※空撮図はすべてgooglemapを加工しています。
<はじめに>
2019年現在の衣笠キャンパスはこんな感じです。
衣笠キャンパスは、歴史的景観、社寺仏閣など観光名所に囲まれています。
それは歴史が積み重なった場所でもあるということです。
本稿は、衣笠キャンパス周辺地域の歴史を立命館の歴史と関連させながら、記述していきます。なお、附帯の地図に示した各区割りは学術論文等を参照していますが、概念図であることをお断りしておきます。
また、立命館衣笠キャンパスが立地する京都北西地域(鷹峯回廊、衣笠・北野回廊、御室・花園回廊、嵯峨野回廊)は地域住民・寺社・芸術家・商店主・大学等で構成する「京都歴史回廊協議会」が文化振興・地域活性化を目的として活動していますので、あわせてご参照ください。(立命館も役員として参加しています)
「京都歴史回廊協議会」HP https://kyotokairou.org/
「京都歴史回廊協議会」のうち、きぬかけの路については「きぬかけの路推進協議会」があり、鹿苑寺(金閣寺)や龍安寺周辺の文化・観光情報を提供しています。
「きぬかけの路推進協議会」HP https://kinukake.com/
<平安時代 -衣笠山と周辺―>
平安時代、衣笠キャンパスの周辺は、都の西北部として利活用されていました。それは後世「京都七野」「洛北七野」などと呼ばれ、北区内では南から北野・平野・柏野・蓮台野・紫野がこれに該当します。「〇〇野」は狩猟場や葬送地のことで、キャンパス近辺に残る「平野」「北野」という地名は平安時代の狩猟場でした。
またこの地域を含めて北区は、野菜や花を栽培して中心部に供給したり、宮廷が使用した紙(綸旨紙とか宿紙と呼ぶ)を漉いた「紙屋院」があり現在の紙屋川(北野天満宮あたりに至ると天神川と変わる)の由来となっています。現在の西園寺記念館周辺では、冬場の氷を貯蔵して夏に禁裏へ献上する「氷室」があり、衣笠氷室町の地名が残っています。(京都には6か所の氷室があり、西園寺記念館側の氷室は「石前氷室」いわさきひむろと呼ばれた)
さらに適度な粘土質の土が産出されたことから、西賀茂地域を中心に平安京造営に使用した屋根瓦などの製造もされています。2015年頃、平井嘉一郎記念図書館建築時に出土した粘土質の土を元に、考古学の木立雅朗教授が焼成実験をした結果、実用に値する器もできていますので、衣笠の土でも焼き物はできるということです。
衣笠キャンパスの北に位置し、借景としても美しい「衣笠山」は、もともとは葬送の地でもあり当時の浄土信仰から神聖な場所でした。887(仁和3)年~897(寛平9)年の第59代宇多天皇の時代、夏場に雪をかぶった山がみたいとの所望に応え、大きな白絹で山を覆い雪に見立てたことから「衣掛け山」「衣笠山」となったと伝わります。
現在も雪に覆われた衣笠山は大変美しい姿を見せてくれます。
<鎌倉時代 -西園寺家の誕生 「北山第」(きたやまてい)―>
※画像をクリックすると別ウィンドウが開き、大きな画面で見ていただけます。平安時代に権力を有していた藤原氏の北家にあたる藤原公経(きんつね)は、源頼朝の姪を妻として鎌倉幕府との繋がりを強め、当時の朝廷で頭角を現します。その後、後鳥羽上皇と鎌倉幕府が争った「承久の乱」(1221年)では幕府側(執権・北条泰時)につき、幕府が勝利を収めると、幕府の「関東申次」として朝廷を掌握し、1222年には太政大臣になります。
こうして権力と富とを握った公経は、1220(承久2)年に入手していた今の鹿苑寺の辺りに、1224(元仁元)年、祖霊を供養する仏堂と寝殿等を造営し別荘とします。これが「北山第」(注1)で、建立した仏堂(阿弥陀堂)を中心とした寺を「西園寺」(注2)としました。
また、これを機に藤原姓を西園寺姓に変え、西園寺家を創始します。
「北山第」造営は、大規模な土木工事を伴い大文字山の斜面を切土し谷筋を埋め、南側に盛土して平坦地を造成、滝や池を持つ庭園を作り出しました。現在も鹿苑寺の南側や西側に見られる段差や鹿苑寺北側の崖はこの時の盛土や切土の跡です。寺内は平坦地が2段になっており、その上段の平坦地にある安民沢(あんみんたく)は浄土式庭園の様式を持ち、池周辺の土地形状や発掘された瓦などから「北山第」造営時のものと言われます。
1225(元仁2)年北山第を訪問した藤原定家は『明月記』の中で造営された庭や滝を見て感嘆の声を上げています。また『増鏡』にも「北山第」の滝が描かれており(注3)、2006年の発掘調査では鹿苑寺内の不動堂の石室内部と滝跡が鎌倉時代の遺構であることがわかり『明月記』で描かれた滝がここであると同定されています。
「北山第」には様々な堂が建立されていましたが、そのうちの一つ「妙音堂」は、西園寺家が「琵琶」の宗家であったことに由来して祀られ、西園寺家の鎮守社となります。1769(明和6)年御所内の西園寺邸内に移転し、明治維新を迎えます。御所内の西園寺邸は立命館の始まりである私塾「立命館」を開いた場所でもあります。西園寺家が東京に移転すると「妙音堂」は「白雲神社」として御所内に残り、今でもその場所に現存しています。(注4)
1333(元弘3/正慶2)年 後醍醐天皇、足利高氏、新田義貞らによって鎌倉幕府が滅ぼされると鎌倉幕府側であった西園寺家は不遇を託つことになります。後醍醐天皇の「建武の新政」は世間に不評で、幕府滅亡後鎌倉を追われていた北条時興は西園寺公宗と謀り「北山第」に天皇を招いて暗殺を画策、返り咲きを狙います。この謀略は公宗の異母弟公重の内通で暴露して失敗。公宗はとらえられ流罪の途中で処刑され、西園寺家の資産も没収されて衰退していきます。南北朝から室町幕府の時代には「北山第」も荒廃していきました。(注5)
<室町時代 -足利義満の「北山第」 鹿苑寺と新都心計画―>
室町幕府成立後、最も繁栄した時代を作った3代将軍足利義満は、1397(応永4)年荒廃していた西園寺家の別荘「北山第」を西園寺実永から譲り受けます。
義満は西園寺家の「北山第」の土地構造をほぼそのまま生かし、10年近くをかけて新しく別荘を造営します。舎利殿(金閣)やこれに連続する天鏡閣などを中心とした建物群を建て、西園寺の時代と同じく「北山第」(北山殿)と名付けました。
西園寺時代の「北山第」は本当の別荘でしたが、義満は1394(応永元)年に将軍職を子の義持に譲ったあとも御所がもっていた政治中枢機能を「北山第」に移植して政治の実権を握っていました。
義満の「北山第」は、西園寺時代より敷地が大きく、東は紙屋川、西は衣笠山、南は衣笠総門町付近まであったといわれます。
また2016年7月には発掘された破片(2015年4~7月の京都市埋蔵文化財研究所の調査)が、直径2メートルを超える九輪(塔の屋根の上を飾るもの)の相輪の一部であると発表され、この地にあったといわれる「北山大塔」が高さ110mを超えていたのではないかとして現在研究が進められています。(注6)
1408(応永15)年3月、時の後小松天皇を迎え(北山殿行幸)盛大な宴をはりその権勢の絶頂を誇示しますが、わずか2か月後の1408(応永15)年5月義満は没します。
その11年後の1419(応永26)年11月に夫人であった日野康子も没すると「北山第」の様々な建築物が他寺に移され、舎利殿他わずかをもって義満の菩提所として再整備され、4代将軍義持の時代に鹿苑寺と名付けられました。後の8代将軍義政も年に一度鹿苑寺に参拝しています。
この鹿苑寺が現在、「金閣寺」として観光の名所となっている敷地です。
現在の立命館大学衣笠キャンパス周辺の土地は、このころより鹿苑寺などの寺領となり、田畑が広がっていました。
それは、「北山第」を御所に見立て、「新都心」を建設しようとする壮大なもので、現在の「平野桜木町」にあった北山第の惣門(現在、付近に「衣笠総門町」として名前が残る)を基点として南に延びる一直線の八町柳(通り)が一条通まで通じており、一条通りには大楼門があったといいます。いわゆる朱雀大路のようなメインストリートです。(現在の佐井通りとほぼ同じ位置で、平野上八丁柳町、平野八丁柳町として地名が残っている)
<近世 -農村地帯に逆戻りの衣笠キャンパス周辺―>
義満が没すると北山新都心計画は頓挫し、周辺は徐々に農村に戻っていったそうです。以降近世まで(戦国時代から江戸時代)衣笠キャンパス周辺は農村地帯で、足利義満の時代に建立された「等持院」「真如寺」「六請神社」「敷地神社(わら天神)」などの門前に集落が発達して、以前からあった「平野神社」の門前とともに徐々に住民を増やしていったものが、「大北山村」「小北山村」「松原村」「等持院村」「北野村」「大将軍村」などとなっていきました。
衣笠キャンパスは丁度「松原村」「等持院村」の範囲で、特に衣笠キャンパスのほとんどが含まれる「等持院村」は近世「等持院門前」「真如寺門前」と呼ばれる小集落で、明治5年に「等持院村」となりました。当時の戸数は寺社含めて63戸、村民数は175名。西京南瓜を名産とする農業地域であったそうです。(注7)
戸数や村民数はどの村も大差なく、ほとんどが畑か荒れ野、雑木林で人口も少なかったのです。
<幕末―薩摩藩調練場と火薬庫 西園寺公望の萬介亭―>
幕末、1866(慶応2)年6月の第二次長州征討に先立つ4月、薩摩藩の島津久光は衣笠山麓に調練場を設置します。もともとこの辺りは雑草が覆い繁る林でした。その規模は1万6千余坪、(約5万3千平米 甲子園球場1.4個分)、北は衣笠山山麓から、東は宇多川(馬代通りの1本東の通り)、南は小松原北町の辺りまでで、そこに火薬庫、射的場、牢屋、警備員のための勤番所、藩主の休憩所を設置し、勤番の足軽16名が配されていました。
責任者は薩摩藩の武士高島六三で、大目付として万一の変勃発に備えていたといいます。
現在の衣笠キャンパス「究論館」「末川記念会館」あたりには「火薬庫」があり、小松原児童公園あたりに藩主の休憩所がありました。
この「火薬庫」からは大量の弾薬が鳥羽伏見の戦いの折搬出され、官軍の戦況を有利ならしめたという逸話が伝えられます。(幕府側の破壊工作を恐れ、事前に火薬庫から弾薬を搬出し辺りの民家に隠し、空の火薬庫に見張りを立てておいたとも伝わります)
また、幕末には西園寺家の別宅が薩摩藩調練場に隣接して立地しており、若き西園寺公望がたびたび逗留していました。現在の真如寺の東に面して建てられていた別宅は、大きな池(西園寺池と通称された)があり竹が多くあったことから「萬介亭」と呼ばれていました。
少年公望はこの家を気に入り、自ら号を「竹軒」とし、6歳から16歳まで住んでいたそうです。
この「萬介亭」の北に薩摩藩の高島六三の家があったことから、公望も親しく交流して当時珍しかった「牛肉」を馳走になったそうです。時代を考えると「牛肉」だけでなく国難の状況なども多く学んだことでしょう。
<明治・大正―住宅地化する衣笠 衣笠絵描き村とマキノ省三の等持院映画撮影所>
1889(明治22)年、市制、町村制が施行され 大北山村、小北山村、等持院村、松原村、北野村、大将軍村が合併して「葛野郡衣笠村」となります。現在の衣笠という地名はこの時誕生しました。もちろん「衣笠山」由来です。(明治20年の地形図では、衣笠キャンパスは畑・竹林・茶畑でした)
そして1918(大正7)年の「大京都」構想による都市拡張計画に基づいて京都市に編入され上京区になると全体の整備計画に組み込まれ、それまで畑や雑木林や荒れ野だったこの地に徐々に開発の波が訪れます。(現在の北区ができるのは1955(昭和30)年)
京都市の整備計画によって市電の整備が始まり(第1期:明治45年~大正6年-市中心部の路線、第2期:大正15年~昭和33年―市の外周線、衣笠キャンパスに近い西大路のわら天神―白梅町間は昭和11年敷設)、昭和10年頃には西大路通や北大路通が生まれ平野の辺りに現在のような碁盤目の道路が整備され始めます。
衣笠村は、明治の末頃から京都中心部への振興宅地として土地開発が始まります。
もともと扇状地で水だまりが悪いため田畑はあまり発達せず、農家もまばらだった土地ですが、緩斜面で一定の平地が得られること、水はけのよさから広大な敷地の別荘地にはちょうどよかったのです。
この流れを加速させたのは、1912(大正元)年実業家・藤村岩次郎によって行われた新興宅地開発でした。藤村は衣笠村の各地に土地を購入して別荘として販売するとともに、自らの邸宅と隣接する現在の北野白梅町周辺に「衣笠園」を開園。一軒あたり100~150坪の敷地に30~60坪の住宅を建て賃貸経営を始めます。電気が引かれ、前述の「大京都」構想に基づく市電や道路整備が並行して進められ、交通の便もよくなりつつも周辺の雑木林や北山の借景が「閑静な風景」を醸し出すのどかな田園の中の住宅地でした。
このような都市基盤整備と環境に魅かれて画家たちが集まりだします。
最初に衣笠村に移り住んだのは吹田草牧で1912(大正元)年だったそうです。
同時期の1912(大正元)年か1913年には木島櫻谷も移り住み、邸宅の一部が現存していて櫻谷文庫として保存されています。
その他衣笠村に集った著名な画家は、土田麦僊が大正6年頃に、徳岡神泉と山口華陽が1928(昭和3)年、小野竹喬が1922(大正11)年にそれぞれ衣笠村に居を構えています。
こうしてこの時代、「衣笠絵描き村」との異名をとるまでになり、その後も堂本印象が1943(昭和18)年、福田平八郎が1944(昭和19)年に移転してくるなど昭和半ばまでこの状況が続くことになります。
衣笠キャンパスの敷地内もかつては多くの画家が住んでいて、現在の衣笠キャンパス「至徳館」や中央広場、「志学館」周辺には浜田観、猪原大華、中野草雲、西村卓三らが居を構えていたそうです。とはいえ、衣笠山から衣笠キャンパスの辺りはまだススキの原っぱでした。
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これに続いて1921(大正10)年現在の等持院の南の敷地内にマキノ省三の「等持院撮影所」ができます。「等持院撮影所」は1924(大正13)年「東亜キネマ」と合併して「東亜キネマ等持院撮影所」と改称、1925(大正14)年にマキノ省三が独立して御室撮影所に移転すると、「東亜キネマ京都撮影所」と改称、1932(昭和7)年東亜キネマが買収されると等持院の撮影所は閉鎖され、1933(昭和8)年に競売にかけられ住宅地になります。
寺内に撮影所があるのは奇異なことですが、等持院は明治以降「天皇に対する反逆者」とみなされた足利尊氏の菩提寺であったことから相当に冷遇されていました。加えて住職が当時新進の文化である映画(活動写真)への理解があったことからこの地を売却して「等持院撮影所」が誕生したのです。マキノ本人と等持院との関係も良好であったようで、1923(大正12)年8月24日の等持院での地蔵祭りには「マキノスターページェント」という催しが開催されていました。
マキノ省三が興した「等持院撮影所」では、当時著名な監督や俳優ばかりではなく後に名を残す多くの監督や俳優が活躍しました。俳優では市川花紅、阪東太郎、高城新平、月形龍之介、岡田時彦、内田吐夢など。監督や脚本では金森万象や寿々喜多呂九平らです。特に迫真の立ち回りで名をはせた阪東妻三郎(俳優田村高廣や田村正和の父)もそれまで鳴かず飛ばずであったところここでの演技が認められ大ブレイクしたのです。
この時期映画の撮影は活発で、関係者もまた多く等持院周辺に住んでいました。1931(昭和6)年には34名の関係者がこの辺りに住んでいたそうです。
監督の山中貞雄や衣笠貞之助らもこの撮影所で多くの映画を撮り、特に衣笠貞之助は「衣笠山」にちなんで「小亀」という苗字を「衣笠」に変えており、その墓地も等持院にあります。
作家の水上勉(立命館の名誉館友)は1932(昭和7)年11月~1936(昭和11)年5月頃まで、僧見習いとして等持院に起居していましたが、後日の回想でこの撮影所跡地の思い出を語っています。撮影所が閉鎖された後もしばらくはスタジオなどが残っていたようで、水上は照明機材のパイプなどを拾って遊んだそうです。
現在の等持院には撮影所時代の名残はほとんどありません。墓地にマキノ省三の銅像が建っていること(マキノ省三先生顕彰会が昭和32年に太秦スタジオに建立したのち昭和45年に移設)、等持院撮影所時代の関係者が足繁く通った等持院門前の「鳥原」という店(煙草や菓子を売っていた)が現在もその場所に「等持院とりはら」として店を構えていることが僅かな名残です。
<懐かしの立命館>衣笠キャンパス周辺は深い歴史がありました-平安から現代までの変遷- 後編へ