敗戦の1週間ほど前のことでした。1945年8月7日(火)、愛知県豊川市にあった豊川海軍工廠空襲で本学勤労動員中の学生4名が犠牲となりました。この空襲は午前10時13分頃に始まり、午前10時39分頃まで続き、その爆撃は15分ほどの間に連続して約3,200発もの爆弾が投下されるという言語に絶する激しいものでした。(1)
同じ頃、立命館大学の衣笠学舎で農作業(2)をしていたK教授は手を休め「もう日本はだめだね。もうすぐ戦争は終わるよ」(3)とぽっつり言われました。K教授の言葉通り、それから1週間後の8月15日(水)、日本は終戦を迎えました。その瞬間から立命館の戦後が始まりました。
終戦の玉音放送―その時学生たちは
1945(昭和20)年8月15日(水)、正午に終戦の玉音(4)がラジオ放送されました。
その時、学校に残っていた学生たちは、広小路学舎と衣笠学舎、北大路学舎(旧制立命館中学校)のそれぞれのキャンパスで、広小路学舎では正門前広場(=存心館前広場)で、衣笠学舎では理工学部校舎前で、北大路学舎ではグラウンドに整列して終戦の玉音を聞きました(5)。
玉音放送原稿(写)、官報号外(昭和20年8月15日 終戦勅書)
大河コレクション(立命館 史資料センター所蔵)
衣笠学舎で玉音放送を聞いた学生は、これからいかに生きるかを悩み、次のように書き残しています。
「昭和20年衣笠学舎前に整列し終戦の詔勅が下る。あの時の気持ちは卒業と同時に入隊、自分たちは生きられないと考えていたので、いかに生きるか、と友達4,5人で集まって討議、飯ものどを通らぬ日が1週間も続いた。」(『立命館百年史紀要』立命館卒業生の戦争体験 T・U 昭和20年専1機)
また、応召していた学生は終戦によって兵役を解放された喜びと復学後の学業に悩みます。
「ああ開放される、家に帰れる、大学に戻れると思いつつ、復員後、復学手続きをするため広小路に参りましたが、多くの学生の姿をみて正門前で足がすくんでしまいました。果たして二年間の空白(兵役による休学期間)で皆について行けるだろうかなど、次々と心配が重なり何とも言えぬ気持ちになりました。」(前掲 T・K〈昭和20年大1経〉)
勤労動員先の学生寮で玉音放送を聞いたB(昭和20年大1法)さんは、終戦に安堵しました。
「寮に帰り、正午の聞き取りにくい玉音の再放送を全寮生が集まって清聴した。まさか、の思いでしたが、何だか学生も教員も茫然とした境地のなかにもほっとした感じでした。総てが終わった。耐えに耐えた窮乏生活にも何とも言えぬ明るさと、やっとやってきた安堵感を噛み締める思いでした。」(6)
直ぐに始まった授業
政府は、玉音放送が行われた翌日8月16日(木)に文部・厚生次官通達「動員解除」を各学校に通知しました。1週間後には、学校教練、戦時体錬など学校における戦時体制が廃止(7)され、9月中旬までに授業の開始が通達(8)されました。この通達によって学校教育の再開は加速されました。1945(昭和20)年9月6日(木)、立命館は早くも授業開始通知を大阪朝日新聞に広告(告知)を掲載し、学園に戻ってくるよう学生たちによびかけました。
昭和20年9月6日付 大阪朝日新聞 掲載
1945(昭和20)年9月11日(火)に始業式が行われ、講義は9月17日(月)から始まり、1部(昼間部)は午前9時、2部(夜間部)は午後6時より再開されました。戦後最初の始業式で松井元興学長(9)は学生たちに次のように訓示しました。
「原子爆弾の威力は広島市の例によって明らかの如く、原子がものとなって人間の目に始めて現れる時、大なるエネルギーを発生する。かくの如く、科学と現物の威大なる力を見出すであろう。従って吾々は学術に於いても科学的に日常生活から新しく発せねばならぬ。我々科学人として、新日本人として、これまでの悪点を除き、敗戦そのものをも無駄にせぬ様にすべきである。又我々は必ず自分の専攻の科目に応じ一能に徹すると共に秀でてアジアの将来に深く思いを致さねばならない。」(10)
戦中・戦後を橋渡しした松井元興学長はこの1カ月ほど後に辞任(11)し、この後に戦後初の末川博学長が誕生します。
注
(1) 『豊川海軍工廠』豊川市桜ケ丘ミュージアム 平成23年7月6日発行(パンフレット)
(2) 1944(昭和19)年2月閣議決定「決戦非常措置要綱」にもとづいて立命館では農林課を新設し、
食料の自主生産に取り組むため、等持院校地(現在の衣笠キャンパス)を水田や農場に変えて
学校独自の勤労動員の場とされました。
立命館中学校校舎は㈱島津製作所三条工場第一兵器部の疎開工場となりました。
(3) 校友会誌『りつめい』第14号 文学部W教授の敗戦直後の回想
(4) 1945(昭和20)年8月15日正午の昭和天皇の肉声をラジオ放送した。
その内容はポツダム宣言を受諾し降伏するという内容であった。
(5) 『立命館百年史通史一』p44-48
(6) Bは大学本部から助手として引率監督を任されました。
(7) 8月24日 文部省通達「学校教練・戦時体錬・学校防空関係諸法令の廃止」
(8) 8月28日 文部省次官通達「時局の変転に伴う学校教育に関する件」地方長官・学校長宛
(9) 松井元興学長 松井元興は、1873(明治6)年福岡に生まれ、1941(昭和16)年2月に
立命館学長に就任している。
1945(昭和20)年10月29日に辞職。戦時下の立命館を支えてきた一人でした。
(10) 『岡本恵夫日記』は、岡本恵夫が昭和16年1月1日~24年2月17日までを綴った日記である。
岡本氏は昭和22年立命館専門学校1部経済学科を卒業し、昭和25年立命館大学1部経済学部を
卒業した校友である。この日記には、豊川海軍工廠での勤労動員の日々や空襲により4名の
学友を失ったことなどが綴られている。また、敗戦直後の立命館の様子などが綴られているなど
非常に貴重な資料です。
(11) 1945年10月29日 松井元興学長は石原廣一郎理事長提案の経営改革案を支持すると表明して
「私も進んでご協力すべきであるが、(略)敗戦後の日本再建には何といっても若い方の力を
待つよりしかたない。(略)適当な人をしてこの重職に当たらし頂きたい」と述べ辞表提出した。
石原廣一郎は同日の夕刻に末川宅を訪問し、末川博に学長内諾を得たのです。