立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2023.03.23

<学園史資料から>『末川博随想全集』宣伝パンフレット

末川博随想全集パンフレット1

 1970年代に本学に在学されていた校友の方から、『末川博随想全集』の宣伝パンフレットをいただきました。

 表紙には「末川博随想全集 全九巻」「内容見本」「予約募集」とあり、B5判、巻頭1頁、内容11頁、巻末2頁からなる小冊子で、ハガキ大の「予約申込書」が綴り込まれており、『栗田出版会 刊行物ご案内 1972』というA5判4頁のパンフレットが挟み込まれていました。

 内容を拝見すると、当時の知識人による「推薦のことば」が14篇掲載されており、ほかに内容見本など出版物の内容を紹介する記事が掲載されています。

 ところで、文学部のある大学の図書館などでは「同時代評を探している」という相談を受けることがあります。「同時代評」とは、その文学作品の著者と同じ時代背景を共有している人による、その著者や著作の評価です。「同時代評」は、その著者や著作の時代性や進取性を読み取ったり、あるいはその時代そのものを再評価したりといったことに通じる資料です。この宣伝パンフレットはまさに末川博の同時代評ですので、それぞれ短文とはいえ、1970年代初めという時代の中での末川博を研究して行くうえでも、あるいは1970年代初めという時代を研究するうえでも、一級の資料ということがいえます。

 末川博は本学の名誉総長で、『末川博随想全集』は末川博の学問的論文以外の随想を整理、集大成したものです。弊所のほか、本学図書館や国立国会図書館にも所蔵されており、末川博を研究する際の必読書といっても過言ではない資料となっています。しかし、今回いただいた宣伝パンフレットについては、これらの図書館の所蔵図書目録データベースには見当たらず、入手困難な資料であることは間違いありません。

 たいへん貴重な資料をご提供いただき、誠にありがとうございました。

2023年3月23日 山田和幸



『末川博随想全集 全九巻 内容見本』目次

著者の言葉末川博巻頭
推薦のことば
 日本近現代史についての貴重な証言家永三郎1
 ほんとうのジャーナリスト大内兵衛1
 時代のちがいをこえた共通遺産久野収2
 温容の大儒桑原武夫2
 真実を求めてやまぬ人白石凡3
 大衆への影響力住谷悦治3
 一人の自由主義者の軌跡奈良本辰也4
 末川博随想全集野間宏4
 考える人間の心の糧藤田信勝5
 リベラルな末川先生細野武男5
 末川博先生松田道雄6
 七〇年代への指針安田武6
 学問、思想、行動が渾然と統一吉野源三郎7
 末川君の随想全集を若い学徒の伴侶に奨める我妻栄7
全九巻内容8
末川博略年表11
組方見本巻末
刊行者のことば    株式会社栗田出版会 社長 栗田確也巻末

2023.03.16

<学園史資料から> 揮毫「世界元来大 山川終不老」が意味するところ

末川博「世界元来大~」1

 2022年8月22日の史資料センターホームページの記事「<懐かしの立命館>寄贈された末川名誉総長の扁額」で、本学の名誉総長である末川博が総長だったときに揮毫し、本学自動車部にフォード社製の自動車を贈ってくださった大鳥居満也氏に、その御礼として贈られた横額が、大鳥居氏のご親族から本学に寄贈されたことについてご紹介いたしました。貴重な横額を寄贈いただいた経緯については、前記事でご紹介しておりますが、本稿では、揮毫された「世界元来大山川終不老」が意味するところについてご紹介します。

 結論から申し上げますと、はっきりとは分かりませんでした。

 末川の残した文章の中で、「世界元来大山川終不老」が意味するところにもっとも近いと思われる文章は以下のものです(※1)。

 私は、この京都の秋が好きである。澄みきった空をあおいで、「世界は元来大なり」と思い、「山川ついに老いず」と口ずさんで心なごむのも、この京都の秋である。若いころに読んだ「空ゆく雲をながめよ、千変万化、地上のいかなる景観にもまさる」という意味の英詩を思い出しながら、空をながめるのが、私の日課のようになっている。

 英詩の出典については不明ですが、太古の昔から変わらない、雄大でかつ清澄な景色を称える気持ちを込めているのではないかと思われます。

 また、インターネット上に、本学ワンダーフォーゲル会の1981年の機関誌と思われる「漂雲」という冊子がアップされており(※2)、その巻頭に、末川の言葉として、

雲のさすらいに.あてどはないけれど.山にも川にも. 道があるように.
われらのさすらいには. 遠くてとうとい道がある.
山川終不老世界元来大

と記述されています。こちらも雄大な景色を称えているようですが、その雄大な自然の中を力強く歩む人間の尊さも感じさせます。

 最初に引用した文章で、「世界は元来大なり」「山川ついに老いず」と読み下している通り、この十文字の文章は、意味としては「世界元来大」と「山川終不老」の間で切れます。そして、どうやら前段と後段はまったく出典が異なるようです。

 さて、横額を寄贈いただく際に寄贈者からお聞きしたところでは、これが贈られたのは1956年以降だろうということでした。その後、1962年に末川によって書かれた次の文章が残されています(※3)

 物好きな知人や友人から何か一筆書いてくれと頼まれると、ことわることもなく、下手な字を書くことが多い。…こうなると、いつも同じ文句ばかり書いているのも気が引けるし、また自分でも面白くないので、何を書こうかと迷うことがしばしばである。学校を卒業していく学生たちへは若い諸君向けの処世訓めいたものを書いたり、結婚した新家庭へは未来をきずく教訓めいた文句を列べたものを贈ったりしているのだが、頼まれる人の筋によってはそうはいかぬことがある。

 他人のものを拝借するとなると、古今を通じ和漢にわたり、無尽蔵といってよいほどの宝の山がある。…私の知識と教養が貧弱であり、それに字を書く場合の事情に制約されたりこちらの気分に左右されたりして、おのずからそこには大きな限界がある。そういう限界のなかで私が利用させてもらっているのは、だいたい中国の詩人のものであるが、そのなかでも古いところでは陸放翁の詩が多く、新しいところでは魯迅の語が多い。

 放翁の詩に心をひかれたのは、河上肇の遺著『陸放翁鑑賞』を見てからのことである。

 「桃園憶故人」という詩のなかで「残年我に還る従来の我」とうたっている通りに、私が詩歌を解する素質と詩歌を語る資格のないことは、従来の我であって、強弩の始も末もないけれども、私自身は自ら力めてきた積りだからである。しかも、同じ詩中の「世界元来大」という字句は、まことに爽快雄渾で、私は、好んでこれを書いている。

 揮毫の経緯を推量するような資料は何も残っていませんが、引用したこの文章から察するに、あまり自ら進んで揮毫するようなことはなかったのではないかと思われます。自動車部に高級車を贈っていただいた大鳥居氏に何か御礼をしたいと末川が申し出て、「いえいえ御礼なんて結構ですよ」と言う大鳥居氏に、「いえいえ何か心ばかりのものだけでも」と末川が押し、「それなら先生のお好きな言葉を一筆書いていただければ、大切にいたしますよ」と大鳥居氏が答えるというようなやりとりを、末川の残したこの文章から想像するのも一興かもしれません。

 末川が先の文章で言及している河上肇の『陸放翁鑑賞』は、本学図書館の末川文庫に所蔵されていて、利用者が閲覧できるようになっています(※4)。読んでみますと確かに、

桃園憶故人

一弾指頃浮生過  一弾(いちだん)指頃(しけい)に浮生過ぐ。
堕甑元知當破    甑(そう)を堕さば元と當に破るべきを知る。
去去酔吟高臥    去々酔吟高臥。
独唱何須和     独唱何ぞ須ゐむ。
残年還我従来我  残年我に還る従来の我
萬里江湖煙舸    萬里江湖の煙舸(えんか)
脱盡利名韁鏁    脱っし盡(つく)す利名の韁鏁(きやうさ)
世界元来大     世界元来大

一弾指頃:一瞬間と云ふに同じ。
堕甑:甑は土やきの槽。昔し後漢の孟敏、甑を荷して地に堕し、顧みずして去りし時、人その意を問へば、甑既に破る之を視て何の益かあらむ、と答へし故事に本づき、この一句あり。
去々は、去れ去れ、速に去れ、といふ意味。
韁鏁はきづな、束縛。

と記されています。目先の利益に捕らわれがちな人の世の小ささと、そこから離れたところにある「爽快雄渾(※5)」な世界を対比しているように思えます。本学で中国文学を専門にする研究者に照会したところ、これは詩ではなく、唐宋以後に行われた詞という歌謡文芸の作品なのだそうです。

 これで前段は出典がわかったのですが、後段の「山川終不老」は『陸放翁鑑賞』には見当たりません。ただ、衣笠キャンパスの末川記念会館にある末川の座像に「青山白雲深 一湲身廻曲 心事連広宇 山川終不老」と刻まれており、これも末川が好んだ言葉であることが分かります。

 これについても研究者に照会したところ、座像の四句は押韻されておらず一首の詩ではないとのこと。すべての出典を明らかにはできないものの、「山川終不老」を始めそれぞれ古今の詩人が詠んだものからお気に入りの句を列べたものでしょう、とのことでした(※6)。

 末川がどうしてこの言葉を選んで揮毫したのかについて、確実なことはやはり分かりませんが、本学の学生のために高価な私財を投じていただいた寛大なお気持ちに対して、これを雄大で清澄な自然になぞらえることで、感謝と称賛の気持を表したのではないかと考えられます。

2023年3月16日 立命館 史資料センターオフィス 山田和幸

※1 『末川博随想全集 第八巻 京洛閑話』(栗田出版会, 1972年2月. 立命館大学図書館 所蔵, 立命館史資料センター 所蔵)p.491~「京の四季:京都の空と瓦と土」より引用。初出は、1969年9月27日『京都新聞』

※2 http://ruwv-ob.cute.coocan.jp/index.files/user_img/kumo1981.pdf 2023.2.27アクセス

※3 『末川博随想全集 第七巻 若い諸君へ』(栗田出版会, 1972年5月. 立命館大学図書館 所蔵, 立命館史資料センター 所蔵)p.32~「放翁の詩と私」より引用。初出は、1962年7月『中国詩人選集』二集「陸游」付録

※4 河上肇 著. 『陸放翁鑑賞』(三一書房, 1949年. 上下巻. 立命館大学図書館 所蔵)

※5 雄渾 : 雄大で勢いのよいこと。書画の筆勢や詩文などが力強くよどみのないこと。また、そのさま。

"ゆう‐こん【雄渾】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2023-03-01)

※6 「青山白雲深」は元の李繼本『一山文集』卷一「松下鼓琴圖」詩の末に「我欲往聽之、青山白雲深」とあること、「山川終不老」については、最近の臺灣の詩人がこれをつかっていることが、ネットにみられることなどを教示いただいた。

2023.02.17

立命館のモニュメントを巡る(第6回) 佐々木惣一先生の胸像

佐々木惣一胸像1
【佐々木惣一先生胸像】
 胸像は高さ一尺、台座前面に「頌徳」、背面に「贈 佐々木惣一先生 昭和十一年四月、立命館大学学生一同」 揮毫は天龍寺管長関精拙師

 今回は、昭和13(1938)年の卒業アルバムに残された、佐々木惣一学長(名誉学長)の胸像の紹介です。残念ながら、現在はその実物の所在が不明ですが、アルバムによってその胸像がよみがえります。
 佐々木惣一(注1)は、昭和8年の京大事件により7月に京都帝国大学を免官となり、その9月に17人の先生方とともに立命館大学に招聘されます。12月12日には法律学科部長に、そして翌9年3月9日に立命館大学の学長に就任しました。
 学長の任期の間、大学の教学はもちろんですが、昭和10年には創立35周年記念事業にも取り組みました。
 学長の任期は3年でしたが、昭和11年3月に1年の任期を残し辞職しています。当時の天皇機関説問題などを巡る、国の動向と社会の状況によるのでは、と言われています。
 立命館は佐々木学長の功績を深謝し、名誉学長としています。
 『立命館学誌』192号(昭和11年9月15日)と193号(昭和11年10月15日)に名誉学長佐々木博士の胸像贈呈の記事があります。
 この胸像は法経学部の学生の拠金により制作されました。贈呈式が10月2日に広小路学舎の国清殿で行われました。夜には学生幹事会主催で佐々木学長を囲む座談会が開催されています。
 贈呈式翌日の京都日出新聞も「教え子が築いた佐々木博士の彫像完成 立命館国清殿で贈呈式」と記事を掲載しました。
 昭和13年の卒業アルバムに胸像が掲載されたのは、11年の学生の卒業年にあたったからでしょう。
佐々木総一胸像2

佐々木惣一胸像3
【写真:胸像の贈呈式と謝恩座談会―昭和13年卒業アルバムより―】

 末尾に佐々木学長のエピソードに触れたいと思います。
佐々木博士還暦記念祝賀会編『佐々木博士還暦祝賀記念』(昭和13年10月)の「祝賀会々録」に掲載されている、吉川大二郎氏(注2)の祝賀会での佐々木への挨拶です。ちょっと長くなりますが引用します。
 「現在の教育制度におきまして、学生生活に、試験制度が附きものであります。そして、又変なことを言ふやうでありますが、試験制度には遺憾ながら不正行為が附きものであります。この不正行為を、佐々木先生の学問に対する熱情とその徳育とが、一時的ではあったとしても、之を阻止し得たといふ事実をここに御披露に及びたいと思ひます。……それは恰度、先生が立命館大学をお辞めになる直前の一昨々年の三月、同大学の廿二号の大教室で試験が開始されて居った際でありますが、その試験の酣なるときに当りまして先生が突如として、その温容を現はされました。……学長自から試験場に現はれるといふことは私の短い学生生活におきましては、まづ経験しなかったことであります。……それまでの間は可成り雑音がありまして、我々試験官共は閉口して居ったのでありますが、先生が突如としてお見えになると共に、学生は静粛になり而も感激の心が我々にもひしひしと感ぜられたのであります。……その後に、或る学生が私の許に来て、「学生中の不良分子は不正行為をやらうと着々と準備を整へて居ったところへ、佐々木先生の温顔を拝しびっくりして、その悪い意図を抛棄した、従って成績は非常に不良であった、併しこの不良であったということは尊い不良であった」と。……
 このエピソードには、学生が自ら拠金をして胸像を贈呈したことにつながる、教育者としての先生に対する学生の信頼と感謝が覗えるのではないかと思います。

(注1)佐々木惣一〔1878(明治11)年~1965(昭和40)年〕
 戦前の立憲主義憲法学を代表する憲法学者。1933(昭和8)年、京都帝国大学で京大事件(瀧川事件)が発生。瀧川教授の学説を巡り文部省が瀧川教授を罷免することに端を発したものであったが、教授の罷免にとどまらず大学の自治や学問の自由に対する侵害であるとして闘い免官となった。この事件により佐々木惣一教授はじめ18人を立命館に招聘した。立命館では、既に1907(明治40)年から講師をしていたが、1934(昭和9)年3月から2年間学長を務めた。学長辞任後名誉学長となった。
 戦後憲法改正にあたり憲法改正案(佐々木試案)を起草、1952年には文化勲章を受章、また京都市名誉市民となった。

(注2)吉川大二郎〔1901(明治34)年~1978(昭和53)年〕
 民事訴訟法を専門とする法学者。1935(昭和10)年に立命館大学教授に就任。
 1966(昭和41)年定年退職、名誉教授。この間、評議員・理事を務める。戦前裁判所判事を務め、弁護士となっている。1959年には日本弁護士連合会会長。

 ≪参考≫
(1) 立命館 史資料センターHP「昭和9年前後の立命館大学-佐々木惣一学長の時代―2022年6月
(2) 立命館 史資料センターHP「立命館のモニュメントを巡る(第3回)佐々木惣一書「平和塔」 2021年9月


2023年2月17日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

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