マキノ省三の撮影所があった大正時代から昭和の初めまで、衣笠キャンパスの辺りは、まだまだススキの原っぱでした。
そのススキの原っぱに目をつけて学校用地にしようとしたのが、立命館創立者中川小十郎でした。
当時立命館は1914(大正3)年に京都帝国大学構内に設置された「私立電気工学講習所」と協力関係にありました。1937(昭和12)年盧溝橋事件を経て勃発した日中戦争直後、立命館総長中川小十郎は、技術者養成の学校設立を具体的に考えはじめ、1938(昭和13)年4月「私立電気工学講習所」を引き継いで「立命館高等工科学校」を北大路の校地に開設します。
この時中川は技術者養成の必要性として将来「満州国」における鉱工業発展に寄与する人材育成を述べており、それにふさわしい校舎等の建設計画を開始します。
1938(昭和13)年5月、上京区等持院北町に3,313坪(約1万932㎡)の用地を購入、校舎等の建築を開始します。この地は中川が檀家総代を務めていた等持院からの紹介であったといいますが、建築中に西園寺家の紋が入った瓦が出土し、何も知らずに購入した土地にかつて西園寺家が住まわれたと知り深い縁を感じたと述べています。
一方で「満州国」政府が技術者不足からその養成機関を探しているとの情報を得た中川は、石原莞爾ら満州国との繋がりの深い人々を通じて「立命館高等工科学校」を満州国技術者養成機関として発展改組することにします。
1939(昭和14)年4月「立命館高等工科学校」は満州国の資金援助を受け「立命館日満高等工科学校」と改称。同年11月には、等持院の校地が完成し移転します。
開設当時、まだまだ畑地の多い衣笠山山麓の学校であったため、募集広告では「交通至便」を強調していました。また講師の多くは「私立電気講習所」時代から続いて京都帝国大学の教員が多かったため「交通至便」は必須であったようです。
これが立命館大学衣笠キャンパスの始まりで、「等持院学舎」と呼ばれました。「等持院学舎」の名称は戦後も続き1964年に「衣笠学舎」と改称され、1994年BKC開設と同時に「衣笠キャンパス」と改称されて現在に至ります。
この「等持院学舎」には現在の清心館附近に正門(現在の清心門よりも左寄り)が設けられ、「赤門」と呼ばれていました。この「赤門」は1953年に撤去され今はその痕跡はありません。今でも当時の風景を残すのは、開設時に等持院との境界に植えられたイチョウの並木で、現在「北区民の誇りの木」として親しまれています。
また、「等持院学舎」には大きな池が2つありました。「西池」(第一用水池)は現在の西広場附近にあり、1955年に埋め立てられています。「東池」(第二用水池)は現在の研心館付近にあり1978年頃までその一部が残っていました。
その他にも「等持院学舎」には、「日本刀鍛錬所」や「日満相訪会館」がありました。
「日本刀鍛錬所」は、その高度な製刀技術を後世に残すために設置したもので、刀匠桜井正幸一門を招き授業を行い、さらに関心のある学生には課外活動も奨励していました。残念ながら戦時下において徐々に品質の悪い軍刀の生産が強制されていくことになります。(軍刀を生産しなければ、日本刀製造の要である玉鋼の材料や良質の炭が配給されなくなるという統制がなされていた)途中1942年には失火によって大半を焼失しますが1943年には再建され敗戦まで「大量生産の軍刀」と「わずかな日本刀」の生産を続けました。
「日満相訪会館」は字のごとく日満親睦を図る会館として建設され、1941(昭和16)年には新たに設置した「国防学研究所」の所長、「国防学」を担当する教授として招聘した陸軍中将石原莞爾が住んでいました。
等持院との関係では、校舎は等持院の敷地の中にあったことから、墓地への参道が学舎内を縦断する形になりました。現在でもその参道は路面の表示によって区別されていて清心門には「万年山等持院墓地参道」の石柱が建っています。
<戦後―立命館衣笠球場の誕生と水害被害>
1944(昭和19)年、立命館創立者中川小十郎が満78歳で亡くなります。
1900(明治33)年に京都法政学校を創立してから44年間かじ取りを行ってきた創立者というのは、私学の世界では大変珍しい事例でした。中川は等持院墓地に埋葬され、立命館では現在も命日に墓参を続けています。
戦後立命館は末川博をトップに迎えて「平和と民主主義」の学校復興を進めます。
幸いにして衣笠キャンパス(等持院学舎)は被災を免れましたが、出陣や勤労動員から戻ってきた学生達、新たに入学してくる学生達にとって、教育研究の施設設備は劣悪でした。
そうして1948(昭和23)年、衣笠キャンパスには新たに総合体育施設の一つとして「立命館衣笠球場」が設置されました。
この球場は、立命館の体育授業だけではなく、京都市の中学・高校の公式試合やプロ野球の公式戦にも使用され多くの京都市民が観覧しました。プロ野球チームの「大陽ロビンス」(後の松竹ロビンス)のフランチャイズ球場にもなり、スタルヒン、川上哲治、大下弘、別当薫、鶴岡一人、青田昇、藤村富美男、別所毅彦ら往年の名選手がこの球場で活躍しています。
また1950年に誕生した「女子プロ野球」もこの球場で試合をし、社会人野球もここで白球を追いました。
立命館はこの球場で1950年の学園創立50周年記念式典を挙げ、運動会(学園祭と同じように当時は全学あげての大運動会があった)や学部対抗野球を開催しています。
1951年8月ナゴヤ球場の火災による惨事の後、木造のスタンド席を持つ球場は使用禁止となり、学園関係者だけでなく広く市民に親しまれたこの球場も、プロ野球などの使用ができなくなります。
1952年、球場は立命館関係者のみの使用と限定され、1956年には総合運動施設は別の場所に建設することになって、「衣笠球場」の歴史的な役目が終わります。
その後、衣笠キャンパスの学舎建設とともに球場スタンドが取り外され、外野の土手は切り崩され徐々に更地になっていきます。
それでも球場の名残は1968年頃までキャンパス内にありましたが、現在は跡形もなく、唯一NTT(日本電信電話株式会社)の電柱に「衣笠球場」の表示板が残っているだけになりました。
あわせてあまり知られていない衣笠キャンパスと災害について記しましょう。
1951(昭和26)年7月7~17日にかけて、低気圧と梅雨前線の発達に伴い西日本一帯は豪雨に見舞われ、九州地方で1,000㎜を超える降水量を記録し、京都でも300㎜に達する大雨となりました。
7月11日、この豪雨は京都に大規模な水害を発生させ京都府の戦後主要災害の一つとなりました。亀岡市の「平和池」が決壊、桂川が氾濫し、京都市内でも死者91人行方不明23人負傷者238人家屋の被害15,252戸の被害が出ています。
この時、衣笠キャンパスも大変な水害に見舞われました。
現在の学生会館から創思館を経て南門に至る一直線の部分は、かつて用水路がありました。学校用地にするために造成された時、この部分は暗渠になったといいます。1951年の豪雨ではこの暗渠から氾濫が起こり南西に向かって水があふれキャンパスのほぼ2/3が水害に遭いました。
現在用水路も暗渠もありませんので、もうこのような大水害は起こらないといわれますが、現在の京都府の「土砂災害ハザードマップ」では、平井嘉一郎記念図書館から学生会館にかけて、恒心館の北面傾斜地の崩壊危険性があるため「土砂災害警戒区域」に指定されています。
また、衣笠キャンパスの中央広場は、現在京都市広域避難場所として6,400人の避難場所となり、学内には災害対応の緊急用品を備蓄しています。
<広小路・衣笠から衣笠一拠点へ、そして衣笠・BKC・OIC三キャンパス時代へ>
本稿の最後に、1981年からの衣笠キャンパスの学部・学舎の変化について記しておきます。戦後の立命館は、大学が広小路学舎・衣笠学舎の2拠点に、中学校・高等学校が北大路学舎にありました。
広小路は、社系・文系学部が、衣笠は戦前・戦中から引き続いて理工系学部でした。
立命館学園の戦後復興期(50年代)が終わり、新たな学園を創るための振興期(60~70年代)に入ると、大学を衣笠学舎にすべて集め、学生や教員の利便性や教育研究条件の充実や大学運営の経費をできる限り削減しようとする計画が検討されます。当時の立命館大学は他の私立大学に比べて8割程度の学費に抑え、経済的な条件でなかなか大学に進学できない多くの若者に門戸を開くポリシーを持っていましたから、収入は他大学に比して少なく、2つの学舎を維持するのはなかなかに大変だったのです。
この計画は大学全体の賛同を得て「衣笠一拠点」計画として進められました。
70~80年代にかけて、広小路の学部は徐々に衣笠に移転をし、1981年法学部の移転をもって完成します。
写真は1981年「衣笠一拠点」が完成した時の衣笠キャンパスです。
この衣笠キャンパス一拠点は、1994年BKC(びわこ・くさつキャンパス)の開設と理工学部の拡充移転までの13年間続きました。この間に氷室グラウンド(現在の西園寺記念館)に1988年国際関係学部が設置されています。
1994年理工学部がBKCに拡充移転、そして続いて1998年に経済・経営両学部が移転すると、衣笠キャンパス内で各学部の再配置が行われ各学舎名称が変わりました。時を延長して1993年(理工移転前)と現在の学舎名称の変遷を示しましょう。
1998年以降、理工学部、経済・経営学部の基本施設に学部の再配置が進められるとともに、新学部も誕生します。2007年には映像学部が誕生、前後して新設の大学院も設置され始めます。
2006年朱雀キャンパスが出来て法人本部機能が移転し「中川会館」と命名されると、今まで衣笠キャンパスにあった「中川会館」は「至徳館」と変更。2015年にOIC(大阪いばらきキャンパス)が開設されると、衣笠キャンパスからは政策科学部が移転し(BKCからは経営学部が移転)、衣笠キャンパスの再整備が進みます。2019年現在、衣笠キャンパスの学舎名や学部基本施設はこのような歴史をたどりました。
1939年に生まれた「等持院学舎」は様々な歴史の中で「衣笠キャンパス」となり、2019年で80年の歴史を刻みました。立命館大学広小路学舎の80年の歴史と同じになり、以降は学園史上最も長命なキャンパスになります。
とはいえ平安の昔から歴史を刻んでいる衣笠キャンパス周辺にとっては、まだまだ新参者でしょう。
学生のみなさん、お立ち寄りの方、是非この周辺の長い歴史にも想いを馳せてみてください。
2019年12月11日 立命館史資料センター 奈良英久
<注>
注1:『北山第』(きたやまてい) 北山殿とも呼び、西園寺家の山荘・別荘として建立された。
注2:現在の「西園寺」(京都府京都市上京区高徳寺町358)門前の立て看板には「宝樹山竹林院と号する浄土宗の寺である。1224(元仁元)年藤原公経が衣笠山の麓に、山を背にして苑池を造り、その池畔に、本堂、寝殿などの壮麗な堂宇を建てて西園寺と称したのが当寺の起こりである。以来この寺名が子孫の家名となり、当寺も西園寺の北山山荘として子孫に領有された。しかし、足利義満が北山殿(金閣寺)を営むに当たってその地を所望したため、室町(上京区)に移り、さらに天正18年(1590)この地に移転した。
現在の本堂は、天明の大火(1788)後の再建で、正面には、明治・大正・昭和の三時代に亘って政界で活躍した西園寺公望の筆による寺号の額を掲げている。また、堂内には恵心僧都作と伝える本尊阿弥陀如来像(重要文化財)を祀り、地蔵堂には、旧地の北山にあった功徳蔵院の遺仏と伝える地蔵菩薩像を安置している。 京都市」とあり、その事歴がわかります。
注3:「北山第」の庭園について『増鏡』巻五では「もとは田畠など多くて、ひたぶるにゐなかめきたりしを、さらにうち返しくづして、艶ある園を造りなし、山のたゝずまゐ木深く、池の心ゆたかに、わたつうみをたゝへ、峰よりおつる瀧のひゞきも、げに涙もよほしぬべく、心ばせ深きところのさまなり」と描写され『明月記』では「勝地の景趣を見、新仏の尊容を礼す。事ごとに今案ずるところをもって営作さる。物ごとに珍重なり、四十五尺の曝布の瀧は碧く、瑠璃の池水、また泉石の清澄は実に比類なし。」とある。
注4:「白雲神社」には、西園寺妙音堂の本尊として、重要文化財「木造弁才天坐像」がある。「萬介亭」は現在の立命館大学衣笠キャンパスの東の隣接地にあって、幕末に薩摩藩練兵場があったことから同藩武士高島六三と西園寺公望が交流を深めるきっかけともなった。「萬介亭」はその後臼井氏の所有となり「白雲神社」が分社されて祀られた。「萬介亭」が取り壊された跡地には「西園寺公邸址」の石碑が建ったが2002年撤去され、現在立命館大学西園寺記念館に移設されている。
注5:天皇の暗殺を画策するという行為が、後に西園寺公望が首相を務めた時代に、敵対政党からの揶揄に使われ公望は閉口したという。それは公望が暗殺を画策した公宗の子孫であったからという。
注6:義満は、1399(応永6)年、相国寺に七重塔を建立しその威光をしめしていた。高さ360尺(約109m)で記録上最も高い木造建築物といわれている。この塔が1403(応永10)年に焼失した後、「北山大塔」として北山第に再建(未完成)されているのだが、これまでその詳細は不明であった。発掘ではその相輪の大きさから、相国寺七重塔に匹敵する110mを超える塔だったのではないといわれている。
注7:等持院村について、同じ面積ではないが2015年度国勢調査では、等持院東・西・中・北町合計の世帯数は963世帯、1,880人
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・桃崎有一郎「中世京都北郊の街路・街区構造考証」 桃崎有一郎・山田邦和編『平安京・京都研究叢
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