立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2023.07.18
<懐かしの立命館>昭和20年代の付属校は文化・芸術の学び舎
昭和20年代の付属校は文化・芸術の学び舎
文化は、戦後の荒廃した時代に新しい社会を建設していく若者たちに大きな希望を与えるものでした。立命館の付属校では、熱気に満ちた若き芸術家たちが教諭となって、個人の持ち味を生かしながら各分野の先頭に立ち、生徒たちと理解を深める努力を重ねていったのでした。
終戦直後の1945(昭和20)年9月早々、立命館第二中学校(後の立命館神山中学校・高等学校)では全校美術展覧会が数教室を会場にして開かれました。
写真1 立命館第二中学校全景
応召から帰ってきたばかりの教諭野崎龍吉は、「美術展覧会は美術科教員であった小西壽(注1)、澤村藤四郎(注2)、八木一夫(注3)、三教員の肝いりで行われたものであるが、戦争は終わったという感じが濃く、それまでの抑圧のなかで、生徒たちが希求していた何物かが強くにじみ出て、観る者の心を捉えた。」と振り返っています(注4)。
ここに紹介された三教諭と野崎は、共に同世代の青年たちでした。彼等と同時期の教諭として立命館第二中学校の書道を担当していたのが秋山公道でした(注5)。1943(昭和18)年4月から立命館第一中学校や夜間、商業夜間などで書道を教え、第二中学校でも1946年5月まで講師を勤めていました。
美術展覧会を開いた三人は、1945年10月から46年1月の間に退職していますが、それでも野崎が「一つの学校で短期間であってもこれほどの教員たちによって実現した校内美術展覧会は、生徒たちにとってかなり豊かな文化的雰囲気が醸成された」と語っています(前述、注4)。
写真2 立命館神山高校時代の顧問の野崎と美術部員たち
第二中学校が立命館神山中高時代となる1948年からは、演劇や放送活動でも生徒の活動が活発に展開していきました。文化祭の演劇では、中学の演出を高校の演劇部員が指導。教員劇「ベニスの商人」では、当時の教諭で後に文芸評論家として活躍した三枝洸一(注6)が演出を、舞台監督を同夫人の三枝和子氏(注7)が担当していました。
写真3 教員劇「ベニスの商人」の一場面(1950年 神山中学校卒業アルバム)
三枝が後に指導した放送部もユニークな活動を展開していました。放送設備・配線の一切から、テープレコーダーの組み立ても手掛け、毎日の昼放送では、伝達に続いて生徒たちの自主番組が、研究発表、音楽鑑賞、朗読、ラジオドラマと多彩に編成され、教員有志のリレーで創作連続ドラマも放送されていました。この頃の放送部員の中には後に俳優として活躍する玉生司朗(注8)も含まれていました(前述、注4)。
北大路の立命館第一中学校(後の立命館中学校・高等学校)にも画家の教諭が在職していました。安田謙(注9)は、野崎と同じ1943(昭和18)年に立命館第一中学校に採用され、1951(昭和26)年まで勤めていました。安田の退職と交代で野崎が神山から北大路へと移っています。独立美術協会会員であった安田が指導した中学生のなかに中井史郎がいました。中井は、立命館高等学校へ進学後、今度は美術教諭であった日本画の麻田鷹司(注10)から指導を受けました。そして、立命館大学進学後には本格的に画家への道を進み、在学中に二科展初入選を果たし、若くして注目される存在となったのでした。
写真4 1951年の神山高校の全校写生大会
後に立命館神山中学校高等学校の校長となった飯田五男(注11、写真4)が、廃校前の最後の学校新聞で語っている言葉に当時の立命館付属校が目指していた姿があるようです。
写真5 飯田五男 神山中学校高等学校長
私学は、その個性と伝統とに生きる。(中略)
学校は若い学生たちに夢を実現させる場所である。何もかも公の費用でまかなわれる官公立と、すべて自分でしなければならぬ私学とでは条件がちがう。しかし、この違いを克服しながら、私学は生長し発展していくのである。(中略)こういう困難の中にこそ本当に夢が育ち、実現されていくのであるかもしれない。温室の中でよりも、寒風吹き、厳霜下る山野にこそ、真に美しい自然の姿があるのではないか。(注12)
戦後10年という時間は、物質的にも極めて貧しく、世情不安の続いた時期であったにもかかわらず、文化的なものを求める意欲が積極的に進められていったと考えられます。以前に紹介した立命館高等学校新聞局の「立命館タイムス」(注13)など全国で学校新聞が活発に発行されていたこともその一つでしょう。自分たちの文化を創り上げ、自分たちの国を築き直さなくてはとのエネルギーが、付属校の文化芸術の分野から育ちつつあったと言えるのではないでしょうか。
2023年7月18日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
注1;
小西壽は1919年生まれ。1945年4月に立命館第二中学校教諭となったが、翌年1月に依願退職。その後に京都市立小中学校教諭を経て、1956(昭和31)年に再び立命館中学校講師となって美術を教えた。後に退職して小西画塾を主宰し絵画の指導にあたった。
注2;
澤村藤四郎は1918年生まれ。陶芸家として修業中の1941(昭和16)年に二代陶哉を襲名し、陶磁器制作の家業に従事。1944(昭和19)年8月に立命館第二中学校助教諭となったが、翌年12月に退職し、その後は家業と陶芸活動に専念した。
注3;
八木一夫は1918年生まれ。1939(昭和14)年5月に応召された翌年除隊。1944(昭和19)年5月に立命館第二中学校の講師を経て助教諭となったが、1945年10月に退職。その後,1948年に前衛陶芸団体「走泥社」を結成。作品「ザムザ氏の散歩」を発表し, オブジェ焼の元祖のグランプリ作家として活躍し、現代陶芸に新分野を確立した。1971年に京都市立芸術大学の教授となった。
注4;
野崎龍吉1918年生まれ。1943年に立命館第二中学校の教諭となる。応召から復員して、第二中学校で再び美術教諭として勤める。立命館中学校高等学校校長(1971年~74年)も務める。(「立命館学園広報」 1972年5月発行)
注5;
本名は秋山晴次。1904年生まれ。後に京都書道連盟理事長などを歴任。京都市芸術功労賞受賞。秋山の妻は立命館創立者中川小十郎の孫娘。
注6;
ペンネーム森川達也。1922年生まれ。1947年10月に立命館第二中学校の国語科講師として勤め、後に専任教諭となって1957年3月に退職。その後は文芸評論家として活躍。大学教授と実家の住職を兼務。
注7;
1929年生まれ。中学校の教師を経て本格的作家活動に入る。1969年に第10回田村俊子賞を受賞。日本ペンクラブ女性作家委員会初代委員長を務めた。
注8;
本名。立命館神山高等学校2年の時に最後の生徒会長として学校存続の請願書を学園評議員会宛に提出などした。3年生で北大路の立命館高等学校へ移る。俳優・声優としてテレビ・舞台・映画などで活躍。
注9;
本名は安田謙三郎。1911年生まれ。在職中に応召され、1945年10月から復職。1951(昭和26)年に退職。公立高校に勤めた後、京都市立美術大学教授となる。京都市文化功労者で表彰。作品「雪景伊吹山」は滋賀県立近代美術館に展示。
注10;
1928(昭和3)年生まれ。本名は昂(たかし)。京都市立美術工芸学校在学中に学徒勤労動員で負傷。1951年から1953年まで立命館高等学校に務めた。その後、法隆寺壁画の再現模写にも加わり、武蔵野美大教授となった。
注11;
飯田五男(はんだいつお)は1911年生まれ。1940年夜間の立命館商業学校教諭となる。1947年から神山中学校校長、翌年神山高等学校校長。廃校になる最後まで校長として存続に努めた。神山廃校と同時に退職。公立中学校校長などを勤めた。
注12;
立命館神山学園新聞 1952年2月21日発行
注13;
立命館 史資料センター ホームページ
「学校新聞にみる戦後初期の立命館高等学校の自治活動」前・後編
2023.06.06
パリ講和会議全権大使西園寺公望に随行したキャビン・トランク
第一次世界大戦が1918(大正7)年11月1日に休戦した。アメリカ・イギリス・フランスなど連合国は講和会議を開催することとなり、1919年1月18日に第1回総会が開会された。
日本政府(原内閣)は、西園寺公望を全権大使(全権委員)とすることを11月27日に決定し、講和会議出席者が12月3日に裁可された。
首席全権として西園寺公望のほか、次席全権に牧野伸顕、その他全権として珍田捨巳(駐英大使)、松井慶四郎(駐仏大使)、伊集院彦吉(駐伊大使)が選ばれ、随員として永井松三、長岡春一、佐分利貞男、松岡洋右、吉田茂など、また西園寺全権の随員として侍医・三浦謹之助、西園寺八郎、公爵・近衛文麿、西園寺八郎夫人・新子、医学博士・勝沼精蔵などが随行した。
牧野全権は12月10日に東京を発って海路アメリカ、ロンドンを経由し、1月18日にパリに到着した。
西園寺全権一行はパリへの往路・帰路に客船を利用しているが、本稿は、その航路に使われた西園寺公望のキャビン・トランクの紹介である。
【写真:西園寺公望のキャビン・トランク】
キャビン・トランクは、現在エース株式会社の「世界のカバン博物館」に所蔵されている。1998年5月、西園寺公友氏より寄贈された。経緯は、立命館が1990年に創立90周年を迎えるにあたって『西園寺公望傳』刊行を計画、その際西園寺家に所蔵されていたことが判明し、寄贈するに至ったとのことである。
近衛文麿は、随行した往路で日記を残している。
近衛の日記によると、西園寺全権大使一行は、以下のような行程でパリに向かった。
1919(大正8)年1月11日、西園寺公望は東京駅を出発、原総理が国府津駅まで同乗し、侯爵は三ノ宮駅に到着した。1月12・13日は神戸にて静養した。
1月14日 曇 日本郵船会社の丹波丸(注1)に乗船し、出帆
1月15日 曇 門司入港、下関の山陽ホテルに投宿
1月16日 晴 山陽ホテル出発、門司港出帆 玄海洋上
1月18日 雨 揚子江口通過、上海着 アストアハウスに投宿 荷物の着否を取調べ
1月20日 快晴 本船に帰船、出帆 揚子江口を出てボナム海峡通過
1月23日 曇 香港入港
1月24日 半晴半曇 香港出帆
1月26日 晴 安南沖通過
1月29日 曇 新嘉坡投錨
2月1日 晴 ペナン入港
2月2日 快晴 ぺラック島通過
2月3日 快晴 スマトラ通過
2月5日 晴 セイロン島南東端通過
2月6日 快晴 コロンボ入港
2月8日 快晴 コロンボ出帆
2月13日 曇 ソコトラ島到達
2月15日 晴 アデン沖
2月18日 快晴 セントジョーンズ島を見る
2月20日 晴 スエズ運河 ポートセッドに入港、ホテル投宿
2月21日 晴 ポートセッド出帆
2月22日 晴 地中海に入る
2月25日 晴 ストロンボリ―島通過
2月27日 曇 マルセーユ入港
3月1日 晴 巴里に出発 列車にて
3月2日 晴 巴里着
会議は、五大国(米・英・仏・伊・日)首脳者会議や五大国の十人会議など議題に応じて開催されたが、西園寺全権は五大国首脳者会議に出席、その他の会議は牧野全権や、珍田全権、松井全権が出席した。
西園寺公望は3月15日に五大国首脳者会議に出席したのをはじめ、3月17日、3月19日、3月21日、3月22日、3月24日と五大国首脳者会議、4月11日に平和会議第四回総会、4月28日の平和会議第五回総会、5月6日平和会議第六回総会などに出席し、6月28日にはヴェルサイユ宮殿にて平和条約調印式に出席し五大国全権委員として調印した。調印式には、敗戦国ドイツ、連合国側は日・英・米・仏・伊の五大国をはじめ、ベルギー、ブラジル、キューバなど21か国が調印した。
西園寺公望は講和会議を終え、7月8日にロンドンに行き、10日にイギリス皇帝に拝謁した。近衛文麿とは7月8日に別れ、近衛はヨーロッパ各国、アメリカを訪問して帰国した。
西園寺公望は7月13日には荷物の整理を行い、17日に仏国外務大臣と大使館に暇乞いをし、19日に熱田丸(注2)に乗船した。
1919(大正8)年8月23日に神戸港に帰着、翌24日に東京に帰った。
東京からパリまでの往路は51日、復路は37日であった。
〔ちなみに、現在、東京(成田)からパリまで飛行機で平均12.5時間ほどである。〕
この歴史的な第1次世界大戦のパリ講和会議の往路・帰路の移動に、このキャビン・トランクも常に随行したのである。
キャビン・トランクには所有者を、K.SAIONJI と朱書きされている(注3)。
パリ講和会議の資料や、西園寺侯爵の身の回りのものを運んだのであろう。ちなみにパリでは、何度となく洋服屋に足を運んでいる。
西園寺公望は、パリ講和会議に全権委員として出張するにあたり大勲位に叙され、菊花大綬章が授与された。
帰国の翌年、大正9年9月には、勲功により公爵に叙せられた。
(注1・2) 丹波丸は明治30年に建造で6102トン、熱田丸は明治42年建造で8523トン。ともに日本郵船の船で、欧州航路に就航した。丹波丸は昭和9年売却、熱田丸は昭和17年に戦争により沈没。
(注3) 西園寺公望自身は、明治38年に「ローマ字ひろめ会」の初代会頭になっているが、SAIONNZI と表記した。パリ講和会議での署名もSaionzi である。
付記:参議院事務局『立法と調査』2011年12月No.323に、宇佐美正行氏の「パリ講和会議と日本外交」の記事が掲載され、憲政記念館開催の「大正デモクラシー期の政治特別展」でこのキャビン・トランクが展示されたことを記している。
2023年6月6日 立命館 史資料センター 久保田謙次
2023.05.2
千葉県鴨川市に残る西園寺公望揮毫の二行書
【写真:西園寺公望二行書 鴨川市郷土資料館所蔵】
千葉県の鴨川市郷土資料館に、西園寺公望揮毫の二行書を訪ねました。
「花陰流影散為半院舞衣 水響飛音聽来一渓歌板」 陶庵主人公望書
箱蓋に、公爵西園寺公望公書 蓋裏に、昭和二年初夏拝観 中川小十郎謹識
花陰影を流し 散じて半院の舞衣と為る
水響音を飛ばし 聴くに一渓の歌板来る
翻字と訓読は、城西国際大学の岩見輝彦助教授(当時)『城西国際大学紀要』第5・6巻 1997年・1998年によります。
西園寺公望の書で二行書は比較的少ないと思われます。
西園寺公望がいつ揮毫したのかはわかりませんが、昭和2年の初夏に中川小十郎が箱書を書いていることも注目されます。
昭和2年に西園寺公望と中川小十郎が直接この書について、関係したかどうかは不明です。
この頃、西園寺は興津の坐漁荘を住まいとしていましたが、4月半ばから6月末まで京都の別邸清風荘に滞在、一方中川は何度か東京と京都を往復しています。
この二行書は、戦後池田内閣や佐藤内閣の大蔵大臣を歴任し、城西大学を創立した水田三喜男の夫人が出身地である鴨川市の郷土資料館に寄贈した「水田コレクション」のうちの1点です。
水田は、京都帝国大学に昭和3年に入学し、昭和6年に卒業しますが、その経歴からは西園寺や中川との直接の交流があったとは思えません。水田は、文化・芸術作品の収集にも力を注ぎ、明治・大正時代の伊藤博文、山縣有朋など著名な政治家の書も収集していました。そうした中で西園寺公望の書を入手したと思われます。
早春の房総を訪ね、この書から西園寺公望の風流を詠う光景を思い浮かべ、そして西園寺から中川へ、さらに水田三喜男へと渡っていった道のりに想像を馳せた次第です。
2023年5月2日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次