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立命館大学

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文学研究科博士課程後期2回生/佐野啓生さん

文学研究科博士課程後期2回生佐野啓生さん

中世における皇太子の存在について

 ~振る舞いと学びから、その実像を解き明かす~

 日本には今、皇太子がいないのをご存知だろうか。皇太子とは、皇位継承の第一順位にある皇子を意味する。したがって徳仁天皇に皇子はいないため皇太子はいない。そもそも皇太子という言葉を日本で使うようになったのは、7世紀末以降である。
 かつての皇太子とは、どのような存在であったのか。佐野啓生さん(文学研究科博士課程後期2回生)は、儀礼における振る舞いや学びなどから皇太子の特質を解き明かそうとしている。先行研究がほとんどなく、史料も一つひとつ自力で探さなければならない。まさに「雲を掴むような研究」、だからこそ感じるというやりがいと、その苦労に迫った。

2024.05.01

  • 中国から導入された皇太子制度
  • 定められた振る舞いとそのための学び
  • 雲を掴むような研究、その進め方について
  • 新しい史料との出会いが、新たな気づきにつながる

中国から導入された皇太子制度

 2020年11月8日「立皇嗣の礼」が執り行われた。この儀式により、文仁親王が、皇位継承順1位を意味する「皇嗣」となられた。ただし「立皇嗣の礼」が行われたのは、長い日本の歴史でも初めてであり、これまで行われてきたのはすべて「立太子の礼」だ。1991年に行われた「立太子の礼」では、当時の天皇陛下すなわち現在の上皇陛下の皇子であった浩宮さま(現・徳仁天皇)が「皇太子」となられている。


「皇太子は、皇室典範において『皇嗣たる皇子を皇太子という』と定義されています。したがって秋篠宮様は皇嗣ではあるけれども、皇太子ではありません。だから立太子の礼ではなく、立皇嗣の礼が行われたのです。皇太子とは西暦700年ぐらいに中国から日本に持ち込まれた制度であり、それ以前の日本に皇太子制度はありませんでした。だから飛鳥時代に推古天皇の摂政を務めた聖徳太子も、用明天皇の第二皇子にあたりますが皇太子とは呼ばれていません」


 皇太子制度が導入された理由は、皇位継承を安定して行うためとされる。誰が次の天皇になるのかをあらかじめ明らかにしておけば、無駄な争いを防げると考えられたのだ。その皇太子とは、実際にはどのような存在だったのか。皇太子の実態を解き明かすのが、佐野さんの研究テーマだ。


「皇太子制度そのものは飛鳥時代末期から奈良時代にかけて、すなわちいわゆる古代から始まっていますが、私が研究対象としている時期は、平安中後期から鎌倉時代までの中世です。西暦900年ぐらいから1300年あたりまでの皇太子像を明らかにしたいと考えています

定められた振る舞いとそのための学び

 佐野さんは、皇太子の特質とそれを支える人的基盤に焦点を絞り込んで研究を進めている。特質とは、それだけが持っている特別な性質を意味する言葉であり、単なる性質や性格とはニュアンスが異なる。あえて特質という表現を選んだ背景には、皇太子の本質により深く迫りたいという佐野さんの強い意志がある。


皇太子の特質を明らかにする手がかりとして、儀礼における立ち居振る舞いに着目しています。なかでも皇太子に指名される立太子の礼、逆に皇太子の地位を降ろされてしまう廃太子という事件、成人になるための通過儀礼にあたる元服や行啓(ぎょうけい)などです。たとえば行啓とは皇太子の移動を意味しますが、その際には皇太子を乗せる車の装飾や前後に並ぶ人の配列などがきめ細かく定められていて、当然そこには何らかの意味が込められているわけです。したがってこれらの儀礼について前後の時代との違いなどを比較すれば、中世の皇太子の特質を明らかにできるのではないかと考えています


 研究に深みを加えるには、日本における時代の違いだけでなく、異なる地域との比較も有効だ。佐野さんの視線は、王室制度が設けられていた諸外国、つまり中国や韓国はもとよりヨーロッパの王朝にも向けられている。


もう一点のテーマである人的基盤については、皇太子の周囲にいた官人を対象として調べています。皇太子は、東宮傅(とうぐうふ)や東宮学士などの官職に携わる多くの人によって支えられていました。なかでも東宮傅は皇太子に仕える官人のトップであり、もっとも身近な存在でもあります。その役割は、皇太子に対する状況に応じた適切な動きなどの指導でありながら、これまでほとんど注目されてきませんでした。この東宮傅については詳細な検討を行い、この官職の活動や任命が、ときの政治的動向に大きく影響されている事実を既に明らかにしています。東宮傅や、さまざまな学問を教える専属教師である東宮学士の役割や動き方などは、基本的に律令に定められていますが、条文の書き方はかなり抽象的です。そのため具体的な動きは、時代や人事によっても変わっていったと考えられます。そうした変化を探るための重要史料の一例が、当時の人が書き残した日記などです」


 『源氏物語』の作者、紫式部も『紫式部日記』を書き遺している。これに記されているのは、寛弘5(1008)年から寛弘7(1010)年までの出来事であり、その主な内容は当時の宮中の様子である。これなどは、まさに佐野さんがテーマとしている時期の貴重な記録となる。ただし、こうした史料を参照するときに何より注意すべきなのが「日記とは書いた人の主観が入っているという前提での確認」だと佐野さんは語る。また日記との対比で「物語も虚構が入っている前提で読み解けば、貴重な史料になる」とも説明する。このようにかすかな手がかりでも参考にする理由は、研究を進めるために残されている史料が、今のところごくわずかしか手に入らないからだ。


『任槐大饗部類記』(国立公文書館所蔵、中御門家旧蔵、請求記号:古034-0589)

雲を掴むような研究、その進め方について

 そもそも、なぜ佐野さんはこのテーマを選んだのだろうか。学部時代も、対象としていたのは今と同じく中世史だったという。


「上皇が実権を握っていた院政期を対象として『上皇の宇治御幸』をテーマに卒業論文を書きました。当時の宇治は摂関家の拠点であり、政治的に重要な土地だったのです。これに続いて大学院での研究では、学術的な意義に加えて社会的な意義もあるテーマを選びたいと思い、皇太子の特質を選びました。テーマを思案していたのが、ちょうど今上天皇の生前退位をきっかけとして皇室制度について関心が高まっていた時期でもあり、タイムリーなテーマでもあると考えたのです。皇室制度が重要な分岐点に差し掛かっている状況で、皇太子の特質を明らかにできれば、皇室制度の将来を議論するうえでの参考になると思います。しかも改めて中世史に関する論文を読みこなしていくと、意外にも中世の皇太子については、その実態がほとんど明らかになってません。これまであまり取り組まれてこなかったテーマ、これこそやりがいがあるではないかと奮い立ちました」


 古代の皇太子については、既に多くの研究成果が残されている。なぜなら、その時代には皇太子自身が重要な政治的ポジションであり、そのため史料も多くあるからだ。ところが時代が移り中世に入ると、皇太子の政治的な権限は失われていく。これに伴い皇太子に対する関心は薄れていき、研究も大きく減ってしまった。


「実際に論文を調べていくと、中世の皇太子そのものに焦点を当てた研究はほとんどありません。過去においても皇太子の政治的な意義については研究されてきたものの、皇太子の立ち居振る舞いなどの特質に絞り込んだものはなかったようです。だから私のテーマには、研究に何より求められるオリジナリティはある。けれども、先行研究がないとはすなわち、本来なら研究論文に示されるはずの文献史料などの手がかりもない状態を意味します。実際のところ、皇太子とはこういう存在だったなどと直截的に書かれた史料は、今のところ見つかっていません」


 そのため研究を進めるには史料を片っ端から当たり、皇太子について記された断片的な記述を集めて、それらをつなぎ合わせていかなければならない。先行研究がない理由はおそらく、史料が簡単には見つからなかったからだろう。まず史料探しから始めなければならないうえに、そもそもその史料がどこにあるのかさえもわからない状態である。そんな研究を進める難しさはいうまでもないが、この障壁を乗り越えるカギの一つは「コミュニケーションにある」と佐野さんは語る。

新しい史料との出会いが、新たな気づきにつながる

限られた史料から何らかの知見を得るためには、私とは異なる見方を持っていたり、私にはない知識を持っている人とのコミュニケーションが重要だと思います。そのような人と交わす議論の中から、新たな気づきを得られるケースが多々あるからです。学内のゼミはもとより、関西圏での学会報告の場などにできる限り参加して、多様な知見を得られるよう努めています」


 もちろん史料探しも欠かせない。歴史関連史料の充実ぶりで知られる東京大学の史料編纂所や、大学以外の調査機関などにも出向いて史料を探す。


「いずれも直接出向いて史料目録を読み込み、タイトルから当たりをつけていきます。そうやって得た史料を読み始めると、たいてい一気に引き込まれていく。もちろん、すべてが参考になるわけではなく、むしろ研究に使える史料はごくわずかです。そんな史料でも読み始めると引き込まれてしまい、自分で歯止めをかけないと24時間365日かかりっきりになってしまう。未知の史料との出会いは、それぐらい魅力的なのです。そこで大切にしているのが、セルフマネジメントです。体調を崩してしまい、研究に支障が出るようでは本末転倒ですから


 どれほどおもしろい文献を見つけても、最低限必要な睡眠時間だけは確保するよう心がけているという佐野さんが、今後目指しているのはアカデミックポストだ。まず博士論文をまとめて学位を取り、大学教員としての学生指導を強く望んでいる。


研究の前例がない分野だけに、自分の努力の積み重ねが、そのままこの分野の研究実績として積み上がっていく。これが私にとって何よりの強みになると考えています。皇太子研究をきっかけとして皇室制度に関しても意見を求められるような研究者になるのが、今の時点での理想です」


 未踏の地を独力で切り拓いていく姿勢、佐野さんは、まさに歴史研究のパイオニアである。