《別府に著いて》
道々も櫻浴ひつゝ温泉のやとり
葉櫻にきのふも見せて名残橋
ほとゝきす鳴くや青葉の朝見川
西園寺陶庵
これらの俳句は、明治44(1911)年に西園寺公が別府に着いて詠んだ俳句です(1)。
あまり知られていませんが、西園寺公望公は明治38(1905)年と明治44年の二度別府を訪れています。
この小稿は、西園寺公の二度の別府温泉入湯について紹介するものです。
《明治38年の別府訪問》
明治38年10月、西園寺公は数日間別府を訪れています。訪問の目的は、陸軍大将梨本宮守正王殿下が日露戦争から帰り、夏から秋にかけて70日間ほど別府温泉で療養をしていたので、その見舞いということでした。
『目で見る別府百年』には、「明治38年10月 西園寺公爵流川の日名子旅館で静養中の梨本宮守正王殿下見舞いのため別府に来たる 中央首巻きしている人」の写真が掲載されています。写真は別府港に着き、上陸する直前の様子が写されています(2)。大阪商船で瀬戸内海航路を大阪から来たと思われます。
【写真:別府市郷土文化史研究会『目で見る別府百年』より】
『別府今昔』によるとその「梨本宮と西園寺公」で、「明治三十八年の夏、埋め立て前でまだ美しい遠浅の海辺だった今の高砂ホテルの所に二張りの砂湯のテントが町長や警察署長らの立ち合いのもとに設けられた。(中略)陸軍大将梨本宮守正王殿下がお宿泊所の日名子旅館から吉田回漕店の前まで人力車で到着。ユカタ姿でテントにお入りになりゆっくりと砂湯を楽しまれた。守正王は日露戦争に出陣、満洲で病気になられたものでこの砂湯治療はその後七十日間もつづいた。(中略)二張りのテントのうち殿下とならんで砂湯に入っていたのは明治の元勲西園寺公だった。殿下のお見舞いにきたついでに砂湯に入ったのか、病気保養という同じ目的できたのかははっきりしないが殿下と頭をならべて湯気の立つ熱い砂に埋まりながら高崎山の眺めのすばらしさなどお話し合いになっていたという。」(3)
別府温泉は、古くからありましたが、この頃皇族や公家など東京から著名人が来るようになり全国的に有名になったようです。また日露戦争のあと、戦争で負傷した傷病兵の温泉治療の場となり、大変な数の傷病兵が別府温泉で療養したといいます。
西園寺公の別府温泉(砂湯)入湯は、梨本宮の見舞いでしたが、当時の日本の状況についても話をされたのではないかと考えられます。
西園寺公はこのとき立憲政友会の総裁でしたが、わずか2、3か月後の翌39年1月、内閣総理大臣になります。そして4月には、満洲に視察調査に行っています。首相自身は微行視察ということで非公表の視察でしたが、大蔵次官若槻礼次郎(後に総理大臣)を始めとして外務省・農商務省・逓信省・陸軍など二十人ほどに及ぶ調査団でした。
日露戦争は明治38年9月日露講和条約の調印により終結しますが、講和を巡っては反対も多く、清や韓国との関係を含め国際情勢が緊迫していた時期でもありました。この頃、大陸政策や満洲問題が大きな政治課題となっていました。
そんな当時の状況から考えると、西園寺公は、別府で梨本宮と日露戦争や満洲の状況について話し合われたのではないかと思われます。
《明治44年の別府訪問》
冒頭の「別府に著いて」の句は、明治44年に別府を訪問した際に詠んだ俳句です。
西園寺公望は4月30日に門司発の列車に乗車し別府に入っています。門司からは永江・熊本・三浦の三代議士と麻生太吉氏が同行しました。そして、盛んな出迎えを受け麻生氏の別荘に入り滞在しました。(4)
永江は永江淳一、熊本は熊本寿人、三浦は三浦覚一で、永江と熊本は福岡県選出、三浦は大分県選出の衆議院議員で、いずれも立憲政友会の所属でした。
門司から別府への鉄道は、小倉経由で豊州線(現在の日豊本線)を使ったと思いますが、別府までの営業が開始され別府駅が開業したのは明治44年7月16日。3月22日には開通していた手前の日出駅から別途営業前の特別な計らいがあったのか。鉄道国有法は第1次西園寺内閣で制定され、以降全国に順次国有鉄道が敷設されていきました。
後に西園寺公望が薨去した際に、「豊州新報」が、「薨去した西園寺公が明治四十四年五月別府に静養した頃当時久保田五六庵(現在の市長邸)を麻生太吉氏が買収して公の静養の館として櫻花の頃から初夏の候まで約数日間滞在した。当時ご案内の役に当った郷土史家日名子太郎氏も今はなく公の日常の動態はつまびらかでないが」と報じています(5)。
別府で滞在した麻生太吉の五六庵の敷地はのちに別府市に寄贈され、別府市公会堂(のち中央公民館)となりました。五六庵は市長公舎として使われたようです。
西園寺公望は、明治41年7月に首相を辞しましたが、明治44年8月30日に再び内閣総理大臣となり第2次西園寺内閣が発足します。
その間、西園寺公の動静はほとんど伝えられていません。
別府に赴いたのは、温泉で英気を養ったことはともかく、麻生太吉との関係があったのか、なかったのか。また立憲政友会の議員3人が出迎えていることから政治向きの話もあったのではないかと思いますが、伝わっていません。
麻生太吉は福岡県選出の衆議院議員を明治32年7月から36年7月まで務めていました。一方筑豊石炭鉱業組合総長や嘉穂銀行頭取、嘉穂電燈社長、九州鉄道取締役、若松築港監査役など、北九州地域を中心に様々な事業を展開していた大実業家でした。明治39年3月9日には用務不明ですが、西園寺総理を訪問しています。また明治44年6月には多額納税者により貴族院議員に当選し、9月に議員に就任しています(任命者は総理大臣西園寺公望)。その麻生太吉は「泉都別府の大恩人」(『麻生太吉翁伝』)でした。(6)
さて西園寺公は、別府温泉で静養していたことが伝えられています。
『別府温泉史』によれば、「別府温泉を訪れた人びと」のなかに「陶庵西園寺公望も同じころ別府に杖をひき、流川、当時の名残川の板橋を渡って酒楼に美妓をはべらせ、大いに英気を養ったという。今の流川通りの角の名残橋跡の標柱には、陶庵のよんだ「葉桜にきのふも見せて名残橋」の句が書き入れられており、往時をしのばせてくれる。」と。また、同書「歓楽街の変遷」に「流川には石橋がかかり、橋の袂には老木の柳がなよなよと枝を垂れて、朝がえりの客をおくりだす妓たちの、きぬぎぬの風情が見られた。町の人々は、この橋を「名残ばし」、柳を「見返りやなぎ」と呼んでいた。(中略)一代の粋人陶庵(後の元老西園寺公)を迎えて、つつじ園に土地で最初の園遊会がもたれたのもその頃である。」(7)
なお、『別府今昔風土記』には、昭和42年の流川竹枝の標柱の写真があり、上記の句が記されています。(8) また『大分の歴史 第8巻』にも流川竹枝の標柱が残っています。(9)
【写真2:別府市郷土文化研究会『別府今昔風土記』より】
西園寺公が帰京のため別府を発ったのは5月15日のことでした。2か月ほど別府滞在の予定でしたが、帰京を急ぐ要件が起こり大阪に向かったとのことです。(10)
名残橋跡の西園寺公が揮毫したという標柱は既にありませんが、別府の町に風流人としてその足跡を残しています。
引用・参照資料
(1)『別府市誌』 別府市教育会 昭和8年8月
*(2)『目で見る別府百年』別府市郷土文化史研究会 1968(昭和43)年4月発行
(3)『別府今昔』是永勉著 大分合同新聞社 昭和41年5月発行(2010年3月復刻)
*(4)讀賣新聞 明治44年4月30日・5月1日
*(5)豊州新報 昭和15年12月26日
(6)『麻生太吉翁伝』麻生太吉翁伝刊行会 2000年9月
(7)『別府温泉史』別府市観光協会編著 1963(昭和38)年2月
*(8)『別府今昔風土記』別府市郷土文化史研究会 1977年11月
*(9)『大分の歴史 第8巻』大分合同新聞社 1978年4月
*(10) 朝日新聞 明治44年5月15日
小稿執筆にあたって、大分県立図書館より情報の提供、資料の紹介(上記のうち*の資料)をいただいています。御礼申し上げます。
2024年8月28日 立命館 史資料センター調査研究員 久保田謙次