立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2023.12.06

<懐かしの立命館>高校王将への道 付属校将棋部の活動を追って

王将への道1
はじめに
 2023年は藤井聡太プロの八冠達成によって、将棋界が今まで以上に注目され、幼い年齢の子どもたちにも取り組める競技として、一躍大きなブームとなりました。
 そこで、今回は立命館学園の付属校4校における将棋の歴史と現在を取り上げてみました。

1.立命館中学校・高等学校
(1)創部 
 1954(昭和29)年版の中学校と高等学校定時制(全日制には記載なし)入学案内のクラブ活動に初めて将棋部の名をみることができることから、創部は前年の1953(昭和28)年頃かと考えられます。戦後復興の時代、中高校生たちにとって将棋が貴重な娯楽兼競技であっただろうことでしょう。当時のクラブと同好会との定義づけは資料が残されていないため区別を明確にすることはできません。
 中学校ではその後の活動記録が見られませんが、1967(昭和42)年に同好会として復活し活動を続け、1973(昭和48)年から正式のクラブとして昇格しています。
 高等学校定時制将棋部は、1966(昭和41)年の廃校と共になくなりました。これ以降では、高等学校全日制で1973(昭和48)年から同好会として活動を始め、1979(昭和54)年正式クラブへと昇格し、その後は中高合同の将棋部として活動してきました。
(2)全国高等学校将棋選手権大会への道
 高等学校の同好会であった1977(昭和52)年、団体で京都府第1位となって(全国大会の団体代表は都道府県から1校で、団体戦出場者は個人戦に出場できないという規定)初めて第13回全国高等学校将棋選手権大会(以下、全国大会)の男子団体の部に出場し、翌1978(昭和53)年の第14回大会では男子団体で第3位に入賞しています。その後も全国大会男子団体の部では1981年(第17回大会)、1983年(第19回大会)と出場し、1998年(第34回大会)での全国ベスト8を最後に全国大会団体出場は途絶えました。

王将への道2
写真1 立命館高等学校男子団体第3位

(3)その後
 1988(昭和63)年に男女共学と深草移転となってからも活動を続け、少数ながらも女子の入部者もいました。しかし、部員数が年々減少していくこととなり、2004(平成16)年に中高共に最後の部員を送り出した後、一年間の暫定的期間を経て2006(平成18)年3月で将棋部は廃部となりました。
 高校にはそれ以前から特別対応クラブという制度が認められていて、クラブがなくても個人で文化・運動面で励む生徒の活動を支えていました。この制度によって、2021(令和3)年に個人で将棋に取り組む三村陽菜さんが高校へ入学し、その年の第57回全国大会女子個人の部で5位入賞と活躍し、今年まで3年連続で全国大会に出場する活躍を続けています。これからも三村さんに続く生徒が登場することが期待されます。
 
2.立命館宇治中学校・高等学校
(1) 創部
 前身である宇治高等学校時代では、1962(昭和57)年版の校務便覧に初めて囲碁同好会が登場以来、同好会として活動を続けてきました。1994(平成6)年に立命館宇治高等学校として開校してからしばらくは活動がありませんでしたが、2001(平成13)年からは囲碁同好会として再出発し、2003(平成15)年からは将棋・囲碁同好会として活動を続けてきました。
(2)全国高等学校将棋選手権大会への道
 その後、SAプログラム(Scholar Athlete & Artist)【注1】の応援を受ける北村桂香さんが入学し、高校1年生ながら2011(平成23)年の第47回全国大会女子個人の部で優勝、翌年同大会準優勝という華々しい活躍をみせ、高校卒業後にプロの女流棋士への道を歩んでいます。
 続いて、同じSAプログラムで入学した藤井奈々さんは第50回(2014年)と第51回(2015年)の全国大会女子個人の部で2年連続優勝という大偉業を達成しました。
(3)その後
 このように個人として全国的に大活躍する生徒が誕生しましたが、現在、生徒のクラブ・同好会としての活動は途絶えています。輝ける先輩たちに続く後輩が登場することを願っています。

3.立命館慶祥中学校・高等学校
(1)創部
 前身の札幌経済高等学校から1996(平成8)年に立命館大学慶祥高等学校が創立され、2000(平成12)年に中学校が開設されました。現在の囲碁・将棋部は、その後の2010(平成22)年に創部され、中学校と高等学校の男女部員たちが共に活動を続けています。
(2)全国高等学校将棋選手権大会への道
 近年の高校生の活躍は目覚しく、2021(令和3)年の第57回全国大会女子の部に北海道代表として出場し、今年2023年の第59回大会では女子団体で準優勝となり、文化庁長官賞を受賞しています(現在の大会は全国高等学校総合文化祭の一つの部門として開催されています)。北海道勢女子の準優勝は9年ぶりの快挙でした。男子も、全国大会予選である全道高等学校将棋選手権大会の団体で第3位と健闘しています。中学生も文部科学大臣杯小・中学校将棋北海道大会の団体戦で2年連連続上位入賞と好成績を収めていて、中高で40名を超える部員たちが日々の活動に励んでいます。

王将への道3
 写真2 立命館慶祥高等学校 全国大会女子団体準優勝

4.立命館守山中学校・高等学校
(1) 創部
 立命館守山高等学校として開校された翌2007(平成19)年版の学校案内から将棋部の名前が登場しています。1,2年生の生徒たちで学校生活もクラブ活動も本格的に動き出した頃の創部で、文化クラブのなかでは開校からの早い時期での出発でした。以来、現在まで高等学校の男女部員たちで活動を続けてきています。
(2) 全国高等学校将棋選手権大会への道
 近年、しっかりと実力を備えてきていて、滋賀県内でも実力校として評価を高めています。県代表として男子団体の部で、2021(令和3)年の第57回全国大会から今年まで3年連続で決勝トーナメント進出を果たしています。また、今年開催の近畿総合文化祭(近畿大会)には県代表として団体(3名)、個人(2名)が出場していて、これからの部員たちの活躍が大いに期待されています。

王将への道4
写真3 立命館守山中学校・高等学校将棋部 ホームページから


おわりに
 現在、すべての付属校がクラブ活動として将棋に取り組んではいませんが、こうした活躍も見ていくと、いつの日か全国大会の決勝戦で立命館の付属校の生徒同士が対決する姿がみられるのではないかと期待も膨らんできます。

2023年12月6日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博

【注1】校外の活動で高いレベルで取り組み、かつ学業も高いレベルで両立しようとする生徒を応援するプログラム)

2023.11.14

立命館のモニュメントを巡る(第9回) 立命館宇治中学校・高等学校新キャンパス開設記念碑

 今回は、宇治市広野町にキャンパスがある立命館宇治中学校・高等学校の記念碑を紹介します。
 立命館宇治高等学校は、立命館が1994年に学校法人宇治学園と法人合併し、宇治高等学校を改称し開校、翌年1995年に第一期生が入学しました。
 そして2002年に宇治市三室戸から広野町の新キャンパスに開学・移転し、翌年2003年に立命館宇治中学校を開校しました。
 今回紹介する記念碑は、新キャンパスの開学、立命館宇治中学校の開校に伴い設置されたものです。
モニュメント第9回-1
【學然後知不足】

 正門を入り校舎への階段を昇る途中に大きな「學然後知不足」の碑があります。
 「學然後知不足」は、中国の史書『禮記』にある「學然後知不足 教然後知困」(学びて然るのち足らざるを知る、教えて然るのち苦しむを知る」から採られています。書は学祖西園寺公望が、大正4(1915)年に須磨に逗留した際に揮毫したものです。立命館宇治中学校・高等学校のキャンパスに設置されているのは、生徒たちに学ぶことの意味と、学祖西園寺公望が揮毫したことを伝えることにあるのでしょう。
 学校には銅板の碑のほかに、中学校のすべての教室に扁額「學然後知不足」が架けられています。教室でも生徒たちは西園寺公望が伝える教えを日々学んでいます。
 西園寺記念館にも同じ銅板の扁額がありますが、陶庵主人公望のあとに「書於須磨寓居」とあります。
モニュメント第9回-2
【各教室の「學然後知不足」】

 もう一点、校舎の際に「自由と清新」の碑があります。こちらは立命館宇治高等学校の初代校長増田潔の書になるものです。
 「自由と清新」は立命館の建学の精神です。西園寺公望や創始者中川小十郎が直接語った言葉ではありませんが、学園の歴史から、戦後末川博総長が学園の性格を「自由で清新」と述べるなど、建学の精神としてきています。
モニュメント第9回-3
【「自由と清新」碑】

 立命館宇治中学校・高等学校の教育理念は次のように謳っています。
≪教育目標≫
 本校は、立命館の建学の精神「自由と清新」と教学理念「平和と民主主義」に基づき、卓越した言語能力に基づく知性と探究心、バランスのとれた豊かな個性、正義と倫理に貫かれた寛容の精神を身につけた未来のグローバルリーダーを育成し、世界と日本の平和的発展に貢献する。
≪理想とする人間像≫
10項目の理想とする人物像
 「究(探究する人)、知(知識のある人)、考(考える人)、話(コミュニケーションができる人)、義(信念を持つ人)、寛(心を開く人)、仁(思いやりのある人)、挑(挑戦する人)、健(バランスのとれた人)、省(振り返りができる人)」 (内容は略します。)

 2023年5月現在の生徒数は、
  高校1年409名、高校2年401名、高校3年420名で、男子633名、女子597名、計1230名
  中学1年178名、中学2年172名、中学3年178名で、男子277名、女子251名、計528名
  です。
 
   「教育目標」「生徒数」は『学校要覧 2023年度版』による。


2023年11月14日 立命館史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2023.09.19

<懐かしの立命館>夜間・定時制高校の生徒たちを追って~生徒会誌「蛍光」からみた生徒たち~

1)文芸誌の発行
 立命館夜間高等学校(以下、夜間高校)では1949(昭和24)年に「螢光燈」と題した文芸誌が発行されていました。紙不足が全国的にも深刻な時期にあって、手書き原稿を印刷業者に持ち込み制作されたものです。創刊号は不明ですが、表紙には「立命館夜間高等学校文化部機関誌」と書かれてあり、発行者は第2号(1949年10月発行)が夜間高校新聞部、第3号(1949年12月発行)が夜間高等学校文化部と異なっています【写真1】。構成は生徒有志と教員による文芸誌で、ほぼ同じ形態をとっています。その後に何号まで発行されたかは不明です。

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【写真1】
 
 これら2冊とは別に保存されているのが生徒会の年間機関誌「螢光」です。最も古いものが第3号(夜間高等学校生徒会文化部名で1951年3月発行)です【写真2】。逆算すれば、創刊号は1949年発行と考えられるので、夜間高校開校2年目に「螢光」と「螢光燈」が同年に発行されていたことになります。当時は全国的にも中高生たちの間で文芸活動が盛んであり、立命館の中学校と高等学校でも生徒による新聞が発行されていました。

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【写真2】


2)夜間・定時制高校生徒会誌「蛍光」
「螢光」は、第18号から題字が「蛍光」と新字体となりながら【写真3】、立命館高等学校定時制が廃校となる1968(昭和43)年3月の第20号までの20年間発行されています。このうち立命館 史資料センターに所蔵されているのは11年分で、発行は第6号までが生徒会文化部、第8号からは定時制新聞部となっています。

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【写真3】

 定時制となった2年目の1954(昭和29)年の螢光第6号には、当時の末川博総長が初めて卒業に向けての祝辞を「『螢光』のかがやきを増せ」と題し寄稿しています。要約すれば「20世紀後半の歴史は君たちの形成するものだから、常に前途に光明を見つめて、君たちの大切な未来を守り、未来を信じて、日々少しずつでも前進することを心がけてほしい」という内容でした。その後、末川総長は最終号(第20号)まで寄稿を続けました。第19号からの表紙題字は総長自ら書かれたものでした【写真4】。

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【写真4】

 末川総長寄稿の題名は「貴い未来のために」(第12号)、「清く明るくたくましく」(第14号)、「学習を続けて未来をひらこう」(第15号)、「諸君の洋々たる前途に期待する」(第20号)で、とその文は年々熱くなり、2500字を超えるような長文となっていました。そのなかで一貫していたのは、「輝く未来を信じ、未来と生命を自ら汚すことのないよう、日々を大切にして前進してほしい」というものでした。
 1967(昭和42)年の第19号には末川総長に続き、細野武男校長が「憲法的人間像を目ざそう」と題して「蛍光」に一度だけの寄稿をしています【写真5】。後に総長となる細野武男(注1)の校長在職期間が1966(昭和41)年4月から1967年9月までであったことから、末川・細野という当時の総長と後の総長の二人が寄稿している大変貴重な資料といえます。

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【写真5】

3)夜間高等学校の校歌・生徒歌
 第3号と第4号には、表紙を開けると現在の学園歌とは全く異なる校歌「立命館夜間高等学校校歌」が掲載されていることに驚かされます【写真6】。作詞者は生徒で、作曲者名は記されていません。両号共に校歌に続き生徒歌が掲載されていますが、こちらは作詞者、作曲者共に不明です【写真7】。
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【写真6 夜間高等学校校歌】

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【写真7 夜間高等学校生徒歌】

 「螢光」第4号は夜間高校として最後の生徒会誌で、1952(昭和27)年4月からは、単一の高等学校として全日制と併置される定時制が出発しましたが、「螢光」は第5号へと引き継がれていくこととなりました。校歌と生徒歌は第5号からは掲載されておらず、校史にもそのことについての記載がなく、他に関係する資料も見当たらないことから非公式なものかと考えられますが、それが第1ページに堂々と掲載されていた夜間高校がどのような学校であったのか。その点に興味がわいてきます。

4)生徒会と三大行事
 大部分の生徒たちは、仕事を終えてから学校へ向かい、授業に出席していたので、健康を維持しながら継続するだけでも大変困難なものです。卒業できずに学校を去っていく生徒も多数いました。
 このような学校生活にあっても、生徒たちが学校生活を楽しむ大きな行事が三つ秋に集中しています。10月には京都市内の定時制高校による総合体育大会が開催されます。最も活動が活発だった時期には、教員や生徒たちが応援に駆け付け、立命館の大きなチーム力で優勝などの好成績を収めていました。10月下旬には学校の運動会が開催されました。仕事の関係で日曜日にしか開催できず、準備も後片付けもすべて自分たちで行い、翌日はいつもの職場勤務。それでも、当時のプログラムを見ると、生徒たちが仲間と楽しんでいた姿が想像されます【写真8】。そして11月の文化祭。女子も参加した演劇な作品展示などでの発表が行われ、昼間は男子校であった北大路学舎も、夜間は華やかな光景となっていたのでした。

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【写真8 1963年度運動会プログラム】

5)クラブ活動
 夜間高校時代の第3号(1951年度)には文化部として弁論、美術(絵画)、書道、音楽(後に軽音楽)があり、その後の定時制となる第4号(1952年度)以降には新たに英語、コーラス、文芸、放送、演劇、珠算、新聞、自然化学、宗教、映画などの班(部ではなく班と呼ばれていた)が誕生しています。これらの新設は、1953(昭和28)年からの定時制の男女共学によるものと考えられ、定時制だけの生徒数も1,000名近くとなっています。ただ自主参加であったため、入部率の低いのが現実でした。そのなかで、弁論班では1956年、57年と明治大学学長杯全国弁論大会で連続個人優勝するほどのすばらしい成績を収めています。また、演劇班は定時制演劇コンクールに創設以来4年連続で入賞し、1952年に最優秀賞を獲得しています。
 運動部では1951年当時からで陸上、水泳、籠球(バスケットボール)、野球、庭球、卓球、排球(バレーボール)などがありました。後には社会的流行から登山が誕生し、部員を固定化しない形式で女子も気軽に参加していたと報告されています。
 クラブ活動の名だけを見れば楽しそうですが、昼間の仕事だけでも疲れているのに、午後5時半からの授業に間に合うよう急ぎ、授業の終わる午後9時。それからのクラブ活動が自主参加であれば部員も容易に集まるものではありませんでした。練習も毎日行えず、照明設備も不十分なうえに練習場所(水泳部などは学校にプールもなく)確保にも苦労し、活動の維持さえ困難な状況でした。よほど精神的にも体力的にも強くなければ継続できなかったことでしょう。

6)定時制の灯
 定時制高校は、公立校の受け皿体制によって乱立していました。最多の時には、京都市内において府立8校、市立5校の13校が存立していたのに対して私学は4校(注2)。京都府全体では35校を数えるまでになっていました。そのような中で、公立校は低授業料に加え、施設設備の充実により私学との格差が広がっていました。そのうえ全国的に昼間の全日制への進学率が高まることで、私学は更に経営が困難となり、苦境に立たされることになりました。このことは立命館百年史に詳しく述べられています(注3)。
 年々減少してきた生徒数は、生徒会活動にも厳しい影響を押し付けました。1965(昭和40)年度から生徒募集が停止となり、クラブ活動では部員減での廃部が増し、最終学年の4年生のみとなる1967(昭和42)年には全生徒133名で3クラブ(野球、陸上、卓球)となっていました。生徒会は役員6名で奮闘しましたが、行事への参加者減少し球技大会などは2度にわって中止となっていました。
 定時制最後の卒業式には卒業生たちへ案内状を送るために、当時の鞍馬口病院の看護師であった女子生徒たちが手書きで宛名書きをしたそうです(「蛍光」第20号編集後記)。
 この時の校長は長谷川金市。戦前の立命館夜間中学校卒業生(1943年卒)であった長谷川校長に31年間灯り続けた定時制の最後を見届けられたのでした【写真9】。
 卒業式の参列者へは、末川総長題字の「蛍光」第20号が配布されました。生徒からは在校生30名に卒業生6名が寄稿した118ページにもなる最終号は、こうしてその使命を終えたのでした。
夜間・定時制「蛍光」.jpg 20230913-9  
【写真9 第20号の目次の一部】

2023年9月19日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
 
注1;細野武男は、その後に1970年11月から1978年6月まで総長
注2;府立は鴨沂、洛北、山城、朱雀、朱雀通信、鳥羽、桃山、桂。市立は堀川、
堀川専修、西京、洛陽、伏見。私立は立命館、同志社商業、明徳商業、東寺
注3;立命館百年史 通史2 「定時制の変遷」

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