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2006年度研究会報告

第6回(2007.3.13)

テーマ 「日本の植民地支配 ─ 名前に関する政策を通じてみた朝鮮支配 ─」
報告者 吉川 絢子(法学部)
報告の要旨

日本では1990年代半ばから創氏改名をはじめとする名前に関する政策についての研究が行われている。その研究は大きく①創氏改名研究、②名づけに関する研究の2つに分けられる。本稿ではこのような先行研究に依拠しつつ、従来の研究ではあまり触れられることのなかった一人一名の原則および同姓同名者の減少という観点からこれらの政策を分析しようとした。

日本は韓国「併合」以前から朝鮮人に対し名づけ政策を実施した。当初は朝鮮の旧慣を容認する方針を採ったが、「併合」以降になると名づけが義務化されるようになった。そのなかで総督府は「名ト認ムヘカラサル稱呼」を定め、同姓同名者の減少を図った。また1923年から施行された朝鮮戸籍令では一度戸籍に登録された名前の変更については大幅な制限を加えており、ここに一人一名主義が確立することとなった。このように名づけ政策は大局的に見ると「近代」的側面を有するものであったと言える。

しかし1940年2月から実施された創氏改名は必ずしも「近代」的な側面だけでは説明できない。確かに創氏政策においては家ごとに戸主が申告することとなっていたから、理論的には日本と同様に朝鮮でも膨大な数の氏が生まれる可能性を有するものであり、これも同姓同名者の減少政策の一環として位置付けることができる。だが、創氏政策は朝鮮人に対して、従来の姓名に加え氏名を新たに持たせようとする政策であった。そのため、同一人物でありながら複数名を持つような状況が生じることとなった。それゆえ、創氏政策は一人一名主義に大幅な変更を加えるものであったと言える。

ではなぜこのような相矛盾するような政策が実施されたのかは、現在のところまだハッキリとは分からない。しかし、日本の朝鮮支配にはどこか一貫性を欠く部分があり、日本を取り巻く状況に応じて、その政策をある意味ご都合主義的に変化させる側面があったように思われる。このようなどこか曖昧で不徹底な部分が相矛盾するような政策の実施も可能にさせた一つの要因となっていることは確かであろう。

吉川絢子

テーマ 「田川大吉郎と台湾 ─ 領台初期を中心として ─」
報告者 岩本 聖光(法学研究科)
報告の要旨

今回の研究会では、戦前においてジャーナリストであり議会政治家でありキリスト者であった、長崎県出身の田川大吉郎による領有初期の台湾統治論について報告した。

台湾を日本が領有した当時、日本は植民地統治の経験がなく、民間でも数多の統治政策が検討され、田川も『台湾新報』初代主筆として台湾に関してもっとも多くの評論をしていた。こうしたなかで、田川の議論がどのような位置を占めていたのかということを検討したのが本報告である。特に、明治憲法の発布と帝国主義の時代状況および大正期の彼の台湾論との関連から見ていった。

田川は、『台湾新報』主筆就任の以前から台湾に対して関心を持っており、その初稿でも政府および民間の強硬論に対して批判する記事を書き、台湾住民への同情の強さを見せた。そうした姿勢は御用新聞『台湾新報』への入社によっても変わることなく、内地に向けて強硬論を戒め、総督府に対しては強く「文明化の使命」を求めた。彼はこのとき官吏腐敗に対する内地からの批判の擁護にまわったものの、実際、身分を隠して『毎日新聞』に寄せた論稿では厳しく台湾総督府における問題を追及していた。また懸賞論文で賞を得た「台湾統治策」でもイギリス植民地統治を範に取った「特別統治主義」の考えの下、「文明化の使命」を強調して、「台湾人の台湾」という意識から台湾人の官吏登用や自治の推進を説き、旧慣保存と日本化に対する世界化を主張した。

こうした田川の台湾論は『報知新聞』主筆に移ってからも更に磨きをかけ、大正期の台湾議会設置運動や台湾議会の主張へとつながっていったのである。このようなに彼は「特別統治主義」者でありながら「立憲主義者」として面目を躍如し、「帝国主義者」でありながら植民地統治の厳しい批判者の役割を担っていたのである。

報告後、多くの研究会参加者から有益なご指摘を頂いたことに感謝したいと思う。

岩本聖光

テーマ 「明治前期の新聞雑誌に見る帝国憲法 -1889年上半期を中心に-」
報告者 福井 純子(文学部非常勤講師)
報告の要旨

目次

  1. 解釈の盛行
    (1)新聞各紙
    (2)雑誌i学術誌ii一般誌iii政論誌
  2. 名誉回復と恩赦
  3. 森大臣と不敬罪
  4. 条約改正問題
  5. 憲法批判

本報告では、主として帝国憲法が発布された1889年上半期、新聞・雑誌の誌面にどのような報道、論説があらわれたのかを概観するところから始まった。 憲法学者の鈴木安蔵は、1936年、新聞雑誌の解釈をまとめた史料集『憲法解釈資料』を出している。 本書は憲法論研究には大変便利な書物だが、社会史的な視点から、当時の憲法の位置を見つめなおすと、いささか違った局面が見えてくる。 解釈を提示できるのはいうまでもなく、それなりの学識や見識を持った記者たちである。かれらは自ら活動の拠点とする新聞雑誌で解釈を述べるだけでなく、それとは別に単行書を出版する。 本報告に史料として添付した「1889年~1890年発行憲法関係文献一覧」には、176タイトルの図書が名を連ねている。そのなかには学術雑誌の別冊として発行されたものもあれば、講義録の付録もある。 ことに目を引くのが、発布された2月と翌3月の発行点数の多さである。176タイトル中105タイトル、率にして59パーセント。まさに出版業界では憲法バブルの様相を呈していた。 さらに出版地も東京や大阪、京都だけでなく、名古屋、丸亀、高岡、福島、甲府など多岐にわたっている。かかる解釈論の盛行に対し、当然批判的な言説も登場する。 しかし目を転じると、発布以前には西郷隆盛らの名誉回復と、激化事件で入獄している政治犯の恩赦に関心が集まっているし、発布後には森大臣暗殺事件と、関連記事への規制が注目の的になっているのである。なお4.5.については本報告では展望を述べるにとどまった。

福井純子

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