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2016.01.28
ゲーム業界の黎明期を支えたレジェンドが映像学部に来校!!(インタラクティブ・デザイン論)
皆さんの、一番最初の「ゲーム」の記憶は何でしょうか?
ファミリーコンピューター?インベーダーゲーム?
UFOキャッチャー?
去る1月13日(水)、皆さんが恐らく一番最初に出逢ったであろうあのゲーム機やあのゲームなど、ゲーム業界の黎明期を作られた「レジェンド御三家」とも呼べる3名のゲストスピーカーによる講義が、映像学部の授業「インタラクティブ・デザイン論」(※)で行われました。
講義ではファミコン開発の裏話や、おもしろいゲームを作れた理由、80年代のゲームと現代のゲームの違いなどについて実際のエピソード満載で語られました。
※「インタラクティブ・デザイン論」とは?・・・座学形式のデジタルゲームの歴史、講義型とワークショップ形式を併せたゲームデッサンを行い、デジタルゲームデザインを広範囲に学んでいく。15回目の授業は座学形式でおこなわれた。
戦後米ソの冷戦の最中にアメリカで誕生したビデオゲームは日本に上陸後驚異的な発達を遂げ、世界へ発信する一大産業に成長した。デジタルゲームの歴史をテーマとした本講義ではビデオゲームの歴史をその誕生から現在までを横断的に学んでいく。
科目担当の渡辺修司先生(左)とゲスト上村雅之先生(右)
<講師紹介> (敬称略)
上村 雅之
1943年、東京都生まれ。千葉工業大学電子工学部電工学科卒業。1967年、早川電機工業(株)【現・シャープ(株)】に入社。光センサーなどの技術サービス業務に従事。その後1971年、任天堂(株)入社。『テレビゲーム6,15』、『ブロック崩し』などの初期テレビゲーム機の開発を担当。1981年、『ファミリーコンピューター(ファミコン)』の開発責任者となり、国内で大ヒットしたのを契機に、海外向けファミコン『Nintendo Entertainment System(NES)』、および『スーパーファミコン』の開発責任者を務める。2004年、任天堂退職と同時に立命館大学大学院先端総合学術研究科特任教授に就任し、ビデオゲームの学術的研究に尽力。2009年より映像学部において「遊戯史」講義およびゼミの指導にあたる。現在、立命館大学ゲーム研究センターのセンター長および映像学部客員教授。 西角 友宏氏
西角 友宏
1944年、大阪府岸和田市生まれ。東京電機大学通信学科卒業。1968年(株)タイトーの子会社(その後タイトーに統合)に入社。エレメカゲーム『スカイファイター』を開発後、1973年国産初のビデオゲーム『サッカー』を開発。その後十数機種のビデオゲームを研究開発。1978年マイクロコンピューターを搭載したビデオゲーム『スペースインベーダー』を開発。1996年(株)タイトーを退社し、ゲーム開発会社(株)ドリームスを設立し、代表となる。その後退任して、現在は(株)タイトーの開発アドバイザー。 小野 忠彦氏
小野 忠彦
東京大学・大学院で機械工学を専攻し、修士課程修了後、トヨタ自動車工業(株)(現トヨタ自動車(株))に入社。ボデー設計に従事。クラウン、コロナ、セリカ、カリーナ、カローラ等設計。トヨタの生産設計も学ぶ。その後株式会社フジテックに移り、エレベータ、エスカレータの設計。次いで、生産技術、製造に広げる。1980年日本のエレベータ業界初の米国工場建設プロジェクトを指揮。1988年まで米国工場の経営を行う。
1988年、(株)セガ・エンタープライゼズ【現(株)セガホールディングス】に移籍し、取締役に就任。以後10年間、家庭用ゲーム機、業務用ゲーム機の部品購買、生産・製造部門を統括。入社時550億円だったセガの売り上げが、4年後3,600億円になる。その後、セガの子会社社長を務めた後、セガを離れ、会社を創業。その後ケーブルテレビ会社東京ベイネットワークで営業本部長を務め、2013年退職。現在は株式会社マーベラス監査役、中山隼雄科学技術文化財団評議員を務める。
映像学部では、今回ご紹介した授業ようにスペシャルゲストスピーカーを呼んでおこなわれる講義も多くあります。「インタラクティブ・デザイン論」のラストを飾ったこのゲスト講義は非公開とあって、他ではなかなか聞くことができない裏話が聞けました。
開発の具体的な話だけではありません。業界で成功を収めてこられた方たちが歩んできた道が決して平坦な道ではなく、むしろ苦労の連続だったということ、それでも「この仕事が好きだ」と思えたから頑張れた、という3名のエピソードは、学生が将来の自分を考える上で参考となるストーリーになったと思います。
他にもさまざまな特色ある授業を開講している映像学部に今後もご注目ください!