旧制立命館中学校時代の昭和16(1941)年から19(1944)年にかけての校務などの様子を記録した一人の教員のメモが保存されています。後に立命館大学文学部教授となった和田繁二郎【写真1】がそのメモ作成者で、昭和16年4月から国語科担当として勤めた青年教員(就職当時28歳)でした。
和田メモ(ゴシック太字)に卒業アルバム掲載の写真と「*」で補足説明を加えて、当時の付属校の日常を前後編に分けて紹介します。
【写真1】和田繁二郎教諭
昭和16(1941)年
4 月19日(水)和田、中学教諭トナル
*和田は、この年3月に立命館大学専門学部文学科を卒業した後、立命館大学法文学部国文学科に入学し、同時に立命館中学校教諭となった。
*5月8日(木)から中学部では耐熱耐寒強行軍が開始され、昭和17(1942)年2月13日(金)まで35回実施された(注1)。
5月12日(月)第二中学地鎮祭
*正式には立命館第二中学校。この年2月に立命館中学校の生徒定員を800名から1000名に増員する申請が認可され、同年3月には立命館が造成した上賀茂大運動場の地に第二中学校開校の申請が認可されていた。当日は上賀茂神社神官によって地鎮祭が行われた。
校舎建設には広小路にあった清和中学校時代の旧校舎を移築するかたちで開校を急いだが、4月開校に間に合わなかったため、新聞には「移築工事竣工までは北大路室町の元の中学校内で150余名の二中生の授業を行う」という記事が掲載されていた(注2)。
立命館中学校が「立命館第一中学校」と改称されたのは昭和17(1942)年3月31日であった。
同じ5月には学生生徒の健康状態を改善するために、中川総長の立案によって「立命館医務局」が北大路の中学校に設置されている。レントゲン装置などの設備をもち、大病院と比べても見劣りしない全国的にも先進的な学校医務局体制を整えていた【写真2,3】(注3)。
【写真2】北大路学舎に設置された医務局(戦後は食堂に改修)
【写真3】北大路学舎での健康診断風景
6月4日(水)中学3年、勤労奉仕
*この年の6月から11月にかけては中学部増産勤労奉仕として、京都市の上賀茂・衣笠・深草や宇治市小倉などへ出張し、麦刈・草刈・稲刈・開墾作業などに従事した(注4)【写真4】。
【写真4】学徒勤労動員で開墾作業を行う生徒たち
6月13日(金)中学4年、麦刈
7月7日(月)事変記念式典
*詳細は記載されていない。日中戦争のきかっけとなった昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件がおきた日を記念して国内では様々な式典を行っていた。
7月30日(水)中学・商業4年、野外軍事教練 【写真5、6】
【写真5】京都市大原付近での軍事教練
【写真6】京都市街地での軍事教練
8月4日(月)主事異動 今小路、羽栗免【写真7,8】、小滝・南部任(注5)
中学校・第二中学校・夜間中学・商業学校に学監(校長補佐)設置【写真9】
【写真7】今小路覚瑞主事(後に各中学校校長)
【写真8】羽栗賢孝主事(後に各中学校校長)
*今小路と羽栗は共に医務局主事でもあったが、この時、今小路は商業学校主事を、羽栗は中学校・商業学校夜間部主事を解職されている。
【写真9】松岡又一学監(後に商業学校校長)
*松岡は、海外で13年間海外移住者(主にブラジル)対応の仕事を務め、立命館大学教授と学監を兼務で就職した。
8月20日(水)中学四年雄琴行。木原・松田佳付添(注6)
*この年5月に、立命館大学では禁衛隊集団勤労鍛練所を滋賀県甲賀軍三雲村(現、滋
賀県湖東市三雲)に第一鍛練所を、次いで同月に滋賀県雄琴村(現、滋賀県大津市雄
琴)に第二鍛練所を設置した。鍛練所の設置に伴って中学部商業部も鍛練行事を行う
ために雄琴まで出かけていた(注7)。
8月末 夏期講習実施
*9月2日(火)中学商業、陸軍枚方工廠に特技作業奉仕
9月8日(月)夏期講習考査開始
9月18日(木)満州事変十周年記念行軍
*詳細は記載されていない。昭和6(1931)年9月18日の柳条湖での南満州鉄道線路爆破事件に始まる日本軍の軍事行動を記念して、日本国内の各地で行事が催されていた。
9月19日(金)舟木元教諭葬儀(注8)
9月27日(土)防共協定三国同盟締結一周年祝賀式 市中行進【写真10、11】
田中重太郎兄専門部へ転出 俣野・長谷川両氏応召(注9)
【写真10】三国の国旗が翻る正門の掲揚柱
【写真11】市中を行進する禁衛隊
10月4日(土)禁衛隊参謀会議、職員軍事教練の件等【写真12】
【写真12】軍事教練課の教員団
10月9日(木)生徒に防空教育講話
11月10日(月)禁衛隊独立記念日(催なし)
11月24日(月)西園寺公一年祭
12月14日(日)学校報国隊結成式 於 深草練兵場
*この日、京都府下の中等学校報国隊編成記念大会が深草練兵場で挙行された(注10)。
*昭和16(1941)年11月22日、「国民勤労報国協力令」勅令が公布された。学校や会社を単位として国民勤労報国隊を組織し、緊急産業部門に、男子ならば14歳~40歳未満で年間30日以内の勤労協力を事実上強制することとなった(注11)。
12月22日(月)皇陵参拝行軍
12月24日(水)府補助金受領、 中学1,155円、第二中学校226円、商業学校1,147円
夜間中学校330円(注12)
12月27日(土)商業学校卒業式
*商業学校第9回の卒業式で253名が卒業した。
10月16日の勅令と省令で大学、専門学校などの修業年限が短縮(昭和16年度は3か月卒業繰り上げ)となっていた(注13)。
2024年11月26日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博
注1;学園事業報告
注2;京都日出新聞(昭和16年3月16日付記事)
注3;立命館創立五十年史
注4;学園事業報告
注5;今小路覚瑞:1922年に中学校国語科教諭となる。1940年に商業学校長となってか
ら後に各中学校長を務め、戦後も新制中学校長と高等学校長となり、1950年6月
で退職。
羽栗賢孝:哲学が専門。滋賀県の中学校教員を退職後、1940年4月から中学校・商
業学校夜間部教諭兼主事で就職。1949年退職。
小滝久雄:1938年国語科教諭として就職。1945年3月で退職。
南部房之助:商業科教諭。京都府立第二女子商業学校校長を退職後、1940年商業学校講師で就職。翌年から商業学校主事などを務めた。
注6;木原倉蔵:軍事教練担当の教諭。徴兵を終えて予備役となり、大学や商業学校の教練を担当した後、昭和16(1941)年5月に立命館中学校の教練担当なった。
松田佳八;熊本県で召集後、師範学校や高等女学校の嘱託となり、大正14(1924)年4月から立命館中学校の数学担当として就職。昭和15(1940)年11月の創立四十周年記念祝賀会において勤続15年以上の教職員として功労者表彰されている。昭和23(1948)年4月、第四中学校講師を最後に退職。
注7;立命館創立五十年史
注8;詳細は不明
注9;田中重太郎:1937(昭和12)年中学校国語科教諭として就職。1941年に専門学部教授となるが商業学校教諭を兼務。敗戦後から1949年までは夜間高等学校講師を兼務。
俣野金助:剣道四段。1933(昭和8)年中学校・商業学校の剣道指導の講師として就職。1938(昭和13)年から中学校教練科教諭。応召から2年後に復員。依願退職。
長谷川茂:近衛歩兵第二連隊満期除隊後に少尉。再び召集され、解除後1941年6月に中学校教練科教諭として就職。その後すぐに応召された。
注10;学制百年史
注11;「近代日本総合年表」(岩波書店)
注12;京都府通達
注13;学制百年史
【写真】1,6、8、9、10、12(昭和18年度中学校卒業アルバム)
2,3、11 (昭和16年度中学校卒業アルバム)
4、5,7(昭和15年度中学校卒業アルバム)