立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2022.11.01

「今日は何の日」11月8日 わだつみ像が立命館にやってきた日

わだつみ像が立命館にやってきた日1

 1953年11月8日は、わだつみ像が立命館大学にやってきた日です。
 『立命館百年史 通史二』によると、「折しも京都では全学連が呼びかけた「全日本学園復興会議」が開催されていた。像を迎えた立命館大学の建立委員会は、11日に「わだつみ像歓迎」の市中パレードを、同夜には「学園復興会議文化祭」と共催で「わだつみ像歓迎大会」を開催する」予定だったようです。「11月11日、小型トラックに積み立てられた「わだつみ像」を先頭に、オープンカーに乗った末川博総長がこれに続き、学生約400名が河原町通り→五条通り→烏丸通りと、京都の中心街をパレードし、多くの市民の歓迎を受けた」と書かれています(※1)。

 ここで、「荒神橋事件」「市警前事件」と呼ばれるようになる二つの大事件が起こりました。

 当時、総長だった末川博先生が、この事件について生々しく語った速記が残されています(※2)。

私どもの学園では、別に皆さんにご覧いただくようなものはありませんが、ここの下に立っておる「わだつみ像」と呼んでおる像だけは、ある意味において唯一の誇りといっていいか、皆さんに見ていただくに値するものであろうかと、私は考えているのであります。あの像の裏に、私は、まずい言葉ではありますけでども、つぎのようなことを書きしるしているのであります。「未来を信じ未来に生きる、そこに青年の生命がある。その貴い未来と生命を聖戦という美名のもとに奪い去られた青年学徒のなげきと怒りともだえを象徴するのがこの像である。」…ところが、あの像を京都に運んでまいりましてから、やっかいな事件が起こりました。あの像をトラックに乗せまして、私はそのあとをオープンの自動車に乗って、目ぬきの通りをまわり、あれを京都の市民諸君に紹介したのであります。河原町通りから四条通りの方をまわって裁判所の前に来たときに、私の乗っておる車に学生たちがとびついてきて、「先生、たいへんだ、えらいことになりました。京都大学からわれわれ学生が百名あまりわだつみ像の行列に参加するために荒神橋を渡ろうとしたところを、警察隊がはばんで橋の上で大乱闘がはじまって、ランカンがこわれ、学生が橋の上から川の底にたたきつけられた。多勢の者がけがをしてたいへんです」とさけびました。私は、びっくりして、ここの校庭に帰ってみると、血にまみれた諸君が涙を流して訴えておるのであります。


 これらの事件を巡る一連の動きは、末川先生の法学者としての良識をも強く刺激したようです(※3)。

11・11事件と呼ばれているものは、「和やかに大学の復興について話し合おう」ということで、全国70ばかりの学園から代表者約500名が集まって開かれた「全日本学園復興会議」にからまって起きた事件である。結果からいえば、京大当局が教室を貸していたら、学生たちは、おだやかに会議を進め、あんな不祥事も起こらないですんだろうに、というふうに考えられるわけである。現に、私は、第2日目には同志社大学で開かれていた法学部会にでて法律を学ぶことの意味を説き、第4日目には立命館大学における統一会議文化祭で、教育基本法にいうところの「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび」青年学徒の貴い未来と生命を守りぬくように、自重すべきことを講演したのであるが、いずれの場合にも、学生はきわめて真面目で真剣な態度であった。これを頭ごなしに危険視したり敵視したりするごときは、教育者の態度として許さるべきではない。[学生の教室利用の願い出に対して]学長は面会を拒み、事務当局は規程をタテに不許可の方針を堅持して譲らず、遂に学生は学長室前の廊下に座り込むというようなことになってしまった。学校当局は、川端署に警察隊の出動を要請すること、3回に及んだ。私は、昭和の初めごろ治安維持法適用の最初の事件といわれている学連事件で、京大の寄宿舎に手入れがあったとき、学園内の秩序は大学で保持するから、警察の侵入はけしからぬといって強く抗議したことを思い出し、今昔の感にたえぬものがある。学園復興会議4日目11月11日にも午後1時半から京大時計台下に約150人の学生が集まって、教室使用についての抗議集会を行っていたが、4時半過ぎ立命館大学で開催中の学園復興会議に合流するため京大を出発した。4時45分、学生の先頭が東方から荒神橋中央部を渡ったとき、市警中立売署員約20名が不法デモを理由として学生たちを阻止しにかかった。実力で阻止しようとする警察隊は、もみあううち、学生たちを木製ランカンに強く押しつけ、腐朽したランカンが折損し、十数名が約5米下の河原に折り重なって墜落、流血の惨事をひきおこした。学園復興会議統一文化祭で右の荒神橋事件が報告されると、学生たちは、憤慨興奮して、市警に抗議することとなり、夜10時半ごろ市警前に終結した。[そこに]約200名の武装警官が一大喚声をあげながら、コン棒をふるって静粛に集結している学生に襲いかかった。私は、一生、法律のことを学び、法律のことを究め、法律のことを教えて暮らしている。法というのは一片の紙上に書かれたものではなくて、人を生かし世を益するための生きた法を意味すると解しているから、京大の学内集会規程や京都市の公安条例のごときについても、これをタテにして人を傷つけ世を害するような方向に適用することについては断固反対せざるを得ない。未来を信じ未来に生きようとする青年学徒が純真な気持で健やかに伸びようとするのを、納得もさせずに警告もせずに、ただ一片の規定や条例をタテにとって抑圧しようとするごときは、法を守らしめるゆえんでもなければ、人を生かすゆえんでもない。


 新聞報道も概ね学生に同情的でした。
 翌日の朝日新聞朝刊では、「学生、警官隊と衝突 鴨川河原へ転落 学生十人が負傷」の見出しのもとに、「催涙弾、コン棒の雨 流血、悲鳴の路上、散乱する角帽」など、学生の痛々しい姿を伝え、「血だらけになって抗議するデモ隊の学生」の写真や、「負傷者も助けぬ警官」という学生のコメントを掲載しています。また「市警前事件」に居合わせた本学学生部長の蔦田先生の、警官側がいきなり襲撃してきたという主旨の談話も掲載しています。
 一方でこの記事では、学生による投石があったと報じています。読売新聞では、一連の事件を「無届のデモに端を発して」と伝え、学生側が蔦田先生の解散の説得に応じず投石を始めたなどと、学生側の非を報じています。

 その中でも、末川先生の言説はあくまでも学生の側に立って、学生の主張と行動の正当性を擁護しています。学生もそれが分かっているから、事件が起こったときに末川先生に駆け寄って「先生、たいへんだ」と訴え出たのでしょう。
 「荒神橋事件」は、国家賠償法に基づく損害賠償請求事件となり、1958年2月に、京都地方裁判所で、警察官が「正当な職務行為の範囲を逸脱し、違法な実力行使」をしたと主張する学生側の勝訴するところとなっています。判決文の中で、警察官の行為は「制止の範囲を逸脱したもの」「警察官等の右の行為を正当とするに足る事情は存在しない」「警察官等の行為はいづれの点からみても違法としなければならない」という判決理由が述べられています(※4)。

 立命館の民主的学生運動は、わだつみ像の建立とこれを巡る一連の事件によって、いっそう結束を固めていきます。『立命館百年史 通史二』では

学費値上げ反対闘争を中心とする学内闘争、「反レッドパージ闘争」や「単独講和反対運動」をはじめとする全国的な民主主義擁護闘争の高揚のなかで、立命館における学生運動の態勢は次第に整えられていった。53年には立命館大学にわだつみ像を建立する取組みが、広範な学生・教職員の支持と活動の下で成功する(第三章第二節二)。その過程で起こった「荒神橋事件」や「市警前事件」などの弾圧事件、あるいはその翌年12月8日の第1回「全京都戦没学徒追悼不戦の集い」における警察によるスパイ事件などは、民主主義を守ろうとする学生運動の結束をいっそう固めさせた。


と記しています(※5)。

 こうした曲折を経てわだつみ像は立命館大学広小路キャンパスに建立され、12月8日には2,000人を超える学生、市民の前で除幕式が行われました。日本戦没学生記念会理事長 柳田謙十郎氏、像制作者 本郷新氏、わだつみの命名者 藤谷多喜雄氏らの挨拶と、末川先生の挨拶のあとに、学生代表による次の「不戦の誓い」が宣言されました(※6)。

不戦の誓い

わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、愛する人々から引きさかれ偽りの祖国の光栄の名の下に、或いは南海の孤島に、或いは大陸の荒野に空しい屍をさらしました。その悲しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。再び銃をとらず、再び戦いの庭に立たぬことを。

わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、何の憎しみもたぬ他国の青年と偽りのアジア平和の名の下に、愚かな殺し合いの中で尊い血を流しました。その嘆きのかたみであるあなたの前に私達は誓います。再び他国の青年と戦わず、共に組んで世界の平和を守りぬくことを。

わだつみ像よ
かつて私たちの先輩は、魂のふるさとである学園で考える自由も学ぶ権利も奪われ、なつかしい校門から戦場へ送り出されました。その苦しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。学問の自由と学園の民主々義の旗を最後まで高く高く掲げることを。

一九五三年十二月八日


 このとき立命館にやってきた わだつみ像 は、「学園紛争」の混乱の中で暴力学生の蛮行によって破壊され、その後、再建されます。校庭に わだつみ像 が立っていた広小路キャンパスが閉鎖されたあとは、衣笠キャンパスに移設され、図書館の閲覧室などで学生を見守ってきました。立命館国際平和ミュージアムが開館してからは、その入口で来館者を迎えていましたが、現在、ミュージアムのリニューアル工事のため、一時的に図書館内に移されています。


 平和であるべき学生生活でさえも常に死と隣り合わせにあった時代の記憶が生々しいころは、わだつみ像から発せられる戦没学生の無念と嘆きを、多くの学生が自分に関係することとして感じとることができたはずです。しかし、いまの多くの学生にとっては、戦争の記憶は遠い過去のものとなり、戦争の悲劇は遠い世界のものとなって、それらを身近なものとして理解することが難しくなっているのではないかとも思います。わだつみ像を見て、それが、南海の孤島に、大陸の荒野に、空しくさらされた屍の悲しみのかたみであることを、もういちど考える。せめて11月8日だけでもそんな1日にしたいものです。

※1 『立命館百年史 通史二』第三章 「大学紛争」と立命館学園の課題, 第二節 立命館における「大学紛争」とその克服, 二 「わだつみ像」の破壊と再建, pp.953-954
※2 1958年8月22日に立命館大学で開かれた歴史教育協議会全国大会における、あいさつを兼ねた講演の速記。『末川博随想全集 第6集』に「教育と政治」という題で掲載されたものから、要約しながら引用。
※3 『中央公論』1954年1月. 『末川博随想全集 第6集』に「大学と警察と学生」という題で転載されたものから、要約しながら引用。[ ]内は筆者補記。
※4 京都地判昭和33年2月12日下級裁判所民事裁判例集9巻2号192頁、判例時報153号28頁、判例タイムズ80号110頁
※5 『立命館百年史 通史二』第一章 戦後の再出発と「立命館民主主義」への模索, 第三節 戦後学園体制の基盤形成, 五 学生自治活動・課外活動の展開, p.345
※6 『立命館百年史 通史二』第三章 「大学紛争」と立命館学園の課題, 第二節 立命館における「大学紛争」とその克服, 二 「わだつみ像」の破壊と再建, pp.955-956
※ この像の台座には「わだつみ像」と記されていますが、一般的に「わだつみの像」という名称も広く使われています。

2022.10.18

「資料保存の現場から」立命館創立者・中川小十郎の遺宅「白雲荘」保存利活用プロジェクト進行中!第2回ミーティングの様子をご報告

立命館創立者・中川小十郎の遺宅「白雲荘」の保存利活用計画進行中!
2022年10月14日(金)「白雲荘リバイタルプロジェクト」第2回ミーティング開催


白雲荘リバP1014-1


学園内の有志により「白雲荘」を再度復活して今日的な利活用を目指すこのプロジェクト。
本日もミーティングは「白雲荘」で開催され、ZOOM参加メンバーとともに、今後のプロジェクトの計画とその役割、そして白雲荘で行う催しについて話し合いが行われました。

未だ立命館学園内でも「白雲荘」の存在は広く知られていません。
「白雲荘」を一人でも多くの人に知ってもらうために、まずは「白雲荘」を開いてみる。
人々がここに気軽に集える催しはなにか、メンバーから様々なアイデアが出されました。
「建物の傷んだ所はどうしましょうか」
「ありのままを見てもらいましょう」
「白雲荘」に関心を寄せてくれる人に現状を知ってもらい、より多くの人と「白雲荘」のこれからについて考える取り組みを進めています。

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白雲荘でのミーティングの様子


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プロジェクトメンバ―:宗本晋作教授


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プロジェクトメンバ―:服部利幸教授


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史資料センターではこのプロジェクトの進捗を引き続きお知らせしてまいります。
2022年10月18日 立命館 史資料センター

キックオフミーティングの様子はこちらからご覧いただけます。
「資料保存の現場から」立命館創立者・中川小十郎の遺宅「白雲荘」の保存利活用計画始まる!https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=276

2022.09.22

「資料保存の現場から」立命館創立者・中川小十郎の遺宅「白雲荘」の保存利活用計画始まる!

2022年9月12日(月)「白雲荘リバイタルプロジェクト」キックオフミーティング開催

 立命館創立者・中川小十郎は、後半生を京都の居宅を拠点として、立命館の経営や教育に心血を注いでいます。
 その居宅は上京区桜木町402(上京区寺町通上立売上ル西入ル)にあり、居を構えた当時の地名から「塔之段」(とうのだん)邸と通称されました。(注)
 この居宅は戦後立命館の所有となり、中川の使った「雅号」に由来して「白雲荘」と名付けられ、校宅、教職員会館、校友会施設として活用されましたが、老朽化のため2007年に閉鎖されています。


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 この度、学園内の有志によりこの「白雲荘」を保存して今日的な利活用を目指そうというプロジェクトが立ち上がりました。
 代表者は、宗本晋作教授(理工学部建築都市デザイン学科)、メンバーに建山和由教授(総合科学技術研究機構)、服部利幸教授(政策科学部)、山口洋典教授(共通教育推進機構)他衣笠キャンパス地域連携課、研究環境管理課、BKC地域連携課、亀岡校友会、史資料センターなど、学園施設や教育研究、学園史に関わる人々です。


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 9月12日(月)午後、まずは「白雲荘」に集い、これまでの経緯や現状、これからの可能性を話し合うキックオフミーティングを開催しています。学園からの支持と経済的援助も得てスタートです。
 史資料センターではこのプロジェクトの進捗を引き続きお知らせしてまいります。


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(プロジェクトメンバ―:左から山口洋典教授、廣井徹学術情報部次長兼
史資料センター課長、宗本晋作教授、服部利幸教授)
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内部を検分するプロジェクトメンバー
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白雲荘に設えられた庭園「虬園」(きゅうえん)の現状


2022年9月22日 立命館 史資料センター

注) 立命館創立者中川小十郎の京都の居宅(塔之段邸)の事歴詳細は以下をご参照ください。
立命館大学図書館 機関リポジトリ(R-Cube) 
松本皎「中川「塔之段」旧邸と立命館「白雲荘」校宅の百年」『立命館百年史紀要』16号 2008
 http://doi.org/10.34382/00015553

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