立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
最新の記事
2024.12.05
<懐かしの立命館>青春の思い出がつまったあの店は今…?(その1)
はじめに
かつて立命館大学衣笠キャンパスの周辺には多くの食堂や喫茶店等のお店がありました。現在も営業しているお店もありますが、店主の健康上の理由や後継者不在といった事情、2020年に発生した新型コロナウイルス感染症の影響等諸般の事情により、多くの店舗が営業を終了されました。
校友の方々の中には、卒業後しばらく経ってから「昔通ったあの店に行ってみよう」という機会があるかも知れません。そこで、雑誌研究会作成の「チャンスMAP Vol.2」(1983年4月7日発行)の「TEA&定食MAP」をもとに、立命館大学新聞社の衣笠キャンパス周辺探訪(「立命館大学新聞」1996年4月1日号)も参考に、1983年頃あったあのお店は今どうなっているのかを辿ってみました。またその後に開店したお店も紹介します。すべてのお店について紹介はできませんが、参考にしてください。新たな発見があるかも知れません。
*1983年 チャンスMAP
大学の清心門を西南(敬学館(元テニスコート)西側)へ―
まず、衣笠キャンパスの南、清心門から少し西にまわり、現在は教室棟の敬学館がありますが、当時はテニスコートだった道を南に下ってみましょう。
清心門から嵐電の踏切まで、「衣笠食堂」、「Jazz喫茶Your」、「美濃屋」、「Café Park MICKEY」、「喫茶ノンノン」、「お好み焼き笠」、「王将」、「サンドラーク」が並んでいました。
「衣笠食堂」は閉店しました
清心門(清心館の東南)を出たところの衣笠食堂は、定食、丼物などの和食を中心に1983年時点でも日替わりメニューが300円、衣笠定食が400円と非常に安価で文学部生の利用が多く、人気がありました。1994年までは卒業アルバムで営業が確認できますが、現在は残念ながら閉店となっています。「お茶の入ったやかんがいい雰囲気を醸し出していた」、「お水がワンカップ大関のカップで出された」、「歌謡曲が流れていた」といった思い出がある人も…。建物は以前のまま残っていますので、学生当時に思いを馳せて懐かしむ人もいるかも知れませんね。
「YOUR」は一旦閉店しましたがリニューアルしました!
「Jazz喫茶 Your」は、ジャズが好きだった小塚剛正さんが1974年に衣笠キャンパスの南西で開店しました。ランチが人気で、立命館大学生や教職員、地域の人々で賑わっていましたが、2022年7月に小塚さんが急逝されたため、開業48年を迎えた2022年9月に閉店しました。しかし小塚さんと共に店を切り盛りしていた久枝さんの「どうにかしてこの空間を守ることができないか」という想いに常連客等が賛同し、再始動に向けてクラウドファンディング等が取り組まれ、「スウィングキッチンYour」として2023年9月にリニューアルオープンしました。当初はランチタイムの営業を単独でできる人を探しましたが難航したため、以前からの厨房やテーブルを活かしつつ、複数の出店者が日替わりでシェアする形になりました。毎月の予定はFacebook、Instagram等で公開されています。
*参考:立命館大学新聞社 2023年9月22日最新ニュース電子版
「美濃屋」は閉店しました
「美濃屋」はうどん、お蕎麦、丼ものなど、昔ながらの食堂でした。教職員もよく出前を頼んでいました。写真では食品サンプルもそのままなので一見、まだ営業しているように見えますが、随分前に閉店しました。
NEW「Cafe Park MICKEY」営業中
少し東に折れて等持院南門方向に行くところに、喫茶店のCafePark MICKEYがあります。1986年に開店したお店で、食事と喫茶が楽しめます。ロコモコや豊富なメニューが人気です。外でたこ焼きも販売中。
「お好み焼き笠」は閉店しました
お好み焼き屋さんが無くなったあたりに、料亭と居酒屋が隣合わせで「竹下」、「のみ・くいぷちぃる」が営業しています。
NEW 「竹下」/「のみ・くい ぷちぃる」営業中
「竹下」は1991年にオープンした京都和食・季節料理・割烹のお店で、「豊かな空間の中で新鮮な種をご賞味いただこうと願い、おもてなしの場としてのお茶室を意識して和の要素と竹をふんだんに使い間接照明による陰翳に満ちた空間はゆったりとったカウンター席、BGMのモダンジャズと相俟って非常に落ち着くという声をよく耳にします。又お料理に関しましては九州、四国、淡路や日本海などの近海物の魚介類、また京野菜などを中心に季節の材料を吟味し、素材の持ち味を生かすよう心がけております。常に新しいもの、珍しいものを求められる中で、いたずらに創作和食の道に走るのではなく基本を踏まえたうえでスタンダードなものをベースに工夫を加えるという新鮮さがひとつの課題と考えております。どうぞ天然素材の繊細な味をごゆっくりお楽しみくださいませ。」とコメントされています。現在は予約およびおせち料理の注文のみ対応しています。
「のみ・くい ぷちぃる」は、竹下の隣にある居酒屋です。
木曜日・金曜日・土曜日のみ営業しています。立命館関係者
が多く利用しています。
「王将」は閉店しました
おそらく、この「澤山誠進堂印房」があった辺り
ではないでしょうか。
「サンドラーク」は閉店しました
おそらく「サンドラーク」の跡だと思いますが、
営業はしていません。
NEW「月讀珈琲舎 月と金星」営業中
東方向に喫茶店「月讀珈琲舎(つきよみこーひーしゃ)月と金星」があります。名前がおしゃれですね。食事の提供はなく、珈琲、紅茶、ジュースのみです。店主の接客が紳士的でとても礼儀正しくて居心地が良いとたいへん好評です。
NEW「さぬきうどん中野屋」営業中
さらに踏切の方に行くと手打ちさぬきうどんの食堂、
「中野屋」があります。コシのあるさぬきうどんが好評です。
修学旅行生がよく利用しています。
2024年12月5日 立命館 史資料センター 調査研究員 佐々木浩二
参考
衣笠キャンパスについて立命館史資料センターのホームページ<懐かしの立命館>でいくつか紹介しております。参考にご覧ください。
<懐かしの立命館>キャンパスの最寄り駅・バス停今昔 2020年07月14日
<懐かしの立命館>衣笠キャンパス周辺は深い歴史がありました-平安から現代までの変遷- 前編 2019年12月11日
<懐かしの立命館>衣笠キャンパス周辺は深い歴史がありました-平安から現代までの変遷- 後編 2019年12月11日
<懐かしの立命館>30年前の衣笠キャンパス~1982年の入試風景から~ 2015年07月03日
<学園史資料から>衣笠球場ものがたり 2014年04月09日
2024.11.26
<学園史資料から>残された戦時中の付属校教員の校務メモ【後編】
前編で紹介した和田繁二郎の校務メモの昭和17(1942)年から19(1944)年4月までの記録です。【写真13】は昭和18(1943)年度の立命館第四中学校卒業アルバムのもので、前編で紹介した【写真1】と同年代ではあるが表情が険しくなっています。
和田メモ(ゴシック太字)に写真と「*」で補足説明を加えて、当時の付属校の日常を前後編に分けて紹介します。
【写真13】和田繁二郎教諭
昭和17(1942)年
1月8日(木)中商四年、観兵式
1月15日(木)国民学校長招待会
*中川小十郎校長の時代から年に一度は京都府下の小学校長を招待し学校や生徒の姿を広く紹介していた。
1月23日(金)減俸実施
*すでに立命館学園では長引く戦争に対して、昭和12年9月から日支事変への恤兵献金として、教職員は俸給5%を行っており、事変終結までの間、生徒にも月50銭の協力を呼び掛けていた(注14)。
*1月31日(土)立命館第一、第二中学校で計25学級増設決定(注15)
2月14日(土)中学四年 深草へ勤労奉仕
*2月15日(日)シンガポール陥落
2月16日(月)シンガポール陥落感謝のため上賀茂神社へ(全校)【写真14】
【写真14】上賀茂神社へ参詣
2月18日(水)第一次戦勝祝賀日、上賀茂神社へ(全校)
*3月10日(火)第二中学校校舎及び附属設備完成
3月12日(木)第二次戦勝祝賀日、上賀茂神社へ(全校)
3月27日(金)満州国総理歓迎式
*満州国建国10周年記念謝恩特派大使が立命館を来訪。立命館が満州国政府から多額の補助金を受けて日滿高等工科学校を展開させてきたことで、その視察に張景恵国務総理大臣一行が京都を訪れた。そのため、大学広小路学舎で禁衛隊も出席をして公式歓迎式を挙行した。中川総長の歓迎の祝辞が残されている(注16)【写真15】。
【写真15】大学の広小路学舎に入場する大使一行(先導は中川総長)
*3月31日(火)立命館中学校、名称を「立命館第一中学校」と改称、認可(2月3日申請)(注17)【写真16】
【写真16】昭和17年の立命館第一中学校正門前風景
4月7日(火)白川氏教務幹事(注18)【写真17】
【写真17】白川静教諭
4月18日(土)第一回内地空襲 羽栗賢孝、第一中学校長就任、認可
*この日、大型爆撃機B-25が16機の大編隊で東京、川崎、横須賀、名古屋、神戸に国内への初の空襲を行った。
4月20日(月)祝園部隊へ勤労奉仕
*祝園(現、京都府相楽郡精華町)にあった陸軍の祝園部隊に兵器補給廠があり、労働奉仕のために出向いた。
4月23日(木)宇治工廠へ勤労奉仕
*中川小十郎、夜間中学校長就任
5月22日(金)青年学徒に賜はりたる勅語記載日記念閲兵分列【写真18】
【写真18】校庭での分列式
*8月の閣議決定に基づき、学制を改めて制度上からその修業年限を短縮する措置をとることとした。中等学校で18年4月入学の生徒から修業年限五年を四年に一年短縮することとした(注19)。
8月4日(火)玉水滑空訓練奉仕
*玉水(現、京都府綴喜郡井手町)にあったグライダーの滑空場での奉仕活動。当時は、北大路学舎校庭にもグライダーが置かれていた。【写真19、20】
【写真19】立命館グライダー部(昭和18年中学校卒業アルバム)
【写真20】航空模型工作部のグライダーに機乗する羽栗校長
8月24日(月)幕営訓練【写真21、22】
【写真21】舞鶴での幕営訓練―宿泊テント
【写真22】舞鶴での幕営訓練(小休止風景)
*9月1日立命館中学校・商業学校教員で本学大学部在学中の学生に奨学のため授業料免除が決定。教員が不足していたので、このように教員となっている学生が何人もいた。和田教諭も立命館大学法文学部文学科国文学科の学生であった(注19)
9月18日(金)満州事変記念日行軍
9月28日(月)学校防空訓練【写真23、24】
【写真23】模型の高射砲による防空訓練(昭和11年頃)
【写真24】防災訓練
10月5日(月)体力章検定
12月7日(日)中学・夜学査閲
12月11日(金)陛下駐輦 徹夜警営【写真25】
【写真25】大学(広小路)に集合した中学・商業・大学の禁衛隊員たち
*天皇が京都皇宮(京都御苑内)に滞在する時、立命館禁衛隊では大学生から中学校・商業学校生徒(主に四年生以上)が夜間を中心に警護することが任務となっていた。生徒たちは隊列を組んで午後6時半から夜間警備にあたり、翌朝午前6時で終えてから登校し、仮眠後に授業にでるという行動をとっていた。
12月21日(月)桃山御陵参拝
12月26日(土)商業学校卒業式
*第10回卒業式で234名が卒業した。
昭和18(1943)年
1月4日(月)上賀茂神社参拝(奉斎料二十銭)
立命館中学校商業学校の立地は賀茂神社の産土神で上賀茂神社によって祀られていた。広小路から移転後の地鎮祭は上賀茂神社神官によって行われた。また昭和5(1930)年4月8日には両校校旗制定に際して、職員生徒全員が社頭に参集して宣誓の式を挙げていた(注20)。昭和9(1934)年1月4日の年始始業日に初めて上賀茂神社へ参拝し、学校から幣帛料を奉献していた。以後、年始参拝は毎年行われた(注21)。
1月10日(日)大政翼賛会主催講演会
1月11日(月)午後、大政翼賛会の藤田先生の講演
1月23日(土)査閲(中学)【写真26】
【写真26】査閲
【写真27】校庭での整列
1月25日(月)西陣小学校視察 九時~一時半
1月26日(火)卒業生、大学進学推薦会議(1クラスで非推薦五名)
※(非推薦は原文のママ)
2月3日(水)商業査閲、中学は行軍
2月28日(日)中学 学校報国団結成式
府一女で高坂正顕氏の戦争の真理性と道義性について講演あり(注22)。
*3月1日 商業学校本科は昭和18年度から募集を停止。昭和22年3月末をもって廃止することを決議。
3月9日(火)(今小路主事云々の記事あり)
3月21日(日)入試召集日
※(召集は原文のママ)
3月22日(月)入試
3月23日(火)入試
4月1日(木)二次入試
4月4日(日)二次入試
4月26日(月)昇給発表(教職員中十名程度)
*夜間中学校を廃止し、第四中学校設置を決定。
*4月30日(木)商業学校昼間部を廃止し、第三中学校を設置
5月14日(金)総長宅警備にゆく。生徒5名と共に
5月18日(火)満蒙開拓少年義勇軍歓送会
5月22日(土)教育報国団結成式。府一女に集合
*6月25日「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、本土防衛のため軍事教練と勤労動員を徹底することとなった(注23)。
7月17日(土)校外補導連盟で、河原町へ出る
8月5日(木)校外補導。同志社中加藤氏と御所近辺を
8月8日(日)日直をしていると、二時すぎ総長より電話あり。
太田少将遺骨迎えのため海軍旗・禁衛隊旗持参せよと。
10月4日(月)白川教諭、大学予科へ転勤。
10月19日(火)郁文小学校 視察
10月 日 和田教務幹事補?となる。夜局教務は松井美知雄氏重任(注24)【写真27】
※(月日の空欄と?は原文のママ)
【写真28】松井美知雄教諭
11月18日(木)中学1・2年稲刈作業。淀・納所
12月31日(金)大祓儀を行う
昭和19(1944)年
1月1日(土)松井教諭出征
1月4日(火)上賀茂神社参拝
1月6日(木)事務並河氏本部へ転 佐々木・鈴木両氏夜局教務となる(注25)
※(転の後の空白は原文のママ)
1月17日(月)本日より朝拝の様式変更。禊をおこなう。校長主事半裸体。寒気厳
1月18日(火)鮭の缶詰、生徒に配給
*中川総長は、常に健康の重要さを訴えていて、早寝早起きを行い、十分な栄養を摂取することなどを繰り返し言っていたので、鮭の缶詰配給は生徒への栄養補給という意味があった。
1月24日(月)防空補助隊結成式のため商並中二限で授業打切
※(商並中は商業学校並中学校と略記したもの)
2月2日(水)和田 広島・江田島へ出張
*立命館からは、すでに昭和18(1943)年から江田島の海軍兵学校へ数十名の学生が入隊していた。立命館禁衛隊の訓練は陸軍式で行われていたため、江田島の海軍入隊には不安があった。そのため、立命館出身の学生たちを激励すると共に訓練内容の視察などを行っていた。中川総長は昭和18年7月25日に「江田島へ出発する学生への訓示」を行っている(注26)
*2月5日(土)立命館商業学校夜間部を廃止し、工業学校設置を認可される。
2月16日(水)入試打合せのため同志社へ行く。(これより三月下旬まで十数回同志社へ)
2月17日(木)和田 幹事の辞令出る(主事は松村氏)
2月22日(火)西羽氏 商業の校長になる(注27)【写真28】
【写真29】西羽善一郎校長(写真は校長就任以前のもの)
*3月7日 「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」が閣議決定され、学徒勤労動員を通年実施と決定された(注28)。
3月27日(月)小嶋孝三郎君初登校。東橋君九州へ赴任(注29)
4月14日(金)文理中学編入試験筆答考査。15日、人物考査、身体検査(注30)
4月15日(土)専門学校開校式。中学は行軍
4月19日(水)香山氏辞表提出。篠田氏応召(注31)
4月24日(月)文理中編入入学式
以上
和田メモの記載は以上で終わっています。敗戦と同時に、校内外における関係書類は全て処分するように指示が出されたため、当時の卒業アルバム以外で付属校の空白時代を知ることは困難でしたが、和田メモによって部分的にでも知ることができました。
2024年11月26日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博
注14;学制百年史
注15;立命館禁衛隊 第78号(昭和12年9月発行)
注14;「立命館85年史資料集」第8集
注15;立命館大学工学科報告
注16;京都府認可書
注17;白川静 1935(昭和10)年11月中学校国語・漢文担当教諭として赴任。1943年10月には大学予科教授と第一中学校・商業学校の講師兼任。1944年9月商業学校学徒勤労動員の監督。1945年3月第三中学校教諭、7月禁衛隊参謀、11月専門部教授。1954年3月立命館大学文学部教授。
注18;学制百年史
注19;理事会記録
注20;立命館禁衛隊 第8号(1930年5月発行)
注21;立命館禁衛隊 第40号(1934年1月発行)
注22;立命館大学学舎のすぐ南にあった京都府立第一高等女学校(現、京都府立鴨沂高等学校)のこと。
注23;学制百年史
注24;夜局は当時の中学校と商業学校の夜間部の通称。
松井美知雄:1939(昭和14)年、夜間中学校の漢文担当の教員として就職。1944年に応召。戦後は新制の夜間・定時制で副校長まで務め、その後は中学校で国語と書道を担当して退職。
注25;佐々木昿一:立命館中学校(第21回、昭和2年)卒。立命館大学専門学部文学科卒後、1930(昭和5)年4月中学校商業学校国語科教員で就職。戦後、夜間高校講師を経て、大学事務職員として図書館に勤め退職。
鈴木七郎:1937(昭和12)年11月、商業学校英語科教員として就職。
1944年第四中学校商業学校教務兼務。1948年中学校教諭。1961年高等学校補導部長。
注26;「中川小十郎講演集(三)」立命館百年史編纂室編(部内資料)
注27;西羽善一郎 立命館中学校卒(第19回、大正14年)。1939(昭和14)年6月商業学校簿記担当で就職。1944年2月に商業学校校長となった。1949年で退職。
注28;学制百年史
注29;小嶋孝三郎 立命館大学法文学部を卒業。1944(昭和19)年3月第一中学校教諭として就職。高等学校教諭。在職中の1972(昭和47)年4月13日、交通事故により死去。
東橋安太郎 1941(昭和16)年4月中学校国語・漢文担当教諭として赴任。1944年3月退職。郷里の宮崎県の福島中学校(現、串間市)教員となる。
注30;京都市左京区北白川に昭和6(1931年)創立された文理高等学院のことか。
注31; 篠田吉一 入営と応召(軍曹)を経て、昭和18(1943)年6月商業学校教練助教員で就職。1945(昭和20)年9月教練科廃止により退職。
【写真】13、14、16、17、18、19、20、21、22、24、26、27、28、29(昭和18年度中学校卒業アルバム)
15、25(史資料センター保存)
23(1936年度中学校卒業アルバム)
2024.11.26
<学園史資料から>残された戦時中の付属校教員の校務メモ【前編】
旧制立命館中学校時代の昭和16(1941)年から19(1944)年にかけての校務などの様子を記録した一人の教員のメモが保存されています。後に立命館大学文学部教授となった和田繁二郎【写真1】がそのメモ作成者で、昭和16年4月から国語科担当として勤めた青年教員(就職当時28歳)でした。
和田メモ(ゴシック太字)に卒業アルバム掲載の写真と「*」で補足説明を加えて、当時の付属校の日常を前後編に分けて紹介します。
【写真1】和田繁二郎教諭
昭和16(1941)年
4 月19日(水)和田、中学教諭トナル
*和田は、この年3月に立命館大学専門学部文学科を卒業した後、立命館大学法文学部国文学科に入学し、同時に立命館中学校教諭となった。
*5月8日(木)から中学部では耐熱耐寒強行軍が開始され、昭和17(1942)年2月13日(金)まで35回実施された(注1)。
5月12日(月)第二中学地鎮祭
*正式には立命館第二中学校。この年2月に立命館中学校の生徒定員を800名から1000名に増員する申請が認可され、同年3月には立命館が造成した上賀茂大運動場の地に第二中学校開校の申請が認可されていた。当日は上賀茂神社神官によって地鎮祭が行われた。
校舎建設には広小路にあった清和中学校時代の旧校舎を移築するかたちで開校を急いだが、4月開校に間に合わなかったため、新聞には「移築工事竣工までは北大路室町の元の中学校内で150余名の二中生の授業を行う」という記事が掲載されていた(注2)。
立命館中学校が「立命館第一中学校」と改称されたのは昭和17(1942)年3月31日であった。
同じ5月には学生生徒の健康状態を改善するために、中川総長の立案によって「立命館医務局」が北大路の中学校に設置されている。レントゲン装置などの設備をもち、大病院と比べても見劣りしない全国的にも先進的な学校医務局体制を整えていた【写真2,3】(注3)。
【写真2】北大路学舎に設置された医務局(戦後は食堂に改修)
【写真3】北大路学舎での健康診断風景
6月4日(水)中学3年、勤労奉仕
*この年の6月から11月にかけては中学部増産勤労奉仕として、京都市の上賀茂・衣笠・深草や宇治市小倉などへ出張し、麦刈・草刈・稲刈・開墾作業などに従事した(注4)【写真4】。
【写真4】学徒勤労動員で開墾作業を行う生徒たち
6月13日(金)中学4年、麦刈
7月7日(月)事変記念式典
*詳細は記載されていない。日中戦争のきかっけとなった昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件がおきた日を記念して国内では様々な式典を行っていた。
7月30日(水)中学・商業4年、野外軍事教練 【写真5、6】
【写真5】京都市大原付近での軍事教練
【写真6】京都市街地での軍事教練
8月4日(月)主事異動 今小路、羽栗免【写真7,8】、小滝・南部任(注5)
中学校・第二中学校・夜間中学・商業学校に学監(校長補佐)設置【写真9】
【写真7】今小路覚瑞主事(後に各中学校校長)
【写真8】羽栗賢孝主事(後に各中学校校長)
*今小路と羽栗は共に医務局主事でもあったが、この時、今小路は商業学校主事を、羽栗は中学校・商業学校夜間部主事を解職されている。
【写真9】松岡又一学監(後に商業学校校長)
*松岡は、海外で13年間海外移住者(主にブラジル)対応の仕事を務め、立命館大学教授と学監を兼務で就職した。
8月20日(水)中学四年雄琴行。木原・松田佳付添(注6)
*この年5月に、立命館大学では禁衛隊集団勤労鍛練所を滋賀県甲賀軍三雲村(現、滋
賀県湖東市三雲)に第一鍛練所を、次いで同月に滋賀県雄琴村(現、滋賀県大津市雄
琴)に第二鍛練所を設置した。鍛練所の設置に伴って中学部商業部も鍛練行事を行う
ために雄琴まで出かけていた(注7)。
8月末 夏期講習実施
*9月2日(火)中学商業、陸軍枚方工廠に特技作業奉仕
9月8日(月)夏期講習考査開始
9月18日(木)満州事変十周年記念行軍
*詳細は記載されていない。昭和6(1931)年9月18日の柳条湖での南満州鉄道線路爆破事件に始まる日本軍の軍事行動を記念して、日本国内の各地で行事が催されていた。
9月19日(金)舟木元教諭葬儀(注8)
9月27日(土)防共協定三国同盟締結一周年祝賀式 市中行進【写真10、11】
田中重太郎兄専門部へ転出 俣野・長谷川両氏応召(注9)
【写真10】三国の国旗が翻る正門の掲揚柱
【写真11】市中を行進する禁衛隊
10月4日(土)禁衛隊参謀会議、職員軍事教練の件等【写真12】
【写真12】軍事教練課の教員団
10月9日(木)生徒に防空教育講話
11月10日(月)禁衛隊独立記念日(催なし)
11月24日(月)西園寺公一年祭
12月14日(日)学校報国隊結成式 於 深草練兵場
*この日、京都府下の中等学校報国隊編成記念大会が深草練兵場で挙行された(注10)。
*昭和16(1941)年11月22日、「国民勤労報国協力令」勅令が公布された。学校や会社を単位として国民勤労報国隊を組織し、緊急産業部門に、男子ならば14歳~40歳未満で年間30日以内の勤労協力を事実上強制することとなった(注11)。
12月22日(月)皇陵参拝行軍
12月24日(水)府補助金受領、 中学1,155円、第二中学校226円、商業学校1,147円
夜間中学校330円(注12)
12月27日(土)商業学校卒業式
*商業学校第9回の卒業式で253名が卒業した。
10月16日の勅令と省令で大学、専門学校などの修業年限が短縮(昭和16年度は3か月卒業繰り上げ)となっていた(注13)。
2024年11月26日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博
注1;学園事業報告
注2;京都日出新聞(昭和16年3月16日付記事)
注3;立命館創立五十年史
注4;学園事業報告
注5;今小路覚瑞:1922年に中学校国語科教諭となる。1940年に商業学校長となってか
ら後に各中学校長を務め、戦後も新制中学校長と高等学校長となり、1950年6月
で退職。
羽栗賢孝:哲学が専門。滋賀県の中学校教員を退職後、1940年4月から中学校・商
業学校夜間部教諭兼主事で就職。1949年退職。
小滝久雄:1938年国語科教諭として就職。1945年3月で退職。
南部房之助:商業科教諭。京都府立第二女子商業学校校長を退職後、1940年商業学校講師で就職。翌年から商業学校主事などを務めた。
注6;木原倉蔵:軍事教練担当の教諭。徴兵を終えて予備役となり、大学や商業学校の教練を担当した後、昭和16(1941)年5月に立命館中学校の教練担当なった。
松田佳八;熊本県で召集後、師範学校や高等女学校の嘱託となり、大正14(1924)年4月から立命館中学校の数学担当として就職。昭和15(1940)年11月の創立四十周年記念祝賀会において勤続15年以上の教職員として功労者表彰されている。昭和23(1948)年4月、第四中学校講師を最後に退職。
注7;立命館創立五十年史
注8;詳細は不明
注9;田中重太郎:1937(昭和12)年中学校国語科教諭として就職。1941年に専門学部教授となるが商業学校教諭を兼務。敗戦後から1949年までは夜間高等学校講師を兼務。
俣野金助:剣道四段。1933(昭和8)年中学校・商業学校の剣道指導の講師として就職。1938(昭和13)年から中学校教練科教諭。応召から2年後に復員。依願退職。
長谷川茂:近衛歩兵第二連隊満期除隊後に少尉。再び召集され、解除後1941年6月に中学校教練科教諭として就職。その後すぐに応召された。
注10;学制百年史
注11;「近代日本総合年表」(岩波書店)
注12;京都府通達
注13;学制百年史
【写真】1,6、8、9、10、12(昭和18年度中学校卒業アルバム)
2,3、11 (昭和16年度中学校卒業アルバム)
4、5,7(昭和15年度中学校卒業アルバム)