QUESTION そもそも法律に従わなきゃ
いけないのは、どうして?

KEYWORD #法哲学

みなさんの身の回りに、納得のいかない法律はありませんか?たとえば、どんなに雨が強くても、片手で傘を差したまま、自転車を運転してはいけません。コンビニでお菓子を買うたびに、消費税を払わなければいけません。このように、法律はみなさんの特定の行動を禁止したり、命令したりします。そんなとき、次のように言いたくなるかもしれません――「そもそも法律に従わなきゃいけないのは、どうして?」

この問いに答えるためには、(1)「法律」とは何か、(2)「従う」とはどういうことか、そして、法律に従わなければならないのは(3)「どうして」なのか、という3つの問いに答える必要があります。以下、順番に見ていくことにしましょう。

(1)まず、「法律」の意味を考えましょう。法律と聞いて、みなさんは何をイメージするでしょうか?ドラマや映画で、弁護士が「六法全書」と書かれた分厚い本をめくっている場面?テレビやネットの報道番組で流れる、総理大臣の記者会見?それとも、これまでに学んできた日本国憲法の色々な条文?

正確に定義するならば、法律とは「国会(または戦前の帝国議会)の両議院の議決を経て制定される法」です。したがって、時々の内閣によって制定される政令(「政令指定都市」という言葉を聞いたことがありますね)や、お住まいの市町村・都道府県で制定される条例は、法律とは異なる形式の法ということになります。また、国の最高法規である日本国憲法も、厳密には、法律とは区別される形式の法です。このように、日本の法秩序は、様々な形式の法によって構成されています。法律は、その中でも法秩序全体の中枢に位置する、特に重要な法形式だと言ってよいでしょう。

この意味での法律は、現在、日本におよそ2000個近くあると言われています。犯罪と刑罰について定める刑法や、財産関係と家族関係について定める民法は、みなさんにも馴染みのある法律ですね。以下では、この定義を念頭において話を進めましょう。

(2)次に、法律に「従う」とは、何を意味するのでしょうか?たとえば、みなさんがスポーツやゲームをプレイするときは、それぞれのルールに従うことが求められます。サッカーではオフサイドやハンドリングに注意が必要ですし、将棋を指すときに駒を動かせるマスは決まっています。これらのルールに従うときの心境を思い出すことで、法律に従うということの意味を解明する手がかりを得られるでしょう。

1つの考え方は、何らかの罰を避けるためにルールを守るというものです。サッカーで反則をとられると、相手側にボールが渡ったり、時には退場になったりします。悪質な反則をしたプレイヤーには、サポーターからもブーイングが飛びます。このことは、法律についても同じです。法律に違反すると、罰金をとられたり、時には刑務所に入ったりすることになります。悪質な犯罪者に対しては、社会的にも大きな非難が寄せられます。そこで、この考え方に立てば、法律に従うとは「将来的なペナルティを回避するため、法律に違反した行動をとらないこと」という意味に理解できます。

別の考え方として、プレイを楽しく進めるためにルールを守るという場合もあります。将棋は1対1で行われますが、お互いにルールを守って順番に駒を動かすことで、勝負の駆け引きを楽しむことができます。この考え方を法律に応用すると、法律を守って行動することで、快適な社会生活を営むことができるようになります。お金を払ったら商品が届くのも、バスに乗ったら目的地に着くのも、すべて人々が法律を守って行動しているおかげです。このように、法律に従うというのは「快適な社会生活を維持するため、法律を尊重した行動をとること」であるとも言えるでしょう。

いずれの考え方に立つとしても、法律に従うということは、法律によって定められた内容を重視し、その遵守を心がけることだと言えそうです。しかし、あえて付言するならば、おそらくみなさんの多くは、そこまで深く考えることなく、ただ「なんとなく」法律を守っているだけなのではないでしょうか?そもそも、世の中に存在する法律の内容を網羅したうえで、ある行動をとるかどうかを決めるたびに、逐一すべての法律に照らしてチェックすることなど、およそ非現実的です。ですから、直感や惰性で行動する中で「なんとなく」法律を守っている、というのが実情でしょう。

(3)最後に、法律に従わなければいけないのは「どうして」なのでしょうか?これは古代から繰り返し論じられてきた難問であり、いまだに答えが出ていません。たとえば、ギリシアの哲学者ソクラテスは、「納得のいかない法律だから従わない、という態度はよくない。誰もがそのような態度をとるようになったら、社会が崩壊するからである。だから、どんな内容の法律であっても、とりあえず従うべきである。そして、法律に納得がいかないのなら、政治の場で、議論によって改善するべきである」といったことを考えていました。ソクラテス自身は、自らに下された不当な死刑判決を受け入れるという形で、文字通り「死ぬまで」この考え方を貫きました。

すでに見たように、法律は国会の両議院の議決を経て制定されます。国会の両議院を構成するのは、有権者が選挙を通じて選出した国会議員です。有権者の代表として国会に送り出された議員が、議論を通じて制定した法律である以上、たとえ内容に納得いかないとしても、その責任は議員を選出した有権者にあるのだから、やはり法律には従うべきである――これが、法律に従わなければいけないのは「どうして」なのかという問いに対する、一応の回答になります。

しかし、この回答にみなさんは満足でしょうか?みなさんの中には、まだ選挙権をお持ちでない方もおられるはずです。そのような人々の意見は、上記のプロセスでは法律に反映されていません(選挙権をお持ちの方が、選挙を棄権する場合も同様です)。さらに言えば、ほとんどの法律はみなさんが生まれる前に制定されたのに、その責任をみなさんが負わなければならないというのは、いささか不合理に感じられます。

法律が法律であること自体が、法律に従うべき理由となるか――この問いは、しばしば「悪法に従うべき理由はあるか」という形で問い直されます。悪法、すなわち道徳的に邪悪な内容の法律を前にして、はたして無批判に従うべきでしょうか?むしろ、そういった法律にあえて「従わない」ことで、国の法秩序全体に対する尊重の姿勢を示した人がいました。アメリカの公民権運動を指導したキング牧師です。キング牧師は、祖国アメリカを愛し、その法秩序を尊重するがゆえに、人種差別を肯定する邪悪な法律にあえて背いて罰を受けることで、その改善を促しました(これを「市民的不服従」といいます)。

法律を尊重するというのは、それに無批判に従うことではありません。法律が正しい内容を持っているからこそ、それに従うべき理由が正当化されるのです。そのためには、「なんとなく」法律に従うのではなく、世の中の流れに関心を持ち、自分の頭で是非を判断し、時には政治の場で声を上げることが求められます。法学部は、そのための知識を獲得するにあたって、まさに絶好の場所であると言えるでしょう。