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2015年度研究会報告

「暴力からの人間存在の回復研究会」研究会(2015.10.17)

テーマ メルロ=ポンティにおける愛の諸相――病理と疎外
報告者 酒井 麻依子(立命館大学大学院)
報告の要旨

 メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908 -1961)の人間的他者に関する議論は一般的に、異質な他者の存在があらかじめ排除された穏当な共存を描いているものであると考えられている。
その捉え方はある面では正当でもあるが、彼の他者論はそれだけにとどまらない。
メルロ=ポンティ他者論の中で「暴力」的要素を含んでいる主題の一つが「愛」の議論である。
メルロ=ポンティにとって「愛」の問題は、前期の『知覚の現象学』に始まり、中期「ソルボンヌ講義」(1948-52)、後期の「個人的および公共の歴史における制度化」講義(1954-55)にも見られる。
そこで論じられている内容は多様であるが、本発表では特に「幼児の対人関係」および「感情の制度化」における愛の議論を扱う。
ソルボンヌ講義「幼児の対人関係」(1951)においては「アバンドニック」という病理が言及されている。
これは患者が、実際に捨てられたか置き去りにされたという経験を持つかどうかに関わらず、常に不安を抱き、愛されているという保証を飽くことなく求めるという形の神経症であり、メルロ=ポンティはこの病理を幼児の「取り込もうとする愛amour captatif」に重ね合わせ、物体のような確実さのない愛をどのようにして信じられるのかという疑問に答えようとしている。
年代が下って、制度化講義「感情の制度化」(1954-55)においては、プルーストの『失われた時を求めて』の中での愛が分析されている。
自分の手中に収めることのできないもの――相手自身の過去や密かに付き合っている愛人たち――への嫉妬によって刺激されるときにのみ、瞬間的に感じられ、相手の死によってはじめて確実なものとなるような「愛」は果たして愛なのだろうか。
興味深いことに、メルロ=ポンティはこの問いに肯定的とも取れる答えを出す。
この「感情の制度化」の愛の議論において、鍵概念になるのは「疎外aliénation」である。
ここでいう「疎外」とは他者によって自己が浸食されること、あるいは他者に自分を捧げることであり、他者を「所有」することと対置されている。
以上述べたような、愛を巡る「病理」と「疎外」という二つの事例を分析することで、発表者は愛というものがいかに「回復」されるかを示したい。
そしてメルロ=ポンティにとっての「疎外=自己の譲渡」の分析を通じて、原初的な共存の議論および他者構成の議論にとどまらない彼の他者論を示したいと考えている。

テーマ 人間たちの平和――メルロ=ポンティの戦後
報告者 川崎 唯史(大阪大学大学院・日本学術振興会特別研究員)
報告の要旨

本発表の目的は、第二次世界大戦直後のメルロ=ポンティにおいて、平和がどのように構想されていたかを明らかにすることにある。
メルロ=ポンティはしばしば、幼児の対人関係に基づいて他者との平和な共存を前提し、暴力の問題を二次的なものと位置づけたとして批判されてきた。
こうした批判は『知覚の現象学』や『見えるものと見えないもの』といった哲学的な著作についてなされるが、他方のいわゆる政治的なテクストはほとんど考慮されていない。
本発表では、前者と後者を統合的に考察することによって、社会的な生の概念に関する批判に応じたい。
 まず、平和な対人関係の根本性を主張していると解されてきたテクストを再検討し、こうした解釈が一面的なものにすぎないことを示す。
さしあたり、『知覚の現象学』の「他者と人間的世界」の章と、「幼児の対人関係」講義の全体的な構図を把握することが問題となる。
平和な共存を主張するかに見える文言が、当該のテクスト全体においていかなる位置価をもつのかを知ることで、その主張に付された限定や留保が明らかになるからである。
 次に、『知覚の現象学』と『ヒューマニズムとテロル』を社会的な生の観点から検討し、別々に扱われることの多い二著作に通底する構想に光を当てる。
それは、歴史という全体性の中に否応なく組み込まれた人々の社会的な経験に備わる形而上学的(本質的)な構造を解明するという目論見であり、とりわけその根源的な暴力性を露呈させるという企てである。
両著作における「歴史」や「間主観性」といった概念の用法に注目することで、この構想を顕在化できると思われる。
 次いで、『意味と無意味』に収められた政治に関するテクスト(とりわけ「戦争は起こった」)に取材して、歴史における暴力の具体的な記述を検討する。
ナショナリティのような社会的性質に自己が疎外されるという経験や、未来の予見不可能性といった、『知覚の現象学』では表立って論じられることのなかった社会的な生の諸側面が主題化されていることが確認できる。
歴史という次元が組み込まれることで、平和に対する暴力の優位が与えられるのである。
 最後に、このように先行きが不透明であり人々が相互に暴力を振るわざるをえない社会的な生において、メルロ=ポンティがいかなる回復の希望を見出したのかを考察する。
平和を当然のものとする戦前の楽観的な哲学に抗して、世界大戦に極まる偶然的で無意味な「没理性の経験」を所与とした上で、「実効的自由」や「現在の解読」という概念とともに、超越的な力なしに地上の人間だけで作られる困難な平和が展望される。  

テーマ 責任は無限か――レヴィナスの制度論における主体性について
報告者 松葉 類(京都大学大学院・日本学術振興会特別研究員)
報告の要旨

 本発表でわれわれは、エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Levinas, 1906-1995)の重要なモチーフのひとつである、いわゆる「他者への無限責任」が、彼自身の制度論においていかなる位置づけを得るかを検討したい。
レヴィナスの述べるところによれば、世界内において自己の権能を行使し、糧を享受しjouir、所有しposséder、また、自分に対するものを知的な仕方で把握するcomprendre主体は、主体の権能を超えるものである他者と出会うことによって、必然的にその権能を問い直される。
この他者との出会いによる主体の権能の問い直しは、他者の「呼びかけappel」に対する主体の「応答réponse」として図式化される。
こうして他者へ応答するrépondre主体のあり方こそが「責任responsabilité」である。
この責任は、有限なfini主体を問い直す、主体の外部、すなわち無限なものl’infiniへの責任であり、享受し、所有し、把握しえない他者に対する、主体のあり方である。
この限りなき責任こそが、レヴィナスのいう「他者への無限責任」である。
一方、制度においては、人格は人格間の「相互性réciprocité」や「同等性égalité」において裁かれる。
なぜならそこでは、単に主体が他者と出会うことのみが問題になるのではなく、そのほかの人間、すなわち「隣人の隣人」が同時に問題となり、これらの他者たちを比較することによって、それらの関係を客観化、平準化する、外的な視点がもたらされるからである。
この視点の下では、諸人格は一市民citoyenとして同等であり、その限りでおのおの責任は比較されることとなる。
これを本発表では「制度における有限責任」と呼ぶ。
 だが、われわれは実のところ、つねに様々なレベルで、広い意味での「制度」の下に生を営んでいるはずである。
だとすると、無限責任を負った主体は、同時に、制度においてはつねに同等な人格間の中の一人として、その制度が定める限りで、この責任を負うことになる。
つまり、ここで「他者への無限責任」と、「制度における有限責任」とがいかなる関係にあるのかが問題となるのである。
 われわれはまず、この問題をレヴィナスのテクストにおいて素描し、さらにこの問題に応答する議論を検討する。
そのことによって、「他者への無限責任」と「制度における有限責任」とが、それぞれレヴィナスのいう責任の欠かせない両義性であるとともに、その両義性は「裁き」の場において特異的な意味をもつということが示されるであろう。

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