1.「西園寺公邸址」の碑
かつて衣笠キャンパスの東、等持院東町に「西園寺公邸址」と刻まれた石碑がありました。キャンパス東門の小道を南に下がった辺りです。
高さは地上部分100cm、幅・奥行きとも23cmほどで、奥に庭が垣間見える由緒のありそうな古い木造の玄関の前に建っていました。
刻まれた文字は特徴がありましたが、残念ながら建立者も建立年も書かれていませんでした。その地は西園寺公とどういう関係があったのでしょうか。
2.西園寺公望別邸「萬介亭」
(1) 『西園寺公望自傳』と『随筆西園寺公』
その地に西園寺公望邸があったことは、西園寺公自身が語っています。西園寺公望述/小泉策太郎筆記/木村毅編集の『西園寺公望自傳』に、
竹軒の号はチッケ(キ)ンの料理が好きだから、それにもじって竹軒と
いったのだとなっているが、それほど簡単でもない。京都の等持院辺に
今でも西園寺池という池があるだろう、そこに別荘があって、萬介亭と
称した。萬介則ち竹であり、其の別荘に竹が植えてあったことから、
少年の時自ら竹軒と号したのです。則ちチッケンの料理を知る以前から
だ。
小泉策太郎はその著『随筆西園寺公』でも萬介亭について述べています。
竹軒の雅号は、維新一二年前頃から、フランス留学年時に用ひられ
たやうである。……慶応の初年頃、新たに等持院の近傍に創建した別荘
に瀟湘の風露を移して萬介亭と称し、その萬介の竹に因みて竹軒と号し
たのである。
また同書に所収の「坐漁荘日記」に
萬介亭は維新前、公の所作。此辺高島鞆之助のかくれ家あり。高島牛肉を持ち来り、云々。是より先、公私かに牛肉
を知れり云々。
(注:小泉策太郎は高島鞆之助としていますが、下記「中川小十郎談」により高島六三と思われます。鞆之助は六三
の弟で、同じ薩摩藩士出身で戊辰戦争に従軍し、のちに第2次伊藤博文内閣の時、西園寺公望が文部および外務大臣
を務め、鞆之助が拓殖務大臣を務めたという関係にありました。)
(2) 中川小十郎談
萬介亭については中川小十郎も語っています。
西園寺公望は昭和15(1940)年11月24日に亡くなりましたが、翌月12月6日の朝日新聞に、西園寺公追悼の談話として公の逸話『「竹軒」の由来』が掲載されました。
西園寺公の逸話、挿話は随分世に伝はってゐるが、まだ世に出ないのに、牛肉をはじめてお食
べになったといふ話がある。京都の等持院の東の方に公の少年時代の下屋敷があった。邸内に大
きな池があって、附近の田の灌漑用水になってゐたが、今は住宅地帯になって、その池の面影も
ない。薮があり、竹が多かったので、その邸を萬䉏亭と名づけた。䉏は中庸にある字で、竹の意
だが、「まんかいてい」といふ発音が料理屋じみてゐると友人が冷かすので、竹軒と改めた。……
実は右の通りだと公爵の直話であった。
その邸の北方一町ほどのところに薩摩の武士高島六三が住み、……しきりに公に交際を求めて
きた。その六三が「将来大いになすあらんとする者はまづ身体を養はねばならぬ。身体を養ふに
は牛肉におよぶものはない」と説くので、公も御所内の本邸とは違ひ、この下屋敷ならよからう
と、思ひ切って食べられた次第で「そのうまかったことは今に忘れられぬ」と語られた。
(注:カイは竹冠に解という字です。漢籍に通じた西園寺公望のことですから、竹冠に解という
竹の名の䉏が本来の別邸の名であったのではないかと思われます。なお、辞典によると䉏は集
韻にあるとされています。)
このとき西園寺公に牛肉を勧めた薩摩藩の武士高島六三は、慶応元年ころ入洛し、現在の衣笠キャンパスの東側あたりに住んでいました。その辺りには薩摩藩の調練場があったのです。西園寺公望と高島六三の交際は、慶応4年に戊辰戦争が起こり西園寺公望が山陰道鎮撫使として山陰に向かったことやそれ以降の西園寺公望の経歴から考えると、慶応年間の頃のことと思われ、牛肉を食したというのもその間のことでしょう。当時はごく一部の人がようやく牛肉を食べるようになった時代でした。
3.萬介亭所在地の変遷
「西園寺公邸址」の碑があった等持院東町は、大正7年以降の町名です。明治22年から大正7年の間は衣笠村等持院字滝ヶ鼻といい、それ以前は葛野郡等持院村といいました。したがって西園寺公が住んだ時期は等持院村といっていたのです。
その時代の資料は不明ですが、法務局の旧土地台帳によると、萬介亭のあった場所は明治29年に初めて所有者が変わったことがわかり、その後何人かの所有者の変更を経て、昭和12年に臼居万太郎という人の所有になります。
またその南側には西園寺池という名の溜池があり、昭和5年に等持院村中から六請神社に所有が変わり、その後別の所有者から昭和14年にやはり臼居万太郎氏の所有となっています。もとの溜池の面積は3反余り(3,000㎡ほど)ありました。
都市計画京都地方委員会の大正11年測図(大正14年製)によりますと、等持院東町に溜池があり、その周囲が竹林で囲まれているところが注目されます。
竹軒の名は大正時代になってもその名残があったようです。
なお、中川小十郎が昭和13(1938)年に等持院(衣笠)の地に日満高等工科学校の用地を求め、北大路から移転し開校したのは翌昭和14年の11月のことでした。
4.萬介亭のその後
萬介亭の跡地は昭和に入って臼居万太郎氏の所有となりました。臼居氏の著書『臼居の一族』と、万太郎氏の御子息四郎さんにお話しを聞き、萬介亭のその後を知ることができました。
著書の一節「北郊の衣笠山麓」には次のように記されています。
昭和11年に下京区西洞院木津屋橋の店が手狭になってきたので居宅を移すことにして、空気の清澄な衣笠山麓の等持院の地に家屋を建てることにした。
新宅に家族全部で引っ越したのは翌12年の春であった。土地の者は灌漑用の溜池を西園寺池と称していた。
西園寺家がここに下邸を設け公望公が此邸に移ったのは六歳で、大変気に入って十六歳のときまで住み萬解亭と名づけられた。
そして万太郎氏は前述の中川小十郎の竹軒の由来を引用しています。
更に万太郎氏は邸内の一隅に御苑内の西園寺家本邸の鎮守社白雲神社の分霊を勧請し、この新邸を時雨庵と命名した。
邸内からは衣笠山の山容が巍然と雲に聳えていた。皇紀二千六百年の佳節には、衣笠山麓の日満高等工科学校の十時のサイレンも聞こえてきたという。
また四郎さんのお話によると、一家で昭和11年にこの地を見に来た時は西園寺池があったのですが、昭和12年に引っ越してきたときは池が無くなっておりびっくりしたそうです。池は当時西大路通りの市電の軌道工事の残土で埋めたようで、もともと門は道を北にあがってきた正面にあったとのこと。西園寺公が住まわれた家も残っていてそんなに大きな家ではなかったとのことでした。「西園寺公邸址」の碑は邸内の別の場所にあったが、後に万太郎氏が木造の玄関を造り、碑も移して建てたということです。碑はもとから邸内にあって、いつ誰が造ったものかわからないとのことでした。
5.竹軒西園寺送別の宴
話は遡り、明治3年のことです。西園寺公望は様々な号を用い、特に後年の陶庵が有名ですが、幕末からフランスに留学した頃は竹軒という号を使っていました。その由来が等持院村の萬介亭にあったことは前述の通りです。
西園寺公望は前年の明治2年9月(7月ともいわれます)、京都御所蛤御門近くの本邸に私塾を開きました。立命館です。
塾は西園寺の名と、当時の錚々たる儒者や文人が教師を務めたため、たいそう評判がよく盛況を極めましたが、西園寺はフランスに留学する志をもっていて、洋行準備のために長崎に遊学することにしたのです。
明治3年2月、公望はその名を望一郎と改め、大和、紀伊、大阪を経て長崎へと旅立ちました。
ここでは、その時の送別会ともいうべき宴について記したいと思います。
京からは、漢学の先生である伊藤輶斎と井上有季という家臣とともに、馬に乗ってまず伏見に行きました。
鮒屋という旅亭を兼ねた造酒屋があり、ここで旅の第一夜をすごしたのです。宇治川の豊後橋(現在の観月橋)南詰の辺りです。その日、鮒屋には立命館の賓師が集い、盛大に送別会が行われました。明治3年2月25日のことです。
宴には富岡鉄斎、淡海槐堂、江馬天江、谷口藹山、松本古堂などが集い、徹夜で気焔を挙げたといいます。
この時西園寺は竹軒の名で次の詩を読んでいます。
放酔狂歌幾酒楼 肉屏叢裡足豪遊 志業不識何日就 一剣風霜五大洲
この送別の宴の様子は、伊藤輶斎が「探勝雑誌」に記しています。
今茲明治庚午之仲春念五(3年2月25日)、與竹軒藤公、有季井上子、将探月瀬之梅芳野之桜、
梅桜不駢時、帰期元無日、此日先投宿于伏水鮒屋(伏見鮒屋、屏風の寄せ書は此鮒屋にてなるべ
し)、蓋三騎也、投宿放馬于京、鮒屋楼上有聴濤楼花酔柳狂業之号、伏水一大旗亭也、送公之賓、
富岡鉄斎、板倉淡海一号槐堂、神山鳳陽、谷口靄山、松本古風俗人、江馬天香(星巌門人此人尤
も学問あり)、群彦来会、通宵之燕、有詩、有画、有弦、有歌、有諧語者有議論者、有起舞者有
酔臥者、嗚呼惜別之盛筵哉、夜将曙衆賓暫瞑
西園寺は、奈良・紀伊を経て大阪に至る間、竹軒の名で画も描いたようです。
竹軒22歳のことでした。
むすび
金閣寺辺、今も竹林多し、西園寺は竹林中に在りし故、竹林院と呼ばれしと。西園寺を竹林院と称し、別荘を
萬介亭と称し、公竹軒と号す、自ら其の故なり。(小泉策太郎『随筆西園寺公』)
西園寺家の菩提寺であった竹林院西園寺は現在は寺町鞍馬口下ルにありますが、室町時代前期までは鹿苑寺(金閣)の地にありました。
ともあれ西園寺公望の竹好みは一方ならぬものでした。後に西園寺公の京都別邸となった清風荘の表門は割竹張で設えたのをはじめ邸内のあちこちに竹の意匠を用い、庭には黒竹が植えられ、その黒竹で毛筆までつくっていました。坐漁荘もまた随所に竹のモチーフが使われています。
清風荘表門
こうした西園寺公望の竹に対する思いは、青年期を等持院村萬介亭で過ごしたことによっているのではないかと思われます。竹軒と称した由縁と言えるでしょう。
≪資料≫
西園寺公望述/小泉策太郎筆記/木村毅編集『西園寺公望自傳』 講談社 昭和24年
小泉三申全集第三巻『随筆西園寺公』 岩波書店 昭和14年
中川小十郎『「竹軒」の由来』 朝日新聞 昭和15年12月6日
臼居万太郎著『臼居の一族』 臼居万太郎商店 昭和17年
高島健三著『小松原附近郷土史』 平成元年
立命館大学編『西園寺公望傳』第一巻
なおこの小稿は、2014年2月11日臼居万太郎氏のご親族臼居四郎さん・臼居道子さんに、2月7日高島六三氏のご親族高島朗さんに、そして2月28日に北川本家の北川嘉一さんにお話しを伺い執筆したものです。厚くお礼申しあげます。
〔2014年3月17日 立命館史資料センター準備室 久保田謙次〕