立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2025.01.14

<懐かしの立命館>不讀・陶庵西園寺公望公、俳句を詠む

《序:不讀・陶庵の俳諧略史》

 西園寺公望公はしばしば俳句を詠んだ。俳号を不讀といい、また陶庵の雅号を用いた。
 総理大臣のときは文士を招いて雨聲会を開き、政界を引退してからは京都の清風荘で京都大学の学者や文化人と交流を深めるなど文化文物に極めて造詣が深かった。
 そのなかで、玄人の俳諧師との交流も深く、自ら俳句を詠んだ。小稿では不讀、陶庵として残した西園寺公望公の俳句を探訪してみよう。

<大森・望緑山荘、大磯・隣荘時代>
 そもそも俳号の不讀は、大森不入斗(いりやまず)の望緑山荘に居を構えた明治26年12月から32年半ばの頃に、不入斗は不入読(いりよまず)から転訛したといわれることから不讀と名乗ったという。明治32年末からは大磯の隣荘(伊藤博文の別荘滄浪閣の隣に居を構えたことから)時代には陶庵の雅号を名乗っている。東京に本邸・駿河台邸をもったのは明治33年からである。不讀と陶庵の号は並行して使われた時期もある。
 大磯の隣荘時代は、鴫立庵の13世庵主間宮宇山(不明~明治35年)に師事している。鴫立庵には宇山の句碑があるり西園寺公望が建立している。
 俳人の荻原井泉水は、『古人を尋ねて』(昭和18年発行)のなかの「大磯の春-鴫立庵を尋ねて―」で、十三世間宮宇山の句碑を案内され、書は西園寺公の筆だと紹介されている。
西園寺俳句1
【写真:間宮宇山句碑】
 鴫立庵は、日本三大俳諧道場の一つであった。あと二つは、このあと出て来る滋賀県大津の義仲寺の無名庵と、京都嵯峨野の落柿舎である。

<松浦羽州など俳諧人との交流>
 西園寺公は、宇山の勧めで名古屋の松浦羽洲(文政10年~大正3年)に師事した。羽洲との交流は、本稿の3.『明治41年秋、不讀西園寺公望京都にて』などにあるが、この時羽州や京都の藤井培屋らと俳句三昧にひたった。松浦羽洲は明治42年の天長節に『羽洲園発句集』を出しているが、その叙は陶庵主人公望が記している。
 明治44年4月5日から14日には東京・駿河台邸の茶室侵春亭で、俳諧の会を開催している。名古屋の松浦羽洲、矢野二道、京都の藤井培屋、埼玉県不動岡の峰岸淺水、貴族院議員でもあった鳳羽森山茂が参集した。陶庵は「花水を渡て来たか青嵐」を披露した(安藤徳器『西園寺公望』)。
 森山鳳羽は西園寺公とともに羽洲の弟子でもあったことからか、西園寺から森山鳳羽あての書簡が10通ほど残されている(立命館大学図書館『西園寺陶庵公俳巻』)。明治38年、40年、大正7年などの書簡と思われる。
 岩井忠熊名誉教授が書簡を翻刻しており、また書簡には数多くの句が記されているが、ここにも「花水を渡て……」の句が詠まれている。
 坐漁荘や清風荘時代になると残念ながら西園寺公の俳句三昧の話が伝わってこない。
 公の句は、いつ、どこで詠まれたか不明なものも多いが、以下に西園寺公について書かれた著作などから探索してみよう。

《本章:西園寺公の俳句》

1.國木田哲夫編『陶庵随筆』 明治36年10月 新聲社
 
 公の句が最初に世に紹介されたのは、國木田哲夫(国木田独歩)編集の『陶庵随筆』であろう。明治36年10月、国木田独歩は竹越與三郎主筆の『世界之日本』に掲載された西園寺公望の随筆などを編集し、世に出した。その『陶庵随筆』に公が口吟したうち、編者が記憶にあるもの4,5を掲げるとして、12句を掲げている。
     梅ひとつふたつ一日二日哉      
     梅の咲くあたりを庵の惠方哉
     るすの戸の御慶を梅に申けり
     初春やなにゝ添えても梅の花
     一枝は梅も手折りてねの日哉
     水に月にさては雪にも梅の花
     小流のこゝにもほしき野梅哉
     留守にして今年も返す土用哉
     冷し汁酒も井戸からあけに鳬
     夕顔に見殘されけり二日月
     提けて居る籠にも虫の高音哉
     高汐に磯の踊りの崩れけり
 上掲の句のうち7句が梅にまつわる句である。
西園寺俳句2
【写真:梅】
 これらの句は、大森の望緑山荘時代に詠まれた句ではないかと思われる。
 望緑山荘は後に内田嘉吉の所有になり、望緑山荘に住んだ嘉吉の息内田誠は、「(望緑山荘の庭は)芝生と四、五十本の梅の木があるだけであった。ただ、梅の花の盛りの時分は見事だった。白い花が霞に銀粉を撒いたやうであった」(『遊魚集』「望緑山荘の記」)。
 内田誠は随筆家であり、句会を主宰し俳号を水中亭といった。
 国木田独歩(明治4年~明治41年)は小説家で詩人、ジャーナリストでもあった。西園寺公望は弟の住友吉左衛門から明治33年に駿河台邸を譲り受け、東京の本邸とした。明治34年11月末から翌年2月初めまで、国木田独歩は竹越与三郎の紹介でその駿河台邸内の長屋に寄宿している。明治40年に開かれた雨聲会にも出席しており、西園寺公望と交誼があった。

2.『立憲政友会史』第2巻、大正13年9月 立憲政友会

   折にふれて 不讀西園寺公望
     落葉より外に物なき庵かな
蕎麥かりしあともましりて枯野哉
彼とてもただの人なり鉢叩
無  題
雪の日も同し貌して網代守
雪佛さつはりとけて仕舞けり

 西園寺公望は、明治36年7月に伊藤博文総裁の後を継ぎ立憲政友会第2代総裁となった。『立憲政友会史』の第2巻及び第3巻は、大正3年に西園寺が総裁を辞任し原敬総裁に代わるまでの西園寺公望総裁時代の立憲政友会史である。第2巻にはこのあと3句、第3巻に5句掲載されているが、いずれも『陶庵随筆』に掲載されている句である。実は俳句だけではなく、『立憲政友会史』には『陶庵随筆』中の随筆が何点か掲載されている。政党史に随筆や総裁の俳句が掲載されているのも何か政党史らしからぬとも思えるが、文化史的側面も窺うことができる。西園寺総裁ならではかもしれない。

3.『明治41年秋、不讀西園寺公望京都にて』 立命館史資料センターホームページ 2021年5月

   自楽居に移りて
     引越の宵から聞くや秋の聲
     一集ひ京に居待のかひありて
     病客も肌寒からず今日の月  
   また近詠として
    島原                  
     畑中やくるわをぬけて京の人
    義仲寺にて               
     芋くれる隣もありてけふの月
西園寺俳句3
【写真:左 島原大門、右 義仲寺】
 明治41年7月、西園寺公望は総理大臣の職を辞し、その秋、京都で静養した。
 9月9日に上洛し、木屋町三条を上がった大可楼を宿としたが、続いて9月13日(あるいは12日)に東山八坂塔近くの自楽居に移った。京都滞在の間、公望公は名古屋の宗匠松浦羽州を呼び、京の宗匠藤井培屋らと共に大津に遊び俳句三昧にひたった。弟住友吉左衛門も大可楼に呼び中秋の明月の観月の宴を開き、また自楽居滞在中も琵琶湖で遊んでいる。
 この時の句作については、立命館史資料センターホームページに小稿を掲載している(懐かしの立命館:「明治41年秋、不讀西園寺公望京都にて」2021年5月24日)。 なお、西園寺公は大正2年に清風荘が出来るまでは上洛の折、大可楼をしばしば宿としていたが、大可楼で公直属の仲居として仕えた松田きぬさんは、公爵が昭和15年11月24日に薨去した際にその思い出を新聞に語っている。
     絹こしの豆腐すずしき夕かな  不讀
 明治38年の頃、公手作りの湯呑にこの句を書いていただいたと。

4.『別府市誌』 別府市教育会 昭和8年8月
明治44年5月、西園寺公別府温泉にて
  別府に著いて
     道々も櫻浴ひつゝ温泉のやとり
     葉櫻にきのふも見せて名残橋        
     ほとゝきす鳴くや青葉の朝見川
西園寺俳句4
【写真:名残橋の句碑 別府市郷土文化研究会『別府今昔風土記』より】
 
 西園寺公は明治38年10月に引き続き、2度目の別府訪問をした。別府では実業家・麻生太吉氏や永江淳一、熊本寿人、三浦覚一氏ら福岡県・大分県選出の立憲政友会の衆議院議員らが出迎えている。用務についてはわからないが、西園寺公は別府に着いて句を詠んだ。流川に架かる名残橋付近は別府温泉の花街であった。時あたかも桜が咲きほととぎすが鳴く季節であった。名残橋跡には西園寺公の詠んだ自筆の俳句の標柱が昭和40年代に至るまであったが、残念なことに今はない。

5.竹越與三郎著『陶庵公:西園寺公望公傳』 昭和5年2月 叢文閣

   俳句
     山はまたねふたさう也初霞
   大磯にて
     花水を渡て来たか青嵐         
   軽井澤にて于時浅間山鳴動す
     山鳴にまけぬ午睡の鼾かな 【写真:花水句短冊:今治市河野美術館所蔵】
   伊藤公遭難
     逢ふほとの人の鼻かむ寒さかな
   滄浪閣を訪ふて帰るさ
     捨てゝある富士を拾ふてもとりけり      
   大磯楓谷即興
 ひとまくし富士横切りて紅葉ちる
 雪にみて買いたくなりぬ人の庭         
 「花水を渡て…」の句は公自身が気に入っていたようで、前述のように駿河台邸茶室の句会や、森山鳳羽あての書簡でも書き送っている。
 花水は、大磯とその東側の平塚の間を流れる川である。
 竹越與三郎(慶応元年~昭和25年)は、新聞記者・史論家・政治家。明治33年に西園寺公望文相の秘書を務めた。西園寺公・陸奥宗光らの勧めで雑誌『世界之日本』の主筆となり、立憲政友会に所属した。明治35年から大正4年まで衆議院議員、大正11年から昭和15年まで貴族院議員を務めた。

6.安藤徳器著『西園寺公望』 昭和13年3月 白揚社

   大磯の別荘にて
     小ゆるぎの浪こゝろせよ芥子花       
   初夏述懐
   けふまでもきかで通しぬ閑古鳥
西園寺俳句6
【写真:こゆるぎの浜】
 小ゆるぎ(小淘綾)は、大磯あたりの浜の名である。滄浪閣と隣荘の間の小径を歩くと小ゆるぎの浜に出る。
 安藤徳器(明治35年~昭和28年)は文筆家、歴史研究家。京都帝国大学で維新史を専攻した。山口県岩国の出身で、毛利家の研究にあたった。安藤徳器には『西園寺公と湖南先生』(昭和11年)、『陶庵公影譜』(昭和12年)、『西園寺公望』(昭和13年)などの西園寺公に関する著作があり何点かの俳句を掲載しているが、上記の句以外は竹越與三郎の前著に掲載されているので略した。 
 なお、竹越の『陶庵公:西園寺公望傳』掲載の「花水を渡りて……」および安藤の『西園寺公望』掲載の「小ゆるぎの浪……」と「けふまでも……」の3句は、年不詳7月14日付けの不讀(西園寺)から峰岸淺水宛に送った書簡に書かれている(立命館大学『西園寺公望傳』別巻一)。

7.原田熊雄『陶庵公清話』 昭和18年 岩波書店
 
 『陶庵公清話』の「返句と添削と」の中で、原田熊雄が興津の西園寺公に向かう途次、偶然に某と同車した際に、某が伊香保温泉に同宿していた時に一句老公(西園寺公)に届けたところ、公は 
     猛獣に踏まれてもゐず秋の花
と添削して届けた、と記している。西園寺公は伊香保温泉には何度か滞在しているが、これは第一次世界大戦で独軍が頽勢に傾いた頃というから、大正6・7年頃のことだろうか。
 また、同書の中で原田に対し、西園寺公は好きな句は別府温泉で遊んだ時の「道々も櫻あびつつ湯の宿り」と答えている。
 原田熊雄は西園寺公の秘書で、貴族院議員であった。

《結び:室積徂春「俳壇半世紀」(3)》

 室積徂春(明治19年~昭和31年)は、俳人で俳句月刊誌『ゆく春』を主宰した。その『ゆく春』24巻10号(昭和26年10月号)に「明治、大正、昭和俳句武者修行体験記 俳壇半世紀(3)」に「西園寺陶庵公の俳句」について書いている。
 西園寺公の俳句「捨ててある不二を拾うて戻りけり」について、季語がない無季の句であるから一本立のできる俳句ではない、といわれる見方があることに対し、「老公は素人どころか専門家も一と通りの俳人では遠く及ばない程、俳句道の蘊奥を極めてゐた人であり、大成した俳諧人であった」と評している。そのなかで「特選俳句 西園寺不読侯爵評選」を取り上げている。これは、明治34年の12月28日発行の俳句雑誌『半面』に掲載されたものであるが、『半面』は徂春の師匠、岡野知十が主幹であった。この特選俳句は投稿された句を西園寺不読が選定し評を加えるというものであった。実は、選定された俳句の中に15歳であった徂春少年のものがあったのである。徂春少年は『半面』を持って駿河台の西園寺邸に赴き西園寺公に面会を乞い実現した。
 そのことを後年になって語っているのだが、随所に西園寺公の俳境の高さを称賛している。そして、陶庵公をしのびて「温顔のゑまひ春風のころと思ふ」徂春 と結んでいる。
 また西園寺公薨去の翌年のことであるが、筑紫路の旅への途次、坐漁荘の辺りに陶庵公をしのびまつりて、「発句詠みのおとど今亡し雪の富士」(『定本室積徂春句集』より)
 
 本稿を結ぶにあたって、『半面』明治34年12月号の西園寺不讀侯爵評選の特選俳句中選者不讀自身の俳句を紹介しておく。
   ひとしきり又遠くなる砧かな
   行鴈をかぞへ残して暮にけり
   出る事もたまにはありて冬籠
                   陶庵


 (後注) 句の表記については掲載誌によって異なる場合があるが、原則として先行の掲
載誌によった。また、いつ詠まれたか不明の句が多いが、重複している句は先行
の掲載誌によった。
 
2025年1月14日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2025.01.03

「今日は何の日」1月 立命館大学が参加した箱根駅伝

 恒例で1月2日・3日に行われる箱根駅伝(正式名称は「東京箱根間往復大学駅伝競走」)は今では正月の風物詩となっています。
 箱根駅伝は関東学生陸上競技連盟加盟大学のうち、前年大会でシード権を獲得した上位10校と、10月の予選会を通過した10校、および関東学生連合を加えた合計21チームが出場します。関東学生連合チームは予選会を通過しなかった大学の記録上位者から(各校1人)選ばれます。「関東の大学だけかぁ」と見ない方もおられるかも知れません。
 ところで、京都の立命館大学がかつて、箱根駅伝に参加した年があったことを知っていますか。1964年の「東京オリンピック」の年、箱根駅伝は40回記念大会で、「関西学生駅伝」三連覇の立命館大学と福岡大学の2大学が西日本から招待されたものです。当時はテレビ中継が行われていませんでした。本学は選手10人中5人が1年生でしたが、学生達は奮闘し、総合11位と健闘しました(日野雅之『たった一度の箱根駅伝―東洋オリンピックの年、立命館大学が走った―』大成出版社2012年)。この時の選手の写真はこの本から引用しました。
 立命館 史資料センター公式YouTubチャンネルにて、当時の貴重な映像がご覧いただけます。
 
 なお、2024年の第100回大会は記念大会とされ、関東以外の大学にも門戸を広げることになり、立命館大学も予選会に参加しましたが、34位の成績となり、23校という本戦出場枠には至りませんでした。主将の北辻選手(経済学部4回生)は、「挑戦してよかった」とチーム一丸で挑んだ約8カ月間を振り返り、山崎選手も「実力のなさを痛感したが、この経験を糧に、より成長していきたい」と悔しさをにじませながらも、今後に向けて前を向きました。(「『挑戦してよかった』第100回箱根駅伝予選会、立命大34位」、立命館大学ホームページTOPICS2023.10.17)

箱根駅伝1

2025.01.01

「今日は何の日」1月 明けましておめでとうございます

 日本のお正月は、もともとは、祖先に感謝し、先祖の霊を祀るもので、その後、五穀豊穣の神様をお迎えし、その年の豊作を祈るようになったといわれています。6世紀半ばには、すでに存在していたということです。また少なくとも平安時代後期には、「お年賀」の挨拶が始まっていたとされています。現在のように門松やしめ飾り、鏡餅などの正月飾りが庶民の間でも行われるようになったのは江戸時代中期からで、おせち料理が食べられるようになったのもこの頃です。さらに初詣として神社に参拝するようになったのは明治時代以降で、都市部から始まった新しい慣習でした。(イニシオフーズ株式会社『百花』より)
 お正月について、名誉総長の末川博先生は次のように述べています。
 「一九六五年、昭和も四十年となった。終戦までの二十年と戦後の二十年と、まさに昭和も半々に分けることができるようになったわけである。そして、その前半と後半とのあいだには、日本民族がかつて経験したことのない敗戦による降伏という大きな断層があって、あらゆる面で急激な変転が生じている。まず、新年を迎えてお互いに『おめでとう』といいかわす言葉に変りはないが、その意味は、だいぶん変わってきている。正月にはなぜおめでとうというのか。何とか年を越すことができてよかったとか、生きながらえてお互いに結構だったとかいうような気持を表わすのでもあろうが、戦前のこどもたちにはトシを一つとるというよろこびが大きかった。」(「正月と戦後二十年」1965年1月1日『京都新聞』、末川博『京洛閑話』、『末川博随想全集』第8巻、栗田出版会1972年より)
 戦前は一般的に、生まれた日が1歳で正月の度に1歳年をとる「数え年」でした。1950年の「年齢のとなえ方に関する法律」により、従来のならわしが改められ、生まれた日が0歳で、その日を起点に1歳ずつ年をとる「満年齢」となっています。
 「ところで各家庭に大切な歳神様をお迎えするお正月なので、昔からお正月にやってはいけないこととして伝えられてきたことがあります。
〇炊事場などの火や水を使ってはいけない(神様の食事される場所であるため)
〇掃き掃除などをしてはいない(神様を掃いてしまうため)
〇風呂に入ってはいけない(福の神様も流してしまうため)
〇包丁など切れるものを使わない(良い縁も切ってしまうため)
〇1万円札など大きなお金は使わない(散財する年になってしまうため)」(イニシオフーズ株式会社『百花』より)

 「だからおせち料理は予めつくっておくのか」といまさらながら感心しました。

あけましておめでとうございます1

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