立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
最新の記事
2024.11.05
<学園史資料から>立命館校友の芸術家たち
史資料センターは、学園の歴史にまつわる様々な事歴を保存・利活用しています。
また、様々な学園の事歴の調査研究もしています。
さて、5月8日に立命館出身の作家がどのくらいいるのかをホームページに掲載しましたが、その第2弾として立命館校友(卒業・中退)で「芸術家はどのくらいいるのだろう」と調査をしてみました。
インターネットで「立命館出身の芸術家」を検索した中から、今回は62名の方々を紹介します。あくまでインターネット検索なので、情報ソースが不確実であったり、在籍時の所属がわからなかったりなど、データの検証が十分ではありませんので、ご容赦ください。訂正が必要な点などお気づきの点につきまして、正確な情報をお報せいただくことができれば幸いです。
今回の「芸術家」には、絵画、版画、陶芸、書道、漫画等をはじめ、各専門分野でまさにアーティストとして活躍されている方々を掲載しました。次回は「芸能関係」という括りで校友を紹介したいと思います。
皆さんご存じの芸術家はいらっしゃいましたか?
日本刀鍛錬所 早崎治氏ポスター
※一覧表は、クリックをすると別画面で大きな表をご覧いただけます。
2024年11月5日 立命館 史資料センター 調査研究員 佐々木浩二
2024.09.17
<懐かしの立命館>英語教員サウターが残した卒業生への贈る言葉~旧制立命館中学校初の英国人女性教員が残した唯一の文章~
1)はじめに
以前、史資料センターのホームページで旧制立命館中学校初の女性教員がサウター女史であったことを紹介しました(本名はAnnrie Elsie Sowterで、以後、文中ではA.E.サウター女史と表記)。
立命館 史資料センター ホームページ〈懐かしの立命館〉
「明治・大正における立命館中学の英語教育とそれを支えた外国人女性教員」
その後の調査で、A.E.サウター女史に関する資料を確認することができたので、今回はその続編として取り上げました。
2)A.E.サウター女史最後の言葉
1929(昭和4)年3月、清和中学校の卒業生で教員となっていた塩崎達人(注1)が、それまで館長と校長とを兼務していた中川小十郎(注2)の後を引き継いで校長を務めることになりました。同年4月には商業学校が創設され、中西弘成(注3)が校長に就いています【写真1】。
【写真1】 塩崎達人中学校校長と中西弘成商業学校校長
A.E.サウター女史が残した最初で最後の文章は、1930(昭和5)年3月卒業の立命館中学校第二十四回卒業生への贈る言葉として、英文のまま「立命館禁衛隊」(第6号)に掲載されていました(注4)。ここに原文と和訳(注5)を紹介します。
「日本語訳」
親愛なる友人たちへ
皆さんはいよいよ卒業します。私はこの機会に際し、お祝いにいくつかの助言を書いてほしいと頼まれました。
私はめったに助言をしません。なぜなら、人々は助言を歓迎しないことが多く、ほとんど受け入れることがないからです。
その代わりとして、私は皆さん一人一人の最初の成功を祝福したいと思います。皆さんは 「人生の梯子」の最も愛すべき一段を上ったのです。その段階を克服するための支援を受けてきましたが、これからは自分の力で残りの梯子を登ることになります。
大志を抱け - 最善を尽くすという大志を抱いてください。最善に勝るものはありません。
大志はインスピレーションを呼び起こし、想像力をかき立てます。気力と機知と決意がその味方です。大志を抱くことは、進歩の基盤なのです。
人生の梯子を登る時、苦難、困難、不公平に出会うかもしれません。何かを成し遂げるという目標を達成することは容易なものではありません。諦めることは簡単ですが、達成した時の高揚は何ものにも代えがたいものです。
「前へ進む」と心に決め、「笑顔を絶やさずに」人生の梯子を登り続ければ、成功は必ずあなたのものになるでしょう。
皆さんの未来に幸あれと願いを込めて
私を信じて
心からの友人として
A.E.サウターより
2)初期の清和中学校と英語教員
立命館学園の付属校は、1905(明治38)年9月10日に私立京都法政学校附属普通学校として創立されました。創立当日の新聞記事には、開校にあたっての生徒募集で「外国語数学及び国語に力を入れた授業を行う」としていました(注6)。この時に英語担当だったのが吉村友喜で、吉村は翌年に正式の中学校となった清和中学校初代校長となりました(注7)。清和中学校では早期退職者が多く、初期の5年間(1906年から1910年)の英語科教員だけでも16名の退職者がいて、勤続1年未満が10名という状況でした。この理由の一つとしては、当時の中学校教員は有資格者が少なかったため、好条件での引き抜きが激しく、全国的にも一つの中学校で長く勤務することは稀であったと考えられます。また、当時の外国人教師の絶対数が不足していたために、一人で複数の学校を掛け持ちで担当するという任用も多数あったようです。
3)A.E.サウター女史
A.E.サウター女史の名は、清和中学校から立命館中学校時代の記録に「サウター先生」とだけ書かれていましたが、史資料センターに一部保存されている資料にA.E.サウターという本名が記載されていました。それによれば、イギリスのロンドンに生まれ、私立全寮制学校を卒業後、ケンブリッジ大学やロンドン王立音楽大学、南ケンジントン美術学校などで学び、様々な教養を身につけていて、来日してからは叔母と姉妹の三人で京都に居住していると書かれています。
A.E.サウター女史が1908(明治41)年6月から清和中学校へ勤務したことは、当時の新聞にも記事にもなっていますが(注8)、同年9月に退職しています。その後にガッピー(イギリス)とカスパート(アメリカ)の男性教員が着任していますが、この二人は共に半年後に退職しています。A.E.サウター女史は、退職一年後の1909(明治42)年9月に清和中学校に再就職し、立命館中学校となってからの19年間、唯一の女性教員として勤務し続けました。A.E.サウター女史は、一時期を京都市立第一商業学校と両洋中学校に教員継続採用されていた記録が残されています(注9)。
この同時期にもう一人のサウターという名の女性が、教員として京都市立第一商業学校と第二商業学校に勤めていた記録が残されています(注10)。その名がカタカナでイディス・イー・サウターとしか記載されていいないため確定できませんが、前述のA.E.サウター女史の姉妹か叔母であったと考えられます。
【写真2】 1912(明治45)年度第7回卒業生 最前列中央がA.E.サウター女史
4)A.E.サウター女史以後の女性英語教師
A.E.サウター女史以外はすべて男性の教職員と生徒という時期がしばらく続き、職場でも私生活でも大変な苦労があったであろうと想像されます。彼女の姿は、毎年の同窓会誌「清和」に教職員・卒業生との集合写真に残されています。毎年、常に最前列中央に位置しています。
1928(昭和3)年4月からは、二人目の女性で、日本人として初めての英語教員を高田久榮が勤め(注11)、翌年4月には塩見夫人(本名はEsther Rogers Shiomi)が勤務したことが記録に残っています(注12)。つまり、1929(昭和4)年には英語教員として、2名の外国人女性と1名の日本人女性が立命館中学校・商業学校の教壇に立っていたのでした。この時の3名の担当時間と給与は以下のとおりです。
立命館中学校専任
サウター(英語)週3時間;俸給45円
高田久栄(英語)週6時間;俸給40円
立命館商業学校嘱託
塩見ロジャース・エスター(英語)週4時間;俸給48円
他の男性教員が週1時間平均5円程度であったことから外国人の2名には破格の待遇が与えられていたことがわかります(注13)。
5)A.E.サウター女史と昭和初期の立命館中学校・商業学校
1928(昭和3)年11月24日、立命館禁衛隊が結成されましたが、当時の学校の様子は、翌年8月に発行された同窓会誌「清和」第24号から想像することができます。表紙には「禁衛隊記念號」と印刷され、ページを開けば次のような写真が続いています。
【写真3】正門左の門標は「立命館禁衛隊司令部支所」
【写真4】教員集団は「禁衛隊中学生徒隊幹部」
【写真5】校庭に整列した全校生徒
そして目次は
中川校長訓話、禁衛隊編成、禁衛隊日記、禁衛隊服務日記、禁衛隊員感想
禁衛隊新入隊者感想、昭和3年度中学校行事、第23回卒業生名簿となっています。
このような内容でも、冬の講習内容として英語や英作文、英訳などが記載されていました。A.E.サウター女史が担当する英会話はまだ授業として存在していたようで、それを知ることのできる一人の生徒の記述が、彼女が卒業生へ贈った言葉が掲載された2か月後の「立命館禁衛隊」第8号に掲載されていました。その生徒の名は小山五郎。3年生へ進級する直前の不安な気持ちを、「三学年と云ふ喜悦の半面、又言ひ知れない不安を感ぜずには居られない。(中略)また英語の会話はサウター先生なのだらうか等、次から次へと不安の数が多くなる」と述べています(注14)。小山は、中学校を卒業時(昭和8年3月)に立命館総長賞(2名)と禁衛隊賞(2名)の2賞を一人で受賞するほど学業成績と生活態度の両面で最優良模範生徒で、後に母校に教員として勤め、評価された人物でした(注15)。その小山でさえA.E.サウター女史の授業に不安を抱いていたのでした。
【写真6】A.E.サウター女史の最後の写真 生徒の制服右脇には禁衛隊の徽章
(高田久榮氏親族から提供)
1930(昭和5)年3月には立命館禁衛隊となって第2回目の卒業生が巣立っていきました。塩崎中学校長は卒業生に「君ノタメ、國ノタメ、世ノタメ、人ノタメ一層精進努力を」と激励しています。最初に紹介したA.E.サウター女史の言葉は、年を追うごとに禁衛隊色が色濃くなっていった学校教育の中で育てられた生徒たちに贈られたものでした。A.E.サウター女史の贈る言葉は、塩崎校長の訓話と同じ「立命館禁衛隊」第6号に掲載されていました。学園全体が禁衛隊精神を基に大きく変わりつつある時期に、A.E.サウター女史はどのような思いで卒業生たちにあの言葉を贈ろうとしたのでしょうか。
自らの信念に基づいて、22年もの間、立命館中学校の英語教育のために勤め続けてきたA.E.サウター女史は1931(昭和6)年3月、同僚の高田久榮と共に立命館を去りました。これを伝えるものは、大学の「立命館学誌」第143号(1931年5月発行)の「中学校・商業学校生徒隊だより」の最後の職員移動という小さな見出しで2行、「サウター、高田久榮先生退職せられ」との記事だけでした。
6)付属校その後の英語教育
1936(昭和11)年、中川校長が立命館中学校・商業学校の英語教育について、「英語教授に就て」と題して生徒へ伝えた告示なるものがあります(注16)。
告示第九号
英語は中々六(むつ)かしい、(中略)過去七十年の努力に依りて、欧米の文化を我國に移入することの出来たのは、我々の先賢等が外國語の學習に甚大なる犠牲を拂った賜物に外ならないのである。(中略)今回私が外國語の學習に力を入れんとするのは正にこあしいの考から出發して居るのである。
(中略)毎朝、授業前には重要なる注意がパブリック、アドレス、システムの利用によって英語で放送される。英語の時間には先生も生徒も成るべく英語を用ひて、その用を足すやうにする。その上先生と生徒諸君と、合同して英語でのお話をする會合を催して、會話の稽古を始めて居る。
(中略)六(むつ)かしい點を容易ならしめんがために、共に工夫を試みて、将来に於てこれを十分に利用することの出来るやうになるまで、大に努力せんことを欲するに外ならぬのである。
A.E.サウター女史が立命館中学校・商業学校の教壇を去って5年後。立命館禁衛隊教育を推進する中川小十郎校長が、生徒に対して英語力重視の考えを伝えている資料ですが、それがどのように校内で実践されていたかを確認することはできません。
2024年9月17日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
注1;1911(明治44)年3月卒業の清和中学校第5回卒業生。1921(大正10)年4月奉職。1927(昭和2)年9月中学校教頭。1929(昭和4)年2月から1933(昭和8)年8月まで校長職に就いた。この年8月からは再び中川小十郎が中学校商業学校の校長を兼任。
注2;立命館では、1928(昭和3)年4月それまでの総長制を廃して館長制を制定。中川小十郎は館長に就任、同時に中学校校長を1929(昭和4)年2月まで兼務した。
注3;1923(大正12)年4月中学校教頭。1929(昭和4)年2月、商業学校創立の初代校長として1933(昭和8)年8月まで職に就く。その後、1934(昭和9)年3月まで商業学校主事を務めた。
注4;「立命館禁衛隊」第6号 (1930年3月発行)
注5;訳には現立命館高等学校英語科の3名の教員の協力により作成。
注6;京都日出新聞 1905(明治38)年9月10日付記事
注7;吉村は 校長在任1年目を終えて退職し、第三高等学校の教授となった。
注8;これより早く、1908(明治41)年4月21日付の京都日出新聞によれば
「英語科教員として英国婦人を1名雇入れたりと」とあり、「立命館中学の過去現在及将来」
の記載とは時期が一致しない。
注9;京都市立第一商業学校には1918年から1921年まで、両洋中学校には1924年から教員継続採用されていた。(京都府立京都学・歴彩館保存の行政文書)
注10;注9に同じ。
注11;高田久榮の母親は草木シゲといい、京都府北桑田郡山国村弓削の出身。中川小十郎夫人の好榮も草木家ということで、同じ草木家の遠縁と考えられる。
注12;夫は立命館大学講師を務めており、日常は塩見氏の夫人という呼ばれ方しかされていなかった。
注13;史資料センター保存資料
注14;立命館禁衛隊 第8号 1930(昭和5)年5月1日発行
注15;小山は卒業後、母校の教員となり、戦中戦後を通じて、母校の教育実践に尽くした貴重な体験をもつ人物。
注16;「立命館禁衛隊」第67号1936(昭和11)年9月発行
2024.08.28
<懐かしの立命館>西園寺公望と別府温泉
《別府に著いて》
道々も櫻浴ひつゝ温泉のやとり
葉櫻にきのふも見せて名残橋
ほとゝきす鳴くや青葉の朝見川
西園寺陶庵
これらの俳句は、明治44(1911)年に西園寺公が別府に着いて詠んだ俳句です(1)。
あまり知られていませんが、西園寺公望公は明治38(1905)年と明治44年の二度別府を訪れています。
この小稿は、西園寺公の二度の別府温泉入湯について紹介するものです。
《明治38年の別府訪問》
明治38年10月、西園寺公は数日間別府を訪れています。訪問の目的は、陸軍大将梨本宮守正王殿下が日露戦争から帰り、夏から秋にかけて70日間ほど別府温泉で療養をしていたので、その見舞いということでした。
『目で見る別府百年』には、「明治38年10月 西園寺公爵流川の日名子旅館で静養中の梨本宮守正王殿下見舞いのため別府に来たる 中央首巻きしている人」の写真が掲載されています。写真は別府港に着き、上陸する直前の様子が写されています(2)。大阪商船で瀬戸内海航路を大阪から来たと思われます。
【写真:別府市郷土文化史研究会『目で見る別府百年』より】
『別府今昔』によるとその「梨本宮と西園寺公」で、「明治三十八年の夏、埋め立て前でまだ美しい遠浅の海辺だった今の高砂ホテルの所に二張りの砂湯のテントが町長や警察署長らの立ち合いのもとに設けられた。(中略)陸軍大将梨本宮守正王殿下がお宿泊所の日名子旅館から吉田回漕店の前まで人力車で到着。ユカタ姿でテントにお入りになりゆっくりと砂湯を楽しまれた。守正王は日露戦争に出陣、満洲で病気になられたものでこの砂湯治療はその後七十日間もつづいた。(中略)二張りのテントのうち殿下とならんで砂湯に入っていたのは明治の元勲西園寺公だった。殿下のお見舞いにきたついでに砂湯に入ったのか、病気保養という同じ目的できたのかははっきりしないが殿下と頭をならべて湯気の立つ熱い砂に埋まりながら高崎山の眺めのすばらしさなどお話し合いになっていたという。」(3)
別府温泉は、古くからありましたが、この頃皇族や公家など東京から著名人が来るようになり全国的に有名になったようです。また日露戦争のあと、戦争で負傷した傷病兵の温泉治療の場となり、大変な数の傷病兵が別府温泉で療養したといいます。
西園寺公の別府温泉(砂湯)入湯は、梨本宮の見舞いでしたが、当時の日本の状況についても話をされたのではないかと考えられます。
西園寺公はこのとき立憲政友会の総裁でしたが、わずか2、3か月後の翌39年1月、内閣総理大臣になります。そして4月には、満洲に視察調査に行っています。首相自身は微行視察ということで非公表の視察でしたが、大蔵次官若槻礼次郎(後に総理大臣)を始めとして外務省・農商務省・逓信省・陸軍など二十人ほどに及ぶ調査団でした。
日露戦争は明治38年9月日露講和条約の調印により終結しますが、講和を巡っては反対も多く、清や韓国との関係を含め国際情勢が緊迫していた時期でもありました。この頃、大陸政策や満洲問題が大きな政治課題となっていました。
そんな当時の状況から考えると、西園寺公は、別府で梨本宮と日露戦争や満洲の状況について話し合われたのではないかと思われます。
《明治44年の別府訪問》
冒頭の「別府に著いて」の句は、明治44年に別府を訪問した際に詠んだ俳句です。
西園寺公望は4月30日に門司発の列車に乗車し別府に入っています。門司からは永江・熊本・三浦の三代議士と麻生太吉氏が同行しました。そして、盛んな出迎えを受け麻生氏の別荘に入り滞在しました。(4)
永江は永江淳一、熊本は熊本寿人、三浦は三浦覚一で、永江と熊本は福岡県選出、三浦は大分県選出の衆議院議員で、いずれも立憲政友会の所属でした。
門司から別府への鉄道は、小倉経由で豊州線(現在の日豊本線)を使ったと思いますが、別府までの営業が開始され別府駅が開業したのは明治44年7月16日。3月22日には開通していた手前の日出駅から別途営業前の特別な計らいがあったのか。鉄道国有法は第1次西園寺内閣で制定され、以降全国に順次国有鉄道が敷設されていきました。
後に西園寺公望が薨去した際に、「豊州新報」が、「薨去した西園寺公が明治四十四年五月別府に静養した頃当時久保田五六庵(現在の市長邸)を麻生太吉氏が買収して公の静養の館として櫻花の頃から初夏の候まで約数日間滞在した。当時ご案内の役に当った郷土史家日名子太郎氏も今はなく公の日常の動態はつまびらかでないが」と報じています(5)。
別府で滞在した麻生太吉の五六庵の敷地はのちに別府市に寄贈され、別府市公会堂(のち中央公民館)となりました。五六庵は市長公舎として使われたようです。
西園寺公望は、明治41年7月に首相を辞しましたが、明治44年8月30日に再び内閣総理大臣となり第2次西園寺内閣が発足します。
その間、西園寺公の動静はほとんど伝えられていません。
別府に赴いたのは、温泉で英気を養ったことはともかく、麻生太吉との関係があったのか、なかったのか。また立憲政友会の議員3人が出迎えていることから政治向きの話もあったのではないかと思いますが、伝わっていません。
麻生太吉は福岡県選出の衆議院議員を明治32年7月から36年7月まで務めていました。一方筑豊石炭鉱業組合総長や嘉穂銀行頭取、嘉穂電燈社長、九州鉄道取締役、若松築港監査役など、北九州地域を中心に様々な事業を展開していた大実業家でした。明治39年3月9日には用務不明ですが、西園寺総理を訪問しています。また明治44年6月には多額納税者により貴族院議員に当選し、9月に議員に就任しています(任命者は総理大臣西園寺公望)。その麻生太吉は「泉都別府の大恩人」(『麻生太吉翁伝』)でした。(6)
さて西園寺公は、別府温泉で静養していたことが伝えられています。
『別府温泉史』によれば、「別府温泉を訪れた人びと」のなかに「陶庵西園寺公望も同じころ別府に杖をひき、流川、当時の名残川の板橋を渡って酒楼に美妓をはべらせ、大いに英気を養ったという。今の流川通りの角の名残橋跡の標柱には、陶庵のよんだ「葉桜にきのふも見せて名残橋」の句が書き入れられており、往時をしのばせてくれる。」と。また、同書「歓楽街の変遷」に「流川には石橋がかかり、橋の袂には老木の柳がなよなよと枝を垂れて、朝がえりの客をおくりだす妓たちの、きぬぎぬの風情が見られた。町の人々は、この橋を「名残ばし」、柳を「見返りやなぎ」と呼んでいた。(中略)一代の粋人陶庵(後の元老西園寺公)を迎えて、つつじ園に土地で最初の園遊会がもたれたのもその頃である。」(7)
なお、『別府今昔風土記』には、昭和42年の流川竹枝の標柱の写真があり、上記の句が記されています。(8) また『大分の歴史 第8巻』にも流川竹枝の標柱が残っています。(9)
【写真2:別府市郷土文化研究会『別府今昔風土記』より】
西園寺公が帰京のため別府を発ったのは5月15日のことでした。2か月ほど別府滞在の予定でしたが、帰京を急ぐ要件が起こり大阪に向かったとのことです。(10)
名残橋跡の西園寺公が揮毫したという標柱は既にありませんが、別府の町に風流人としてその足跡を残しています。
引用・参照資料
(1)『別府市誌』 別府市教育会 昭和8年8月
*(2)『目で見る別府百年』別府市郷土文化史研究会 1968(昭和43)年4月発行
(3)『別府今昔』是永勉著 大分合同新聞社 昭和41年5月発行(2010年3月復刻)
*(4)讀賣新聞 明治44年4月30日・5月1日
*(5)豊州新報 昭和15年12月26日
(6)『麻生太吉翁伝』麻生太吉翁伝刊行会 2000年9月
(7)『別府温泉史』別府市観光協会編著 1963(昭和38)年2月
*(8)『別府今昔風土記』別府市郷土文化史研究会 1977年11月
*(9)『大分の歴史 第8巻』大分合同新聞社 1978年4月
*(10) 朝日新聞 明治44年5月15日
小稿執筆にあたって、大分県立図書館より情報の提供、資料の紹介(上記のうち*の資料)をいただいています。御礼申し上げます。
2024年8月28日 立命館 史資料センター調査研究員 久保田謙次