立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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立命館あの日あの時内記事を検索します

2025.04.17

<学園史資料から>大災害から誕生した立命館高校ボランティア活動

立命館高等学校には、1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災の復興支援活動から誕生したボランティア活動団体「RIVIO」があります。

1)誕生と名の由来
 大震災直後は、生徒も教職員も何とかしたいけれども何から手をつけていいのかわからないという状態にありました。そのような1月末、高校生徒会の一人の男子生徒が現地へ行き、西宮ボランティアネットワークと連携がとれるようになりました。
 2月からは、高校入試ホームワークや春休みに生徒や教職員の有志に呼び掛けて救援活動の輪を広げていきました。救援作業の内容は、西宮市内でほとんどが物資の仕分けでした。
 その年の夏休みに、生徒会が「立命館高等学校として組織的な参加を」と全校生徒へ呼びかけたところ、想定以上の多くの参加者を得ることになりました。参加者は、現地での被害状況把握や救援活動のなかで、それらに携わる多くの人々と交流ができるようになり、「我々の学校にもボランティア活動を」「ボランティアをもっと身近に」という声が高まっていきました。
 そこで生徒会が中心となって、ボランティアの情報を集めて発信する窓口をつくろうという設立趣旨から「Ritsumeikan  Volunteer  Infomaition  Office」と命名し、頭文字をとった「RIVIO」が生徒会の公式団体として誕生したのでした。

2)広がる輪
 当初のメンバーは数人でしたが、ボランティア情報のなかから自分に関心のある活動に参加し、その参加者が他のメンバーを誘ってまた参加するというかたちで、「RIVIO」から他の生徒へ発信される時にはそれが活きた情報として広がっていきました。
 その後の活動は、あしなが育英会の募金活動、自閉症の子どもたちと遊ぶ「スクール」、障がい者の作業所やグループホーム、老人介護、手話・点字サークル【写真1】、
高校ボランティア1
【写真1】校内での手話講座(1997年)

清掃活動などと様々な分野で活動を展開し、報告会や学習会を通じて仲間を増やしてきています。日本海重油流出事故(1997年)に対する重油回収活動に参加したり【写真2】、
高校ボランティア2
【写真2】日本海での重油流出事故にともなう重油回収作業に参加(1997年)

 文化祭では難民キャンプで救済活動を行っている現地スタッフの方を招いての講演会を行いました。
 2011年3月11日発生の東日本大震災では、再び復興支援が「RIVIO」の活動の中心となって取り組んできました。
 誕生から30年が経過しても、「RIVIO」の当初の目的である「知る、伝える」を大切にしながら、生徒たち自身の力でボランティア精神、助け合う豊かな心、人の痛みがわかる心を育んでいっています。

2025年4月17日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田 俊博


高校ボランティア3
【写真3】石巻市門脇小学校周辺での除草作業(2013年)

高校ボランティア7
【写真4】東日本大震災・復興のシンボル「ヒマワリの種」と植木鉢贈呈(2014年)

高校ボランティア5
【写真5】熊本地震災害復興作業(2017年)

高校ボランティア6
【写真6】南三陸での災害復興作業(2018年)

2025.02.05

<学園史資料から>中原中也の京都における下宿事情について

 2025年2月21日から劇場で公開される映画『ゆきてかへらぬ』は、「大正時代の京都と東京を舞台に、実在した女優・長谷川泰子と詩人・中原中也、文芸評論家・小林秀雄という男女3人の愛と青春を描いたドラマ」¹です。
中原下宿1

中原下宿2

 天才詩人と評される中原中也は、大正12(1923)年4月から大正14(1925)年3月までの2年間、京都で立命館中学校に通いました。中也が16歳から17歳の多感な時期で、しかも文学観や人生観にも多大なる影響を与えた時期でした。映画はまさにこの頃の中也をめぐる人間関係を表現したものです。
 さて、立命館史資料センターは、学園の歴史にまつわる様々な事歴を保存・利活用しています。また、様々な学園の事歴の調査研究もしています。今回は、中也の立命館中学校時代、実に8回も下宿を転居していますので、その推移を調べてみました。

 はじめに
 大正12(1923)年3月にそれまで通っていた山口中学校の落第が決定し、「今後、学校には行かないと家族に宣言」したものの、父親・謙助の意向もあり、編入試験を受け付けていた立命館中学校を受験して合格し、京都に住むことになりました。中也は「大正十二年春、文学に耽て落第す。京都立命館中学に転校す。生まれて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり」(「詩的履歴書」)と記しています。11月には「秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で『ダダイスト新吉の詩』を読む。中の数篇に感激」(「詩的履歴書」)しています。12月には劇団表現座の長谷川泰子と知り合います。
 大正13(1924)年4月には長谷川泰子と同棲します。また4月に冨倉徳次郎に、5月に正岡忠三、吉田鉄治、7月に富永太郎と知り合っています。まだ17歳ですが、お酒を飲んで語り合ったりしたようです。
 したがって、この2年間は、一人暮らし、ダダイズム²との出会い、同棲、文学談義仲間との出会い等、中也の文学観、人生観に多大なる影響を与えた時期といえるでしょう。
 残念ながら立命館中学校での学業成績の方は、3年次の成績は146人中126番、4年次の成績は151人中140番でした³。

 (1)京都市上京区岡崎西福ノ川 沢田方
 大正12(1923)年4月に京大生が多く住む下宿に入居しました⁴。現在地は「京都市左京区岡崎西福ノ川町」⁵。立命館中学校広小路学舎への通学を想定して下宿を探したと思いますが、編入学が決定した時期が遅く、それほど学舎に近い場所ではなかったようです。岡崎善正寺の西辺りです。

 (2)京都市上京区聖護院西町9 藤本大有方
 同年9月には転居しました⁶。現在地は「京都市左京区聖護院西町10」⁷。熊野神社の近くで、京都大学医学部付属病院の駐車場の東大路通をはさんだ向い辺りです。

 (3)京都市北区小山上総町
 転居早々ですが、同じ月にさらに転居しています。同志社の学生もいる下宿でした⁸。現在地は「京都市北区上総町」⁹。立命館中学校北大路学舎(北区小山西上総町)のすぐそばへの転居です。

 (4)京都市丸太町中筋 菊ヤ方
 同年11月には転居しました¹⁰。「菊ヤ」は旅館で、現在地は「京都市上京区中町通丸太町下ル駒之町538-1」¹¹。河原町丸太町の東辺りなので、学校からは遠ざかっています。

 (5)京都市寺町油ノ小路下ル西入ル
 大正13(1924)年2月頃に引っ越しました。住所や転居時期は定かではありません¹²。「『寺町』『油ノ小路』ともに南北の通り。『油ノ小路』は「押小路」の誤記か」との指摘あり¹³。寺町押小路であれば、京都市役所の北辺りです。

 (6)京都市北区大将軍西町椿寺南裏 谷本方
 同年4月に転居し、長谷川泰子との同棲も始まります¹⁴。現在地は「京都市北区大将軍川端町」¹⁵。地蔵院椿寺の南辺りです。女優の泰子の仕事の都合に合わせたのでしょうか、マキノ等持院撮影所や日活大将軍撮影所等に比較的近い場所です。

 (7)京都市上京区中筋通石薬師上ル 高田大道方
 同年10月、富永太郎の下宿(京都市上京区下鴨宮崎町中ノ町下鴨郵便局下ル 西野喜一郎方)の近くに転居し、以後頻繁に往来するようになります¹⁶。現在地は「京都市上京区中筋通石薬師上ル大宮町341-1」¹⁷。河原町今出川の南西辺りです。

 (8)京都市上京区中筋通石薬師上ル角 山本方
 大正14(1925)年2月に転居します¹⁸。現在地は「京都市上京区河原町今出川下ル西入ル大宮町337」¹⁹。(7)の住居からさらに南西に行った辺りです。この2階の窓は、中也が「スペイン式窓」と呼んで気に入っていたものです²⁰。

 まとめ
 以上のように、中也は京都で頻繁に8回も下宿を転々としています。現在のように礼金・敷金制度があったとすれば、相当に無駄な費用がかかったと思いますが、当時はそのような制度はありませんでした(関東では1923年9月の関東大震災後に「礼金」制度が始まったとする説があります)。実家からの仕送りは月額ではじめは60円、後に中也が痩せたことを心配した母親から80円が送られています。週刊朝日編『値段の明治・大正・昭和風俗史』(朝日文庫)によれば、大正9年の小学校教員の月給が40~55円なので、これは中学生の下宿生活にとっては十分すぎる金額でした。
 「新しい友人が出来れば、必ずその附近に引越すのが中原流である」 と言われていることを考えると、それが引越しの動機なのでしょうが、友人達とのディープ過ぎる付き合い方に驚きます。極度の寂しがり屋だったのではないかという印象を持ちます。
 ちなみに、映画の原作ではありませんが、同名『ゆきてかへらぬ』という長谷川泰子の告白的自伝も出版されています。

中原下宿3
 【写真】2枚とも当時の立命館中学校
中原下宿4


 2025年2月5日 立命館 史資料センター 調査研究員 佐々木浩二

1.映画『ゆきてかへらぬ』公式サイトより
2.「ダダイズム:第一次世界大戦の終わりごろ、スイスなどで起きた芸術運動。伝統的な芸術形式を否定し、既成の価値・秩序などをすべて破壊しようとしたもの」885頁、『現代新国語辞典 改訂六版』学研プラス 2021年)
3.『新編中原中也全集 別巻(上)写真・図版篇』477~484頁、株式会社角川書店 平成16年
4.『新編中原中也全集 別巻(上)写真・図版篇』478頁、株式会社角川書店 平成16)
5.『新編中原中也全集 別巻(上)写真・図版篇』422頁、株式会社角川書店 平成16)
6.『新編中原中也全集 別巻(上)写真・図版篇』479頁、株式会社角川書店 平成16)
7.『新編中原中也全集 別巻(上)写真・図版篇』423頁、株式会社角川書店 平成16)
8.『新編中原中也全集 別巻(上)写真・図版篇』479頁、株式会社角川書店 平成16)
9.『新編中原中也全集 別巻(上)写真・図版篇』423頁、株式会社角川書店 平成16)
10.『新編中原中也全集 別巻(上)写真・図版篇』479頁、株式会社角川書店 平成16)
11.『新編中原中也全集 別巻(上)写真・図版篇』423頁、株式会社角川書店 平成16)
12.『新編中原中也全集 別巻(上)写真・図版篇』481頁、株式会社角川書店 平成16)
13.『新編中原中也全集 別巻(上)写真・図版篇』424頁、株式会社角川書店 平成16)
14.『新編中原中也全集 別巻(上)写真・図版篇』481頁、株式会社角川書店 平成16)
15.『新編中原中也全集 別巻(上)写真・図版篇』424頁、株式会社角川書店 平成16)
16.『新編中原中也全集 別巻(上)写真・図版篇』482頁、株式会社角川書店 平成16)
17.『新編中原中也全集 別巻(上)写真・図版篇』424頁、株式会社角川書店 平成16)
18.『新編中原中也全集 別巻(上)写真・図版篇』484頁、株式会社角川書店 平成16)
19.『新編中原中也全集 別巻(上)写真・図版篇』424頁、株式会社角川書店 平成16)
20.『新編中原中也全集 別巻(下)資料・研究篇』330頁、株式会社角川書店 平成16)
21.大岡昇平『中原中也』65頁、講談社文芸文庫 2021

2025.01.29

<懐かしの立命館>青春の思い出がつまったあの店は今…?(その6)

正門周辺
 まず、大学正門の向かい側には堂本美術館があります。

あの店⑥1

 正門を出て右(東)に出た辺りの現在の情景は相当に変わっています。

*1983年チャンスMAP
あの店⑥2

「喫茶なみえ」は閉店しました
 詳細情報がありませんが、閉店しています。

NEW「SHIRUCAFE」営業中
 ガラス張りのおしゃれな外観、明るく賑わう店内。一見すると普通のカフェに見えるが、「知るカフェ」
はただのカフェではありません。スポンサー企業の協賛により運営しているため、学生はWi-Fiや電源、
ドリンクを全て無料で利用できます。「学生の将来の選択肢を広げる」という知るカフェのコンセプトに賛同した企業は140を超えるといいます。店内には協賛企業のパンフレットが置かれ、無料のドリンクを飲みながら、自分の将来を考えることができます。
あの店⑥3

「北京亭」は閉店しました
 中華料理店で、昼はサラリーマン、夜は学生客が多く、座敷でコンパもできました。デザートのごま団子も好評でした。教職員は夕方には北京ランチや中華弁当等の出前をとったりしていました。「常連になると小さなカップに入ったコーヒーをサービスしてもらえると聞いて通い詰めた中華屋。自分もはじめて出してもらった時は、一人前と認めてもらったようで嬉しかったことを覚えている。」(1986年産業社会学部卒業)というエピソードもあるようですが、閉店しました。
あの店⑥11
人物は、北京亭の山本店長さん
あの店⑥12
右の写真は、閉業後の北京亭の店先に残された黒板

NEW「Family Mart」営業中
 正門の京都市バスプールの東側にFamily Martがあ
ります。生協購買部を除けば、大学に一番近いコンビニエンスストアということもあって、学生、教職員等の利用が多い所です。
あの店⑥4

NEW「炭火やきとり鳥舎のんき」営業中
2023年2月にオープンした炭火焼鳥の居酒屋です。炭火焼き鳥をはじめメニューも豊富です。飲み放題やコース料理付飲み放題もあるので、コンパや宴会にも活用できます。最大80席とのことです。
あの店⑥5

NEW「焼肉ひろ 金閣寺店」営業中
 2022年3月に『炭火焼肉ひろ京都2号店』としてオープンしました。衣笠キャンパスの正門を出て東に行ってすぐなのに、「金閣寺店」という名前です。ネームバリューという点ではそうなりますかね。リーズナブルな価格で焼き肉が食べられるということで好評です。
あの店⑥6

NEW「リカーマウンテン」営業中
 種類豊富なお酒や食品、珍味等がそろったお店です。
あの店⑥7

「喫茶ピエール」は閉店しました
 先日亡くなりましたが、フランスの超イケメン俳優、アラン・ドロンが訪れたという「喫茶ピエール」は閉店しました。その後、「からふね屋」になり、「ローソン」になり、現在は「なか卯」になりました。

NEW「なか卯 立命館大学前店」営業中
 丼物、うどん・そば等の食堂チェーンの「なか卯」です。小盛の丼があるのが好評です。
あの店⑥8

NEW「無添くら寿司 金閣寺店」営業中
 くら寿司は、200種類以上ある全食材「四大添加物無添加」に取り組み、安心・おいしい・安価
そして楽しいをコンセプトにもつ回転寿司チェーンです。学生や家族連れでにぎわっています。
あの店⑥9

正門から思いっきり西に行くと
 さて、「きぬかけの路」を西に進み、衣笠キャンパスの西端に移動します。

「エクワイン」は閉店しました
 詳細情報がありませんが、閉店しています。

NEW「山猫軒」営業中
 1971年にオープンした「きぬかけの路」沿いの南側、立命館大学衣笠キャンパスの西隣にあり、蔦の絡まる建物が目印のカフェテリアです。店名の「山猫軒」は、宮沢賢治の『注文の多い料理店』から来ています。立地が賢治の『注文の多い料理店』に出てくるお店のイメージに似ていたのと、オーナーの母親が賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩が大好きだったと言うこともあり、「山猫軒」と名付けたそうです。もともとはフレンチレストランでしたが、カフェ・レストランとなってから既に30年以上になります。
あの店⑥10

2025年1月29日 立命館 史資料センター 調査研究員 佐々木浩二

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