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立命館大学

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法学研究科博士課程後期課程2回生/村上太一さん

法学研究科博士課程後期課程2回生村上太一さん

法とはなにか

 社会を司るルールを根源から問い直す法哲学

 日本は法治国家であり誰もが日々、法に従って生きている。しかし「そもそも法とは何か」と改めて問われれば、答えに詰まってしまう人が大半だろう。その難問に正面から立ち向かう学問が法哲学、村上太一さん(法学研究科 博士課程 後期課程2回生)の研究領域である。
 法学が法の理解と運用を主目的とするのに対して、法哲学は法そのものの本質を突き詰める学問領域である。そこに村上さんはこれまであまり取り上げられなかった概念を持ち込み、法哲学に新たな側面から光を当てようとしている。

2025.12.16

  • そもそも法とは何か
  • 功利主義からグッディンの世界へ
  • 先行研究者がごく限られた領域での挑戦
  • 法哲学の根幹を突き詰める

そもそも法とは何か

 法学部では多くの学生が、民法や刑法などの法律を学び、その解釈や運用を通じて社会の仕組みを理解しようとしている。しかし法学部生の中にはごく少数派ながら、法哲学の道、すなわち「法そのものの根本を問う」道を選ぶ学生もいる。村上さんも、そんな学生の1人だ。学部での学びを経て大学院へと進み、研究の道を選んだ。法学が社会のルールを知る学びだとすれば、法哲学はそのルールそのものを根本から問い直す学びであり、極めて奥深い世界である。


「法哲学の方向性は大きく2つにわかれていて、1つは法の存在や概念など法のあり方を探究する、法概念論と呼ばれるものです。もう1つは、正義論や法価値論と呼ばれる、法のあるべき姿を考えるものです。いずれにしても実定法学が法の解釈・適用を内容とするのに対して、法哲学では法に対するアプローチの仕方が哲学的なのです。すなわち当たり前とされている事柄を疑い、根本から多角的に考え直していきます」


 このような法哲学を説明する一例として『トロッコ問題』がよく取り上げられる。これは次のような問いに対する答えを求める問題である。
 ・ブレーキの壊れたトロッコが線路を暴走している。
 ・線路の先には5人の作業員がいて、このままだと5人全員が轢かれてしまう。
 ・線路は切り替え可能だが、切り替えた線路にも作業員が1人いる。
 ・5人を救うために、線路を切り替えて1人を犠牲にすべきか。


「トロッコ問題のような思考実験に対して直接答えようとすることも大切ではあります。ですが、思考実験のもっと大切な意義は、与えられた難しい状況に対して私たちがどのように考えるべきかという問題提起そのものにあると私は考えています。トロッコ問題について少し専門的に言えば、これは功利主義に対する問題提起であり、この功利主義こそ私の主な研究領域となります」


 功利主義とはジェレミー・ベンサムらによって体系化された考え方であり「最大多数の最大幸福」を基盤として、法がどうあるべきかと追究していく。功利主義の視点でトロッコ問題を考えるなら「1人を犠牲にしても5人を救うべきだ」といえそうだが、それでは「あえて意図的に1人を犠牲にしてもよいのか」という新たな問いから逃れられなくなる。いずれにしても簡単に答えを出したりはできない問題だ。

功利主義からグッディンの世界へ

 村上さんは功利主義を、帰結主義、厚生主義、総和主義の3つの側面で整理する。


「帰結主義とは、たとえばある行為が正しいかどうかを、その行為がもたらす結果で判断する立場です。厚生主義は、評価の基準を人の幸福に求める考え方です。総和主義は、社会全体の幸福を合計し、その総量によって評価を行う立場です。これら3つの考え方の中でも私は、厚生主義の考え方に関心があります。哲学の入口として比較的とっつきやすいテーマでありながら奥が深いですし、私たちの生活にも密接にかかわるテーマだからです」


 ただし「幸福とは何か」と問われると、これも簡単には答えなど出せない問題だ。このような問題について、村上さんはどのように考えるのだろうか。


「幸福の捉え方は3つに分類されるといわれています。第1が幸福とは快楽であると考える立場で快楽説と呼ばれます。第2は自分のやりたいことを実現できるのが幸福だと考える立場で、これは欲求充足説といいます。そして第3は、あらかじめ幸福の内容をリスト化し、それにどの程度当てはまるかで判断する立場であり、これは客観的リスト説と呼ばれます。3つの中で私が特に興味を持っているのは客観リスト説であり、これに近い厚生的利益という考え方をしているのが、現在の研究テーマにつながるロバート・グッディンです」


 ロバート・グッディンとはオーストラリアの政治哲学者であり、功利主義者としてもよく知られている権威である。国家はどのように行政計画を進めるべきか、どのような法令をつくるべきかなどのテーマについてグッディンは議論している。


「政治哲学の視点からみれば、グッディンはすばらしいアイデアをたくさん出しています。ただし法そのものを突き詰めようとする法哲学の視点からみれば、少し物足りない点もあります。そこでグッディンのアイデアを活かしながら、それらを法哲学的に満足できるような次元にまで高められれば、学問として新たな価値を提供できるのではないかと考えています」


 功利主義の再解釈や再構築に取り組んでいる研究者はいるが、その方法論には違いがあると村上さんは指摘する。


「現代の功利主義の研究においては、トロッコ問題や安楽死の是非といったテーマが盛んに議論されてきました。これらは人間の生死や倫理観に関わる問いであり、功利主義の考え方を応用できるテーマです。しかしベンサムが功利主義で考えたのは、そうした個人道徳に関わる問題だけではありません。法律や国の制度の設計など社会全体の仕組みに関わる問題も彼の関心事でした。そこで改めてベンサム由来の功利主義復興をめざしたのがグッディンであると私は解釈しています」

先行研究者がごく限られた領域での挑戦

 グッディンは非常に多作な思想家であり、著作や論文を合わせると200件程度になる。これらを網羅的に読み込んだうえで、改めてグッディンの思考を解きほぐそうとする研究者はあまりいない。


「大雑把に言うと、グッディンは公務員が功利主義を用いて政策を決定し、国民はそれに従うという関係性を主張しています。その背景にあるのはトップダウンの考え方です。このようなグッディンの考え方に対して私は、公務員に着目するアイデアは保持しながらも、トップダウン性を弱められないかと考えました。そのためのアプローチとして目をつけたのが脆弱性論です」


 グッディンの脆弱性論は、AさんがBさんと比較して弱い(脆弱な)立場に置かれているなら、BさんはAさんを助けるべきだとする考え方だ。たとえば飛行機の乗客はパイロットの操縦に身を委ねているため「脆弱である」とされる。その結果としてパイロットには「乗客を目的地まで安全に送り届ける義務」が課される。


「脆弱性自体はフェミニズムにも通じる概念で、その有力な論者として知られているのがアイリス・マリオン・ヤングです。そこである研究会でヤングの研究内容なども引用しながら、グッディンとの共通点や相違点を報告したところ、脆弱性と功利主義をつなげるのは厳しいのではないかと指摘されました」


 それでも学会で知り合った教授に相談すると「たしかにグッディンとヤングをテーマにするのは、まさに水と油をぶつけるようなものだ。しかし研究とは、まさに水と油がぶつかったときに進むのだよ」と励まされた。この言葉を励みに、村上さんは博士論文のまとめに進もうとしている。

法哲学の根幹を突き詰める

 グッディンの膨大な著作や論文について村上さんは、これまでに功利主義に関するものを中心に読み込みを進めてきた。グッディンの論文の多くは雑誌などに投稿されているため、ネット上ではアクセスできないものも多い。そのため修学館リサーチライブラリーを活用して必要なものを国内外から取り寄せたり、一度はオーストラリア国立大学にまで足を運び、グッディンの論文は可能な限り読もうとしている。そこまでして取り組む意義を村上さんは、次のように説明する。


「研究者として何か新たな視点を提供したい。具体的には功利主義についての新たな視点であり、そのためにグッディンの考え方と脆弱性理論をつなげようとしているのです。もちろん、その難しさは重々わかったうえで、それでも何とかやってみたい。博士論文の段階でまとめきれれば、それに越したことはありませんし、それが無理だとしても諦めずに取り組んでいくつもりです」


 村上さんは研究のほかに、法哲学の読書会を主な活動とする法哲学研究会を主宰している。そのメンバーは20名程度で、半数が大学院生だ。法学に興味がある人や、哲学的な内容を突き詰めたい人が議論に参加している。自分で立ち上げた研究会であり最年長でもある村上さんは、読書会でメンバーから解説を求められることが多いという。


「わかりやすい説明を考えるのは、自分にとって知識の再確認になるのに加えて、改めて自分の理解を深めるための良い機会となっています。将来はぜひ大学の教員になりたいので、研究会はそのための自分にとっての学びともなっています」


 法哲学研究者の中でもグッディンを一貫して深く掘り下げようとする研究者は、あまりいない。さらに村上さんは、功利主義に脆弱性論を結びつけ、法哲学の世界に新たな地平を切り開こうとしている。その先に広がっているのは、法哲学の新しい可能性だ。