史資料センターには戦前の立命館中学校・立命館商業学校時代に発行された広報誌「立命館禁衛隊」が創刊号から保存されています。
立命館禁衛隊は、1928(昭和3)年11月10日の京都御所での昭和天皇即位の御大典に当たって、立命館の全教職員、学生、生徒が御所を警護するという目的で結成されたものです。その一年後の1929(昭和4)年10月、広報誌「立命館禁衛隊」は、「立命館中学校竝に立命館商業学校の人心の統制学術の奨励を目的」(注1)として創刊され、
【写真1】第1号表紙
以後ほぼ月刊で1938(昭和13)年2月の第83号まで発行されています。その後は不定期で刊行されました。
今回は、広報誌「立命館禁衛隊」表紙に掲載された写真から昭和初期の立命館付属学校の姿を紹介します。
(1)第1号表紙写真 1929(昭和4)年10月発行「中学校・商業学校教職員 全校生徒集合」
【写真2】
創刊号を飾る表紙の写真は、1929(昭和4)年9月3日午後1時に中学校と商業学校全員が校庭に集合して記念撮影されたものです。生徒は夏服に制帽。教職員も白色を基調とした服装で、見事な姿勢で整列をしています。
前日2日午前8時に両校職員生徒一同が校庭に集合し、朝礼が行われ、その後に授業が行われています。放課後の職員会議では、「立命館禁衛隊」発刊の件、学校と家庭との連絡の件、一般訓育に関する件、防寒具を外套に統一する件などが議題とされたと記録されています。
(2)第3号表紙写真 1929(昭和4)年12月発行「立命館禁衛隊旗 授与式」
【写真3】
立命館が昭和天皇即位大典のための御所警護を行ったことに対し、天皇から賜金をいただくことになり、これを基に「天賜立命館禁衛隊」の文字が錦糸で刺繍された禁衛隊旗2本が制作され、大学と中学商業にそれぞれ交付されることになりました。
そして、昭和天皇即位の翌年11月10日が「禁衛隊記念日」と定められました。この日は早朝から降りしきる雨の中で禁衛隊旗の授与式が行われました。校庭に中学商業の生徒約千名が凹の字に整列し、中央には中川小十郎参謀長(総長)と塩崎隊長(校長)。中川参謀長は、全生徒教職員に向けて「この隊旗は禁衛隊精神の象徴である。この隊旗を主持して禁衛隊精神を発揮せよ」と述べられ、隊旗は生徒旗手へと渡されたのでした。
雨中の校庭での分列式を終え、最後は塩崎隊長の発声で天皇陛下万歳を三唱して隊旗授与式は終わったのでした。
(3)第4号表紙写真 1930(昭和5)年1月発行「山国村協一尋常高等小学校に於ける塩崎校長の講話」
【写真4】
立命館では、「立命館禁衛隊映写班」として、御大典の時からフィルムによる記録撮影を行い、校友会で撮影機映写機などを購入して活動を活発化していました。そして、禁衛隊広報の一環として、京都市内の小学校など様々な場で上映することが計画されていました。すでに禁衛隊の行進曲にもなっていたのが、時代祭でも知られる山国隊の鼓笛でした。軍楽の発祥地ともいわれる山国村から禁衛隊の写真を見たいとの依頼を受け、12月3日に上映会を開催することになりました。塩崎校長が講話を行った後に映画が上映されました。
映画は、学校準備の「立命館禁衛隊」8巻(1巻400フィート)
「感激の東郷大将」「高山彦九郎」各1巻
「不破數右衛門(赤穂浪士四十七士)」全6巻の長編もの
(4)第12号表紙写真 1930(昭和5)年11月発行「射場開式 天地四方祓 小笠原清道範士」
【写真5】
立命館中学校商業学校では、1930(昭和5)年4月に弓道場が新設され、同時に弓道部が誕生していました。そして、10月5日午前8時半から弓道射場開きの式典が開催されました。
塩崎達人会長(中学校長)の開会の辞の後、大日本武徳会師範である小笠原範士による式射禮が行われ、次いで巻藁前を行ったのが本校顧問の田島錦治立命館大学長でした。その後に射禮として大学や高等学校、京都・大阪の中学校などから多くの選手出場があり、午前の最後を清和中学校卒で立命館の校医であった藤野幸太郎の射禮で終えました。昼食後は競射が行われ、表彰の後には田島学長による万歳三唱ですべてを終了しました。
2025年7月29日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博
注1;「立命館学誌」127号 (1929年10月発行)