立命館あの日あの時

<懐かしの立命館>戦後立命館の原風景 末川博学長誕生までの35日間 後編

  • 2020年07月28日更新
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戦後最初の理事会は何を決めたか

1945(昭和20)年914日(金)、午後2時から中川会館総長公室で、戦後最初の理事会が開催されました。この理事会では、民主主義教育の改革に着手することを確認しました。


「敗戦後、日本の国内情勢は行き着くところ民主主義の線に沿いて大転換した。本学園においても旧来の教育方針を打破し、時局に即応して民主主義教育を基本とする学園の改革に着手することを確認し、寄付行為の改正、立命館大学学則並びに立命館専門学校学則を鋭意改正する。」(12)

この確認にもとづいて立命館東亜研究所、立命館国体学研究所、立命館国防学研究所、日本刀鍛錬所の規定が廃止され、研究所及び日本刀鍛錬所はなくなりました。

 

この頃、石原廣一郎理事長は(1945年)919日(水)から930日(日)頃迄、ほとんど立命館に出勤して、学生の動向、教授の姿、学園財政内容など学園の状況をみながら「戦後の立命館の経営方向を見定めて」いました(13)。同時に、その改革を推進する学長を誰にするかも思案していました。10年後、石原はその時の胸中を次の様に語っています。

  

先ず第一にやらねばならなかった事は、立命館を進駐軍(GHQ)の手からいかにして守り、その存続を図るかということであり、第二は従来簡単に教学部門と経営部門が融合していたのを明確に分離するということであった。その第一の仕事として進駐軍との関係、そして立命館の存続ということを適切に処理するためには適当な学長を大阪市大におられた末川先生を10月頃から私の胸の中で選定していた。」(立命館校友会誌『立命』)


  末川博学長誕生までの35日間(昭和20103日~116日) 

石原廣一郎理事長が胸中に秘めていた末川博学長が、誕生するまでの35日間を追ってみました。


戦後立命館の原風景-3

就任の頃の末川博学長(末川博名誉総長)


1945(昭和20)年103日(水)、岡崎天王町。この日、岩根精一宅で石原廣一郎、末川博、岩根精一が会食します。石原廣一郎が初めて末川博が立命館学長にふさわしいかどうかを意識したのは、この岩根家での会食の時からではないかと考えられています。 

石原は岩根が娘婿にあたることから、時折、気安く訪ねていました。また、岩根家から近くの同じ岡崎福ノ川に末川が住んでいることも知っていました。石原は岩根家に行き、その足で末川を訪ねることも時折あったといいます。岩根は、この会食の時に末川を学長にふさわしい人物として推薦しました(14)。岩根の息子の岩根友一郎氏はこう話してくれました。


「父は、1930年京都帝国大時代に末川先生の指導を受けた師弟関係にあり、末川博をよく知り、尊敬していました。家(岩根家、左京区天王町)も近かったこともあって家族ぐるみで交流していました。私の母は石原の娘で、父にとって石原は義父にあたります。石原は、私の母が自分の娘ということもあって、よく私の家を訪ねてきました。


よくお土産など持ってくるのですが、覚えていることがあります。当時、ご馳走だった焼き肉用の肉をもってきたので、てっきり我が家に持ってきたものと思ったら『末川先生のところに持っていくお土産だ』と言われ、残念だったことがあります。でも、わたしはついて行って、ちゃっかりごちそうになったりしたがね。それくらい石原は末川先生と親しく交流していました。」


父の方も親しい叔父である本庄栄治郎から、大阪商科大学の次期学長候補は、末川博か恒藤恭のどちらかを考えている、との話を内々聞いていたので、岩根家で三者懇談した時に、末川先生を学長に推薦したのだろうと思います。(「岩根友一郎氏のインタビュー」 2019年7月24日(水)14:00~15:00岩根友一郎氏の自宅にて)


 10月7日(日)   中川小十郎一周忌 等持院。この日、創立者中川小十郎一周忌法要が、天龍寺塔頭等持院で営まれました。出席した石原は、理事長として腹案として固めつつあった学園改革基本方針を中川小十郎の墓前に報告しました(15)

10月16日(火) この日、石原は末川の自宅を訪ね2度目の会談をします。この時の二人でどんな話がされたのか資料は残されていませんが、末川は学長の依頼を辞退しています。

1021日(日) この日の午後。石原は再び末川の自宅を訪ね、立命館学長依頼の話を切り出しました。当時の末川の日記にも「石原が(立命館大学)学長の話をした16)。」と記されています。この会談でも末川は学長の依頼については辞退します。

1023日(火) この4回目の会談は岩根宅で行われました。すでに3回の会談で石原の意向は伝わっていましたが、末川は再び辞退をします。しかし、石原の熱意が末川を煩(わずらわ)し悩ませます17)。

1026日(金) 5回目の会談が岩根宅で行われました。この日、対談でも末川は再び辞退しますが、石原はそれでも強く懇望します。


この間、石原は末川学長の実現に向けて動いていましたが、一方で、石原は学園改革基本方針を固めるため、1018日(木)より28日(日)頃まで、教授、学生達と会談し、意見交換をした上で学園改革基本方針案を固めていきました18。この両方の動きが、いわば戦後立命館の改革の試みでした(19)

1029日(月) この日、石原は理事長室で執務をおこなっていました。そこに松井元興学長がやってきて辞表を石原に提出します。石原は、松井学長の労に感謝を述べた後、こう述べました。

「先生(松井学長)の言われたように、若手の立派な後任者を選ばねばならぬ。(中略)いろいろな角度から学長としての人物を物色してみたが、この場合、法学博士 末川博氏が最適任者と見るべきだ。」20

その日の夕刻、石原は不退転の決意で、岩根宅を再度訪問し、末川に学長就任を懇願しました。ようやく末川も「在籍中の大阪商科大学が(私の)辞任を承諾すること」を条件に内諾しました。末川から返事を聞いた石原は安堵して、持ってきた大きな風呂敷に入った書類を末川に渡しました。渡された末川は、緊張しながら11枚を確認し説明を受けました。この時の様子を岩根友一郎氏は鮮明に覚えておられ、語ってくれました。

「この日のことはよく覚えている。末川先生が内諾の返事をしたことも、石原が大きな風呂敷に入った書類(理事会関係書類ではないかと思う)を末川先生に手渡したことも覚えています。わたしは、そばにあったピアノの椅子に座り、体をゆすりながら見ていました。末川先生は書類の11枚を丁寧に確認していました。今から考えると、その書類は理事会の文書であり、石原廣一郎と末川博の引継ぎではなかったかと思います。わたしは子供ながら何か非常に大事な儀式に立ち会っているように思いましたし、後になって、こうして立命館は引き継がれたのだと思いました。」 (前掲 岩根友一郎氏へのインタビュー)

1030日(火)末川に内諾を得た翌日、石原は、大阪商科大学学長 本庄栄治郎を訪問し、末川博に立命館の学長を内諾してもらったことを報告し、承諾をお願いしました。それを聞いた本庄学長は「明日(31日)の教授会での同意」を条件に諒承しました。

1031日(水)開催された大阪商科大学教授会では、末川の辞任が承諾されました。教授会終了後、末川に本庄学長から「教授会の同意を得た」との連絡が入りました。同時に、石原にも本庄学長から同旨の電話が入りました。まさに絶妙のタイミングで、大阪商科大学教授会の同意を得ることができました。

11月1日 (木)  緊急理事会が開催され、石原理事長から学園基本改革案が理事会に提案され決議されましたが、この緊急理事会では石原は「末川学長の事は未だ何人にも話さず、私一人の心中に納めておいた」と、末川博の学長推薦は行いませんでした。しかし、すでに腹を決めていた末川は、この日、義父である河上肇(21)に立命館大学学長の件を報告しました(22)。河上肇は、かって末川博が滝川事件で京都帝国大学を去る時に、獄中から「大学(京都帝国大学)はコタツですから、思い切ってコタツから出て、寒中雪の中をとび廻るのも、結局愉快であるかも知れません(23)」と、末川の行動を励ましたが、その「寒中雪の中」に今また飛び込もうとする末川を励ましました。

既に腹を決めていた末川の自宅へ取材に来た新聞記者に対し、末川は私学に対する期待をこう語りました。

   

「官立大学に研究の自由、大学の自治は期待出来ない。欧米の大学、権威ある大学は殆どが私学である。私学においてこそ学問的良心に反しない研究が求め得られるものだと信じている。」(24)


112日(金) 11月に入って、京都帝国大学も末川博を総長にと動き始めました。石原の知人である京都帝大教授 石原藤次郎博士が、石原宅を訪ね「末川先生を京都帝大総長にしたい」と相談を持ち掛けてきました。応対した石原は、石原博士に「末川先生は、すでに立命館大学の学長に内定している」と伝えました。この時の様子を後日、石原はこう語っています。

「話が末川先生立命館招聘のことにふれると、相手はびっくりして『そんなことなら京大は大変だ。3日前の教授会で京大に来てもらうよう話が決定、明日あたり文部省の内定を得るため東上しようと思っているところだ』という話に、こちらも驚き、はしなくも京大と取り合いになった。このことは京大に帰っても、いわないで欲しいと口止めした。」(前掲立命館校友会誌『立命』)

113日(土) 翌日、京大事件で一緒に辞職した佐伯千仭先生、大隅健一郎先生が石原に「末川学長内定の再考について」依頼しましたが、石原は「末川先生は立命館大学学長に内定している」と言って頑として応じませんでした。


11月6日(火)   午後1時。この日の理事会に、石原は正式に末川博を学長に推挙しました。理事会は、満場異議なしとして承認されました。この日、正式に立命館大学学長 末川博が誕生しました。この理事会は、戦後の立命館学園の改革基本方針を決議し、末川博学長を決定するという戦後学園改革の大きな1歩でした。

 この日が、戦後の学園改革の基本方針と新学長誕生の瞬間でした。後に、石原はその時の様子を回顧してこう語っています。

「午後1時から理事会を開いた。そして、末川先生の紹介も終わった3時頃になって『実は今朝、私は戦犯として逮捕状が出されています』と席上、発表したところ、みんな驚いていたのを想出す。(中略)末川新学長就任に至る経過であるが、想えば私の独断の下に、京大鳥飼学長や、本庄栄治郎教授等との末川現総長の奪い合い、そこに私の戦犯逮捕と二重、三重の波紋の中に劇的な時間の流れに乗って、立命館大学の危機を乗り切ることができたのである」(前掲 立命館校友会誌『立命』)

一方、末川は同じ日の午後、立命館理事会、評議会に正式に推挙されることを知っていたため、大阪商科大学 本庄学長に辞表を提出し、滝川事件以来の盟友ともいえる恒藤恭25といっしょに帰りました。26 その後、末川は戦後最初の立命館大学学長として、恒藤は大阪商科大学(現在 大阪市立大学)学長として活躍しました。

                                          

末川博学長は就任直後、学生たちに何を伝えたか

末川は、理事会、評議会での決定を確認して117日(水)に大阪商科大学を正式に辞職しました。

11月14日(水) この日、理事会が開催され、文部省の認可もおり、新学長に末川が決定しました。これを受けて、末川は決意をのべました。残念ながら、決意表明の資料は見つかっておらず、第一声を確認することはできません。

しかし、新学長になってから、最初に学生たちに送ったと思われるメッセージは残っています27

  「この学園においては、理知をみがき道義を高めることが第一義である。そこで民主主義の本質的な要請である正しい自由と、それに伴う責任と規律とが、純真な学徒により実践的に訓練されなければならない。そのために私は、今後学生大会28は必要であると考える。わが立命館においては民主主義の理解のもとに、自主的な学生大会を開いて、政治的な訓練を受けるのは望ましいことである。こういう機会に、自由活発に、明朗に、論議し合って批判力を養い想像力を強める工夫をなすべきである」29

 

こだわった戦後立命館の原風景

戦後立命館の原風景には、人それぞれのとらえ方があるだろうが、末川学長(後に総長)の誕生は間違いなくその一つです。そこで、誕生の過程とその瞬間をとらえてみたくて、この調査をはじめました。調査を進めていくと、戦後立命館の志の原点が末川博学長誕生ストーリーにあるのではないかと思えてきました。この調査が少しでも立命館の不易流行を考える材料になれば幸いです。


 追記、この文章を書いている途中で、岩根友一郎氏がお亡くなりになりました。氏は、末川先生が、立命館大学の学長を決意したその瞬間に立ち会った最後のおひとりでした。お亡くなりになる数か月前、ご本人にインタビューすることができました。その中では『立命館百年史』でも記述されていない事実もお聞きすることができ、この文章を豊富化することができました。ご冥福をお祈りいたします。

 

                           (敬称略)  (了)

                2020年7月28日 立命館 史資料センター 調査研究員 斎藤 重



  注


(12) 1945年9月14日 財団法人立命館理事会は、敗戦後、民主主義教育を基本とする改革に

    着手することを決議し、立命館大学学則、立命館専門学校学則改正を鋭意改正することを

            決議しました。 

(13) 『石原廣一郎関係文書上巻 回想録』石原廣一郎著 赤澤史朗、粟屋憲太郎、立命館百年史編纂室編

            p229

(14) 『追想末川博』三国一の花嫁 藤谷景三 p158~p162

(15) 『立命館百年史通史一』 p76

(16) 『末川博日記』大阪市立大学所蔵 

(17)   前掲『立命館百年史通史一』p795

(18)   前掲『石原廣一郎関係文書上巻 回想録』p230

(19) 前掲『立命館百年史通史二』 p81 

(20)   前掲『石原廣一郎関係文書上巻 回想録』 p233

(21)   河上肇(かわかみ はじめ) 1879年10月20日 - 1946年1月30日)は、日本の経済学者である。

(22)   前掲『末川博日記』大阪市立大学所蔵

(23) 書簡「河上肇から末川博への書簡」 1933(昭和8)年8月23日付 

            義父である河上肇から末川博に送った手紙。大阪市立大学所蔵 

(24)   京都新聞 1945.11.7

(25)   恒藤恭(つねとう きょう) 1888年12月3日生、日本の法哲学者。

            大阪市立大学名誉教授。法学博士。戦前から日本の代表的法哲学者として知られています。

            また、京都帝国大学の滝川事件で辞任した教官の一人としても知られています。

(26) 前掲 『末川博日記』大阪市立大学所蔵

(27)   翌年の1946(昭和21)年2月28日の学生へのメッセージ。末川博学長の就任(1945.11.14)

             直後のメッセージは発見されず、このメッセージが現在では就任直近のものと思われます。

(28) 学生大会を学生自治の集約の場として重視する末川博の姿勢を示しています。

(29)  『末川博・学問と人生』兼清正徳著著 p136



 参考文献等


1 『立命館百年史一・二』 立命館百年史編纂委員会編 学校法人立命館発行

2   校友会誌『りつめい』第14号

3 『豊川海軍工廠』豊川市桜ケ丘ミュージアム 平成23年7月6日発行(パンフレット)

4 『石原廣一郎関係文書上巻 回想録』石原廣一郎著 赤澤史朗、粟屋憲太郎、立命館百年史編纂室編

5 『岡本恵夫日記』

6 『追想末川博』

7 『末川博・学問と人生』兼清正徳著著

8   記録 岩根友(とも)一郎氏へのインタビュー

       岩根友(とも)一郎氏は、岩根精一氏の御子息であり、岩根家での石原廣一郎と末川博の会談には

   度々同席しており、その当時の様子を克明に記憶しておられた。

      インタビューは、2019(令和元年)年7月24日(水)14:00~15:00、

   場所は山科の岩根氏の自宅にて行われた。

9   新聞 京都新聞 1945.11.7

10 資料『末川博日記』大阪市立大学所蔵

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