立命館禁衛隊は立命館学園の学生生徒を対象として結成されたものですが、広報誌「立命館禁衛隊」は立命館中学校・商業学校の生徒と保護者、そして京都府の各小学校へ配布され、立命館の生徒たちの姿を広く伝え、生徒募集を拡大する目的ももっていました。
(1)第20号表紙写真 1931(昭和6)年9月発行
【写真1】
1930(昭和5)年10月17日、 京都府下の全中等学校(37校)が参加する陸上競技大会が京都の植物園運動場で開催されました。各校の応援団がスタンドいっぱいに陣取り、野球と同様に熱く燃え上がった応援を行っていました。立命館が最も会場に近い学校(北大路室町にあり徒歩で約15分。現在は立命館小学校)であったこともあって、中川小十郎校長の指示で3年生以下の全生徒が応援に向かうという熱の入れようでした(4、5年生は同日に上賀茂の立命館グラウンドで開催の立命館学園の総合運動会へ参加・応援)。当時の大会は記録よりも入賞順位の得点を総合で競う対校形式で、立命館中学校の選手は200m1位、5000m3位、走り幅跳び2位などに入賞して総合12位となっています。
この前年の大会では立命館の高木正平選手が中長距離全種目出場して、1500mで優勝するなど活躍していました(高木は後に立命館大学が関西学生駅伝で初優勝した時のエースで主将)【写真2】。
陸上部は、当時の立命館中学校で学校を代表するような運動部でした。写真【写真1】の上段が中学校で、ユニフォームの校名はやはり野球と同じく(前回のⅡで紹介)左下がりの漢字表記でした。
【写真2】1930(昭和5)年2月の陸上部中学5年生送別記念写真
中列右から3人目が高木正平選手
(2)第21号 1931(昭和6)年10月発行
「=酷暑四十日=弓道部夏稽古」
【写真3】
この第21号では、紙面全体(30ページ)の3分の1を弓道部と立命館中学校・商業学校主催の秋期大運動会関係の記事で占めていました。
6月21日には立命館大学弓道場において立大、三高、桃山中学、立命館中学、立命館商業の5校が参加して「北垣教士祝賀 連合競射大会」が開催され、1等までを立命館中学が、次いで五位までを立命館商業の生徒が独占しています。教員3名も特別出場していて、塩崎達人校長が八位に名を連ねています。野球部の指導も含めスポーツマン校長の存在は注目されます。
次いで記事は、夏休みを皆勤で練習に励んだ商業3年生の古家嘉一の記事が、「弓道練習日記」と題して3ページに亘って掲載されています。実力をつけてきた立命館の弓道部の模範生徒として、その熱心な活動記録が紹介されています。
この他の記事としては、「府下学童陸上競技大会」は9月24日に上賀茂の立命館学園運動場に高等小学校15校、尋常小学校31校(すべてが京都市内の小学校)が参加して競い、優勝校には優勝旗が授与され、参加者全員へ記念メダルが贈られました。
次いで9月27日からは同じく上賀茂の運動場で「府下学童野球大会」が高等小学校7校、尋常小学校13校の参加で戦われ、高等小学校決勝戦では九條、尋常小学校では郁文がそれぞれ優勝しています。
この当時は、立命館中学校・商業学校では文武両道を掲げて励んでいたのでした。
(3)第22号 1931(昭和6)年11月発行
「光栄のわが隊旗」
【写真4】
1928(昭和3)年11月10日、京都御所に於いて天皇即位の大礼が挙行されるにあたり、立命館学園の学生生徒が禁衛隊を組織し、御所の警護を行いました。これに対して天皇から賜金をいただくことになり、立命館では禁衛隊旗2旗を製作し、翌1929年11月10日の禁衛隊記念日に「天賜 立命館禁衛隊」の文字が記された隊旗が、禁衛隊の精神として大学と中学・商業学校へ授与されました。隊旗は、校内校外において扱われる要領が決められており、樹立格納する際には送迎式が行われていました。立命館の象徴として敬意を表わされていました。
4)第23号 1931(昭和6)年12月発行
「立命館禁衛隊愛国総行進 十一月十九日」
上段は「建禮門前に於ける敬禮」
下段は「烏丸通にて」
【写真5】
11月10日の禁衛隊記念日を皮切りに、立命館禁衛隊の行事が続きました。
10日は午前8時半に広小路の大学中庭に大学生中学生商業学校生全員が集合して記念式典が挙行されました。禁衛隊の中学喇叭隊による君が代吹奏の後、田島学長式辞、中川総長訓話と続き、陸軍少将の記念講演が行われ、昼食には生徒学生全員で記念の雑炊を食べた後、大学を出発し、全隊員による行進で梨木神社前を南下、丸太町通り堺町御門から御苑に入り、建禮門に至っています。
19日は写真下段のように立命館全学生生徒が隊列を組んで、大学を出発し、烏丸通、四条通、河原町通、大学へと大行進を実施しています。
21日には、商業学校生徒全員による大阪行軍が行われました。伏見中書島を午前5時50分に出発し、大阪城を目指しました。途中で歩けなくなった10名が電車で移動しただけで、ほぼ全員が完歩。天守閣を参観した後、京阪電車の臨時貸切車両で天満橋から京都三条まで乗車。午後5時30分に到着した後、全員で万歳三唱して解散しています。
2025年11月11日 立命館 史資料センター調査研究員 西田 俊博
