立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2024.07.12

「立命館大学法学部入学式での末川総長挨拶1968年4月8日(約66分)」公式YouTube配信動画のご紹介

立命館 史資料センターの公式YouTubeチャンネルにて、動画「立命館大学法学部入学式での末川博総長挨拶 196848日( 約66分)」を公開しています。

 

動画は以下のURLからご覧いただけます。

https://youtu.be/Z8T2yBC04JM

 

1968年に挙行された立命館大学法学部入学式での末川博総長の挨拶音声に、史資料センターの資料として保存されている末川博の写真や映像をつけて動画にしました。

 

66分もの長い祝辞ですが、当時の世相、末川先生の独特の口調や癖、そして物の見方考え方(そしてそれは立命館の基本的な見方考え方と軌を一にしている)が全て反映された動画です。

是非ご覧ください。

youtube動画紹介「末川博」

2024.07.02

<学園史資料から>立命館学園史に残る明治と昭和の大火災事件について

 史資料センターは、学園の歴史にまつわる様々な事歴を保存・利活用しています。
 また、様々な学園の事歴の調査研究もしています。
 今回は、立命館学園史に取り上げられた「火災」について、詳しく調べてみました。

 『立命館百年史通史一』では、立命館学園における1908(明治41)年の火災が取り上げられています。この火災により立命館は学園史に残るほどの多大なる損失を被ったわけですが、一体その原因は何であったのか、この事件を掘り下げてみたいと思います。

大火災事件1


(1)1908(明治41)年12月16日の火災

 『立命館百年史通史一』(186-187頁)では次のように記載されています。
 「1908年12月16日未明、大講堂より出火した。『会館及ひ事務所』を残してすべてが烏有に帰し、1905年に西園寺から寄贈されていた『立命館』の扁額もこの時に焼失した。『立命館創立五十年史』によれば、この時の被害額は『大学部教室及大講堂七八坪、中学部教室一〇四坪、同理化学及博物教室三三坪、同器械標本室十坪が全焼してその損害一万七千円、半焼したのは事務所生徒控室、倉庫廂―損害約七十円、書具額一千八百円、器械標本額約八百円、書籍(法政大学講義録)約二千円など計四千六百七十円、総計では二万千六百七十円』に上っている。」
 この火災は、私立京都法政大学として草創して間もなくの大事件であり、あわやその後の教育事業を断念せざるを得ないほどの大規模で致命的なものでした。「明治時代の1円は現在の2万円くらいの重みがあった」(野村ホールディングス・日本経済新聞社運営「お金の歴史雑学コラム」より)とする資料をもとに計算してみると、損失総額は21,670×20,000=433,400,000円となり4億円を超える損失額となります。
 とりあえず授業の対応としては、隣接寺院を借りて翌年1月から授業を再開し、学校再建のための寄付を募るなど、関係者の様々な努力の末、現在の立命館大学に歴史が繋がっているのです。
 私立京都法政大学及私立清和中学校設立者末広威麿が文部大臣小松原英太郎宛に報告した内容は、「本日午前二時教室ノ一隅ヨリ出火シ大学部中学部共校舎ノ大部焼失致候ニ付此段御届候也」(「立命館百年史資料一」242ページ)とあり、深夜二時に教室の一隅から出火したということです。末広威麿から中川小十郎宛の書簡(書留)では、出火場所(大講堂)で最後に授業を行った講師、後始末を行った小使、事務員を特定しているが、最後に事務員が校内を巡回すべきところを行っていなかったと伝えています。さらに中学生が実に乱暴で、新聞にも掲載された下宿屋女将絞殺事件の従犯として中学三年生と五年生が検事局へ送られたことを挙げ、焼失もあるいは中学生が試験妨害を行おうとしたものではないかとの疑いを述べています。(『立命館百年史資料一』244~246頁)
 何やら不穏な雰囲気になってきましたが、当時の新聞記事によりこの火災原因について検証してみましょう。

京都日出新聞より

〇「其の原因は目下川端署にて取調中なるも聞く處に依れば同大学三年級教室内には平素紙屑入代用の火鉢臺ある由なれば或は火鉢の火仕舞悪く火が右の紙屑に燃え移りたる為ならんと云う」(「京都日出新聞」1908(明治41)年12月17日)

大火災事件2

〇「其後所轄川端署にて出火原因取調の結果全く同夜火鉢の始末悪しかりし為なること判明せし」(「京都日出新聞」1908(明治41)年12月23日)


大火災事件3

 以上、所轄の川端署の調査結果記事によれば、教室にあった火鉢の火の後始末が悪く、紙屑に火が燃え移って出火したということでした。とりあえず、学生による放火事案ではなかったことに安堵しました。
 ちなみに学園史に大きな影響を与えた火災は、1942(昭和17)年にも発生しています。その時の状況も資料から見てみましょう。

(2)1942(昭和17)年6月24日の火災

 『立命館百年史通史一』(621頁)では衣笠校地の一隅(現存心館時計台付近)に設置していた日本刀鍛錬所が1942年6月24日未明、火災により大半を焼失すると記されています。こちらも「未明」の不審火であり気になったので当時の京都の新聞にあたってみましたが、あいにくこの火災に関する報道は見つかりませんでした。
 『立命館百年史紀要』第5号には「立命館日本刀鍛錬所の記録」が掲載(293~326頁)されており、この火災についても記述があります。それによれば、「立命館の鍛錬所が、古式鍛錬所の『傘笠亭(さんりゅうてい)』一棟だけを残して火事にあい焼失してしまった。」とあり、当時の責任者が警察からくわしく事情を聞かれたが、結局屋根裏の梁に堆積した炭塵が、自然発火したものと推定されました。
 この火災について中川小十郎は「先日あの小火を出したことは甚だ不祥事でありましてこれは唯私の責任であります。色々調べて見ますと漏電でもありませぬ。全く不完全なる設備の下に力を入れた為であります。工学科の専門家の玄人がうようよして居るにも拘らず全くえらい失策でした。全く私の責任であります。今後はさう云ふことのないやうに十分手を尽くして完全にやるつもりであります。」と自分の責任であることを表明していました。
 しかしその後、中川総長の子息で当時鍛錬所助手として研ぎや鞘作りなどの製作に関わっていた流政之が、軍隊からの米・油の接収や軍刀の増産命令等に嫌気がさし、自分たち(流政之、刀匠・所長の桜井正幸の直弟子である横田正光技士、技工の隅谷正峰)3人が放火したことを自白しており、3人の刀工による放火であったことが判明しました。(『立命館百年史通史一』(707-709頁))

大火災事件4


2024年7月2日 立命館 史資料センター 調査研究員 佐々木浩二

2024.06.07

<学園史資料から>中川小十郎と夏目漱石の交友関係について

 史資料センターは、学園の歴史にまつわる様々な事歴を保存・利活用しています。
 また、様々な学園の事歴の調査研究もしています。
 文豪夏目漱石(以下「漱石」という)と中川小十郎(以下「小十郎」という)は「東京府第一中学」、英学塾「成立学舎」、「予備門(後に第一高等中学校)」、「帝国大学」の学生生活を通してどのような交友関係があったのかを調べてみました。

(1)「東京府第一中学」時代
 夏目漱石の「落第」(『定本漱石全集』第二十五巻別冊上181~186頁、岩波書店2018年版)では、冒頭部分に「其頃東京には中学と云うものが一つしか無かった。…学校は正則と変則とに別れて居て、正則の方は一般の普通学をやり、変則の方では英語を重にやった。其頃変則の方には今度京都の文科大学の学長になった狩野だの、岡田良平なども居って、僕は正則の方に居たのだが、柳谷卯三郎、中川小十郎なども一緒だった。」と小十郎が級友であったことを述べています。その後の部分では学生生活や先生へのいたずら、腹膜炎罹患、落第などが述べられ、米山という学生に「文学をやれ」と力説されて「僕は文学をやることに定めた」という話になっています。
 また小十郎の名前は出てきませんが、漱石は自分の学生時代について「私の学生時代を回顧して見ると、殆んど勉強という勉強はせずに過した方である。」と「一貫したる不勉強―私の経過した学生時代」(『定本漱石全集』第二十五巻別冊上337~345頁、岩波書店2018年版)に述べています。

(2)英学塾「成立学舎」時代
 小十郎が漱石等と学んでいた「成立学舎」について、漱石は「満韓ところどころ」(『定本漱石全集』第十二巻小品275~277頁、岩波書店2017年版)において佐藤友熊という学友の思い出として語っています。
 「始めて彼を知ったのは駿河台の成立学舎という汚ない学校で、その学校へは佐藤も余も予備門に這入る準備のために通学したのであるからよほど古い事になる。佐藤はその頃筒袖に、脛の出る袴を穿いてやって来た。余のごとく東京に生れたものの眼には、この姿がすこぶる異様に感ぜられた。ちょうど白虎隊の一人が、腹を切り損なって、入学試験を受けに東京に出たとしか思われなかった。教場へは無論下駄を穿いたまま上った。もっともこれは佐藤ばかりじゃない。我等もことごとく下駄のままあがった。上草履や素足で歩くような学校じゃないのだから仕方がない。床に穴が開いていて、気をつけないと、縁の下へ落ちる拍子に、向脛を摺剥くだけが、普通の往来より悪いぐらいのものである。」
 なかなかの劣悪な教室条件ですが、予備門に入るために一生懸命に学んだ懐かしい学舎を回想しています。ここには小十郎の名前は登場しませんが、予備門に入学後にこの「成立学舎」で学んでいた学友を中心に、夏目漱石、中川小十郎、太田達人、佐藤友熊、橋本左五郎、斎藤英夫、小城斎、中村是公等で「十人会」が組織されました。

(3)「予備門」時代
 漱石との関係を小十郎は「我輩の中学生時代」(『立命館百年史』資料一18~24頁、学校法人立命館)の中で次のように回想しています。二人は学校終わりに遊んでいた友人でした。「…神田の裏神保町に末廣という下宿屋があって、そこに漱石や中村是公などが下宿していたので、我輩等は学校の帰りにそこで立ち寄って漫談をやるのが例であった。漫談と云ってもこの頃能くある雑誌の原稿にでもなるのとは全く異って本当の無駄話しをやって時日を徒消するのが本領であった。その仲間に漱石こと塩原金之助、中村是公こと柴野是公、太田達人、佐藤友熊、土井軍平、白浜重敬、綿貫吉秋こと堤喜代吉、それに我輩であった。…漱石は何時も室の片隅に寝転んでいて、点々として仲間の所謂漫談を聞いているのであった。」とあります。
 また、後年になって漱石は、「『極北日本 樺太踏査日録』への序」(『定本漱石全集』第十六巻評論ほか558~560頁、岩波書店2019年版)において、「蟹堂君が親しく大経営の方針を聴いたといふ平岡長官や、それから君が世話になつたといふ中川第一部長は、二人共豫備門時代における余の同窓である。平岡君とは夫程親しくはなかつたが、中川君とは別懇の間柄であつた。たしか學校を卒業した時の話だと記憶してゐるが、知り合ひの某々等がある序で顔を合はした折り、座上を見廻して此うちで誰が一番先に馬車に乗るだらうといつたものは此中川君であつた。誰も答へない先に、まあ己だらうなと云つたのも此中川君であった。其時居合はした五六の卒業生のうちで出入りに馬車を驅つてゐるものが今あるかないか、まだ調べて見ない余の知らう筈もないが、少なくとも中川君丈は、慥かに橇に乗つて樺太を横行してゐるに違ひない。その時の一人であつた某理學士も近々樺太へ轉任するといふから、これも中川君と前後して橇に乗る事だらう。」と述べています。このように「別懇の間柄」である中川との思い出を漱石が懐かしく語っています。
 他に、実際の書簡は残されていませんが、漱石による「中川小十郎宛夏目漱石英文書簡下書き」(『漱石全集』第二十六巻492~493頁、岩波書店1996年版)に英文書簡の下書きが残っています。
 「先週土曜日に君を訪ねて聞いたところでは、だいぶ回復に向かっているとのことだったから、2、3日うちには学校でお目にかかりたいものと切に願っている。土曜日に言ったように、君の代わりに学校へ斎藤君に会いに行った。だが残念ながら、きょう斎藤君は休んでいた。君を病床に見舞って、斎藤君からのお見舞いを伝えることもできず、やむなく帰宅した。赦してくれ給え。明日、あるいは明後日、また病床の君を訪ねて、君の気が紛れればとも想う。御快復を心から祈りつつ、親愛なる中川の忠実なる友 塩原金之助 中川小十郎様」。病床の中川小十郎を気遣う漱石の様子がよく表われています。
 さらに、龍口了信著「予備門の頃」(十川信介編『漱石追想』30~35頁、岩波文庫2022年版)では、大学に入学するための予備門での学生生活を描いていて、「私は病気のために学校を休んだので、…中川小十郎君等より一年おくれて明治二十三年に第一高等中学校を卒業した。第一高等学校の同窓会名簿を見ると、中村、夏目、正岡(子規)君等は私と同じく二十三年の卒業になっているから、これらの人々も何等かの理由で一年おくれたのだろう。」とそれぞれ学友の名前を挙げて述べています。
 また太田達人「予備門時代の漱石」(『定本漱石全集』別巻漱石言行録15~26頁、岩波書店2018年版)には上述の「十人会」について書かれています。「…佐藤友熊だの、橋本左五郎だの、それから西園寺公に附いてゐる中川小十郎だのと云つたやうな、成立学舎から来た連中ばかりが集まつて『十人会』といふのを組織しました。勿論、その中には夏目君も私も加はつてゐました。中村是公は成立学舎出身ではないが、ああいふ気性だから、やはり気が合つたものと見え、『十人会』の一人になつてゐました。正岡子規はその時分は未だ別の仲間でした。」この後には、「十人会」のメンバーが一人十銭の予算でほとんど歩いて江の島に一泊旅行に行ったことが描かれています。

(4)「東京帝国大学」時代
 小十郎と漱石が親しい交友であったことを示す帝国大学卒業記念写真があります。明治26(1893)年7月、小十郎が帝国大学を卒業する際に撮影した同級生との記念写真(『立命館創立者生誕150年記念 中川小十郎研究論文・図録集』62頁、学校法人立命館史資料センター)があります。この写真では小十郎と漱石が正装で写っています。


中川と漱石1
*左から、太田達人、中川小十郎、夏目漱石、佐藤友熊


 これまで見てきましたように、漱石と小十郎の交友関係は、漱石が「別懇の間柄」というくらい親しかったことが分かりました。大学卒業後にはそれぞれ進む道が違いましたが、どこかで影響を受け合っていたかも知れないと想像するのも楽しいですね。

【参考】「立命館創立者生誕150年記念 中川小十郎研究論文・図録集」

2024年6月7日 立命館 史資料センター 調査研究員 佐々木浩二

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