励みにしてボストンで勉強に取り組むことができましたし、今でも小澤さんや先ほど述べたアメリカの人たちのエネルギーを根底に感じて勉強し続けています。
 とにかく私は、節目節目にいろんなことに遭遇するのです。さだまさしさんに出会い、彼と成功したお陰でアメリカにレコーディングに行くことができ、そこでまた成長する。その成長過程で偶然観た映画に刺激を受け、映画音楽を通してオーケストラの方まで行ってみたいなと思ったのです。無鉄砲にも仕事を辞めて英語もわからずにアメリカに行き、そしてとにかく勉強してやるという根性だけで、何とかそれをやり遂げた。その途中で偶然小澤征爾さんとボストンシンフォニーに出会い、指揮にも関心を持ちました。
 バークリー音楽大学はジャズが中心の学校ですが、そこには指揮科の授業もありました。私は小澤さんに刺激を受けていますから、指揮の勉強も一生懸命する。そうすると指揮科の先生が、隣のボストンコンサーバトリーというクラシックの学校の指揮科の教授を紹介してくださり、そこで指揮を本格的に学ぶことができました。もし小澤さんがボストンにいらっしゃらなかったら、私は指揮に興味を持たなかったでしょう。だから人間というのは、偶然が重なって刺激を受け、何かやりたいという気持ちが湧いてくる。やるかやらないかは自分の判断ですが、とにかくやったことで、私はボストンポップスのようなことをやりたいという思いをずっと持っていましたから、5年前にオーケストラ・アンサンブル・金沢という金沢にあるオーケストラとご縁ができました。
 最初はそこへ『利家とまつ』の作曲家としてゲストで呼ばれ、音楽を演奏してくれている中で話をしました。そしてその晩オーケストラの人たちと話をしているときに、「渡辺さんは指揮をしますか」と聞かれたので「しますよ」と答えました。でも本当は時々さだまさしさんのバックでオーケストラをやるときに振る程度だったのですが、ボストンで勉強してきたということがあったから、「できますよ」と言えたのです。
 私はボストンでの体験を熱く語り、オーケストラ・アンサンブル・金沢もボストンと同じようにポップスをやることで、もっと金沢市民から愛されるオーケストラにしましょう、活動をもっと積極的にやりましょう、というような話をしました。それで、5年前から私は年に3、4回金沢で指揮をするようになりました。
 このように、とにかくいろんなことが重なり合って今の私があります。N響が演奏する大河ドラマの作曲もするし、オーケストラに向き合って指揮もします。ドラマーだった人間がどうしてこんなふうになったのか。そこだけ見ると非常に変わったキャリアですが、今お話ししたことで、なるほどそうやって変わっていったのかとわかっていただけたと思います。
 人間というのは、その時その時の自分の思いに深く向き合って努力していくと夢が実現していきます。ただ、それは小澤さんと同じレベルの深い努力が必要です。その努力をすると思いのほか力が強くなっていき、もっとこれをしたいという気持ちが高まってきます。そうすると運を引き寄せるのではないかと思うのです。自分の人生を振り返るといろんなことが起きていますが、その都度、「ちょっとハードルが高いな」と思うことも頑張ればできる機会が訪れるのです。
 例えばオーケストラ・アンサンブル・金沢の人に「指揮もやりますか」と言われて、「やる」と答えるのには結構プレッシャーがありました。そんなにオーケストラに向き合ってもいないのに、指揮者をするのは大変なことです。「こいつ何なの」という顔で皆が見ている中、堂々と指揮をすることは相当なプレッシャーで、こちらも技術力がないとてんでダメなことになってしまう。でも、これは大変なことになるなと思いながらもとにかくやってみよう、そうしないと自分の夢は実現しないと思い、自分なりに指揮の勉強をし直して備えたのです。うまくいかないことも実はありましたが、それも勉強になってギリギリ一杯でコンサートは成り立ちました。
 オーケストラのメンバーと親しくなってくると教わることもあり、それが作曲にも反映されます。このように演奏すれば曲が良くなるということを知ると、それを作曲の楽譜に書き込むことができるようになるのです。そのようなことをやっていけば、さらに学びが深まります。偶然が重なったりいろんなことが増幅することで、人間は機会に恵まれて成長していくのだと自分を振り返ると思うのです。ですから皆さんに何事かが降りかかってきた場合でも、大変だがやってみようと思える時はやった方がいいです。ダメでも全然構わないし、それが何かにつながるかもしれません。そして「ここに行かないか」と声を掛けられた場合には行ってみることです。そうすると誰に出会うかわからないし、何が起きるかわからない。私はそういう体験をたくさんしています。
 現在は作曲活動がとても忙しくて、人に会ったりどこかに誘われて行くことはなかなか大変なのですが、できるだけ出掛けるように努力しています。そうすれば出会いや新しいことが生まれる可能性があるからです。今日はそういうことをぜひ皆さんにお伝えしたかったのです。

それでは時間が無くなってきましたので、映像音楽のことを話したいと思います。映像音楽には、テレビや映画の音楽があります。テレビの音楽と映画の音楽で何が一番違うかと言うと、映画の音楽は基本的に映像が先に出来上っていて、その映像のどこに音楽を付けるかということを作曲家は判断します。監督も音楽をどこに書いてほしいかを考えながら編集しますし、監督によっては台本上ここには音楽が必ず入るということを考えて映像を撮っている方もいらっしゃいます。ここは音楽カットだということを意識して撮った映像は、セリフがないシーンが続くために美しい風景がふんだんに盛り込まれていたり、音楽にマッチングする映像になっているなど、さすがに最初から計画されていたのだなと思うのですが、後から考える場合はそういったことはできません。ですから、台本上で音楽をどこに入れるかということをきちんと考えていくほうが、より良い映画になっていきます。とにかく映画音楽というものは、基本的に映像にぴったり合わせて書くということが要求されます。
 テレビの場合はどうかというと、2時間ドラマや大河ドラマ、限られた連続ドラマは映像に合わせて書く機会が与えられますが、それ以外の連続ドラマの場合はほとんど先に音楽を書きます。台本は何冊か渡されますが、内容によってはまだ結末が出ていないので、全体の流れを聞いてこういう音楽がたぶん必要になるんだなと判断するのです。愛のテーマだとか、悲しみのテーマだとか、サスペンスであればサスペンス1、2、3とか、そういうふうな仮タイトルを付けて音楽を書かされます。作曲家は、「このドラマのペースならばこういう音楽で」「これくらいのスケール感が必要なドラマであればこのスケール感の音楽で」ということで編成を考えたり、クラシカルでいこうとかポップなセンスでいこうとか、そういった音楽のジャンルなども考えて監督と打ち合わせをします。
 このように作曲家が先に書いてしまった音楽を、今度は選曲家がドラマができるたびに演出家の要求に応えて、「ここは愛のテーマでいこう」などと判断してはめていくのですが、当然映像のために音楽を書いていませんからぴったりはまりません。ですからハサミを入れるというのですが、どこかで切ったり、足りなければつないだり、もう一回繰り返すということをしながら、映像に合うように音楽をつくり替えてきます。これはこれでセンスのいる作業で、音楽的センスがない選曲家がやるととんでもないところでつないだりします。しかし今は選曲家のレベルが高くなって、非常にうまいつなぎ方がされます。つまり民放の連続ドラマは、ほとんどそういう選曲方式でやっています。
 なぜそうなったかというと、これは予算の問題です。アメリカの連続ドラマというのは、私が勉強に行っていたときは、ほとんど毎回音楽が書かれていました。私がオーケストレーションを習っていたアルバート・ハリスさんは、当時『The Incredible Hulk:超人ハルク』というテレビドラマの音楽のオーケストレーションを担当していましたが、見ていると毎回音楽を書いているのです。アメリカはテレビドラマでも映画並みにお金をかけてやっていくのだなと驚かされました。しかし日本はそこまでお金をかけられないということで、連続ドラマはそういう状況です。
 では、映像に合わせて音楽を書くことにどんな意味があるのかというと、それはまず音楽的に破たんが起きないということです。始まりと終わりがぴったりくる音楽なので、それに優るものはないわけです。どこかをつまむという作業は音楽的にいいはずがない。それともう1つは、映像に合わせて音楽的演出を加えることができるということ。映画を観ていて、例えばドアを開けるときに低い音でドーンという音が流れ出したら、これは何か起きるに違いないというふうになるわけです。何もなければただドアを開けるシーンですが、そこに低いコントラバスか何かの音が流れ出すと心理的にドキドキするという音楽的な演出ができます。
 また、大河ドラマで抒情的なシーンがあると、そこには抒情的な音楽を流していきます。その後すぐに合戦のシーンや別のシーンに変わっていく場合、抒情的なシーンで一回終わらせて、次のエネルギッシュなシーンに新たな音楽を張り付けなければいけないので選曲に工夫がいります。工夫の仕方はいろいろありますがスムーズにいきにくい。しかし作曲家が映像にきちんと合わせると、まず抒情的な音楽を書いて、その映像が切り替わる瞬間に次の音楽が流れるようにコントロールすることができるのです。どのようにコントロールするかというと、テンポです。抒情的なシーンはあるゆったりしたテンポでやる。そうしてテンポが設定されると、1小節何秒というのが出てきますから、1小節何秒で何小節やると、このスタートポイントから次のシーンの変わり目になるということがわかるわけです。これをテンポ60ぐらいでやると1拍1秒になり、それでやっていくとちょうどここになるなと。でも微妙に何コマかずれる可能性がある。今はコンピュータを使いますから、シーケンサーで60を60.01や60.03にするといった微調整ができるので、確実に映像が変わるタイミングに音楽のリズムが合うようにテンポをコントロールすることができます。そのために我々はクリックと呼んでいるメトロノームのようなカチカチという音を事前に録音するのですが、それまで 60のテンポで来ていたものを、あるシーンに至ったときに別のテンポにすることができるのです。ですから、それを事前にコンピュータでつくって、何小節目の何拍目にこの映像が来るということを常に意識しながら作曲していきます。
 このように、ゆっくりしたテンポの中でも微妙にいろんなことができます。セリフのバックでは薄くしていたほうがいいとか、セリフがなくなったら音楽を高揚させるとか、いろんなことがあります。
        【資料映像 『利家とまつ』が上映されました】
 これは『利家とまつ』の映像で、利家が桶狭間の合戦で織田信長の陣営に加わるために、たった一人の部下と馬に乗って向かうところです。そして、父親が利家に「頑張れ」と言葉をかける親子の情愛のシーンから、これから合戦に向かうぞという武士の活気あふれるシーンに連続しています。父と息子の情愛を語る中では、「まつに似ておろう」と言って父親が息子にお守りの将軍地蔵を渡すシーンがあります。このシーンでは、やはりまつを連想させる音楽を表現しようと作曲家は思います。まつのテーマをそこで流すか、あるいはテーマを流すほどのシーンでなければ、まつを連想させるフルートを使おうかなどといろんなことを考えます。ほとんどの人はそれに気付かないと思いますが、作曲家はこだわりを持ってそういったことをやっていくのです。
 シーケンサー上ではどのタイムコードになるかが一目瞭然でわかりますから、何拍目にフルートを書けばいいということがわかります。ですから、ちょうど将軍地蔵が映るときにフルートも流れるということができるわけです。ではひとつ映像を観てみましょう。最初は全く音楽が付いていない映像をご覧いただきます。
        【資料映像 『利家とまつ』(音楽なし)が上映されました】
 これが反町隆史さん演じる織田信長です。ここからが今言ったところで、これが父親です。
 ここから映像は信長の陣営に変わります。
 ここまでです。
 今のこの2つのシーンをどのように音楽で表現していくかを作曲家としては考えるわけです。まず抒情的なシーンで、どこから音楽をスタートさせたらいいかを考えなければいけない。これは打ち合わせをしながらNHKのスタッフと考えていきます。NHK側はここがいいだろうというポイントを持っていますが、一般的にはセリフとセリフのすき間で音楽をスタートさせます。まず始まりの音楽というのは父親と利家の音楽で、どちらの思いが強いのだろうかと考えると、父親が利家に対してねぎらいの言葉をかけるので父親の思いが深いシーンである。ここは父親から音楽をスタートさせるべきだということでNHKのスタッフと意見が一致しました。ではもう一度、セリフのない方の映像を観ていただきます。
        【資料映像 『利家とまつ』(音楽なし)が上映されました】
 ここで将軍地蔵を出します。
 「まつに似ておろう」と言いますので、それを何とか表現したいと考えたのです。

 このシーンに変わるときに音楽がどのように変わるか聴いてください。
 ここが織田信長の思いがこもっているシーンで、織田信長のテーマをどこかで入れようと作曲家としては思いました。では一体どこがいいか。
 「オーッ」というセリフがあって、ここは盛り上げなければいけないわけです。どのような出陣の盛り上げの音楽を書くか。信長のテーマはホルンを使った威勢のいい音楽で、信長が現れるたびに何度も流しています。ですからこのシーンで短く流しても信長だということが認識される可能性は高い。そしてホルンをどこで当てたら一番効果的かということを考えるわけです。結果的に、私は信長が振り向くシーンが一番効果的であろうと判断してそこに入れました。

 それから、静かな抒情的なシーンから信長の陣営のシーンで、いきなりダダダーンという音楽はいけません。どちらかというと沈んだ、でも何か起きるに違いないという音楽です。すると、そこに向けて前の音楽はどのようにすればいいのか。これは一度音をしぼませるか、あるいはクレッシェンドで音を盛り上げるかと考えるわけです。結果的にはクレッシェンドしたほうが効果的だと私は思ったので、クレッシェンドして次に何かが起こるぞという効果を演出しました。そうするとワクワク感が生まれ、叙情的シーンではない何かが起こるということが自然に感じられるわけです。
 何かが起きるかもしれないという発展的音楽が、後半に向けてだんだん深まっていきます。その高まる途中で信長を連想させるテーマを入れています。そして「オーッ」と言った後セリフはなくなるわけですから、ここで「出陣するぞ」という音楽でパッと終わるのが音楽的には正解だろうということで書いています。もちろん別の書き方もあるかもしれませんが、私はそういう意図で作曲しました。では音楽のついた映像を見ていただきます。 
        【資料映像 『利家とまつ』(音楽あり)が上映されました】
 このように映像に音楽をシンクロさせていく効果を、少しはおわかりいただけたかと思います。ここが映画音楽家として一番興味を持って取り組んでいる分野で、普通に作曲をするだけでなく、「そのドラマを理解していかに音楽的演出で高めるか」というところに生きがいを持って取り組んでいくのが映画音楽の世界です。ですから民放の連続ドラマで、どういうシーンにどういう音楽が使われるかということを想像しながら、ピッタリくる音楽をつくることにも、もちろんやりがいがありますが、きっちり映像に合わせて作曲できることが映画音楽家にとっては最もやりがいのある分野であり、また音楽的効果もあると言えます。
 一度こういう話を聞いてから映画や連続ドラマを観ると、「ああ本当だ」ということになると思いますので、ぜひ今後は音楽にも注意を向けて映像作品を観ていただけたらと思います。

以上

【公式ウェブサイト】http://www.toshiyuki-watanabe.com/
【所属団体】日本音楽著作権協会評議員(JASRAC)、日本作編曲家協会理事(JCAA)




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後藤先生