第12回 2008年12月20日 
メジャーレコード会社の組織と経営」


講師:吉田 敬(よしだ・たかし)先生

株式会社ワーナーミュージック・ジャパン 代表取締役社長
1962513日 大阪府出身 
19853月 慶應義塾大学経済学部卒業
1985年4月 株式会社CBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)入社、販売促進部に配属
1997年 社内に発足した「Tプロジェクト(後のデフスターレコーズの前身)」において、平井堅、CHEMISTRY、ザ・ブリリアントグリーンなどのヒットを手掛ける。
2001年 株式会社デフスターレコーズ 代表取締役社長に就任
2003年 同社を退社
2003年8月 株式会社ワーナーミュージック・ジャパン入社、代表取締役社長に就任
2008年10月 株式会社ワーナーミュージック・ジャパン 代表取締役社長・CEOに就任

メジャーレコード会社の組織と経営」




はじめに

ワーナーミュージックの吉田です。短い時間ですが、今日はなるべくゆっくりと、わかりやすくお話しさせていただきたいと思います。皆さんのお手元にいろんな記事や新聞、雑誌のコピー、それから2000年当時の僕の若かりし頃のオリコンのインタビューが配られていると思います。今日の話に出てくるいろんなキーワードはインタビューの文中にも出ていますので、記事を読みながら話を聞いていただければと思います。
 ご紹介にあった通り、私はワーナーミュージックというレコード会社に在籍しています。昔はレコード会社という言い方で我々の産業・仕事のことを呼んでいましたが、今はレコードとは言いませんね。
 それではお手元にある日本レコード協会作成の『日本のレコード産業2008』をご覧ください。これは2007年度のデータですが、まずこの10年で激変している音楽業界・産業の話を冒頭にさせていただいて、次にそれが今どういう状況になっているかということを話したいと思います。

まず、表の4番の「音楽ソフト総生産金額」を見ていただくと、1998年から2007年にかけて、右肩下がりにグラフの線がきれいに落ち込んでいます。これは音楽ソフト総生産ですから、CDやオーディオレコードといったパッケージ商品が、いかに年々売れなくなっていったかを表しているグラフです。1998年に6,075億円あった売り上げが、2007年にはなんと3,911億円ということで、ピーク時の数字と比べて35.6%のダウンという驚異的な落ち込みになっています。しかも1998年の6,075億円という数字の中には、映像商品の売り上げが反映されておらず、映像商品のデータが反映されるのは2002年からですから、2007年までにいかにCDが売れなくなったかが一目瞭然でわかると思います。
 では、「なぜこんなにCDが売れなくなったのか」という一番の理由は、皆さんおわかりの通りデジタルコピーです。日本には音楽・映像レンタルというサービスがありますが、これは実は日本特有のもので、アメリカやイギリス、フランスにもTSUTAYAやGEOといったレンタル店は一切ありません。このレンタルから始まり、その後のPCやiTunesに代表されるソフトの普及によって、誰もが簡単にCDをコピーすることができるようになったことが、CD売り上げが落ち込んだ一番の原因です。このことは皆さんも生活習慣として実際に行われていることなので、よくおわかりになると思います。
 続きまして、表の10番の「CDシングルの生産金額」を見てください。2001年と2002年に、対前年比でそれぞれ17.6%、24.7%と大きく下げています。CDシングルのマーケットがこのように縮小しているのには、今述べたデジタルコピーのほかにもう1つ大きな要因があります。皆さんの中で、CDシングルが発売になると必ず買うという方はいらっしゃいますか? 今やCDシングルなんて買わないでしょう。これも皆さんすぐおわかりのように、携帯電話から取れる「着うた・着うたフル」の出現が原因です。着うたのサービスが始まる前は、好きな曲はCDシングルを買ったり、レンタルで借りて取り入れるしかなかったのですが、24時間いつでもどこでも携帯電話から音がダウンロードできるという手軽な方法の普及によって、CDシングルマーケットは対前年比で半分以下に落ち込んでいます。
 CDシングル・パッケージが全盛のころ、ヒット作品はレコード屋さんに行っても品切れで商品がないということが見られましたが、デジタルになると品切れは一切ありません。いつでもどこでも品切れすることなく、携帯電話1つあれば曲をダウンロードできるのです。
 では次に11番をご覧ください。「12cmCDアルバム生産金額」も毎年、平均6%ずつダウンしています。その結果1998年の4,924億円から2007年の2,802億円までに、なんと43.1%もダウンしています。先ほど述べたように、これはデジタルコピーによるところが大きいのですが、一部の技術的に進んだユーザーではウィニーなどに代表されるファイル交換ソフトを使った違法コピーが多く行われており、見過ごすことができない状況になっています。ですから、我々レコード会社が啓発キャンペーンを行って、音楽創造のサイクルを守る必要性を訴求しているというのが現状です。
 続いて、その後に出てくる映像商品がDVDです。DVDはどのようになっているのかというと、これは2002年以降の統計ですが、CDと違って2003年は対前年比でなんと150%と大きく数字を伸ばしています。これはビデオカセット・VHSから DVDに、パッケージメディアが大きくシフトしていったことが原因となっています。2004年以降もDVDについては、微増ですが前年を上回る形で推移していっています。
 それから2007年の「音楽ソフト邦・洋金額比率」という表を見ていただくと、日本の音楽マーケットは圧倒的に邦楽が強いということが一目瞭然でわかります。近年は洋楽の売り上げが落ち込んでいて、この1、2年でその傾向がさらに顕著になっています。このように、なぜ洋楽がここ数年売れなくなってしまったのかが業界で大変な話題になっており、いろんな意見があるのですが、1つは邦楽のクオリティが洋楽と変わらないレベルまで上がってきたということがあると思います。つまり、今の邦楽のバックトラックだけを聴いたら洋楽のものと判別できないくらいレベルが高くなっており、バックトラックのクオリティが同じであれば日本語でわかる歌詞の方が当然いいわけで、ユーザーの洋楽離れが顕著になっています。
 今後非常に大事になってくるのが、有料音楽配信の概況です。先ほどから何度も出ている、着うた・着うたフルというデジタルコンテンツの出現による有料音楽配信の概況です。2007年を見ると総計金額は755億円で前年比なんと141%、統計が開始された2005年と比べて倍以上伸びています。これも欧米と少し異なるところですが、日本では携帯電話・モバイルが圧倒的なシェアを占めており、金額比を100で表すとモバイルの92に対してPC配信が8になります。つまり圧倒的に携帯電話で着うた・着うたフルをダウンロードし、音楽を取り込んでいる人が多いということが言えます。また特記事項として、現在は着うたではなく「着うたフル」が前年比191%ということですので、約2倍と大きく伸長しています。
 またiPodの出現により、iTunesなどで音楽をダウンロードしている方もたくさんおられると思いますが、日本版のiTunesは2005年8月にサービスをスタートしています。このiTunesにより、2005年7月現在で23億円だったPC配信の総売り上げが、わずか3カ月で50億円と爆発的に伸びしました。2005年7月から9月までの2カ月間の売り上げが23億円、それが3カ月間で50億円という爆発的な売り上げになっています。
 最もパッケージが売れていた10年前の1998年に一番売れたアルバムは、安室奈美恵さんの『181920』です。2位がEvery Little Thing、第3位がKiroro。そのほかで言いますとKinki Kids、GLAY、globe、サザンオールスターズ、the brilliant greenSPEED。このような人たちが、パッケージが史上最高の売り上げを叩き出した年に売れた人たちです。
 しかしこうやって見ると、10年前に売れた人たちがまだ現役で頑張っています。globeやGLAYは最近影をひそめていますが、サザンオールスターズや安室さん辺りは現役バリバリで今もやっています。
 音楽産業として総括すると、パッケージ・CDの生産が右肩下がりになり、環境の変化に伴ってコンスタントに売り上げが縮小しているということです。特にCDシングルは着うた・着うたフルの出現によって激減しています。しかしそれに代わって着うた、特に着うたフルが年々売り上げを増やしています。ちなみに、着うたは100円、着うたフルは300円、CDシングルは1,000円ですから、我々レコード会社がCDシングルの1,000円を売り上げるためには、着うたフルのダウンロードを3回以上してもらわないといけないという計算になります。
 それから、洋楽の売り上げが邦楽に比べて年々減っていることが先ほどのグラフでもわかりますが、この傾向は今後もさらに続きそうだと思われます。
 これからはもう少しクリエイティブなというか、私自身が行っている仕事の話をしていきたいと思います。私の年表のようなものを出してください。これは私が何歳のときにどういう仕事をしてきたかを時系列で表しています。
 まず大学を出て、今ではソニーミュージックエンタテインメントという名前に変わっていますが、当時のCBSソニーに新卒で入社して18年間在籍しました。宣伝を担当する販売促進部からスタートして、A&R(アーティスト&レパートリー:総合プロデューサー)、製作を経て、40歳のときにワーナーミュージックに転職しています。

 幸いにもこれまでにさまざまなアーティストと出会い、いろんな楽曲と触れ合って、数々のヒットに巡り合えました。そこで、ヒットの現場ではこんなことがあり、こういう形でヒットが生まれたという話を、自分の足跡を振り返りながらお話しできればと思います。
 レコード会社の仕組みはとてもわかりやすく、音源やアーティストを自分で探してきて、それを創り出し、宣伝して売るということをやっています。つまり原石の状態で探してきたアーティストの曲をCDという形にレコーディングしてスタジオで創る。それをテレビ局やラジオ局、雑誌社に売り込んでタイアップをとり、最終的にはCDショップで売るということです。しかし今は先ほど述べたように、CDショップではなくてデジタルという形で売っているわけです。
 僕がよく例えて言うのは、音楽産業は川上から川下まで「探す」「創る」「宣伝する」「売る」の4つのことを分業しているということです。僕が新入社員として初めて配属されたのが、この宣伝するところの販売促進部です。レコード会社によって言い方が違いますが、今はプロモーションと呼びます。それから、営業のことセールスと言い、総合プロデュースのA&Rがあります。
 このようにいろんなセクションやスタッフが、川上から川下まで分業してアーティストや楽曲に携わり、商品として売り出します。僕は22歳でレコード会社に入って、やや川の上流からスタートし、最終的にはA&Rを担当しました。そして、現在業界の環境が激変しているのは川下のところです。昔はパッケージという形で売っていましたが、今はデジタル、着うた、着うたフルの出現で、売り物がすっかり変わってしまったということです。僕が入社したときは着うたもなく、auもdocomoもソフトバンクもありませんでしたが、今やレコード会社にはKDDIやNTTなど電話会社との話も一杯あるわけです。
 先ほどレコード会社を川に例えてお話ししましたが、川の上流では探して創る仕事が多いので感性や目利きが必要です。特殊な才能がある人が川の上流にはたくさんおり、才能があればあるほど仕事に役立つという特殊な業界だと思います。自分にそういう才能があったのかはわかりませんが、入社して販売促進部に配属になりました。
 ここに「紙・ラジオ」と書いていますが、紙というのはレコード会社の宣伝部門に起用されたときの入門編で雑誌社を回ることです。雑誌社から始めて次はラジオ局、最後がテレビ局という順番で業務の難易度は上がっていきます。販売促進部の仕事をした後、福岡営業所でも2年間宣伝を担当しました。当時のCBSソニーには本当にいろんなヒット曲があって、松田聖子やシブガキ隊、演歌もあったし、郷ひろみ等々。アイドル全盛の時代で、そういったカタログを一手に持って九州中を走り回りました。
 その後28歳で東京に戻ってきて、テレビのタイアップの仕事を担当しました。後々この仕事が僕自身の武器になり、いろんなテレビドラマの主題歌につながります。例えばコブクロや綾香の曲をテレビドラマとタイアップさせて主題歌にすると、とてもヒットしやすいところがあります。これも後でお話ししますが、このときに培った人脈やノウハウが後々生きてくることになります。
 僕がいろんな人脈をつくりタイアップを取って生まれたヒットが、NOKKOの『人魚』や久保田利伸君の『La La La LOVESONGS』という曲。それから一連の電波少年の応援ソングなどです。これは1991年ですから今から10年以上も前なので、皆さんは知らない曲も多いと思いますが、これらの曲全てをテレビとタイアップして主題歌にし、ヒットさせました。

 そしていよいよ僕自身に転機が訪れます。これまでは川の中流で販促という仕事をしながら宣伝だけをしていたのですが、1995年に平井堅君と出会うことになります。といっても、出会ったときの平井君は売れている平井君ではなくて崖っぷち状態でした。その後、平井君は『楽園』という曲で崖っぷちから這い上がり大ヒットを飛ばすのですが、そのときの話をしたいと思います。
 彼の出身地は関西の三重県だったと思います。三重県の県立高校3年生のときに1本のテープを送ってきて、ソニーのオーディションに合格しました。彼のボーカル力もそうですが、音色・声が本当にすばらしくて、平井君のデビューは各社の争奪戦になるくらい大きな話題になりました。
 彼はとても恵まれた環境でデビューを果たし、デビュー曲の『Precious Junk』という曲はそこそこ売れたのですが、その後の5年間は鳴かず飛ばずの状態で結果が全く出ませんでした。僕はそのころ成り立てのA&Rで平井君の担当でしたから、崖っぷちにいる彼を何とかブレイクさせなければという情熱と思いで、いろんなことを考えていました。しかし、僕も一応サラリーマンです。サークル活動をしているわけではないので、やはり5年間も結果が出ないアーティストのことは見切りをつけないといけません。
 ある日、最後のチャンスだと会社に決断を迫られて彼と話をしました。そしてラストチャンスとしてもう1回だけお互いにチャンスをつくり、それがダメなら契約も終わりということにしました。そのとき私は、彼にとってすごく厳しいことを言いました。それは、「君はボーカリストに徹しろ、自分で曲をつくるな」ということです。その代わり、「君のために100曲くらい曲を集めるから、そのすばらしい声でボーカリストに徹してほしい」ということを言いました。彼は悔しくて泣いていましたが、「わかりました」と引き受けてくれました。
 それで僕たちA&Rのスタッフは、起死回生の1曲を何とか彼に歌ってほしいと思って、売れている人、新人の作家、槇原敬之君やスピッツの草野君など、ありとあらゆる作家に曲を発注しました。そして、集まった100曲から粗選びして10曲ぐらいに絞ったのです。デモ曲に槙原曲やスピッツ曲というふうに名前が入っていると、どうしても既成概念でそちらの方を選んでしまいたくなるので、あえて名前は付けずに楽曲だけという選択肢で曲を選びました。そして決まったのが『楽園』という曲。決定してから『楽園』の作詞・作曲は誰かと確認したところ、聞いたこともない作詞者と作曲者だということでした。そのような曲が平井君のラストチャンスの曲に選ばれてレコーディングに至ったわけです。
 僕たちスタッフはこの曲にすごく自信があって、彼もいい形でレコーディングして1つの商品ができたのですが、さらにここで大きな問題にぶつかります。それは宣伝費がないということ。実績がないので予算がないのです。宣伝費がないということは、例えば雑誌に広告を打つとか、いいプロモーションビデオをつくってあげるとか、もちろんテレビスポットを打つこともできない。はっきり言うと、300万円がこの『楽園』に充てられた宣伝費でした。300万円がどれくらいあり得ない安い金額かというと、当時プロモーションビデオを1作品つくるために平均500万円くらいかかった時代です。つまり300万円しかないということは、プロモーションビデオすら1本もつくれないのです。これには頭を痛めて、「こんなにいい曲ができたのだが、どうしたら世の中に広められるか」と寝ないで一生懸命考えました。
 『楽園』についたイニシャルは、今でも覚えていますが3,207枚でした。イニシャルというのは、発売日にレコード店に並ぶ枚数で初回生産枚数のことです。ちなみにコブクロの最新シングル『時の足音』のイニシャルは15万枚です。3,207枚のうち、なんと半分の1,500枚は札幌のイニシャルでした。こんな枚数はほとんど宝探しに近くて、どこのレコード屋に行っても表には出ていないという枚数です。それくらい期待をかけられていないということで、宣伝費が300万というのもわかると思います。
 そんな中で、アイデアを工夫してプロモーションビデオをつくりました。これは結構貴重な映像なのですが、今日は持ってきましたので、『楽園』のプロモーションビデオを観てください。
      【資料プロモーションビデオ 『楽園』が上映されました】
 結構良くできているでしょう? これはシカゴでロケをして撮っています。なぜ300万円しか予算がないのにシカゴに行ってるのかと思うでしょうが、実はシカゴまでの旅費は平井君には自分のマイレージを使ってもらいました。マネージャーもマイレージ。それからこういうプロモーションビデオを通常撮るときは、監督を立ててギャラを払ってお願いするのですが、支払うギャラがないのでソニーの映像制作部のようなところの社内スタッフにノーギャラで出張して撮ってもらいました。出張ということは会社の経費で行ってもらったわけで、これが100万円のプロモーションビデオです。100万円には見えないし、何だかそれ風なものができているでしょう? ということで、プロモーションビデオまでは辿り着きました。そして残高は200万円になりました。
 無名の人や楽曲が、あるいはアーティストがヒットするときもそうですが、偶然にヒットは出ていません。必ずヒットの裏側にはそれなりの理由があります。これは僕の持論ですが、ヒットするものの一番近いところには必ず、いい意味で気が狂っているくらいにそれを売りたいと思っている人がいるのです。平井君の場合、それは僕だけではなくて、札幌と福岡の放送局にも“平井狂”のような人がいいました。札幌のAIR-G'というFM北海道の局では、『楽園』が本当に気が狂ったように朝から晩までオンエアされました。なぜそんなことが起こるかというと、野口さんというAIR-G'のディレクターが何とか平井君を売りたいと何度もオンエアしているのです。そして福岡のCROSS FMという局にも平井狂いがいて、ここもヘビーローテーションで『楽園』を何百回とオンエアしていました。
 そこで僕は、もうお金がないので札幌と福岡だけでテレビスポットを打とうと思いつきました。ゴールデンタイムに打つお金はないので、深夜12時以降に安い金額で打つのです。昼間はラジオで何度も『楽園』が流れていて耳に刷り込まれているはずなので、深夜にそれがテレビの映像で流れたら皆が確認できるだろうと思ったのです。しかし、顔も売れていない平井君のことをテレビスポットで打っても誰も何とも思わない。そこでもう一工夫したのが、テレビスポットに登場していただいた江角マキコさんです。江角さんは平井君とたまたま同じプロダクションだったので、「ギャラは払えませんが、こういうことを考えているので平井君のために一肌脱いでくれませんか」とお願いに行きました。そうすると、「ギャラなんかいらないからやってあげる」と快く言ってくださったのです。これを撮影したのは今くらいの寒い時期だったと思いますが、正月明けに札幌と福岡限定で、それも深夜だけのテレビスポットを打ちました。これで合計300万円です。
 そしてCMを流しっ放しにするのではなく、自分で原稿を書いて新聞社に売り込みました。宣伝を担当していた時代に培った人脈で記事を書いてもらったのですが、このような記事が出るとワイドショーで必ず取り上げてくれます。当時『ワンダフル』という番組があって、その音楽コーナーでこの記事のことを取り上げてくれました。そうこうしているうちに平井君のことが、札幌と福岡という日本の両端でザワザワし始めたのです。東京ではお金がかかるので、あえて地方からつくった火種がザワザワしてきてついに東京まで届き、3月3日だったと思いますが、彼は『ミュージックステーション』に初出演して『楽園』を歌いました。
 そこからは本当にあっという間でした。新人がブレイクしたときの売れ方というのは本当にすごくて、彼がその年の9月15日に出した『楽園』の入ったアルバムは150万枚売れました。3,207枚しかイニシャルが入らなかった人が、半年後にアルバム150万枚を売ってしまうのですから、新人に火がついたときの勢いはいかに手に負えないかということがわかると思います。以上が平井君のヒットを300万円でつくった僕の生々しい経験です。
 この先の彼はご存じの通り大活躍を遂げるのですが、僕は翌年に出したシングルでまた工夫をしました。これも僕が日ごろからよく言うことですが、例えばB`zやサザンがなぜそんなに長く売れるかというのは、毎年違う引き出しが開けられるからです。引き出しが1つか2つしかないアーティストは1年か2年で終わりです。たぶん一発野郎といわれている人は、引き出しの数が少ない人なのです。
 それで、平井君の違う引き出しを見つけられないかと思って考えたのが、翌年に出した『大きな古時計』。これをやらせるときに猛反発を食らい、「何を考えているんだ」といろんなスタッフから反対されました。平井君を国民歌手にするのかと。彼はR&Bの旗手のような形で売れたのに、『大きな古時計』ではR&Bと真逆のことをやるので猛反対されたのですが、最後に「やります」と言ったのは本人でした。そしてこれを見てわかるように、『大きな古時計』のCDジャケットは平井君本人の直筆の絵です。彼が小学校3、4年生のときに実家にあった時計を描いた絵が残っていて、それをジャケットに使いました。また、小学生のときにお母さんが料理をしながら、この歌を鼻歌で歌っていたということも彼が言っていたので「これはやはり出すべきだ」と思い、勇気を振り絞ってリリースしました。
 先ほどの引き出しの話につながるのですが、ブレイクした年の9月にニューヨークのアポロシアターに彼を連れて行きました。ハーレムという黒人ばかりが住んでいる治安の悪い場所にあるR&Bの殿堂と言われるライブハウスですが、話題づくりもあって彼をそこのステージに立たせ、黒人300人くらいの前でライブをやらせたのです。日本人が黒人の前で、『大きな古時計』や『ちいさい秋みつけた』などの日本の童謡を歌ったらどうなるだろうかと思ったのがきっかけでした。翌年、『大きな古時計』は爆発的にヒットして、このときに平井堅の名前は国民的に有名になりました。この曲は誰がつくったのかも不明なとても古い曲ですが、息を吹き返したというか、曲に平井君の魂が乗り移ったというか、そんな感じがした1曲です。

では最後に、僕の年表で言うと今の会社に来てからの話になりますが、コブクロ、綾香の話をしたいと思います。ワーナーミュージックに入社した当時は全く売るものがなくて、どうしようかなと思いながら特に邦楽の曲を全部聴きました。コブクロも当時は5万枚くらいしか売れていなかったと思います。彼らの事務所が和歌山にあったので、とりあえず挨拶をしに行かなければいけないということで僕は東京から新幹線に乗りました。それから、まず曲を聴いておかないと挨拶もできないと思って、新幹線の中で彼らのインディーズ時代の曲を全部聴くことにしました。そうしたら、ある曲がかかったときに涙が止まらなくなって「何だこの曲は」と思ったのです。それは、後で聞いたらインディーズの中の1曲だというのですが、悲しい曲でもバラードでもないし、人が亡くなったことを歌っているのでも失恋の曲でもないのに、聴いていたら涙が出てきて、隣に座っている人が変な顔で見るので参ったなと思うほどでした。それが『桜』という曲だったのです。もちろん世の中にはまだ出ていませんでしたが、すごい曲だなと思いました。僕も新しい会社に入ったばかりで、焦りや不安がある精神状態だったということもあるのですが、そういう自分にがんばれと『桜』という曲が背中を押してくれるような感じがしたのです。「平井君をヒットさせたように、コブクロでももう一度やってみよう」と新幹線の中で心に誓って、和歌山に向かった思い出があります。
 それから、これも僕が日ごろから言っているすごく大事なことですが、例えば「絢香の『三日月』」と言われるか、「『三日月』の絢香」と言われるかの違い。この2つは似ているようで実は全く違っており、僕たちがアーティストにいつも心掛けて話すのは、「コブクロの『桜』」「絢香の『三日月』」がマルで、「『桜』のコブクロ」ではダメだということです。何年か経った後に、「『桜』を歌ってたあの人、誰だった?」と言われるか、「コブクロのどの曲だったかな、名曲の『桜』は」と言われるかの違いです。僕たちは楽曲を売っているようで、実はアーティストを売っています。絢香というアーティストを、コブクロというアーティストを売らなければいけない。それをいつも心掛けて、いろんなアーティストのプランニングやマーケティングをしています。
 今年でいうとSuperflyという女の子も50万枚くらい売れたのですが、これもやっていることは一緒で、「Superflyの『愛をこめて花束を』」を心掛けてアーティストを売り込んでいます。

ここで冒頭の話に戻りますが、我々レコード会社は、昔は放っておいてもCDが売れる時代だったので大手を振っていましたが、昨今はCDだけ売っていたのでは飯が食えなくなってきました。それで今何を考えているかというと、僕たちがやっているのは「360度ビジネス」というもので、今の音楽業界のトレンドの言葉にもなっています。今までのレコード会社というのは、アーティストの音楽のCD周りだけをやっていれば食べていけました。しかし、アーティストをめぐる360度は音楽CDだけではなくて、例えばライブ、マーチャンダイジング、物販などもあるためマネジメントが必要です。売り上げが激減するCD・パッケージの部分が90度だとすると、あとの270度にまでビジネスの手を広げようということです。
 アーティストには、我々のようなレコードメーカーとプロダクションマネジメントの2つが関わっています。従来270°の部分は、僕たちではなくてマネジメントの聖域でした。ここはレコード会社、ここはマネジメントプロダクションというふうにうまく住みわけていたのですが、そうも言っていられなくなったので、今後はレコード会社もプロダクションの聖域にどんどん入っていくというのが360度ビジネスです。
 CDが売れなくなった」とか「音楽業界が暗い」などといろんなことが言われていますが、この360度ビジネスもその1つで、業界自体は決して悲観することはないと思っています。携帯電話やPCで音楽を取り入れる方法が普及して、業界を取り巻く環境はここ10年で激変していますが、一番重要なことは音楽そのものは普遍的で何も変わっておらず、音楽と人間の関係性も10年、20年前から一切変わっていないということです。そこさえしっかり見ておけば、決して音楽業界も悲観することはないと思っています。

 時間になりましたのでこの辺で終わりたいと思いますが、機会があればヒットの裏話ではないですが、こういう形でヒットしましたということをケーススタディのような形でお話しできればと思います。ちなみに先ほどお話しした『大きな古時計』は、第3回の講師の亀田誠治さんがアレンジされています。それからthe brilliant greenも、第6回にお話しされた笹路正徳さんがアレンジされています。ということで、すごく懐かしいなと思いながら名前を拝見しておりました。では、ここまでで何か質問がありましたら受け付けたいと思います。

―以下、質疑応答―

Q.これからレコード会社も360度ビジネスを始めるということだが、エイベックスのようにいろんなことをやっている会社もあれば、アミューズのようにプロダクション側からレコード会社的なことをしようという動きもある。そうすると業界が大きくなりすぎて収拾がつかなくなるのではないか。

A.いい質問だと思う。僕はよくマージャンパイに例えるが、結局同じパイをいろんなレコード会社とプロダクションが取り合いをしている状態だということ。僕たちはマネジメントの領域に、マネジメント会社はレコード会社の領域に入ってくるということで、僕はこれを「360度戦争」と言っている。このように垣根がなくなる時代に突入して、結局誰が生き残っていくかは、最終的には人材の勝負である。それは大手事務所のアミューズやエイベックスも同じこと。一番の脅威は携帯電話会社までそこに乗り出して、我々のコンテンツ、いわゆるソフトビジネスに参入してきているので宣戦布告されている感じがしている。このように戦々恐々とした中でパイの取り合いに勝っていくためには、いかにいい人材を育てていい仕事をしてもらうかということに尽きると思う。
 だから、皆さんのように今後業界に入ってくる人たちが新しいチャンスを切り拓いて、僕たちの業界でいいアイデアを出していってほしいと思う。

Q. 先生はプロデュースの原点はアーティストで、アーティストを含めた人材がいかに大切であるかということを言われているが、どんな人材像を求めているのか教えてほしい。

A.ピカピカの原石・アーティストを誰よりも早く得るためには、研ぎ澄まされた感性が必要。感性を持っていないとダイヤモンドの原石かどうかを見極められない。だからそういう感性を持っている人を、いかに自分のスタッフに保有できるかというところが勝負になってくると思う。

Q. 先生が今日述べられた中で、これだけは言っておきたいということを1つ選んで話してほしい。

A. 最終的には自分の感性を信じるしかなく、自分自身が感動できるかどうかということ。先ほどコブクロの新幹線の話をしたが、自分の感性に触れたものは大衆ユーザーも絶対に感動するんだという自信はすごく大事だと思っている。そのバロメーターとしては、涙腺が弱いとか鳥肌が立つとか個人差はあるが、僕の場合は曲を聴いたりライブを観たときに自然に涙がグッと出てくる。新幹線のコブクロも、『三日月』の絢香さんも、そして平井君のときもそうだが、今から考えると全部どこかで泣いていたなと思うので、自分の感性をどこまで信用できるかというところだと思う。

以上





page top





後藤先生