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2006.12.13
立命館大学映像学部開設準備企画 「武士の一分特別試写会&山田洋次監督ティーチインレポート」
今回の企画の趣旨
まず、2007年映像学部着任予定の冨田先生より、挨拶がありました。
<冨田>
ただいまご紹介にあずかりました冨田と申します。これから皆様と、山田監督をお迎えして、「武士の一分」を中心にしたティーチインを楽しみたいと思います。
挨拶終了後、なぜ今回映像学部開設準備企画として「武士の一分」の特別試写会及び、山田監督と映像分野を志す学生たちとのティーチインを行うこととなったのか、その背景について説明がありました。
<冨田>
映像学部を立ち上げる際に、多くの映画人の方々にいろいろアドバイスをいただきました。その中で、山田監督からも「映画というのは人間を描くものなんだ」、「映画を学ぶということはまさに人間を学ぶということであって、かつ映画を理解するというのは人間を理解する事なんだ」というお言葉を頂戴しまして、そのような人材を育成するには人間を創るというのが一番学部として重要なことだという教えをいただきました。「人間を描く」という観点から映画を学ぶ際に、映画を鑑賞しながらどのようなことが考えていけるのか、また映画を理解するうえで、かつ映画を作っていこうと志望している若い方々の創造力を育成していくうえで、どのようなことができるのかということを、授業の中で模索したいと思っています。
ティーチイン 《「武士の一分」を通して監督から学んだこと》
登場人物の気持ちを想像的に理解する
◆中間(ちゅうげん)の徳平◆
「簡単な感想からいきましょうか」、という監督の問いかけに、登壇者4名それぞれが感想を述べました。まずは主人公である三村新之丞の中間(ちゅうげん)である徳平と叔母の以寧について、西村さんから感想が述べられ、焦点が中間(ちゅうげん)の徳平へ当てられます。
徳平って人間は何が目的で生きているのかな?何が生きがいなのかな?あの人は何をもって喜びとして生きていると思う?
<西村>
生きがいは、そうですね。奥さん、小さいときからよく知っているといっていましたが、彼女の幸せを願って生きている。
<監督>
そういうことだね。彼女の幸せを願って生きている。それからひいてはだんな様、新之丞。二人が仲良く幸せであればいいなってことは彼の生きがいだろう。そういう人間って今、あまりいないよね。
<監督>
身分の違いはどうですか?徳平の身分と新之丞とは。
<西村>
新之丞は侍の仕事をしていて、徳平は中間(ちゅうげん)。
<監督>
中間(ちゅうげん)は侍とどういう風に違うの?
<西村>
主従関係にあります。
<監督>
主従。そうだろう。上下関係だろう。新之丞の方が身分が高くて、徳平は身分が低い。新之丞はあのお城で身分はどれくらいだと思う?
<西村>
お城では平侍です。
<監督>
一番下だね。トップは誰?
<西村>
トップはお上です。
<監督>
お上、殿様。あの人がトップだよ。それでずっと低いところに新之丞がいる。徳平はさらにその下で、主人に仕える下男っていうとこだね。そういうのは今ほとんどない。君たちの周囲にもないだろう、そういう人間関係は。だからこの時代、封建制の時代独自の人間関係だったかもしれないね。ご主人ないし、奥様が幸せであればいいなとひたすらそう思っているという、それを生きがいにしているおじいさんがうちにいる、ということ。それが封建制の時代の特徴かもしれないね。
◆夫婦愛◆
続いて、夫婦愛が最も印象に残った、と感想を述べた鴨井さん。
<鴨井>
夫婦愛というのが僕は一番印象に残ったテーマというかキーワードで、一度複雑な気持ちがありながら離縁した妻と、もう一度再会して、許してそして抱きしめずにはいられないという愛の深さにはとても感動しました。
この感想に対してすかさず、「その複雑なというのをもう少し言葉にして説明して」、「主人の側、新之丞の側に立って説明してごらん」と、鴨井さんの言葉を引き出そうとする監督。新之丞と、その妻の加世、そして上役である島田藤弥の関係について鴨井さんが説明をすると、監督は封建制という時代の中における夫婦のあり方について述べられました。
<監督>
もし君の奥さんがそういうことしたら君、どんな気持ちになる?恋人でもいい。
<鴨井>
悔しいというか。
<監督>
そうだよ。くやしいぐらいじゃないよ。めちゃくちゃに腹が立つだろう。場合によっては殺してやりたいと思うだろう。封建制の時代というのはそういう場合に、奥さんと奥さんを犯した相手の男の両方を斬って捨ててよかったわけ。それは犯罪じゃなかったのよ。許されたの。「ある日、私は妻を斬りました。それは妻がどこの誰それと不貞を働いたからです」って言えばよろしい。それで許されたの。それは今から60年前まで日本の民法でね、それに近い民法だったの。夫の方はどんなにたくさん妾を作ろうと罪じゃない。だけど人妻が他の男と通じる、今でいう不倫だけれども、そうすると夫はそれを訴えれば、警察が捕まえて牢屋に突っ込めた。そういう時代がつい60年前は続いていたのね。だから即座に夫が斬って捨ててよかったんだよ。またそれぐらいの腹も立つわけだ。そうだろう。だけど、どうした?
<鴨井>
妻のほうは温情というか、その気持ちよりも愛が強くて、斬り捨てずに妻としてもう一度やり直すことを選びました。
◆封建制の悲劇◆
夫婦愛に関して場面展開の一つ一つに、丁寧に質疑応答が繰り返され、新之丞が加世を離縁し、加世が家を出て行くシーンに話が及びます。
<監督>
新之丞は障子に向かって涙ぐんでいたでしょう。それは愛情ゆえに泣いていたと思う?
<松岡>
私は、新之丞が、妻は自分のために自分の上司に身を売ったという事実を知って、今までその事実を知らずにいたこと、つまり、騙されていたということが初めてわかり、悔し泣きをしていたと思います。
<監督>
悔し泣きをした。妻を切らなかったけども、出ていけと言って追い出して。
<松岡>
妻に悲しいことをさせてしまったのは、自分の責任だという思いがあって悔し泣きをしてしまった。
<監督>
全て俺の失明したことから始まっているんだ、という悔しさ。いってみればそれはなんていうの?誰を恨めばいいのかな。恨みようがないのかな?悔しい、ちきしょう、あいつのおかげで、ってことじゃなくて。ひとつはもちろん上役を憎む気持ちもあるよね。しかし、あなたの考え方はそれ以上のものでしょ?なんでこんなことになっちゃったんだと思う?
<松岡>
それは、もともと上司は加世を騙したけれど、おおもとの原因は自分が毒にあたってしまったことにあると思います。
<監督>
そのことに対して一体誰を恨めばいいの?俺が毒にあたってしまったってこと。粒貝を恨むしかないの?あの瞬間、彼はなんていうひどいことなんだって涙を流しただろうけども。恨みようがないってこと?
<松岡>
恨みようがないというか世俗。毒見役っていう役目というのはその時代のものなので、そのお役目を受けてしまったというか。
<監督>
というか、毒見役というそのものが今の感覚でいうと変でしょう?極めて非人間的な、あの時代はほとんどの日本中の各藩の殿様は必ずやったことみたいだよね。それでも給料をもらわないといけないから、そんなこともやらなきゃいけないという、悔しさとか情けなさというか、そのことだよね。それはつまり言ってみれば毒見役って制度そのものに対する憎しみ。さらに言えばどういうことになるの?なぜ毒見役ってものがあるのだと思う?
◆果し合い後に待っていたもの◆
武士の一分をかけた果し合いの場面に話が及ぶと、その後に新之丞を待ち受けていた深い絶望について語られました。
<山田>
最後に妻を抱きしめたところで、自分が上司を斬って、武士の魂といいますか、武士が義理というものを斬って捨てたと思って、ぐっときて泣いてしまいました。
<監督>
非常に危険な戦い方でしょう?明らかに彼は負けるかもしれない。でもそれは死んでもいいと思っていくわけだね?彼が生き残る確率はどのくらいだったと思う?
<山田>
0%です。
<監督>
そうでしょう。その0%に、あるいは0.1%かにかけて闘ったわけだけども、それはいわば言葉にすれば復讐ってことになる。上司を斬り捨てた後で、彼はどんな気持ち?
<山田>
上司を斬ったことについては恨みをはらしたということになると思います。
<監督>
それでせいせいしてよかったということなのかな。いろんな事情で、犯人がわからないからこれでおしまい、これ以上、捜査はしないということで、彼も切腹しないで済んじゃった。それでやれやれ良かった、ということになるの?彼はどんな風に過ごしたと思う?幸せに過ごそうと思ったの?
<山田>
それは一生心の中に残って。
<監督>
そうだろう。そんなに復讐したからこれで万歳だという、アメリカのハリウッドアクション映画とは違うと思っているんだよ。復讐という言葉は嫌な言葉で、むしろ。9.11の事件でもって復讐するんだといって、アフガニスタンやイラクに戦争を挑んで、いまだに戦争は続いているけれども、それで復讐してフセインの首を斬れば万歳という単純な考え方が僕はとても変だと思っているけれども、新之丞だって相手を斬ればそれでせいせいしたってことじゃ絶対ないはずだと思う。どういう気持ち?斬った後の彼の気持ちは?斬り捨てたところで気が済むわけじゃないでしょう?だって人を斬るなんて、うれしいことがあるわけがないじゃない。封建制の時代なんてそう簡単に人を斬ることがないから、戦争がない時代だったから、だから彼は初めて人を斬ったと思うんだよね。斬った手ごたえみたいなのが本当にとても恐ろしいこととして残ったんじゃないのかな。だからとてもつらかったんじゃないのかね。
<山田>
多分、武士のその社会に恨みを持っていると思います。
<監督>
勝負は終わったけれども、重苦しいやりきれない気持ちで彼はいたっていうべきだろうね。それが松岡さんの言うように、それ自体が封建制の中に生きなければいけない侍の悲劇だったってことなんだよね。だからその深い絶望なんだな。斬ったからといって、妻を追い出したからといって、しかも相手を斬ったからといって更にどうにもならないという深い絶望の中で、切腹を命じられたらさっさと死のうと思ったけれども、それもできない。「一体これから先、俺はどうやって生きていくんだ」、と。「いっそ死んじゃおうか」というぐらいの深い絶望の中にいるんだ、と僕は考えたのね。
ティーチイン 《「武士の一分」を通して監督から学んだこと》
要約することの大切さ
◆手のひらに乗るくらいのストーリー◆
<冨田>
この映画はどんな映画というと、まとめて言うとどうなると思う?内容を伝えるってこと。君たちは一般の、単なる映画ファンと思っていないから、もうちょっと映像の世界に踏み込もうとしている人たちだと思うから、そういうふうに突っ込んで聞くけども、それはどんな映画ですかって、よく人にも聞くし、聞かれるだろう。君だって聞きたくなるだろう。ちょっと説明してって時にどんなふうに説明するかって問題だよね。「七人の侍」ってどんな映画だったか。それはこんな映画だ。じゃあ「武士の一分」ってどんな映画だったか説明してごらん。
この問いかけに対して、ストーリーを要約していく登壇者たち。やり取りの中で監督は、映像分野を志す学生たちへの課題について述べられました。
<冨田>
要約する。大事なことはちゃんと言葉を習得していかないといけないよね。君たちは、面白い映画だったらどんな映画でもみ終わったら、いつもそのことを自分で勉強する、考えるといいんだよ。 書いてみる。今日みた映画を一番簡単に要約する。こんな話だなということをね、だからスピルバーグがよく言ってることだけれども、 この手のひらに入るぐらいのストーリーが一番良いってことかな。短くて的確で深いストーリー。 昔から僕たちが聞いたのは3行半で語らなきゃいけない。っていうようなこと。3行半は少しおおげさだけどね。 とにかく、短くてコンパクトに語れてしかも印象の強いストーリーの映画っていうのは、いい映画なんだよね。 それだから、君たちは、これから映画をみながらいつもそのことを考えていくといいよ。それでまとめてみる。 あるいは口にしてしゃべってみる。今日みた映画はこんな映画だなってしゃべってみるってことね。
監督と登壇者の模擬授業を終え、「映画というのは人間を描くものなんだ。映画を学ぶということはまさに人間を学ぶということであって、かつ映画を理解するというのは人間を理解する事なんだ」という監督の熱い持論を感じることができました。ただ、客観的に映画を観るのではなく、映画の中に描かれている時代背景を知り、登場人物の気持ちになって映画を鑑賞することの大切さ、また、自分の言葉で要約し、人に的確に伝えることの大切さを教えていただきました。
情感とイマジネーション
続いて、映画「武士の一分」の中で登場した、蛍が飛び交うシーンについて、実際のシーンを見ながらの解説が行われました。
<監督>
この蛍はCGなんですよね。昔っていっても10年前までは実際、小さなランプを釣竿でぶらさげて動かしたりしたんだけれども、今はCGでできるようになった。だけど、どのように蛍を動かすかっていうのは、本当に難しい問題でしたね。これは30代のまだ若い技術者がやってくれた仕事なんだけれども。
<冨田>
CGですか?
<監督>
CG。
<冨田>
30代の技術者ですか?
<監督>
そうでしたね。まだ30半ばのね。現場にも来て、みて、このシーンがどんなシーンかってことを彼に理解させて、さあ、一度君の思うようにやってごらんって言ったけれどもなかなか、最初からうまくいかないですよね。蛍のスピード、蛍の数。どこからどの辺までどう飛ぶか。
<冨田>
これがうまくいかないことに関して、監督の言葉でいえば、「蛍が演技していないんだ」という名言をおっしゃった、と伺いましたけれども。
<監督>
「だから君も画面の中に、君も一緒に画面の中に溶け込んでね、新之丞の気持ちになって君も涙流しながら、蛍作ってくれなきゃいけないんだよ」というふうに言いながら、削ったり、足したり、スピードをちょっと速くとか、ちょっと遅くとか。
<冨田>
それはCGができる前は、現場で実際に助監督の方か誰かがやっていたんですよね。
<監督>
そうです。だいたい小道具さんが釣竿の先に、天蚕糸をつけてね。遠近感もあるわけでしょう。遠くのほうはちょっとピントが甘くなっているんですよ。これね。手前のほうがちゃんとピントがあって、しかも明るくなきゃいけない。明るさも変えなきゃいけない。ほんとにね、いっそ釣竿でやったほうがいいんじゃないかと思うぐらい大変でしたね。
<冨田>
釣竿でやる場合はその釣竿を持っている人が台本を読み込んで読み込んで、さっきのトークのように感情も読み込んだうえで、蛍に乗せる感情に合わせて動かすわけですよね。
<監督>
蛍の気持ちってよくいうんだけども、蛍の気持ちになってやって、と。だから現場で釣竿で蛍を作るときは、「その蛍ちょっとよくない」とか、「こっちの蛍も・・・」と、いろいろ言うんだけども、それを今回、全部まっさらの何もないところから後で作り上げていったから大変な苦労でしたね。たった蛍何匹かのことなんだけども、こんなに大変なんだと、全部をCGにするっていうのはえらいことだなというふうに思いましたね。
<冨田>
それはCGを作る人達が台本を読みこんでいれば、なんとかクリアできる問題なんですか?
<監督>
いやそうばかりじゃないですよね。読み込むと同時にほら、想像力がなきゃいけないじゃないの。
<冨田>
その蛍に乗せる感情の想像力。
<監督>
そうそう、シーンがわかったとしても、よく飲み込めたとしても、その場合は蛍がどういう動きをすればこのシーンがいっそう効果的になるかってことはイマジネーションでしかないですからね。こっちからこういうふうに飛んでいきゃぁいいのかとか、向こうから近づくのがあったほうがいいのかとか、それはもう無限、何千万通りもある中から選択しなくちゃいけないわけだから、それはむしろ彼が頭の中でこういうふうにしようと描き、何度もおそらく自分でも試して、結果を監督にみせる。監督やカメラマンがあぁだこうだというのを何度も何度もやり変える。そしてそのうちに結局モニターの画面でみたってわからない。こんな画面ですからね。一度この辺でフィルムに焼こうってことになって。
<冨田>
焼いたんですか。
<監督>
ええフィルムに焼いて、こういう大きな画面でみてそれからまた直す。モニターでまた直す。そういうことをずいぶん繰り返しましたね。
<冨田>
そうすると、実際に飛ばしたほうが逆に制作費としては安くついたんですね。
<監督>
そういうことですね。むしろそうかもしれませんね。実際はね。ただまあ、最初の障子なんかほら蛍の形まで映っているじゃないですか。あんなことはCGじゃないとできないんですけどね。あれは蛍の形があって、しかも蛍の光が障子に反映して、障子が少しふっと明るくなるという大変面倒くさいことを一生懸命彼がやってくれたんですけどね。
<冨田>
シーンとしては一番はじめに失明をして絶望している中で、加世の愛によって少し再生の光を感じつつある、というような非常に重要なシーンだと思いますので、あそこの蛍の光というのはやはり素晴らしい演出であったというふうに私自身も感動いたしました。
<監督>
加世はつまり夫がもう助からないことを知っている。夫はそこに気がつかない。そういうかなり静かだけれども、劇的な要因をもった画面なんですよね。いつかこの人に言わなきゃいけない。そのことをね。蛍が飛んでる、蛍の季節だな。そうですね。っていうシナリオだったんだけども、木村拓哉がね、助監督を通して「それにさらにこういう台詞を足したらどうでしょう」って言ってきたのね。それは、「まだか?」って。そうすると妻が「まだでがんす。」と。それはとても僕はいいアイデアだなって思ってね。
<冨田>
あれは木村拓哉さんが出されたアイデアなんですか?すごい男女の機微に富んだ・・・
<監督>
なかなかね、そういうね、彼は想像力があるのね。だからそのことによっていっそう悲しい場面になったんですけども。本当にCGのこの技術をマスターするってことは、要するにコンピューターの技術を学ぶのは、三分の一ぐらいじゃないかな。三分の二は、この情感とそのイマジネーションですよね。最初にあなたがおっしゃった人間に対する理解力、人間の心理に対する、人間の思いに対する想像力。それがなければ、良いCGの技術者にはなれないってことですよね。
<冨田>
ありがとうございました。この作品は12月1日からの公開になりますが、今お見せしました蛍のシーン以外にもたとえば蝶々ですとか、落ち葉ですとか、そういった蛍と同じような意味での様々な感情移入をしている部分が多々ありますので、ぜひともですね、12月1日公開後もみなさま劇場に足を運ばれるなり、多くの方にご推薦してくださればと思います。
舞台裏
事前準備と企画終了後の様子
<映写のための準備>
クオリティの高い映像を お届けするため、高反射率の サウンドスクリーンをお借りして映画を上映しました。スクリーンの後ろには 音響機材が設置され、 臨場感あふれる 映像と音を提供することができます。妥協を許さない監督の映画への 熱い思いが、 細部にまでめぐらされていることが わかります。
<企画終了後>
【監督と登壇者の記念撮影】
山田洋次監督と登壇者との記念撮影後、マスコミ取材が行われました。取材では、現場での裏話、 映像学部への期待を語って いただきました。
登壇者4人の感想
●当日『武士の一分』を鑑賞後、山田洋次監督の楽屋に挨拶をしにいった際に山田洋次監督の温かい人柄に触れ、思っていたよりもリラックスして対話ができるのかと思いきや、ティーチインが始まると同時にその安堵は狼狽へと変わりました。映画の感想を山田監督に聞かれ正直に答えるとその中にある甘い解釈と曖昧な表現を突かれ、考えもしなかった感情表現や深い設定にその場で初めて気付かされました。映画を作る際の細部へのこだわりは今まで思っていたのとは全く別の角度からのアプローチもあることを知り、感情が物質や形態として現れることの重要性を学びました。映像制作の際のこだわりに気付くことのできる観客は同時に作品を真に理解してると言えるでしょう。その土俵にまだ立てていない未熟さ、不勉強さを自覚し今後の学習に役立てていきたいと思っています。(鴨井雄一さん)
◆映画を学ぶ=技法や構図と思い込んでいたところに「映画は人を撮るものだ」とおっしゃる監督。目から鱗が落ちました。監督の問いにその場で答えることは想像以上に難しく冷汗をかきましたが、体感した「人間を軸に」掘下げる作業が心に焼きつき、映画を観る上で、ひいては日常でもその作業を反復していきたいと感じました。(西村真莉奈さん)
●今回、山田監督とティーチインをさせて頂いて、今まで何気なく観ていた映画のさり気ないワンシーンにも制作者のこだわりがあったり、観客に伝えたい意図が込められているんだという事を知る事ができました。
映画を制作するのには、時代背景、登場人物の気持ち、色々な思想などを考えた上で、素人の私には持ち合わせていないような想像力が要求されるという事を改めて実感しました。(松岡真実さん)
◆実際に武士の一分を制作された山田洋次監督とディスカッションできて、本当に良い経験・勉強になりました。監督に自分の気持ちを上手に伝えられなかった事はたいへん残念ですが、映像学部に入って映像への教養を身につけ、深めていきたいと思います。 (山田紘太朗さん)