前編で紹介した和田繁二郎の校務メモの昭和17(1942)年から19(1944)年4月までの記録です。【写真13】は昭和18(1943)年度の立命館第四中学校卒業アルバムのもので、前編で紹介した【写真1】と同年代ではあるが表情が険しくなっています。
和田メモ(ゴシック太字)に写真と「*」で補足説明を加えて、当時の付属校の日常を前後編に分けて紹介します。
【写真13】和田繁二郎教諭
昭和17(1942)年
1月8日(木)中商四年、観兵式
1月15日(木)国民学校長招待会
*中川小十郎校長の時代から年に一度は京都府下の小学校長を招待し学校や生徒の姿を広く紹介していた。
1月23日(金)減俸実施
*すでに立命館学園では長引く戦争に対して、昭和12年9月から日支事変への恤兵献金として、教職員は俸給5%を行っており、事変終結までの間、生徒にも月50銭の協力を呼び掛けていた(注14)。
*1月31日(土)立命館第一、第二中学校で計25学級増設決定(注15)
2月14日(土)中学四年 深草へ勤労奉仕
*2月15日(日)シンガポール陥落
2月16日(月)シンガポール陥落感謝のため上賀茂神社へ(全校)【写真14】
【写真14】上賀茂神社へ参詣
2月18日(水)第一次戦勝祝賀日、上賀茂神社へ(全校)
*3月10日(火)第二中学校校舎及び附属設備完成
3月12日(木)第二次戦勝祝賀日、上賀茂神社へ(全校)
3月27日(金)満州国総理歓迎式
*満州国建国10周年記念謝恩特派大使が立命館を来訪。立命館が満州国政府から多額の補助金を受けて日滿高等工科学校を展開させてきたことで、その視察に張景恵国務総理大臣一行が京都を訪れた。そのため、大学広小路学舎で禁衛隊も出席をして公式歓迎式を挙行した。中川総長の歓迎の祝辞が残されている(注16)【写真15】。
【写真15】大学の広小路学舎に入場する大使一行(先導は中川総長)
*3月31日(火)立命館中学校、名称を「立命館第一中学校」と改称、認可(2月3日申請)(注17)【写真16】
【写真16】昭和17年の立命館第一中学校正門前風景
4月7日(火)白川氏教務幹事(注18)【写真17】
【写真17】白川静教諭
4月18日(土)第一回内地空襲 羽栗賢孝、第一中学校長就任、認可
*この日、大型爆撃機B-25が16機の大編隊で東京、川崎、横須賀、名古屋、神戸に国内への初の空襲を行った。
4月20日(月)祝園部隊へ勤労奉仕
*祝園(現、京都府相楽郡精華町)にあった陸軍の祝園部隊に兵器補給廠があり、労働奉仕のために出向いた。
4月23日(木)宇治工廠へ勤労奉仕
*中川小十郎、夜間中学校長就任
5月22日(金)青年学徒に賜はりたる勅語記載日記念閲兵分列【写真18】
【写真18】校庭での分列式
*8月の閣議決定に基づき、学制を改めて制度上からその修業年限を短縮する措置をとることとした。中等学校で18年4月入学の生徒から修業年限五年を四年に一年短縮することとした(注19)。
8月4日(火)玉水滑空訓練奉仕
*玉水(現、京都府綴喜郡井手町)にあったグライダーの滑空場での奉仕活動。当時は、北大路学舎校庭にもグライダーが置かれていた。【写真19、20】
【写真19】立命館グライダー部(昭和18年中学校卒業アルバム)
【写真20】航空模型工作部のグライダーに機乗する羽栗校長
8月24日(月)幕営訓練【写真21、22】
【写真21】舞鶴での幕営訓練―宿泊テント
【写真22】舞鶴での幕営訓練(小休止風景)
*9月1日立命館中学校・商業学校教員で本学大学部在学中の学生に奨学のため授業料免除が決定。教員が不足していたので、このように教員となっている学生が何人もいた。和田教諭も立命館大学法文学部文学科国文学科の学生であった(注19)
9月18日(金)満州事変記念日行軍
9月28日(月)学校防空訓練【写真23、24】
【写真23】模型の高射砲による防空訓練(昭和11年頃)
【写真24】防災訓練
10月5日(月)体力章検定
12月7日(日)中学・夜学査閲
12月11日(金)陛下駐輦 徹夜警営【写真25】
【写真25】大学(広小路)に集合した中学・商業・大学の禁衛隊員たち
*天皇が京都皇宮(京都御苑内)に滞在する時、立命館禁衛隊では大学生から中学校・商業学校生徒(主に四年生以上)が夜間を中心に警護することが任務となっていた。生徒たちは隊列を組んで午後6時半から夜間警備にあたり、翌朝午前6時で終えてから登校し、仮眠後に授業にでるという行動をとっていた。
12月21日(月)桃山御陵参拝
12月26日(土)商業学校卒業式
*第10回卒業式で234名が卒業した。
昭和18(1943)年
1月4日(月)上賀茂神社参拝(奉斎料二十銭)
立命館中学校商業学校の立地は賀茂神社の産土神で上賀茂神社によって祀られていた。広小路から移転後の地鎮祭は上賀茂神社神官によって行われた。また昭和5(1930)年4月8日には両校校旗制定に際して、職員生徒全員が社頭に参集して宣誓の式を挙げていた(注20)。昭和9(1934)年1月4日の年始始業日に初めて上賀茂神社へ参拝し、学校から幣帛料を奉献していた。以後、年始参拝は毎年行われた(注21)。
1月10日(日)大政翼賛会主催講演会
1月11日(月)午後、大政翼賛会の藤田先生の講演
1月23日(土)査閲(中学)【写真26】
【写真26】査閲
【写真27】校庭での整列
1月25日(月)西陣小学校視察 九時~一時半
1月26日(火)卒業生、大学進学推薦会議(1クラスで非推薦五名)
※(非推薦は原文のママ)
2月3日(水)商業査閲、中学は行軍
2月28日(日)中学 学校報国団結成式
府一女で高坂正顕氏の戦争の真理性と道義性について講演あり(注22)。
*3月1日 商業学校本科は昭和18年度から募集を停止。昭和22年3月末をもって廃止することを決議。
3月9日(火)(今小路主事云々の記事あり)
3月21日(日)入試召集日
※(召集は原文のママ)
3月22日(月)入試
3月23日(火)入試
4月1日(木)二次入試
4月4日(日)二次入試
4月26日(月)昇給発表(教職員中十名程度)
*夜間中学校を廃止し、第四中学校設置を決定。
*4月30日(木)商業学校昼間部を廃止し、第三中学校を設置
5月14日(金)総長宅警備にゆく。生徒5名と共に
5月18日(火)満蒙開拓少年義勇軍歓送会
5月22日(土)教育報国団結成式。府一女に集合
*6月25日「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、本土防衛のため軍事教練と勤労動員を徹底することとなった(注23)。
7月17日(土)校外補導連盟で、河原町へ出る
8月5日(木)校外補導。同志社中加藤氏と御所近辺を
8月8日(日)日直をしていると、二時すぎ総長より電話あり。
太田少将遺骨迎えのため海軍旗・禁衛隊旗持参せよと。
10月4日(月)白川教諭、大学予科へ転勤。
10月19日(火)郁文小学校 視察
10月 日 和田教務幹事補?となる。夜局教務は松井美知雄氏重任(注24)【写真27】
※(月日の空欄と?は原文のママ)
【写真28】松井美知雄教諭
11月18日(木)中学1・2年稲刈作業。淀・納所
12月31日(金)大祓儀を行う
昭和19(1944)年
1月1日(土)松井教諭出征
1月4日(火)上賀茂神社参拝
1月6日(木)事務並河氏本部へ転 佐々木・鈴木両氏夜局教務となる(注25)
※(転の後の空白は原文のママ)
1月17日(月)本日より朝拝の様式変更。禊をおこなう。校長主事半裸体。寒気厳
1月18日(火)鮭の缶詰、生徒に配給
*中川総長は、常に健康の重要さを訴えていて、早寝早起きを行い、十分な栄養を摂取することなどを繰り返し言っていたので、鮭の缶詰配給は生徒への栄養補給という意味があった。
1月24日(月)防空補助隊結成式のため商並中二限で授業打切
※(商並中は商業学校並中学校と略記したもの)
2月2日(水)和田 広島・江田島へ出張
*立命館からは、すでに昭和18(1943)年から江田島の海軍兵学校へ数十名の学生が入隊していた。立命館禁衛隊の訓練は陸軍式で行われていたため、江田島の海軍入隊には不安があった。そのため、立命館出身の学生たちを激励すると共に訓練内容の視察などを行っていた。中川総長は昭和18年7月25日に「江田島へ出発する学生への訓示」を行っている(注26)
*2月5日(土)立命館商業学校夜間部を廃止し、工業学校設置を認可される。
2月16日(水)入試打合せのため同志社へ行く。(これより三月下旬まで十数回同志社へ)
2月17日(木)和田 幹事の辞令出る(主事は松村氏)
2月22日(火)西羽氏 商業の校長になる(注27)【写真28】
【写真29】西羽善一郎校長(写真は校長就任以前のもの)
*3月7日 「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」が閣議決定され、学徒勤労動員を通年実施と決定された(注28)。
3月27日(月)小嶋孝三郎君初登校。東橋君九州へ赴任(注29)
4月14日(金)文理中学編入試験筆答考査。15日、人物考査、身体検査(注30)
4月15日(土)専門学校開校式。中学は行軍
4月19日(水)香山氏辞表提出。篠田氏応召(注31)
4月24日(月)文理中編入入学式
以上
和田メモの記載は以上で終わっています。敗戦と同時に、校内外における関係書類は全て処分するように指示が出されたため、当時の卒業アルバム以外で付属校の空白時代を知ることは困難でしたが、和田メモによって部分的にでも知ることができました。
2024年11月26日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博
注14;学制百年史
注15;立命館禁衛隊 第78号(昭和12年9月発行)
注14;「立命館85年史資料集」第8集
注15;立命館大学工学科報告
注16;京都府認可書
注17;白川静 1935(昭和10)年11月中学校国語・漢文担当教諭として赴任。1943年10月には大学予科教授と第一中学校・商業学校の講師兼任。1944年9月商業学校学徒勤労動員の監督。1945年3月第三中学校教諭、7月禁衛隊参謀、11月専門部教授。1954年3月立命館大学文学部教授。
注18;学制百年史
注19;理事会記録
注20;立命館禁衛隊 第8号(1930年5月発行)
注21;立命館禁衛隊 第40号(1934年1月発行)
注22;立命館大学学舎のすぐ南にあった京都府立第一高等女学校(現、京都府立鴨沂高等学校)のこと。
注23;学制百年史
注24;夜局は当時の中学校と商業学校の夜間部の通称。
松井美知雄:1939(昭和14)年、夜間中学校の漢文担当の教員として就職。1944年に応召。戦後は新制の夜間・定時制で副校長まで務め、その後は中学校で国語と書道を担当して退職。
注25;佐々木昿一:立命館中学校(第21回、昭和2年)卒。立命館大学専門学部文学科卒後、1930(昭和5)年4月中学校商業学校国語科教員で就職。戦後、夜間高校講師を経て、大学事務職員として図書館に勤め退職。
鈴木七郎:1937(昭和12)年11月、商業学校英語科教員として就職。
1944年第四中学校商業学校教務兼務。1948年中学校教諭。1961年高等学校補導部長。
注26;「中川小十郎講演集(三)」立命館百年史編纂室編(部内資料)
注27;西羽善一郎 立命館中学校卒(第19回、大正14年)。1939(昭和14)年6月商業学校簿記担当で就職。1944年2月に商業学校校長となった。1949年で退職。
注28;学制百年史
注29;小嶋孝三郎 立命館大学法文学部を卒業。1944(昭和19)年3月第一中学校教諭として就職。高等学校教諭。在職中の1972(昭和47)年4月13日、交通事故により死去。
東橋安太郎 1941(昭和16)年4月中学校国語・漢文担当教諭として赴任。1944年3月退職。郷里の宮崎県の福島中学校(現、串間市)教員となる。
注30;京都市左京区北白川に昭和6(1931年)創立された文理高等学院のことか。
注31; 篠田吉一 入営と応召(軍曹)を経て、昭和18(1943)年6月商業学校教練助教員で就職。1945(昭和20)年9月教練科廃止により退職。
【写真】13、14、16、17、18、19、20、21、22、24、26、27、28、29(昭和18年度中学校卒業アルバム)
15、25(史資料センター保存)
23(1936年度中学校卒業アルバム)