『テオファネス年代記』(640/641-668/669)

凡例

  1. 原本(Theophanes Confessor, Chronographia, München, 1883-5)のページ数を黄字で示しています。
  2. は最小限のものに限定してあります。
  3. 『テオファネス年代記』は、世界年代(天地創造からの年数を基準とした年紀)を基準として、各年ごとの記述となっています。また世界年代に加え、皇帝やカリフ、総主教らの在位期間などを各年ごとに記述しています。本試訳では、各年の記述冒頭に数字列がありますが、「皇帝の在位何年目か. カリフの在位何年目か. コンスタンティノープル総主教の在位何年目か.」が基本情報として書かれ、年によっては西暦(ただし正確ではありません)や「コンスタンティノープル以外の総主教の在位何年目か」も書かれています。
  4. 世界年代の後のカッコ内に書かれているのは対応する西暦です。『テオファネス年代記』における世界年代は9月1日が年初なので、2年に及んでいます。
    なお、ここで訳している時代に関しては、テオファネスの編集処理における誤解の結果、『テオファネス年代記』の記す年代と実際の年代に1年のずれ(1年早い)があることが指摘されています。
  5. 時折言及される「インディクチオ」は、15年周期の暦法です。世界年代と同様、9月1日開始です。
  6. この試訳の無断引用等は堅くお断りいたします

(341)6132(639-640)
31. 7. 3. 8.*16145年までは、アレクサンドリア総主教の治世何年目かも表記されている。

 この年、第14インディクチオの3月*2ヘラクレイオス帝が没したのは641年2月と思われる。に、ヘラクレイオス帝が浮腫症で没した。治世は30年と10ヶ月間であった。彼の後、彼の息子であるコンスタンティノスが4ヶ月間帝位にあったが、彼の継母であるマルティナと総主教のピュロスによって毒を盛られて没した*3ここで書かれている在位期間は正確ではない。また現在ではコンスタンティノス3世は毒殺ではなく、病没の可能性が高いとされている。。それでマルティナの息子のヘラクロナスが、母親のマルティナとともに帝位に就いた。


6133(640-641)
ローマ人の皇帝:ヘラクロナス、治世6ヶ月間
コンスタンティノープル総主教、パウロス、治世12年間
1. 8. 1. 9.

 この年、マウイアス(ムアーウィア)がパレスティナのカイサレイアを7年間の攻城戦の後、征服した。そこで7,000人のローマ人が殺された。
 この年、元老院がヘラクロナスを、彼の母親のマルティナと、ヴァレンティノスとともに排除した。そしてマルティナの舌を切り、またヘラクロナスの鼻をそいで彼らを追放した。それからコンスタンティノスの息子でヘラクレイオスの孫のコンスタンス2世を帝位にのぼらせた。彼は27年間統治した。ピュロスも更迭され、(342)代わってコンスタンティノープル総主教には大教会のプレスビュテロスかつオイコノモスであったパウロスが、第15インディクチオの10月に任じられた。彼は12年間在職した。


6134(641-642)
ローマ人の皇帝:コンスタンス、治世27年間
アラブ人の長(カリフ):ウマロス、治世12年間
コンスタンティノープル総主教:パウロス、治世12年間
アレクサンドリア総主教:キュリロス、治世10年間
634. 1. 9. 2. 10.*4冒頭に西暦(正確ではない)が記載されている。

 この年、コンスタンスは帝位に就くと、元老院に対してこのように演説した。「朕の実の父であるコンスタンティノスは、その父であり朕にとっては祖父であるヘラクレイオスの生前には彼とともに十分に長い期間、だがその後はきわめて短期間、帝位にあった。それは、彼の継母であるマルティナの怨念が、彼のいとも高邁なる願いを打ち砕き、彼の生命を奪い去ったからである〜彼女はこうしたことを、彼女とヘラクレイオスの間に不法に生まれたヘラクロナスのためにおこなったのだ〜。だがとりわけ、神とともにあるあなた方の決定が、ローマ帝国が非合法な状態におかれないように、彼女をその子とともに追放したのだ。このことは、あなた方の大いなる尊厳さがよく知っている通りである。それゆえ朕は、臣民たちの共通の安寧のための忠告者・助言者になるように、あなた方に懇請する。」*5このコンスタンス2世の演説に関しては、渡辺金一『コンスタンティノープル千年〜革命劇場〜』岩波新書、1985年でも訳出されている(136頁)。このように演説し、(たくさんの)贈り物をおこなって報いて、皇帝は元老院から立ち去った。


6135(642-643)
2. 10. 3. 11.

 この年、ウマルがイェルサレムで神殿の建設を開始した。だが建物は立っていることができず、倒壊してしまった。倒壊の原因を尋ねると、ユダヤ人たちがこう言った。「オリーブ山の教会の上にある十字架を撤去しなければ、建物は立ちません。」このような理由で十字架はそこから撤去され、彼らの建物も立ち上がった。このことが理由となって、キリストの敵たちは数多くの十字架を取り去ったのである。


(343)6136(643-644)
アレクサンドリア総主教:ペトロス、治世10年間
3. 11. 4. 1.

 この年パトリキオスのヴァレンティニアノス*6ヴァレンティノス。旧アルメニア王家(アルサケス家)出身とされる。641年にコンスタンス2世を擁立・支持してマルティナやヘラクロナスを追放させた黒幕と思われる。娘をコンスタンス2世に嫁がせた。がコンスタンスに対して反乱を起こした。それで皇帝は彼を殺し、軍を自らの配下に移すために人を送った。
 日食がディオン月(11月)5日の土曜日、第9時にあった。


6137(644-645)
4. 12. 5. 2.

 この年、アラブ人の長であるウマルが、ディオン月の5日に、あるペルシア人の背教者によって殺された。(暗殺者は)礼拝中の彼を見つけると腹部を剣で突き通し、彼の命を奪い去ったのである。彼は12年間信徒たちの長の地位にあった。そして彼の後を、彼の一族でファンの息子であるウスマン(ウスマーン・ブン・アッファーン)が継いだ。


 

6138(645-646)
アラブ人の長:ウスマン、治世10年間
5. 1. 6. 3.

 この年、アフリカのパトリキオスのグレゴリオス*7ヘラクレイオス一門でおそらくコンスタンス2世のおじ(母親の兄弟)。エクサルコス(総督)を努めていたカルタゴで帝位を僭称した。が、アフリカの人々と共に反乱を起こした。


 

6139(646-647)
ローマ人の皇帝:コンスタンス、治世27年間
アラブ人の長:ウスマーン、治世10年間
コンスタンティノープル総主教:パウロス、治世12年間
アレクサンドリア総主教:ペトロス、治世10年間
639. 6. 2. 7. 4.*4冒頭に西暦(正確ではない)が記載されている。

 この年、暴風が大地を襲い、多くの草木が倒れ、また巨木も根こそぎにされた。また多くの柱頭も倒壊した。
 同じ年、サラセン人がアフリカに侵入して纂奪者のグレゴリオスと対峙した。そして彼を敗走させて、彼の周囲にいた人々を殺し(、彼をアフリカから駆逐し)た。そしてアフリカの人々から貢納を得て帰還した。


6140(647-648)
7. 3. 8. 5.

 この年、マウイアスが海を越えてキプロス島を攻撃した。1,700隻の船で押し寄せて全島とともにコンスタンティアを制圧し、(344)その地を荒掠した。だが(マウイアスは)クビクラリオスのカコリゾスが彼に対してローマの大軍を率いて進出してきたのを知ると、アラドス島*8アルワード島。シリアの、大陸に非常に近接した場所にあった島。に対峙する位置に移動してこの島の城塞であるカステッロスに自らの艦隊を停泊させ、あらゆる種類の攻城具を使って制圧しようと試みた。だが成功しなかったので、彼らのところにトマリコス*96157年に言及されるアパメイア主教と同一人物?という名の主教を派遣して、彼らを恐れさせた上でこの都市を開城させ、和約を結んで彼らを島から退去させようとした。主教は彼らのもとに赴くと身柄を拘束されて城内に連れていかれたが、彼らはマウイアスに降伏しようとはしなかった。アラドスに対する攻撃は何の成果もなく続いたが、冬が到来したのでダマスコスに撤収した。


6141(648-649)
8. 4. 9. 6.

 この年マウイアスがアラドスに対して激しく攻撃をおこなった。そして彼らが望む所に移住できるという条件で、住民と和約を結んだ。それからこの年を燃やし、破壊して、現在にいたるまでこの島を無人にした。
 同じ年、ローマで教皇マルティノスによって、単意論に関する公会議が開催された。


6142(649-650)
9. 5. 10. 7.

 この年、軍指揮官(ブスル・ブン・アブー・アルタート)がアラブ軍を率いてイサウリアに遠征した。そして多くの人々を殺し、捕虜にした。そして5,000人を捕縛して連行し、帰還した。コンスタンス帝はプロコピオスなる者をマウイアスの所に送って和平を乞うた。2年間の和約が成立し、マウイアスはテオドロス*10ヘラクレイオス帝の兄弟。の息子のグレゴリオスを人質としてダマスコスにとどめた。


6143(650-651)
10. 6. 11. 8.

 この年、アルメニアのパトリキオスのパサグナテス*11アルメニアの有力貴族で、おそらくこの時期にアルメニア方面軍長官も務めていたテオドロス=ルシュトゥニのことと思われる。が皇帝から離反し、マウイアスと協定を結んで彼に自らの息子を引き渡した。皇帝はこれを聞いてカッパドキアのカイサレイアまで進出したが、アルメニアの情勢に対して絶望して撤収した。*12コンスタンス2世は実際には、653年後半にアルメニアまで遠征をおこなっている。


6144(651-652)
ローマ人の皇帝:コンスタンス、治世27年間
アラブ人の長:ウスマーン、治世10年間
コンスタンティノープル総主教:パウロス、治世12年間
アレクサンドリア総主教:ペトロス、治世10年間
644. 11. 7. 12. 9.*4冒頭に西暦(正確ではない)が記載されている。

(345) この年、ヘラクレイオス帝の甥のグレゴリオスが、ヘリオポリスで没した。彼の亡骸は防腐処理されてコンスタンティノープルに送られてきた。また同じ年に天から灰が降ってきたので、人々は大いに恐れおののいた。


6145(652-653)
コンスタンティノープル総主教:ペトロス、治世12年間
パウロスが没して、ピュロスが4ヶ月と23日間再任
12. 8. 1. 10.

 この年、マウイアスはロドス島を攻撃してロドスのコロッソスをその創建から1360年目に破壊した。それをエデッサのユダヤ人商人が買い取って、900頭のラクダに乗せて銅を運び出した。
 同じ年に、アラブの軍司令官のアビボス(ハビブ・ブン・マスラマ)がアルメニアに侵入してローマの将軍のマウリアノスに勝利を収め、彼をコーカサスの山地帯まで追跡し、この地方を荒らし回った。


6146(653-654)
13. 9. 2.

 この年、マウイアスはコンスタンティノープルに向けて進撃すべく、大艦隊を準備するよう命じた。すべての準備はフェニキアのトリポリで実施された。それを観察していた、トリポリに住んでいた2人のキリストを愛する兄弟〜彼らはラッパ吹き(ブキナトル)の息子であった〜が、神への熱情ゆえに傷つけられ、数多くのローマ人がとらわれていた街の牢獄へ突進した。そして門を破壊して投獄されていた人々を解放すると、この都市の統治官のところを襲撃して彼やその取り巻きたちを殺した。そしてすべてを火にかけて焼き尽くした後、ローマ帝国に向けて出港したのである。だがこれによっても、彼らの準備を中止させることはできなかった。すなわち、マウイアスがカッパドキアのカイサレイアまで侵入し、アブラタル(アブー・ル・アワル)が艦隊の指揮官となった。彼がリュキアのフォイニクスに到達すると、コンスタンス帝がローマ艦隊とともにその地に布陣しており、海戦が(346)行われた。皇帝が海戦をおこなおうとしている時、彼はその夜に自らがテッサロニケにいるという夢を見た。夢から覚めると皇帝は夢占い師に、自らが見た夢について語り聞かせた。彼はこう言った。「皇帝陛下、陛下は眠りに落ちてもいませんし、夢など見てはおりません。なぜなら陛下がテッサロニケにいたとしたら、それは『他の者に勝利がもたらされる』*13「テッサロニケ(Thessalonike)」を"thes allon niken"と解すると「他の者に勝利がもたらされる」となる。ということになるのです。」彼はこう答えた。だが皇帝は海戦のための戦列を編成することなく、ローマ艦隊に開戦を命じた。両軍は戦って、ローマ軍が敗北した。海はローマ人の血で染められた。皇帝は自らの衣装を他の者に着せた。すると先述したラッパ吹きの息子が皇帝の乗っていた船に飛び込んできて、皇帝を強引に他の船に乗せて、皇帝を奇跡的に救出した。この、非常に勇敢な男は大胆にも皇帝の船に立ち、自らが死に委ねられるまで数多くの者を皇帝のために殺した。(敵の)戦士たちは彼が皇帝であると思い込んで彼を取り囲み、彼をその中に追いつめた。彼が多くの敵を殺した後、(敵の)戦士たちは皇帝の衣装を身に着けていた者とともに、彼を殺した。皇帝はこのように敗北を喫しつつも生き残り、すべての者たちを残してコンスタンティノープルに向けて出帆した。*14いわゆる「マストの戦い」。近年、654年にアラブがコンスタンティノープルを海陸から攻撃したことが明らかになったため、その攻撃との関連(コンスタンティノープル攻撃の後か前か、など)が議論の的になっている。


 

6147(654-655)
14. 10. 3.

 この年、アラブ人の長であるウスマンが、エトリボス(ヤスリブ)の住民によって殺された。彼は10年間、信徒たちの長の地位にあった。その結果、アラブ人たちの間に混乱が生じた。というのも、砂漠に住む者たちはアリーの甥でムアメドの婿であるアリーを(後継者に)望んだのに対し、シリアとエジプトの住民はマウイアスを望んだからである。彼(マウイアス)が勝利を収めて24年間統治した。


 

6148(655-656)
アラブ人の長:マウイアス、治世24年間
15. 1. 4.

 この年、マウイアスがアリーに対して軍事行動を起こした。だが(347)エウフラテス川近くのカイサリオンにあるバルバリッソス地域で双方が対峙した。だがマウイアス側の人々が優位を占めて水源を確保した。アリー側の人々は咽の渇きに悩まされて裏切る者が現れた。マウイアスは戦いを望んでいなかったが、労せずして勝利を手に入れた。


6149(656-657)
16. 2. 5.

 この年、皇帝はスクラヴィニア*15「スラヴ人の土地」の意味。バルカン半島の、ビザンツ帝国の実効支配が及ばない地域のこと。に遠征をおこなって多くの人々を捕虜とし、服従させた。
 同じ年、単意論に対して真実の信仰のために闘っている聖マクシモスとその弟子たちに関する事件が起きた。コンスタンスは彼らを、自らの悪しき教義へと転向させることができなかった。それで(コンスタンスは)聖人の、神の智にあふれ、きわめて学識に富んだ舌を、右手〜彼の弟子であるアナスタシオイ*16「アナスタシオイ」は「アナスタシオス」の複数形。マクシモスにはアナスタシオスという名前の有力な弟子が2人いた。6160年の記述も参照。とともに彼の不信心を攻撃する数多くの著作を著していたので〜とともに切断した。それらは学識者らに知られているように、彼らの(話す)言葉が一語一語記されているものである。


6150(657-658)
17. 3. 6.

 この年、反乱が起きたことを理由にマウイアスが使者を派遣して、ローマ人とアラブ人のあいだに和平が結ばれた。それはアラブ人がローマ人に対して一日につき1,000ノミスマタと馬1頭と奴隷一人を収めるという条件のものであった。
 それから第2インディクチオのダイシオス月(659.6)に大地震が起き、この時にパレスティナとシリアに被害を与えた。
 また同じ年に、きわめて聖なるローマ教皇マルティノスが、高潔にも真実のために闘い、追放された。彼は証聖者となり、東方のクリマタで没した。


 

6151(658-659)
18. 4. 7.

 この年、コンスタンスは自らの兄弟のテオドシオスを殺した。
 アラブ人がサッフィン(シッフィーン)にいた時、ペルシア出身のアレー(アリー)が暗殺された。それでマウイアスが単独の統治者となり、ダマスコスに宮廷を築いてそこで国家の財産を蓄えた。


 

6152(659-660)
19. 5. 8.

 この年、アラブ人の中にカルルギタイ(ハワーリジュ派)という異端が出現した。マウイアスは彼らを鎮圧すると、ペルシアにいる者たちを辱め、一方でシリアにいる者たちは尊重した。そして前者をイサミタスと呼び、(348)後者をヘラキタスと呼んだ。そしてイサミタスに対しては報酬の額を200ノミスマタまで引き上げる一方、ヘラキタスの方は30ノミスマタまで引き下げた。


6153(660-661)
20. 6. 9.

 この年、皇帝はコンスタンティノープルを離れ、ローマに帝都を移そうと考えてシチリアのシュラクサに移った。そして使者を派遣して自らの妻や3人の息子〜コンスタンティノス、ヘラクレイオス、ティベリオス〜をも連れて来ようとした。だがビュザンティオンの人々が彼らを離さなかった。


 

6154(661-662)
21. 7. 10.

 この年、アラブ人がローマ帝国に侵入して多くの人々を捕虜とし、またさまざまな場所を制圧した。


 

6155(662-663)
22. 8. 11.

 この年、シチリアの一部が攻撃されて捕虜となった者たちがいた。彼らは自らの意思でダマスコスに移住した。


 

6156(663-664)
23. 9. 12.

 この年、四旬節に関して混乱が生じた。
 カレドスの子のアブデラフマン(アブド・アッラフマーン・アル・カリード)がローマ帝国に侵入してこの地で越冬し、多くの地域を荒廃させた。スラヴ人が彼に従って5,000人がシリアへ逃亡し、アパメイア地域のセレウコボロス村に定住させられた。


 

6157(664-665)
コンスタンティノープル総主教:トマス、在位3年間
24. 10. 1.

 この年、ブスル(ブスル・ブン・アブー・アルタート)がローマ帝国に侵入した。
 アパメイア主教のトマリコスが没した。そしてエメサ主教が火あぶりになった。


 

6158(665-666)
25. 11. 2.

 この年、ブスルが再びローマ帝国に侵入してヘクサポリス地方を荒廃させた。ファダラス(ファダラ・ブン・ウバイド)がその地で越冬した。


6159(666-667)
26. 12. 3.

 この年、アルメニア方面軍長官でペルシア出身のサボリオスがコンスタンス帝に対して反乱を起こし、マウイアスのところに(349)ストラテラテスのセルギオスを送り、もし皇帝への反乱に助力してくれるのであればローマ帝国を(マウイアスに)服属させると約束した。皇帝の息子のコンスタンティノスはこれを知ると、クビクラリオスのアンドレアスに贈り物を持たせて、マウイアスのところに反乱者との同盟の阻止のために派遣した。アンドレアスがダマスコスに到着すると、彼はセルギオスが先に到着していることを知った。またマウイアスは皇帝に同調するふりをした。セルギオスがマウイアスの傍らにいた時、アンドレアスがやってきた。彼を見てセルギオスは動揺した。マウイアスはセルギオスを見とがめてこう言った。「何をびくびくしているのだ?」セルギオスはいつもの癖でそうなってしまったと弁明した。それからマウイアスはアンドレアスの方を向いてこう言った。「何を望んでいるのか?」アンドレアスはこう答えた。「反乱者に援助をおこなわないで下さい。」マウイアス「双方とも敵である。どちらの方がわたしに多くの利益をもたらしてくれるのか?」アンドレアスは彼にこう言った。「エミール(カリフ)よ、疑うな。皇帝からのわずかなものの方が、反乱者からの多くのものよりも優れたものなのだ。だが、あなたの望み通りにするがいい。」アンドレアスはこう言うと黙り込んだ。マウイアスはこう応じた。「そのことについて熟慮しよう。」そして2人とも退出するよう命じた。それからマウイアスは自らのところにセルギオスを呼んでこう言った。「アンドレアスにへこへこするな。そんなことをしても無駄なのだから。」
 翌日もセルギオスはアンドレアスよりも先に来てマウイアスの近くに座った。そしてアンドレアスがやってきても、前日のように動揺することはなかった。アンドレアスはセルギオスの姿を見て、強い調子で脅してこう言った。「もしわたしが生き続けられるならば、お前にわたしが何者であるか示してやろう!」セルギオスはこう言い返した。「男でも女でもないお前に、わたしが興奮することなどない!」マウイアスは双方を押しとどめ、アンドレアスにこう言った。「セルギオスが申し出ているのと同じだけのものを提供する準備はあるのか?」アンドレアス「それはどれだけですか?」マウイアス「アラブに国税を。」アンドレアス「マウイアスよ、何を言うのか!肉体を(アラブに)委ねて、(我々には)影だけを残しておくと提案しているのと同じではないか!それがお望みなら、セルギオスに従うが良かろう。わたしにはそのようなことはできないから。だが我々はあなたのことなど構わず、神に救いを求める。なぜなら神はあなたよりも強く、ローマ人を守って下さるのだから。我々は神に希望を抱いているのだ。」それから彼は(350)マウイアスに「お元気で」と言った。そしてダマスコスを出てメリテネ方面へ進んだ。なぜなら反乱者はその地域におり、セルギオスもこの方面に進むからである。アラビッソスに到着すると、その地の守備隊長と会った。彼が反乱者に味方していなかったからである。そして彼に、セルギオスを捕えるために彼の動きを監視しておくよう命じた。彼自身はアムネシアに赴いてセルギオスを待ち、ことの次第を皇帝に知らせた。一方セルギオスはマウイアスと合意に達した後、アラブ人の将軍のファダラ〜サボリオスの援軍として蛮族の軍を率いていた〜に同行した。セルギオスはファダラよりも前を進み、喜びながらサボリオスのところへ向かっていたのだが、その途中の峠道でアンドレアスの手の者に捕えられた。彼を捕えると、捕縛してアンドレアスのところに送った。セルギオスはアンドレアスの姿を見ると、彼の足下にひれ伏して彼に温情を請うた。アンドレアスはセルギオスにこう言った。「お前が、マウイアスのところで自分に生殖器があることを自慢し、わたしのことを女々しい呼ばわりしたセルギオスならば、知るが良い。お前の生殖器はお前にはもはや無意味なものになり、お前に死刑を宣告するものになるのだ。」こう言うと彼の生殖器を切断するよう命じ、また彼を絞首刑とした。一方コンスタンティノスはファダラがサボリオス援護のために出撃してきたことを知ると、パトリキオスのニケフォロスにローマ軍を委ねて、サボリオスを攻撃するために送り出した。その頃サボリオスはアドリアノポリス*17小アジアにあった都市。正確な所在地は不明。バルカン半島の同名の都市(現在のエディルネ)ではない。にいたが、ニケフォロスが彼に向かって進撃してきたことを知ると、戦いに向けての準備を始めた。そしてある日、彼はいつものように騎乗して街から外へ出た。市門の近くまで来た時、彼は馬に鞭をあてた。すると馬が暴れて、市門に頭を強打して死んでしまった〜このようにして神は皇帝に勝利を与えたのだ。ファダラはヘクサポリスでこの知らせを聞き、途方に暮れた。そしてマウイアスに使者を送って、ローマ軍がひとつにまとまって迫ってきているために救援を要請した。(351)それでマウイアスは自らの息子のイジド*18ムアーウィアの後にカリフとなるヤジード(1世)。ヤジードはおそらくこの時、短期間コンスタンティノープルを包囲した。に、蛮族の大軍を委ねて派遣した。双方の軍はカルケドンまで進んで多くの人々を捕虜とした。またフリギアのアモリオンを制圧して5000人の兵士を守備隊として残し、シリアに撤退した。冬になってから皇帝はクビクラリオスのアンドレアスを送り、彼は雪深い夜に到達した。そしてはしごを使って城壁に上り、アモリオン市内に侵入した。5000人いたアラブの兵士全員を殺し、ただの一人も生き残ることができなかった。
 この冬、エデッサで洪水が起きて多くの人々が犠牲となった。また天に徴が現れた。


6160(667-668)
コンスタンティノープル総主教:ヨハネス、治世6年間
660. 27. 13. 1.*4冒頭に西暦(正確ではない)が記載されている。

 この年コンスタンス帝がシチリア島のシュラクサの、ダフネという名の浴場で殺された。この原因は以下の通りである。彼は自らの兄弟のテオドシオスを殺してから、ビュザンティオンの市民たちに嫌われていた。さらに彼はいとも聖なるローマ教皇であるマルティノスを不法にコンスタンティノープルに連行し、ケルソンのクリマタに追放した。また学識高き証聖者マクシモスの舌と腕を切り、彼自身の異端に賛同しないという理由から正統信仰を持った多くの人々に暴行を加えたり、追放刑や没収刑に処した。また証聖者・殉教者であるマクシモスの弟子である2人のアナスタシオスに拷問を加えて追放した。こうした行為ゆえに、彼はすべての人々からひどく嫌われていたのである。それで皇帝は恐れをなして、宮廷をローマに移そうと考えた。もしクビクラリオスのアンドレアスと、コロネイアのテオドロスが止めなかったら、彼は皇妃と3人の息子をも連れていこうとしていた。彼はシチリア島に6年間いた。皇帝は、トロイロスの息子で彼の従者であったアンドレアスを伴って、上述した浴場に入った。石鹸で洗っていた時、アンドレアスは小さな壺を持ってそれで皇帝の頭頂部を殴りつけ、すぐに(352)逃げ出した。皇帝は浴場に放置され、外にいた人々が中に飛び込んだ時には、皇帝は死んでいた。それで彼を葬ると、アルメニア人のミジジオスを強引に皇帝にした〜彼が非常に見栄えがよく、秀麗な人物だったからである。コンスタンティノスは彼の父親の死の知らせを聞くと、大艦隊とともにシチリア島に遠征してミジジオスを捕らえ、父親の殺人者たちとともに彼を殺した*19最近の研究によると、コンスタンティノス4世のシチリア遠征は672年頃。つまりミジジウスはそれまでシチリア島で帝位にあったということになる。。西方の状況を回復させると、(コンスタンティノスは)急ぎコンスタンティノープルに帰還し、自らの弟であるティベリオス&ヘラクレイオスとともにローマ人を統治した。*20写本によっては、以下のような記述が続く。「コンスタンス帝がシチリアにいたとき、ミジジオスが他の者たちとともに皇帝に刃向かい、浴場で彼を殺した。皇帝(コンスタンティノス4世)はミジジオスや彼の支持者といった暗殺者たちに復讐し、彼らを斬首した。そうした人々の中には後に総主教となるゲルマノスの父親でパトリキオスのユスティニアノスもいた。ゲルマノスも手荒く去勢された。」

*1:6145年までは、アレクサンドリア総主教の治世何年目かも表記されている。
*2:ヘラクレイオス帝が没したのは641年2月と思われる。
*3:ここで書かれている在位期間は正確ではない。また現在ではコンスタンティノス3世は毒殺ではなく、病没の可能性が高いとされている。
*4:冒頭に西暦(正確ではない)が記載されている。
*5:このコンスタンス2世の演説に関しては、渡辺金一『コンスタンティノープル千年〜革命劇場〜』岩波新書、1985年でも訳出されている(136頁)。
*6:ヴァレンティノス。旧アルメニア王家(アルサケス家)出身とされる。641年にコンスタンス2世を擁立・支持してマルティナやヘラクロナスを追放させた黒幕と思われる。娘をコンスタンス2世に嫁がせた。
*7:ヘラクレイオス一門でおそらくコンスタンス2世のおじ(母親の兄弟)。エクサルコス(総督)を努めていたカルタゴで帝位を僭称した。
*8:アルワード島。シリアの、大陸に非常に近接した場所にあった島。
*9:6157年に言及されるアパメイア主教と同一人物?
*10:ヘラクレイオス帝の兄弟。
*11:アルメニアの有力貴族で、おそらくこの時期にアルメニア方面軍長官も務めていたテオドロス=ルシュトゥニのことと思われる。
*12:コンスタンス2世は実際には、653年後半にアルメニアまで遠征をおこなっている。
*13:「テッサロニケ(Thessalonike)」を"thes allon niken"と解すると「他の者に勝利がもたらされる」となる。
*14:いわゆる「マストの戦い」。近年、654年にアラブがコンスタンティノープルを海陸から攻撃したことが明らかになったため、その攻撃との関連(コンスタンティノープル攻撃の後か前か、など)が議論の的になっている。
*15:「スラヴ人の土地」の意味。バルカン半島の、ビザンツ帝国の実効支配が及ばない地域のこと。
*16:「アナスタシオイ」は「アナスタシオス」の複数形。マクシモスにはアナスタシオスという名前の有力な弟子が2人いた。6160年の記述も参照。
*17:小アジアにあった都市。正確な所在地は不明。バルカン半島の同名の都市(現在のエディルネ)ではない。
*18:ムアーウィアの後にカリフとなるヤジード(1世)。ヤジードはおそらくこの時、短期間コンスタンティノープルを包囲した。
*19:最近の研究によると、コンスタンティノス4世のシチリア遠征は672年頃。つまりミジジウスはそれまでシチリア島で帝位にあったということになる。
*20:写本によっては、以下のような記述が続く。「コンスタンス帝がシチリアにいたとき、ミジジオスが他の者たちとともに皇帝に刃向かい、浴場で彼を殺した。皇帝(コンスタンティノス4世)はミジジオスや彼の支持者といった暗殺者たちに復讐し、彼らを斬首した。そうした人々の中には後に総主教となるゲルマノスの父親でパトリキオスのユスティニアノスもいた。ゲルマノスも手荒く去勢された。」

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