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<懐かしの立命館>立命館中高 北大路校舎誕生物語 第1部 広小路から新天地北大路へ

  • 2017年09月19日更新
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1部  広小路から新天地北大路へ

はじめに

立命館中学校・高等学校が京都法政大学の付属校として設立されたのは1905(明治38)年910日、今年(2017年)で創立112周年を迎えます。その歴史の中で66年間と最も長く生徒たちの成長を見続けてきたのが北大路学舎(19228月~19887月)でした。そこに学んだ最後の学年(当時、中学1年生)も今では40歳を超える年齢になりました。

この北大路学舎でシンボルとなっていたのが南校舎でした。1964(昭和39)年9月、東京オリンピック開催の前月に竣工して、その後、1988(昭和63)年の深草移転までの24年間にわたり「新館」と呼ばれていました。 

 

写真1 北大路校舎 全景 1964年(南館竣工記念)


北大路学舎で生徒たちの生活の中心であったのは北と東の校舎棟(普通教室)でした。この校舎が、それまでの木造2階建から鉄筋コンクリート3階建に建て替えられたのは今から80年前の1937(昭和12)年6月で、戦争のなかで誕生し、昭和時代が終わるまで校舎としての役目を果たし、生徒たちの成長を見守ってくれたのでした。


1.北大路学舎への移転

1905(明治38)年に中学校が設立されてから17年目の1922(大正11)年、立命館中学は新天地への大移転を行いました。それまで広小路にあって大学(夜間)と校舎を共用していたのが、大学が大学令により正式に大学へ昇格するに伴い、昼間も学生の授業で校舎を使用しなければならなくなったことと、中学校の生徒数増で校舎が狭隘になったことが移転理由でした。

 

 

写真2 北大路新校舎の校庭と生徒(その向こうに聳えるのが比叡山)

 

新校舎の所在地は上京区小山上総町(現在は北区)で、移転の20年ほど前には愛宕郡上賀茂村字小山と呼ばれていた広大な田圃地帯でした。東南に真宗大谷大学(現大谷大学)、西南に師範学校(注1)がありました。校舎が建てられてから運動場の狭いことに気付き、同窓会である清和会が慌てて田二反(約20㌃、50m×40mの広さ)を購入して寄付することにしたのでした(注2)。運動場の東側には周辺の田に水をひくための小川が流れ水車を回していました。周辺には建物がなく、春には黄色い菜の花が木造校舎をつつみ、空気は澄んで常に涼しい風が教室から青田へと吹きぬける好適地でした。校舎2階の廊下に立てば、比叡山や植物園、鴨川は校庭の一部のように眺められ、教育環境としては理想的な地でした。

ただ残念なことに、路面電車である市電の烏丸線は1923(大正12)年10月に京都駅から上総町(後の烏丸車庫前)まで全線開通しましたが、北大路通りは開通していなかったため、生徒たちは長い距離を徒歩で通っていました(注3)。

 

2.北大路学舎での発展

1905(明治38)年に、立命館中学は、小西重直学監らによる自由教育の実践と充実が成果となって現れるようになり、勉学面のみならず、運動面でも飛躍的な活躍を果たすこととなりました。

野球部や相撲部は全国大会で活躍し、庭球部や陸上部なども目を見張るものがありました。と同時に、大正期から昭和期にかけて、北大路学舎とその周辺も大きく変貌をとげていくことになりました。 

北大路学舎ができた頃、烏丸今出川から以北は徒歩以外に通学の手段がなく、洛北小山の里には狐や狸が棲むといわれていました。それが1931(昭和6)年、幅員十三間(約24m)の当時としては大道路である北大路通りが正門前の東西に開通し、12月には電車まで走ることになりました。これによって北大路通りは市街地を走る道路として期待されるようになり、学校周辺も急速に開発が進み住宅街が出来上がっていきました。そのために諸設備や上下水道の増設のみならず、学校としては周囲を仕切るための障壁や校舎の修理、生徒の増加に伴う教室の増築など多くの課題が山積することになりました。

 


  写真3 昭和8年正門からの校庭と校舎(正門前に立つのは市電のための電柱

 

3.校舎建て替えの必要性

「遠からずして学校はその外観設備を一新して、北大路通りの一角に堂々たる壮容を誇示するに到ると思ふ」、1931(昭和6)年に塩崎達人校長が予言した(注4)とおり、田畑の真ん中に木造校舎が建設されてから15年ほどで、立命館中学は建替えられることとなりました。その改築には二つの大きな理由がありました。
   (1) 入学者数減少対策

立命館では当時の社会情勢に応える目的で1929(昭和4)年に商業学校を設立しました。しかし、この年10月に皮肉にも世界恐慌が起こり、その猛威 は日本にも厳しく押し寄せ、立命館の中学校と新設間もない商業学校両校にも影響は深刻に現れました。それは、共に150名の募集に対して志願者と入学者が次のような数字であったことからもわかります。

 

募集定員に対して入学者が半数以下という状況によって、教職員の生活まで圧迫されることになりました。これは他私学も同様で、入学者をいかに確保するかは当時の私学にとって最重要課題となったのでした。
 この対応策として立命館ではいくつかの改修や改善が行われました。授業の開始終了を伝える時鐘はそれまで教会式の点鐘だったのを電鈴式ベルに改められ、自転車置場が拡張整理されました。また、この年から体育正課として剣道が採用されたことで、剣道専用道場になりました。道場内部には、西園寺公筆の扁額が掲げられ、その下中央には禁衛隊旗(立命館禁衛隊は19277月に結成)と左右に校旗が立てられました。また、従来の銃器庫が木骨煉瓦とされました(注6)。

当時の日本の学校教育は、特色ある教育で他校に差をつけられるほどに進んでいなかったので、校舎の建て替えなどの外観で目を引くことが、最も簡単な方法であったのでしょう。

こうして、1933年(昭和8)年12月から中学・商業両校の講堂が新築工事に入ります。この工事経費は7千円以上にのぼり、当時の学校財政としては大変苦しいものであったため、大学二階建旧講堂百坪の木材を利用してこれに拡張が加えられて、1月中に竣工し、211日の紀元節の日に落成式が挙行されています。この講堂では両校生徒全員が一同に会し、清和会総会も将来的に開かれるという予定でした。

 

写真4 旧校舎 校庭での剣道(昭和初期)

 

(2) 強固な校舎対策

もう一つの理由となったのが、1934(昭和9)年921日に京都市内を直撃した室戸台風でした。「昭和の三大台風」と言われるこの台風は、午前8時半ころに京都市内での最大瞬間風速42.1/秒の猛威をふるい、京都市内の小学校では児童112名教員3名の死者をだし、倒壊13校、大破38校という京都の災害史上最悪の被害を残したのでした。(注7
 この被害をうけて、京都市内の公立小中学校では鉄筋コンクリートへの改築の必要性が急速に広がっていき、京都市もそのための予算化を急いだのでした。また、校舎周辺の開発が目覚しく近接地に木造家屋の密集的建設が進み火災の不安も高まってきました。

立命館の学園関係者もこのことを痛感していて、翌年が学園創立35周年でもあったことから、この記念行事の一つとして北大路校舎の建替え計画が具体的に進行していくことになりました。

 

(3) 将来を見通した対策

これら(1)(2)に加えてさらに重要な位置づけをされていくのが、戦時態勢への学校としての役割でした。1925(大正14)年に陸軍現役将校学校配属令が公布されるや、立命館ではすぐに申請書を提出しています(8)1931(昭和6)年9月に満州事変が勃発しましたが、その翌年のカリキュラムでは、1年生から5年生までで週5時間(30時間~35時間の授業時数)の体操・教練(軍事教練)が新設されました。

軍事教練を率先して取り入れていた立命館では、その鍛えられた姿を広く市民へ誇示する場を設けていきます。1935(昭和10)年101112日には、授業の中で当時の府下の学校に配属されていた将校、学校の教練担当教員など100名以上が招待されて、軍事教練の成果を防空演習として実施されました。敵機空襲を想定して実物に近い高射砲、高射機関銃、聴音機などを駆使しての訓練で、京都府下では最大規模の演習として高く評価されました。立命館中学校・商業学校は全国でも有数の軍事教練の学校に発展していくことになり,皇室中心主義の教育を進める学校として新聞にも紹介されたのでした(注9)。

こうした実践を進めることと新校舎の建設とは、その後の生徒募集にとって大きな広報活動の役割を果たすこととなっていきました。


写真5 校庭で御所に向かっての遥拝(昭和初期)


  写真6 全校生徒による旧校舎校庭での行進練習(昭和初期)



 2017年9月19日 

立命館史資料センター 調査研究員 西田 俊博

 

1:現在は京都教育大学附属京都小中学校と京都府立清明高等学校(以前は紫野グラウンドとして立命館中高と京都府立鴨沂高等学校とで府から借用していた)

2:第2代立命館清和会会長木村嘉一氏「立命館とともに」(立命館中学校高等学校『八十年の歩み』p.2  1985年)

   「校舎が建てられたが、運動場が狭いのに気付き、清和会が田、二反を購入して寄付することにしました。坪五円で金額三千円であったが、二千円は直ちに集まったものの、残り千円は五ヵ年計画で集めることにしました。そうすると清和会は寄付を集める会となって、皆が集まらぬ様になる恐れがあるということで、其の千円を免除してもらう様、中川先生にお願いにいきました。先生は、学校で代金は支払ってあるから心配はいらぬ、それでよいとおっしゃいました。」 

3:『日出新聞』 大正11423日付(日出新聞は京都新聞の前身)

   「同館中学部が洛北に地を相して移転準備に取掛つて居る事は既報の如くであるが、都市計画の着手順序が変更されて烏丸線が第一期に廻されたお陰で急に至便の地になり、本年の二学期から三年以下を新校舎へ移転するに就いても電車開通が眼の前に見えて居るから甚だ好都合と関係者は喜んで居る」

  『日出新聞』 大正1197日付

    「只恨むらくは交通の便に乏しいが『郊外の空気を呑吐しながら田畑の間を歩くは身体の為に良い』と体操教師などは反って喜んで居る位」

4:塩崎達人「北大路線の開通に伴うて」(『立命館禁衛隊』第22号 昭和611月発行)

 注5:『立命館百年史 通史一』 p.558「学事年報」「京都府公文書」

 注6:『立命館禁衛隊』 第39号(昭和812月) p12 

 注7:『日出新聞』 昭和9921日付

 注8:官立、公立には将校が配属されることになっていたが、私学は学校判断によるものとされていて、申請をすることになっていた。財団法人立命館では代表理事末弘威磨の名で文部大臣と陸軍大臣宛に公布された1925330日に申請がされていた。

9:『京都日日新聞』 昭和11122日付(京都日日新聞は京都新聞の前身)


第2部は、こちらの記事をご覧下さい。

<懐かしの立命館>立命館中高 北大路校舎誕生物語 第2部 昭和の時代を見届けた鉄筋校舎

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