立命館の灯

中川小十郎、立命館創立ものがたり

プロローグ

学祖西園寺公望と、中川家のひとびと

今からおよそ150年前の1868(慶応4)年1月4日、19歳の西園寺公望さいおんじきんもちが、山陰地域に新政府が派遣した山陰道鎮撫使さんいんどうちんぶしの総督に任命されました。薩長の軍勢を率いて丹波馬路うまじ村(現在の京都府亀岡市馬路町)に進軍した西園寺は、地元の有力郷士の中川家らのひとびとに従軍を求め、中川禄左衛門ろくざえもん(小十郎の実父)、中川武平太ぶへいた(養父)、中川謙二郎けんじろう(叔父)、中川百助ひゃくすけ(叔父)らが、これに応じました。行軍中の西園寺の側には謙二郎(18歳)、百助(20歳)が仕え、彼らは西園寺と強い信頼関係を結んだのです。

鎮撫使の任務を終えた西園寺は、京都御苑の私邸内に私塾「立命館」を開校します。ここには、学びたいと思う人々が身分をこえて集い、謙二郎や百助もここで学んでいました。特に謙二郎は、西園寺に学才を認められ、西園寺とともに開成学校かいせいがっこう(現在の東京大学)で高い教育を受ける機会を得たのです。謙二郎のこの経験は、のちに中川小十郎の人生を大きく変えていくことになります。
これからはじまる中川小十郎による立命館創立の物語は、こうした中川家と西園寺公望との物語が背景になっているのです。

1866年〜

中川小十郎の学習風景
~中川謙二郎と田上綽俊~

西園寺の鎮撫使が馬路村に到着する2年前の1866(慶応2)年1月4日、中川小十郎は中川禄左衛門とさきの長男として生を受けました(本名:重興しげおき)。6歳の時に中川武平太の家に養子に入ります。少年時代の小十郎は、へびを首に巻き付けてかけまわる、腕白なガキ大将だったようです。馬路のゆたかな自然が、好奇心旺盛で活発な少年へと成長させていきました。
小十郎は、養父武平太が佐賀県から招いた漢学者田上綽俊たがみしゃくしゅんのもとで勉学にはげみます。田上は自宅にひらいた塾に、書生として小十郎を住まわせていました。小十郎は晩年になるまで漢詩を趣味としていましたが、これは田上による徹底した漢学修行のたまものです。

1878(明治11)年、12歳の小十郎に転機がおとずれます。小十郎は、叔父中川謙二郎から東京での学問修業の誘いを受けたのです。田上もこれに賛成し、翌年、謙二郎とともに東京へと旅立ちます。謙二郎は、自身が西園寺から受けたように、才能ゆたかで向学の意欲に燃えていた小十郎に、未来をひらくあしがかりを築いてあげたのです。東京では謙二郎の自宅で、岡田良平おかだりょうへい(後の文部大臣)や一木喜徳郎いちききとくろう(後の東京帝国大学教授)ら、終生の友となる人々と同居し、夏目漱石とは、ともに帝国大学(現在の東京大学)を目指す学友でした。小十郎が上京した1880年代は、多くの地方の若者が、立身出世を目指して東京へと集まっていました。小十郎はそうしたなかで、苦しくも楽しい学生生活をおくっていたのです。

1893年〜

京都帝国大学と日本女子大学
~学校経営者中川小十郎の誕生~

1893(明治26)年7月27日、法学と経済学を修めた小十郎は、帝国大学を卒業します。卒業後は恩師の木下廣次きのしたひろじ(後の京都帝国大学初代総長)の紹介で文部省へ入省します。当時の日本では、社会の近代化を担う高度な職業人が求められるようになり、若者たちも上級学校への進学を望むようになっていました。文部省は、井上毅いのうえこわし文部大臣のもとで官立学校を拡大させ、小十郎はその制度づくりに参加していました。また1897年には、木下廣次とともに京都帝国大学の創立に参加し、初代事務局長として、教官選任や会計事務をとりしきります。さらに翌年には、成瀬仁蔵なるせじんぞうとともに日本女子大学の創立事業にもかかわります。このように文部官僚としての小十郎は、学校経営のプロとしての経験を積んでいったのです。

1894(明治27)年、西園寺公望が文部大臣に就任します。これは、小十郎にとっては運命的なできごとでした。西園寺は中川家の子息、小十郎との出会いを喜びます。西園寺は、有能な若手官僚に成長していた小十郎をたいへん厚遇し、彼を文部大臣秘書官に抜擢したのです。こののち西園寺は首相となり(1906年)、そして元老という日本政界の重鎮となりますが、小十郎は、首相秘書官や元老の私設秘書として終生、西園寺のそばに仕え続けたのです。

1898年〜

広岡浅子との出会いと京都法政学校の創立
~実業家中川小十郎の手腕~

こうして文部官僚としてのキャリアを積んでいた小十郎でしたが、1898(明治31)年におきた政権交代をきっかけに、文部省の退職を余儀なくされます。意に反した退職は、小十郎を失意に沈ませます。彼は新しい道を探さなければなりませんでした。そこで、日本女子大学創立をともにしていた成瀬仁蔵が、小十郎に、大阪の豪商加島屋を紹介します。加島屋には広岡浅子ひろおかあさこという女性実業家がおり、彼女も、日本女子大学創立に協力していました。(広岡浅子はNHK朝の連ドラ「あさが来た」の主人公のモデルです。同ドラマに登場する主人公あさを助ける山崎平十郎は、中川小十郎がモデルと思われます)

小十郎は「二晩寝ずに悩んだ」すえに、実業家への転身を決意します。そして、経営不振におちいっていた加島銀行の理事となり、再建に力を尽くしたのです。広岡浅子も小十郎の手腕を信頼し、新事業への拡大を小十郎に一任します。その結果誕生したのが、現在の大同生命保険株式会社です。官界を去ったことは小十郎にとって思いがけないことでしたが、彼は新天地でもその手腕を存分に発揮したのです。

そして1899(明治32)年10月、小十郎はついに学校創立へと動き出します。新しい学校は、京都法政学校きょうとほうせいがっこうと名付けられました。学校創立事業は教育への高い理想だけでなく、社会的信用や資金、そして経営者としての手腕が必要になります。全力で人生をあゆんだ35歳の小十郎は、「幸運」にも、それらをすべて手に入れていたのです。京都法政学校創立は、広岡浅子から5000円(現在の2000万円)の無担保融資、住友友純すみともともいと(西園寺の実弟)からの大口寄附、大阪・京都の実業界からの人的協力を得ながら進められていきました。

1900年〜

京都法政学校の創立

中川小十郎の教育理念

中川小十郎は周囲の人に支えられ、高い教育を受けることができました。しかし、当時の子どもたちには、このような経験はなかなかできるものではなく、多くの子どもたちは、義務教育の小学校をおえると、家計を助けるために仕事をしなければなりませんでした。そして、そのような子どもたちが青年になり、高い教育を受けたいと考えても、制度上の問題で、官立の高等学校や大学へ入学することはできませんでした。社会では新しい法律(商法・民法)に対応できる高度な専門知識をもった人材が求められていたにもかかわらず、教育制度がこれに追いついていなかったのです。
小十郎は加島屋時代に、そこで働く青年たち(画像)の実情を見て、自分が文部省時代に設置してきた官立高等学校や官立大学の不備を実感します。そして、幅広い子どもたちに教育の機会を与えるため、自分がこれまで培ってきた経験をいかして、「私学」を創ろうと考えたのです。
開校した京都法政学校は、正規の教育課程を経ていない人にも門戸がひらかれ、講義録が刊行されるなど、地方在住であっても、京都法政学校の講義が受けられる仕組みが整えられました。学びたい者に学びの機会を、立命館の灯がここにともされたのです。

京都法政学校開校日の様子

1900(明治33)年6月5日、京都法政学校が鴨川河畔の「清輝楼せいきろう」で開校し、まもなく京都御所の東の広小路ひろこうじに新しい校舎ができあがります(広小路学舎は1981年まで使用)。京都法政学校の「創立趣意書」には、官立校だけでは不十分な教育の機会均等を私立学校が担うべく、新しい学校を創立したことが明快に述べられました。
京都法政学校の第一期入学者は305名(卒業者57名)で、彼らの多くが履修していた科目は民法や商法などの実用法学でした。そしてそれを教授していたのは、小十郎の考えに共鳴した京都帝国大学の教師陣で、レベルの高い専門教育が行われていました。また講義は就業者が通学可能な夕方〜夜間に開かれていました。立命館の「夜間学校」の伝統は、その後100年以上も続いていきます。

京都法政学校開校の日、小十郎は学生へ向け、彼らの前途に希望をしめす言葉をおくりました。その熱を帯びた言葉と希望のおもいは、教室にともされた幾十のランプの灯りと匂いとともに、青年たちの心に刻まれたのです。

エピローグ

京都法政学校から立命館大学へ

学校創立から5年後の明治38年、京都法政学校は西園寺公望(当時:総理大臣)から「立命館」の名称を受け継ぎます。これは中川小十郎が、西園寺に継承を申し出たからですが、西園寺はこのことを大変よろこび、幕末以来の中川家との特別な関係から、「立命館」の名を譲ったと語っています。西園寺の私塾「立命館」は、『孟子』の「尽心章」に由来します。本来の字義は、「人の生死は天命で決められている。だから生きているあいだは学問をし続け天命を待つのが人間の本分である」という意味です。維新の死線をくぐり抜けた学問好きの西園寺らしい命名だったと言えます。

西園寺はこの名を譲る際に「立命」の意味を「目先の利益にとらわれず高い志を立て生涯を通じて学び社会を創ることが、よりよく生きることにつながる」と解釈し直します。西園寺は、小十郎が創立した京都法政学校の性質にあわせ、学校の意義をより深めるために「立命館」の名を譲ったのです。中川小十郎によってともされた立命館の学びの灯は、西園寺によって、より輝きを増したのです。西園寺が死去した1940(昭和15)年、中川小十郎の発案によって西園寺公望は立命館大学の学祖に位置づけられます。

そして現代
「立命館の灯」は日を増すごとに強く、まぶしく。