立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2023.09.19

<懐かしの立命館>夜間・定時制高校の生徒たちを追って~生徒会誌「蛍光」からみた生徒たち~

1)文芸誌の発行
 立命館夜間高等学校(以下、夜間高校)では1949(昭和24)年に「螢光燈」と題した文芸誌が発行されていました。紙不足が全国的にも深刻な時期にあって、手書き原稿を印刷業者に持ち込み制作されたものです。創刊号は不明ですが、表紙には「立命館夜間高等学校文化部機関誌」と書かれてあり、発行者は第2号(1949年10月発行)が夜間高校新聞部、第3号(1949年12月発行)が夜間高等学校文化部と異なっています【写真1】。構成は生徒有志と教員による文芸誌で、ほぼ同じ形態をとっています。その後に何号まで発行されたかは不明です。

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【写真1】
 
 これら2冊とは別に保存されているのが生徒会の年間機関誌「螢光」です。最も古いものが第3号(夜間高等学校生徒会文化部名で1951年3月発行)です【写真2】。逆算すれば、創刊号は1949年発行と考えられるので、夜間高校開校2年目に「螢光」と「螢光燈」が同年に発行されていたことになります。当時は全国的にも中高生たちの間で文芸活動が盛んであり、立命館の中学校と高等学校でも生徒による新聞が発行されていました。

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【写真2】


2)夜間・定時制高校生徒会誌「蛍光」
「螢光」は、第18号から題字が「蛍光」と新字体となりながら【写真3】、立命館高等学校定時制が廃校となる1968(昭和43)年3月の第20号までの20年間発行されています。このうち立命館 史資料センターに所蔵されているのは11年分で、発行は第6号までが生徒会文化部、第8号からは定時制新聞部となっています。

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【写真3】

 定時制となった2年目の1954(昭和29)年の螢光第6号には、当時の末川博総長が初めて卒業に向けての祝辞を「『螢光』のかがやきを増せ」と題し寄稿しています。要約すれば「20世紀後半の歴史は君たちの形成するものだから、常に前途に光明を見つめて、君たちの大切な未来を守り、未来を信じて、日々少しずつでも前進することを心がけてほしい」という内容でした。その後、末川総長は最終号(第20号)まで寄稿を続けました。第19号からの表紙題字は総長自ら書かれたものでした【写真4】。

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【写真4】

 末川総長寄稿の題名は「貴い未来のために」(第12号)、「清く明るくたくましく」(第14号)、「学習を続けて未来をひらこう」(第15号)、「諸君の洋々たる前途に期待する」(第20号)で、とその文は年々熱くなり、2500字を超えるような長文となっていました。そのなかで一貫していたのは、「輝く未来を信じ、未来と生命を自ら汚すことのないよう、日々を大切にして前進してほしい」というものでした。
 1967(昭和42)年の第19号には末川総長に続き、細野武男校長が「憲法的人間像を目ざそう」と題して「蛍光」に一度だけの寄稿をしています【写真5】。後に総長となる細野武男(注1)の校長在職期間が1966(昭和41)年4月から1967年9月までであったことから、末川・細野という当時の総長と後の総長の二人が寄稿している大変貴重な資料といえます。

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【写真5】

3)夜間高等学校の校歌・生徒歌
 第3号と第4号には、表紙を開けると現在の学園歌とは全く異なる校歌「立命館夜間高等学校校歌」が掲載されていることに驚かされます【写真6】。作詞者は生徒で、作曲者名は記されていません。両号共に校歌に続き生徒歌が掲載されていますが、こちらは作詞者、作曲者共に不明です【写真7】。
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【写真6 夜間高等学校校歌】

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【写真7 夜間高等学校生徒歌】

 「螢光」第4号は夜間高校として最後の生徒会誌で、1952(昭和27)年4月からは、単一の高等学校として全日制と併置される定時制が出発しましたが、「螢光」は第5号へと引き継がれていくこととなりました。校歌と生徒歌は第5号からは掲載されておらず、校史にもそのことについての記載がなく、他に関係する資料も見当たらないことから非公式なものかと考えられますが、それが第1ページに堂々と掲載されていた夜間高校がどのような学校であったのか。その点に興味がわいてきます。

4)生徒会と三大行事
 大部分の生徒たちは、仕事を終えてから学校へ向かい、授業に出席していたので、健康を維持しながら継続するだけでも大変困難なものです。卒業できずに学校を去っていく生徒も多数いました。
 このような学校生活にあっても、生徒たちが学校生活を楽しむ大きな行事が三つ秋に集中しています。10月には京都市内の定時制高校による総合体育大会が開催されます。最も活動が活発だった時期には、教員や生徒たちが応援に駆け付け、立命館の大きなチーム力で優勝などの好成績を収めていました。10月下旬には学校の運動会が開催されました。仕事の関係で日曜日にしか開催できず、準備も後片付けもすべて自分たちで行い、翌日はいつもの職場勤務。それでも、当時のプログラムを見ると、生徒たちが仲間と楽しんでいた姿が想像されます【写真8】。そして11月の文化祭。女子も参加した演劇な作品展示などでの発表が行われ、昼間は男子校であった北大路学舎も、夜間は華やかな光景となっていたのでした。

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【写真8 1963年度運動会プログラム】

5)クラブ活動
 夜間高校時代の第3号(1951年度)には文化部として弁論、美術(絵画)、書道、音楽(後に軽音楽)があり、その後の定時制となる第4号(1952年度)以降には新たに英語、コーラス、文芸、放送、演劇、珠算、新聞、自然化学、宗教、映画などの班(部ではなく班と呼ばれていた)が誕生しています。これらの新設は、1953(昭和28)年からの定時制の男女共学によるものと考えられ、定時制だけの生徒数も1,000名近くとなっています。ただ自主参加であったため、入部率の低いのが現実でした。そのなかで、弁論班では1956年、57年と明治大学学長杯全国弁論大会で連続個人優勝するほどのすばらしい成績を収めています。また、演劇班は定時制演劇コンクールに創設以来4年連続で入賞し、1952年に最優秀賞を獲得しています。
 運動部では1951年当時からで陸上、水泳、籠球(バスケットボール)、野球、庭球、卓球、排球(バレーボール)などがありました。後には社会的流行から登山が誕生し、部員を固定化しない形式で女子も気軽に参加していたと報告されています。
 クラブ活動の名だけを見れば楽しそうですが、昼間の仕事だけでも疲れているのに、午後5時半からの授業に間に合うよう急ぎ、授業の終わる午後9時。それからのクラブ活動が自主参加であれば部員も容易に集まるものではありませんでした。練習も毎日行えず、照明設備も不十分なうえに練習場所(水泳部などは学校にプールもなく)確保にも苦労し、活動の維持さえ困難な状況でした。よほど精神的にも体力的にも強くなければ継続できなかったことでしょう。

6)定時制の灯
 定時制高校は、公立校の受け皿体制によって乱立していました。最多の時には、京都市内において府立8校、市立5校の13校が存立していたのに対して私学は4校(注2)。京都府全体では35校を数えるまでになっていました。そのような中で、公立校は低授業料に加え、施設設備の充実により私学との格差が広がっていました。そのうえ全国的に昼間の全日制への進学率が高まることで、私学は更に経営が困難となり、苦境に立たされることになりました。このことは立命館百年史に詳しく述べられています(注3)。
 年々減少してきた生徒数は、生徒会活動にも厳しい影響を押し付けました。1965(昭和40)年度から生徒募集が停止となり、クラブ活動では部員減での廃部が増し、最終学年の4年生のみとなる1967(昭和42)年には全生徒133名で3クラブ(野球、陸上、卓球)となっていました。生徒会は役員6名で奮闘しましたが、行事への参加者減少し球技大会などは2度にわって中止となっていました。
 定時制最後の卒業式には卒業生たちへ案内状を送るために、当時の鞍馬口病院の看護師であった女子生徒たちが手書きで宛名書きをしたそうです(「蛍光」第20号編集後記)。
 この時の校長は長谷川金市。戦前の立命館夜間中学校卒業生(1943年卒)であった長谷川校長に31年間灯り続けた定時制の最後を見届けられたのでした【写真9】。
 卒業式の参列者へは、末川総長題字の「蛍光」第20号が配布されました。生徒からは在校生30名に卒業生6名が寄稿した118ページにもなる最終号は、こうしてその使命を終えたのでした。
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【写真9 第20号の目次の一部】

2023年9月19日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
 
注1;細野武男は、その後に1970年11月から1978年6月まで総長
注2;府立は鴨沂、洛北、山城、朱雀、朱雀通信、鳥羽、桃山、桂。市立は堀川、
堀川専修、西京、洛陽、伏見。私立は立命館、同志社商業、明徳商業、東寺
注3;立命館百年史 通史2 「定時制の変遷」

2023.08.08

立命館のモニュメントを巡る(第8回) 立命館守山中学校・高等学校開校記念碑

守山中高記念碑1

【立命館守山中学校・高等学校開校記念碑 2023年7月14日撮影】

 立命館守山中学校・高等学校に開校記念碑があります。
     「志於道 據於德 依於仁 游於藝」
 出典は論語述而、白川静撰、川本八郎書と刻まれています。
 子曰わく「道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に游ぶ」と読み下され、
 先生(孔子)が言われた、「志向するところは、道であり、拠り所は徳にあり、根本は仁にある。そうして芸(礼儀・音楽・弓術・馬術・習字・算術)の中に憩い遊ぶ」と解読されています。
 知識偏重ではなく、心を育て、豊かになることによって、初めて学問も長じることを諭す。
 
 撰者の白川静は、文学博士で立命館大学名誉教授、立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所名誉研究所長でした。
 揮毫をした川本八郎は、1995年から学校法人立命館理事長を務め、2007年に学校法人立命館相談役になりました。

 記念碑の建立は2007(平成19)年春です。
 
 立命館守山高等学校は、2006年4月、滋賀県守山市から市立守山女子高等学校の移管を受けて男女共学校として開校しました。
 翌年4月、守山市三宅町の新キャンパスに移転し、更に立命館守山中学校を開校しました。記念碑はその三宅町の新キャンパスに建っています。
 中学校・高等学校の教育目標は、
立命館学園の一員としてのアイデンティティをもち、「自由と清新」「平和と民主主義」を理解し、国際社会や地域社会で活躍できる高い能力や倫理観、市民道徳を有する国際人を育成する
です。
 またその教育方針は、
  ・中高大一貫教育の優位性を生かした教育
  ・21世紀に求められる科学的素養を育む教育
  ・コミュニケーション能力を育む先進的英語教育と情報教育、高度な国際化教育
  ・高い学校文化の醸成
にあります。(『2007年度学校要覧』より)
 守山中学校・高等学校の2007年度の生徒数は、
  高等学校 1年は 普通科250名、
       2年は 普通科231名、商業科1名
       3年は 商業科76名、家庭科70名、外国語科29名
       計 657名
  中学校  1年  185名
 でした。
  現在(2023年度)は、高等学校 1045名
            中学校   536名
 で、滋賀県を始め、京都府、大阪府、その他の各県各地から通学しています。
  学校名の愛称は、立命館守山中学校・高等学校のホームページによると「リツモリ」です。


2023年8月8日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2023.07.18

<懐かしの立命館>昭和20年代の付属校は文化・芸術の学び舎

昭和20年代の付属校は文化・芸術の学び舎

 文化は、戦後の荒廃した時代に新しい社会を建設していく若者たちに大きな希望を与えるものでした。立命館の付属校では、熱気に満ちた若き芸術家たちが教諭となって、個人の持ち味を生かしながら各分野の先頭に立ち、生徒たちと理解を深める努力を重ねていったのでした。
 終戦直後の1945(昭和20)年9月早々、立命館第二中学校(後の立命館神山中学校・高等学校)では全校美術展覧会が数教室を会場にして開かれました。

付属校文化・芸術の学び舎1
写真1 立命館第二中学校全景

 応召から帰ってきたばかりの教諭野崎龍吉は、「美術展覧会は美術科教員であった小西壽(注1)、澤村藤四郎(注2)、八木一夫(注3)、三教員の肝いりで行われたものであるが、戦争は終わったという感じが濃く、それまでの抑圧のなかで、生徒たちが希求していた何物かが強くにじみ出て、観る者の心を捉えた。」と振り返っています(注4)。
 ここに紹介された三教諭と野崎は、共に同世代の青年たちでした。彼等と同時期の教諭として立命館第二中学校の書道を担当していたのが秋山公道でした(注5)。1943(昭和18)年4月から立命館第一中学校や夜間、商業夜間などで書道を教え、第二中学校でも1946年5月まで講師を勤めていました。
 美術展覧会を開いた三人は、1945年10月から46年1月の間に退職していますが、それでも野崎が「一つの学校で短期間であってもこれほどの教員たちによって実現した校内美術展覧会は、生徒たちにとってかなり豊かな文化的雰囲気が醸成された」と語っています(前述、注4)。

付属校文化・芸術の学び舎2
写真2 立命館神山高校時代の顧問の野崎と美術部員たち

 第二中学校が立命館神山中高時代となる1948年からは、演劇や放送活動でも生徒の活動が活発に展開していきました。文化祭の演劇では、中学の演出を高校の演劇部員が指導。教員劇「ベニスの商人」では、当時の教諭で後に文芸評論家として活躍した三枝洸一(注6)が演出を、舞台監督を同夫人の三枝和子氏(注7)が担当していました。
付属校文化・芸術の学び舎3
写真3 教員劇「ベニスの商人」の一場面(1950年 神山中学校卒業アルバム)

 三枝が後に指導した放送部もユニークな活動を展開していました。放送設備・配線の一切から、テープレコーダーの組み立ても手掛け、毎日の昼放送では、伝達に続いて生徒たちの自主番組が、研究発表、音楽鑑賞、朗読、ラジオドラマと多彩に編成され、教員有志のリレーで創作連続ドラマも放送されていました。この頃の放送部員の中には後に俳優として活躍する玉生司朗(注8)も含まれていました(前述、注4)。
 北大路の立命館第一中学校(後の立命館中学校・高等学校)にも画家の教諭が在職していました。安田謙(注9)は、野崎と同じ1943(昭和18)年に立命館第一中学校に採用され、1951(昭和26)年まで勤めていました。安田の退職と交代で野崎が神山から北大路へと移っています。独立美術協会会員であった安田が指導した中学生のなかに中井史郎がいました。中井は、立命館高等学校へ進学後、今度は美術教諭であった日本画の麻田鷹司(注10)から指導を受けました。そして、立命館大学進学後には本格的に画家への道を進み、在学中に二科展初入選を果たし、若くして注目される存在となったのでした。

付属校文化・芸術の学び舎4
 写真4 1951年の神山高校の全校写生大会

 後に立命館神山中学校高等学校の校長となった飯田五男(注11、写真4)が、廃校前の最後の学校新聞で語っている言葉に当時の立命館付属校が目指していた姿があるようです。
付属校文化・芸術の学び舎5
写真5 飯田五男 神山中学校高等学校長

私学は、その個性と伝統とに生きる。(中略)
学校は若い学生たちに夢を実現させる場所である。何もかも公の費用でまかなわれる官公立と、すべて自分でしなければならぬ私学とでは条件がちがう。しかし、この違いを克服しながら、私学は生長し発展していくのである。(中略)こういう困難の中にこそ本当に夢が育ち、実現されていくのであるかもしれない。温室の中でよりも、寒風吹き、厳霜下る山野にこそ、真に美しい自然の姿があるのではないか。(注12)


 戦後10年という時間は、物質的にも極めて貧しく、世情不安の続いた時期であったにもかかわらず、文化的なものを求める意欲が積極的に進められていったと考えられます。以前に紹介した立命館高等学校新聞局の「立命館タイムス」(注13)など全国で学校新聞が活発に発行されていたこともその一つでしょう。自分たちの文化を創り上げ、自分たちの国を築き直さなくてはとのエネルギーが、付属校の文化芸術の分野から育ちつつあったと言えるのではないでしょうか。
                        
2023年7月18日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博


注1;
小西壽は1919年生まれ。1945年4月に立命館第二中学校教諭となったが、翌年1月に依願退職。その後に京都市立小中学校教諭を経て、1956(昭和31)年に再び立命館中学校講師となって美術を教えた。後に退職して小西画塾を主宰し絵画の指導にあたった。
注2;
澤村藤四郎は1918年生まれ。陶芸家として修業中の1941(昭和16)年に二代陶哉を襲名し、陶磁器制作の家業に従事。1944(昭和19)年8月に立命館第二中学校助教諭となったが、翌年12月に退職し、その後は家業と陶芸活動に専念した。
注3;
八木一夫は1918年生まれ。1939(昭和14)年5月に応召された翌年除隊。1944(昭和19)年5月に立命館第二中学校の講師を経て助教諭となったが、1945年10月に退職。その後,1948年に前衛陶芸団体「走泥社」を結成。作品「ザムザ氏の散歩」を発表し, オブジェ焼の元祖のグランプリ作家として活躍し、現代陶芸に新分野を確立した。1971年に京都市立芸術大学の教授となった。
注4;
野崎龍吉1918年生まれ。1943年に立命館第二中学校の教諭となる。応召から復員して、第二中学校で再び美術教諭として勤める。立命館中学校高等学校校長(1971年~74年)も務める。(「立命館学園広報」 1972年5月発行)
注5;
本名は秋山晴次。1904年生まれ。後に京都書道連盟理事長などを歴任。京都市芸術功労賞受賞。秋山の妻は立命館創立者中川小十郎の孫娘。
注6;
ペンネーム森川達也。1922年生まれ。1947年10月に立命館第二中学校の国語科講師として勤め、後に専任教諭となって1957年3月に退職。その後は文芸評論家として活躍。大学教授と実家の住職を兼務。
注7;
1929年生まれ。中学校の教師を経て本格的作家活動に入る。1969年に第10回田村俊子賞を受賞。日本ペンクラブ女性作家委員会初代委員長を務めた。
注8;
本名。立命館神山高等学校2年の時に最後の生徒会長として学校存続の請願書を学園評議員会宛に提出などした。3年生で北大路の立命館高等学校へ移る。俳優・声優としてテレビ・舞台・映画などで活躍。
注9;
本名は安田謙三郎。1911年生まれ。在職中に応召され、1945年10月から復職。1951(昭和26)年に退職。公立高校に勤めた後、京都市立美術大学教授となる。京都市文化功労者で表彰。作品「雪景伊吹山」は滋賀県立近代美術館に展示。
注10;
1928(昭和3)年生まれ。本名は昂(たかし)。京都市立美術工芸学校在学中に学徒勤労動員で負傷。1951年から1953年まで立命館高等学校に務めた。その後、法隆寺壁画の再現模写にも加わり、武蔵野美大教授となった。
注11;
飯田五男(はんだいつお)は1911年生まれ。1940年夜間の立命館商業学校教諭となる。1947年から神山中学校校長、翌年神山高等学校校長。廃校になる最後まで校長として存続に努めた。神山廃校と同時に退職。公立中学校校長などを勤めた。
注12;
立命館神山学園新聞 1952年2月21日発行
注13;
立命館 史資料センター ホームページ
「学校新聞にみる戦後初期の立命館高等学校の自治活動」前・後編

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